表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/25

ex-4.恋と愛と執着の境界

 ──何か酷く、嫌な夢を見ていた気がする。けれど馬車の揺れが止まったその瞬間に素早く微睡みから戻った脳はそれ以上非生産的な思考を続けてはくれない。悪夢など思い出したところで益はないだろうに、それがどうしてか気になる。

 なんとかして思い出す糸口はないかと考え始める前に外から「到着いたしました」と声が掛かった。続いて扉が開かれる。そうなると、意識を完全に切り替えた方がいい。せっかく久しぶりに彼女の顔を見られるのだから。


 ちょうど午後の休憩時間が半分ほど過ぎた頃合いで、学生たちは学内のあちこちで思い思いに時間を過ごしていた。この後の講義に出席するつもりで公務をなんとか切り上げ馬車を急がせた甲斐がある。

 カフェの中央辺りが殊更華やいでいて、求める後ろ姿は当然そこにあった。


「最近、王太子様をお見掛けしませんねー」

「ご公務がお忙しくていらっしゃるのですよ」

「寂しいですねぇ」

「えぇ、それはもう。まるで火が消えてしまったようですもの」

 決して大きいわけではないのに、落ち着いたその声はよく通る。やや親愛に寄ったように思える台詞も、今この場では芝居の一場面のようにしっくりと当てはまる正しい受け答えだ。見えないけれどその表情はいつも通り、淑女に相応しい微笑みなのだろう。そこに彼女自身の感情が滲むことはない。

 案の定彼女は「女子学生皆の嘆き」を代弁したのだと言う。それに同調して奥ゆかしくはにかむ貴婦人たち。そして、巫女姫。

 私は笑顔が強張らないよう慎重に、会話に興じるふりをする。


 このところ、彼女を見ていると何か言い様のないもので胸が一杯になってしまう。屈託のない笑顔が眩しくて、疎ましくて、もどかしくて堪らないのだ。

 二月ほど前、歓迎式典でのダンス中ふとした拍子にマリアネラと目が遭った。その瞬間、腕の中で恍惚の表情を浮かべている巫女姫を振り払いたいという激しい衝動に襲われたのはよく覚えている。勿論、国賓相手にそんなことをできるはずもなく、笑みを深めて感情の波をやり過ごした。

 それ以来彼女のことは気に掛けているのだが、釈然としない何かがもやもやと胸の底に溜まっていくばかりだ。誰かに打ち明けるわけにもいかない。第一、何と言えばいい? 王太子が個人的な感情で国賓を貶めるような言葉を口にしていいはずがないのだから。

 無邪気に笑う巫女姫と、それに美しい微笑みを返すマリアネラ。二人の少女の笑みが何故か重なった気がして、けれどその僅かな目眩の原因にまでは思い至る術がなかった。




 夏の暑さが一段落する頃、マリアネラに最も心酔していた伯爵令嬢の実家が不正により処分された。

 様々な噂話が飛び交う中、親しい友人を失ったマリアネラは酷く静かだった。むしろ付き合いの浅い巫女姫の方がその令嬢の身を案じていて、それが妙に引っ掛かる。


 これくらいのことで動じないのが、未来の王后たる資質なのかもしれない。だとしても、いつもとまったく変わらない様子で微笑みながら、彼女が嘆き悲しんでいないわけがないのに。それを二人でゆっくり話すことすらままならない。

 城内の喧騒に比例して私の雑務は増え、マリアネラも孤児院慰問の準備に追われている。偶に会える学園では、相次ぐ告発や配置換えのせいで少し神経質になった取り巻きたちに囲まれて、当たり障りのない会話しかできない。

「マリアネラ……大丈夫かい?」

「はい、殿下。ご心配には及びませんわ」


 けれど『泣きたい時でも微笑む』のだと、君は言ったじゃないか。

 いつだったか、そう……


 あれは、いつのことだったろうか……数ヶ月前、いや、もうずっと昔のことかもしれない。

 あまりにも突然、記憶の底から浮かび上がってきた情景は断片的で、いっそ私の妄想なのではとさえ思ってしまう。

 でも、確かに彼女は言ったはずだ。震える手を隠して、美しく微笑んで。

 それがいつどこでだったのか、どうしても思い出せない。思い出すのを阻むような激しい頭痛に体は休息を求める。手繰り寄せようとした記憶は痛みの向こうで霧散して、翌朝目を覚ました時には跡形もなくなっていた。




 しかし一月後、マリアネラが孤児院の慰問に出立する朝。私はまた同じ体験をした。

 巫女姫と連れ立って現れたマリアネラは、連日の準備で疲れているのか、それとも朝陽のせいなのか。肌はいつも以上に白く、唇の人工的な紅色が妙に映えて見えた。その様に胸がじくりと痛んで、私は思わず声を掛けたのだ。

「……あまり顔色がよくないね。大丈夫かい?」

「はい、殿下。ご心配には及びませんわ」

「だが君は馬車が苦手だろう。こんな状態で乗せて送り出したくはない」

 マリアネラが珍しく驚いた顔をする。私自身、自分の口から出た言葉であるのに、理解するまでに一瞬の間を要した。


 夕焼け。

 花嫁衣装。

 或いは、手枷。


 脳裏を過ったそれらはいったい、どういうことなのか……

 私の身に、彼女の身に、何が起きたのか、起きているのか、わからないことだらけだ。恐慌を誤魔化すようにマリアネラの美しい装いを頭のてっぺんから爪先までじっと見つめた。

「君はいつも通り、完璧だ。慈愛に満ちた未来の国母たる装いだね」

 自分に言い聞かせるような言い方になってしまったけれど、事実、清廉な薄花色は彼女の黒い瞳によく似合っている。

 大丈夫。彼女はちゃんと、ここにいる。『喪ってしまう』だなんていう漠然とした不安はきっと、丹念に施された白銀の刺繍が繊細すぎて触れたら壊れてしまいそうに思えるからだ。



「王太子様っ! 私はどうですか?」

 そこへ割って入ってきた巫女姫に心臓が妙な跳ね方をした。やはり彼女はどうにも私の調子を狂わせる。適当に褒めてやればわかりやすく頬を染めた。

 その様は確かに、可愛らしい部類に属すのだろう。ベビーピンクのドレスなど、マリアネラが着ていたのはせいぜい五歳くらいまでだ。あの頃はまだ、私と二人になれた時には可愛らしい笑みをうっかり表に出してしまうこともあった。

 ちょうど、こんな風に。

 微かな目眩と多幸感が同時に押し寄せる。だらしないほどに頬が緩みかけるのをなんとか持ち直せたのは、頭の奥で誰かが叫んだからだ。駄目だ、と。


「どうぞ、馬車までご案内しましょう。あまり待たせては兵たちが可哀想だ」

 これ以上側にはいたくないが、かと言って追い払うような真似もできない。優しく諭すようにして遠ざけるのが賢いやり方だというのはこの数ヵ月でわかっていた。

 マリアネラに「後で」と念を押し、ひとまず巫女姫を馬車へ連れて向かう。



「王太子様は、私よりマリアネラ様の方がお好みですか?」

 無邪気な声色を保ったまま投げ掛けられた問いは、けれど明らかに別の意図を孕んでいる。ぞわりと、全身に悪寒が走った。

「……女性に優劣を付けるつもりはありませんよ。確かにマリアネラは私の婚約者ですから、貴女への態度より気安いものになっていたかもしれませんね」

「そういうことじゃなくて……私、魅力、ないですか?」

 うっすらと涙を溜めた大きな瞳が見上げてきて、あまりのことに目眩がする。


 これが彼女だったら、きっと私は我を忘れて抱き締めていただろう。これが彼女だったら、きっと私はこの胸を切り開いてでも誠を捧げただろう。

 彼女が、彼女だったらいいのに……

 ぼんやりと、そんな愚かなことを思った。けれど、先ほどの悪寒を忘れたわけじゃない。頭の奥では警鐘が鳴り続けている。

「……貴女の魅力は神が十分にお示しのはずだ」

 巫女姫は眉を下げ桃色の頬を膨らませて不満を表現する。淑女であれば絶対にしない子供じみた仕種に、目眩より違和感が強まった。


 彼女は幼くても、そんな振る舞いはしなかった。


 そうして、何かはわからないけれど踏み留まったのだと、それだけが妙な実感として残った。

 巫女姫を馬車に乗せ、差し出された手に道中の安全を祈って儀礼的に唇を近付けたが、誰が見ても触れていないとわかるほどの距離でそれを終わらせ手を離した。女性に対し失礼かもしれないが「神の妻に触れるなど畏れ多い」とでも言えば咎められることもないだろう。それよりも、巫女姫とこれ以上関わりたくないという気持ちの方が大きかった。

 だがこれほどまで他人に嫌悪感を覚えるというのは今までにないことだ。媚を売ることしかできない無能貴族に対してさえ、“王太子”は特に意識せずとも平等に穏やかな笑みを向けてきたのに。


 巫女姫は、何かがおかしい。だがそう感じる私自身も覚えのない切れ切れの記憶や感情に振り回されている。

 おかしいのは巫女姫か、私か。なんとしても調べなければなるまい。

 そう考えながら踵を返せば、マリアネラは早々に王家の馬車へ乗り込もうとしているところだった。


 私になど見向きもせず、きっと己に課せられた責務のことだけを考えているのだろう。すっと伸びた背中が遠くて恨めしくて、大股で近付くと侍従の手に重なった小さな手を奪い取った。

 細い体が傾いでこの腕の中に落ちてくる。それはほの暗い悦びを誘った。

 こんな風に彼女を想うことだって、おかしいのだ。彼女が愛しくて、疎ましくて、繋ぎ留めたくて、突き放したくて。


「……『行くな』と言ったら、中止してくれる?」


 ほとんど囁くようにして口にした言葉は、心からの願いだった。

 何ヵ月もかけて準備してきた公務だ。そう簡単に中止になどできないとわかっている。それでも、こんな状態で彼女と離れるのは不安でしかない。

 そんな私を、彼女はただ静かに見つめ返した。黒い瞳は冬の夜空に似て、美しいけれど冷たく厳しい雰囲気に身が竦む思いだ。王太子にはあるまじき願いを無理矢理冗談にすり替えると、驚きで僅かに強張っていたマリアネラの細い肩からゆるりと力が抜けた。

「巫女姫様が今になって『行きたくない』とでも仰いましたか?」

 聞き分けのない子にでも対するように、ほんの少しの苦笑と慈しみを滲ませて訊ねる様はまるで聖母のようで。けれど当然のように巫女姫を理由に挙げるから、言い知れない不安がまたじわりと広がった。


「……『君を送り出すのが不安だから』と言ったら、信じてくれるかな?」


 信じては、くれないだろう。

 私と彼女は常に互いを尊重してきた。けれどそれはそういう振る舞いをするのが為政者として正しいからで、そこに特別な感情を持ち込んではいけないのだと教えられてきたからだ。

 私よりも幼い頃からそう育てられたマリアネラには、私が特別な感情を伴って彼女を想うということ自体、理解できないしまずその可能性に至らないのだと思う。

「わたくしでは陛下の名代など務まらないとお考えでしょうか?」

「いや、君なら立派にやり遂げるだろうね」

 けれど、そういうことではないんだよ。


 侍女に急かされ離れていこうとする彼女の手を引き寄せて、言葉にならないもどかしい想いをせめて見送りの挨拶と言い張れる口付けに込めた。マリアネラは慌ただしくもきちんと美しい礼を返して馬車に乗り込む。

 好きだから側にいたい、離したくない。ただそれだけを伝えることがどうして許されないのだろう。否そもそも、こんなことを考え自分の感情を制御できなくなっている時点で私はやはりおかしいのだ。


 開いた車窓から顔を覗かせた彼女を見上る。マリアネラは私を見下ろしている状態が落ち着かないようで、けれどそれだけではなく何か言いあぐねているようにも見えた。

「殿下……何か、ご存じなのでしょうか?」

 躊躇いがちに開いた小さな赤い唇。その問いはむしろ“彼女の方が”何かを知っているように思えた。

「戻ったら話をしよう。だから無事に帰っておいで」

 『行かないで』なんて、困らせることはこれ以上言えないから。今、口に出せる望みはそれだけだ。

「はい、殿下。恙無く終えてご報告申し上げますわ」

 ふわりと、星が瞬くように微かな笑みを見せて、マリアネラはすぐに公人の顔に戻ってしまった。愛しくて、歯痒くて、けれど責務に真剣な彼女を誇らしいとも思ってしまうのだから、私もつくづく変わらない。


 ……“変わらない”?


 “いつ”と比べて、変わらないのだろうか。

 ゆっくりゆっくり、絡まっていたものが解けていくような感覚。それでもまだ何か重要なことに辿り着けていない自覚もある。

 馬車が完全に見えなくなるまで見送って、私は私のすべきことに取り掛かることにした。





『この手紙が御手元に届いたということは、既に我が父フェリシアーノ侯爵から事の次第をすべてお聞き及びと存じます。

 “繰り返し”などという荒唐無稽な話を信じてくださらなくとも構いません。信じていただきたいとは思いますが、それ以上に、わたくしがこのようなことを言い出したがために国家に混乱をもたらしてしまうことを申し訳なく思っております。

 けれどわたくし一人の力では、もうどうにもならないのです。繰り返す中で「国家安寧のため」と言い訳をして殿下の御心に沿わないことばかりをしてまいりましたこと、心よりお詫び申し上げます。その上で殿下には、どうか御心を強く持っていただきたいのです。弁えない勝手な願いを申し上げていると、重々承知しております。

 けれどどうか、王太子殿下として為すべきことを見失わず、どうかお健やかに、そしてどうか、この国をお護りくださいませ』




 マリアネラを見送った日の夕刻、医師を呼んで診てもらったが目眩や悪寒といった不調の原因はわからなかった。多忙による疲れは少しあるものの、私の体はいたって健康であるとのことだ。

 問題があるとすれば、それは私の心の持ち様だと医師は言った。

 巫女姫のことがおぞましくて仕方ないのも、マリアネラを私だけのものにしたいと思うのも、私の心の問題にされてしまうくらいならいっそ妙な薬でも盛られていた方がまだ納得できたのに。

 巫女姫について調べたくとも、やはり相手は他国の王族。下手を打てば外交問題に発展するのだから事を慎重に運ばなければならない。軍の諜報部を私個人の采配で動かすことはできないし、市井の情報屋には荷が重い。いっそ私が薬や何かで害されていたとなれば近衛や憲兵が容疑者を探す名目で自由に動けたのだが、それも難しい。父に相談して王直属の特級諜報員を貸してもらうのが無難かと面会の願いを出そうとした矢先、その父から逆に呼び出された。



 マリアネラが出発して二日目の深夜。王の私室には、父と私と、フェリシアーノ侯爵の三人。

 そこで聞かされたのは、にわかには信じがたい話だった。けれど、侯爵やマリアネラが嘘を吐くとは思えない。第一、そんな嘘を吐いても彼らに益はない。


 血の力。繰り返し。巫女姫に傾く愚かな私。それもまた力のせいかもしれないと、一つ一つ、違和感への答えが示されていく。

「あれが王家や国家に関することで嘘偽りを申す訳がないと、誓って申し上げます。娘はそのように育ちました」

 それは揺るぎない事実で。ならば私は、彼女に対していったいどれだけの罪を重ねてきたのだろう……すべてを胸の内にしまいこんで美しく微笑むあの子に、どうやって償えばいい?

 目の前が真っ暗になりそうだ。けれどその闇の向こうに自分の手で掴むべき最後の答えがある気がして、奥歯を噛み締め酷くなる一方の頭痛を堪えた。



「殿下にお願いがございます。ご自分か我が娘、どちらかの命を捨てていただきたい」


 そんなもの、考えるまでもない。これ以上あの子を苦しめることなんてできるわけがないのだから。

「私の命などいくらでも使って構わない」

 今度こそ、彼女が助かるなら──


 父と侯爵が揃って苦い顔をする。

「……殿下、やはり……よろしいですか? 貴方様は王太子殿下であらせられます。たかが貴族の娘のために御命を投げ出されるなどということは、決してあってはなりませぬ」

「マリアネラは貴方の娘だろうっ!? どうしてそんなことが言える!?」

「他ならぬ娘が! 殿下の御身の健やかなること、そして御代の安寧を願っているからにございます!」

 珍しく声を荒らげた侯爵に打ちのめされて、返す言葉が見つからない。


 そうだ……彼女はいつだって、微笑んでいた。

『殿下の御代が、安らかでありますよう』

 いつかの彼女が、そう願っていた。どうしようもなく、いつだって私のことばかり……


 頭痛とは違う理由で視界が霞んでいく。侯爵が深々と頭を下げる姿も滲んでしまった。

「試すような物言いを致しまして、申し訳ございません。殿下が娘を慈しんでくださいますことは、親としてこの上なく光栄で幸せなことでございます。されど臣下としましては、酷く危ういお考えをお諌めせずにはおれませぬ。どうかお許しくださいませ」

 侯爵の言いたいことはよくわかる。マリアネラを喪うなどと今考えるだけでも恐ろしいのに、繰り返したという世界では実際彼女が亡くなった後、私はどうなってしまったのだろう。そのまま巫女姫に現を抜かしていたのか、目を覚まして正しい道に戻ったのか。

 否、きっとまともでいられたはずがない。

 だって、そうだ。あの赤い闇はきっと……


「……王太子。そなたは結局、マリアネラ嬢を女性として好いてしまっているのだな?」

「勿論ですっ!」

「……今時点で、自分の意思で、巫女姫に惹かれているということもないな?」

「断じてありません! むしろ違和感の理由がわかっておぞましさが増したほどです!」

 向けられた問いに弾かれたように答えれば、父は溜め息を吐いて小さく頭を左右に振った。

「……王太子を諌める一番の適任は、きっとマリアネラ嬢本人であろうよ。それにこれからの騒ぎを治める重要な鍵となる身だ。あの娘を守ることが引いては我が国を守ることになるのだろう」

 騒ぎの元凶は巫女姫と私になるのだろうが、巫女姫を隣国へ突き返して終わりというわけにもいかない。マリアネラが示唆するようにこれがそもそも謀略であるなら、隣国や教会とは“話し合い”が必要だ。

「そういうわけで、王太子よ。そなた“国のために”大物を捕らえて参れ」

 王が珍しく愉しそうな声色で下知を下した。ちらりと侯爵に目を遣って「これなら文句あるまい」とでも言いたげな顔をしたのは、きっと気のせいではない。

「──御意っ!」

 “マリアネラのために”私の身を危険に晒すことはできないけれど“国のために”ならばむしろ王太子自らが陣頭に立つのは正しいことだ。相手も私を陥れようとしているのだから、私を餌に罠を張るのが一番合理的だろう。



 決行の日まで巫女姫との接触を絶つ。これはそもそも公務が立て込んだせいでマリアネラとも一緒に行けなかったのだから、忙しさを理由にすれば容易いことだ。

 長期間の密な交流によって魅了が強まるのならば、巫女姫と面識のない人員を投入すればリスクを減らせる。さらに念のため、想い人のいない者を厳選する。私が巫女姫にマリアネラの面影を感じたのも“力”のせいかもしれないからだ。

 国内の協力者たちは告発に紛れてマリアネラが潰してきたと言うが、きっとまだすべてではない。これは引き続き侯爵家が担うこととなった。隣国や教会への内偵は勿論、特級諜報員の仕事だ。



 部屋を辞する時になって、侯爵が懐からもう一通手紙を取り出した。元より厳めしい顔をより一層険しく歪めて思い悩んだ末、それをこちらに差し出してくれる。

「娘が、殿下へと……」

 ひったくるようにして手にしたそれを広げ柔らかな筆跡を追っていく。

「……侯爵。貴方の娘は、本当に優秀だよ……」

 誇らしくて、愛しくて、なんて憎らしい。

「マリアネラも貴方と同じ意見だ。私に『王太子らしくあれ』と……」


 幼い頃、彼女と一緒にいる時だけはただの子供でいられた。成長するにつれ、彼女と一緒にいるために完璧な王太子を目指した。そして今、王太子ならば国を思えと一番に想いたい人から諭される。

「ねぇ侯爵。マリアネラは私を赦さないだろうね」

 侯爵は答えない。無理もないことだ。私が愚かなせいで、彼の娘は数えきれないほどの絶望を味わったのだから。

「それでもあの子は……微笑んでくれるんだ。そんな人をどうして愛さずにいられる? 特別なんだと、どうして言えない!?」

 答えなんてわかりきっている。“王太子の特別”だと知られれば彼女に群がる輩が今以上に湧いてくる。取り入ろうとして、傷付けようとして。そうして万が一にも彼女を喪えば、私はきっと私でいられない。亡くなった伯父のように『鬼』になってしまうだろう。

 きちんと距離をとることが、私と彼女を守るのだ。わかってはいるけれど、それでも……


 窓から空を見上げた。晩秋の夜空は月が明るくて、彼女の瞳に喩えるには少し深みが足りない。あの澄みきった黒が恋しい。

「……すべてが片付いたら、彼女に選んでもらおうと思う」

 横目で見た侯爵は怪訝な顔をしていた。

「私は、生涯をかけてマリアネラに償っていきたいと思う。国を愛し民を愛する、彼女が望む善き王になろう。そしてできることなら、その姿を一番近くで見届けてもらいたい」

 これは贖罪の名だけを借りた、私に都合のいい未来だ。当然眉間の皺が深くなった侯爵を見遣って、私は続けた。

「だがマリアネラが、もう私と関わらず静かに暮らしたいと望むなら、私はそれを受け入れなければならないと覚悟はしているよ」

 謝罪も愛の言葉も、散々裏切り続けた私が重ねたところで彼女を癒しはしないだろう。むしろ私が側にいることで辛い記憶を思い出すことも多々あると思う。

 二度と姿を見ることすら叶わなくとも、この国に彼女が生きていることだけを心の支えに王として立ち続けるのが私への罰だと。それで彼女は納得してくれるだろうか。


「むしろ『死んで詫びろ』と言われたら、喜んでそうするのに」

「殿下……」

「でもマリアネラは、きっと『殿下の御心のままに』だとか言うんだろうね」

 侯爵もそう言う娘を容易に想像できたのだろう。複雑そうな顔をして目線を空に遣ってしまった。私もそれに倣う。

 心のままに振る舞えるなら、国も民も顧みることなく彼女だけを想いたい。

 許されないしそんな資格もないけれど、今なお浅ましくも、私はマリアネラが好きだから。


「だからその言質をとったら、私は彼女を喪わないようあらゆる手を講じるつもりだ」

 自分の意思では彼女を手放してあげられそうにないから。せめて国を愛し民を愛し、しかし彼女に近付こうとする者には一切の容赦をしない、そんな王に私はなろう。

 卑怯なやり方だというのは百も承知だ。


 だからどうか、親愛なるマリアネラ──

 君は私に願い事などしなかったけれど、この件に関しては何としても君の願うまま気の済むようにしたいと思う。

 側にいたい。けれどそれでは君が幸せになれないから。どうか私に、君を縛り付ける口実を与えないで。


 手紙の最後を『無事に帰れ』と書き直した私は、やはり身勝手で卑怯で、最低の屑だった。





 そして、マリアネラが旅立って十日目の昼前。

 予定通り朝から適当に馬を走らせ、汗を流しに湯殿へ向かう。


「王太子様っ、みーつけた!」


 声も口調も、愛らしいはずだ。だがその瞬間、全身に鳥肌が立った。

 湯殿で待ち伏せるはずのその人が至極当然のように私を見据えて笑っている。

「……巫女姫殿。ご機嫌麗しゅう」

「そんなに改まらないでくださいよぉ。それより、お久しぶりですねっ! お忙しかったんですか?」

「えぇ。少し予定が詰まっていまして」

「そうだったんですねぇ」

 そこにマリアネラの面影は見えない。けれどわけのわからない愛しさと怒りが腹の底から沸き上がってくる。相反する感情が巨大なうねりとなって、自我など簡単に飲み込まれてしまいそうだ。落ち着けと何度も心の中で唱えた。

「……王太子様、何か変。心配事でもあるんですか? 私でよければ相談に乗りますよ?」

 彼女がこてりと首を傾げれば、淡い金色がふわりと揺れて陽光を弾いた。

 眩しくて思わず目を細める。

「おや、そんな風に見えますか?」

「うーん……」

「少し疲れているだけですよ。お気遣いは嬉しいですが」

「例えば、マリアネラ様のこととか?」

 一分の隙もなく結い上げられて艶やかに輝く黒髪を想った。それを気取られたのだろうか。明るい水色の瞳には悪意など欠片も見えなくて、それが逆に恐ろしい。

「そうですね。旅程は順調だろうかと気には掛けていますよ」

「ふぅん。やっぱり王太子様は優しいですね」

 落ち着いて、いつもしているように曖昧に微笑んで見せる。表情は、強張っていないだろうか。



「……さて、そろそろ失礼しても? ご覧の通りですから、女性の前であまり見苦しいままではいたくないのですが」

「あっ、すみません。私ったら──あっ!!」

 パタパタと手を振ってからお辞儀をしようとしてバランスを崩したのか、それすらも計算なのか、巫女姫がこちらへ倒れてくる。

 反射的に伸ばしてしまった腕に、小さな体は易々と収まった。


「……お怪我は?」

「あ……はい、大丈夫、です」

 そう言いながら、巫女姫はなおもしがみついてくる。小さな手で、私のシャツをきゅっと握って。懐かしい感覚に内臓が捩れるような気分だ。

「……汗が」

「うん。王太子様の匂いがします」

 彼女ではないとわかっているのに、これが“力”のせいだと言うなら、なんとおぞましい。

「……“殿下”」

 あぁ、目眩がする。やめてくれ。彼女が呼んでくれる時だけ、それは特別な響きを持つのだ。

 腕の中で、陽溜まりのように笑う少女。私の大切なその子は、黒い髪と黒い瞳がとても綺麗で、冬の夜空のような美しい微笑みを絶やさない人のはず。


 けれど彼女は赤い闇の向こう、手の届かない場所に佇んで、その表情は美しい微笑みではなく、怒るでも悲しむでもなく、ただ深い失意に沈んでいるから。


「……マリアネラ」


「はい、殿下!」


「……もう、終わりにしよう」


 水色の瞳が驚愕に見開かれる。

 シャツを掴むその手にナイフを握らせて、腕を捻り上げるだけでいい。元より腕力も体格も比べるまでもない上に、抱き付くことで体をすべてこちらに預けていたのだから、巫女姫になす術はない。

 それでも反射的に悲鳴を上げた巫女姫が無理矢理もがいてナイフを取り落とす間際、その刃がさっと私の頬を撫でた。



「──衛兵っ!」

 堰を切ったかのように、脳内が記憶で溢れかえる。頭の中を無理矢理掻き回されているような酷い気分だけれど、絶望する暇さえない。

 合図で飛び出してきた兵たちに取り押さえられた巫女姫が何か喚いている。

「ヤダ! 放してよ! 何なの!? こんなっ、私何もしてないでしょ!?」

「殿下、お怪我は!?」

「あぁ、大したことはない。掠り傷だ」

 うっすらと血が滲んだ程度で後方へ下がらせようとする近衛を制し、目眩を押して巫女姫に向き直った。

「王太子様、助けてっ!」

 涙を浮かべた必死の形相はやはり淑女らしさの欠片もなくて、死を前にしても凛として美しかった彼女の尊さが改めて浮き彫りになった。

 答えない私に痺れを切らしたのか、巫女姫が金切り声を上げる。

「こんなの、国が黙っていないわよ!!」

 その言い種に乾いた笑いが込み上げてきた。

「我が国としても、黙ってはいられないんだがね……丁重にお連れしろ」

「はっ!」

「ヤダ……ヤダヤダヤダヤダヤダヤダッ!! 何でなの!? ひどいよっ!! ちゃんと私を見て!!」



 回廊に半狂乱の悲鳴を響かせながら引き摺られるようにして巫女姫が連行されていくと、張り詰めていた緊張の糸が切れたのか私は目眩と脱力感に襲われ手近な段差に座り込んでしまった。近衛が慌てて用意した水さえも吐き気で飲み込めない。

「すぐにお部屋へ。医師も呼んでまいります」

「汗を、流したい」

 じっとりとかいた脂汗も巫女姫に触れられた場所も気持ち悪くて仕方がない。だが立ち上がることさえ自分一人ではままならないのもわかっていた。

 この怒りと絶望に捕らわれてしまわないよう、手を固く固く握り締める。だが爪が食い込む掌よりも、怪我の内にも入らないような頬の傷が今になって燃えるように痛みだした。

「……湯殿の、方は?」

「容疑者はすべて取り押さえました」

「そう、か……巫女姫に接する者は、異状を感じたらすぐ報告と、退避を」

「厳命しております」

「そうか……」

「殿下! お気を確かに!」

「……後は、頼んだ……」




 赤い赤い闇の向こう、彼女がじっと私を見ている。


 マリアネラ……私の大切な女の子。今度こそ私は、君の望んだ私でいられただろうか。

 ねぇ、これだけは信じてほしいんだ。何度も何度も間違って、裏切って、君を傷付けてきたけれど、私はいつだって君を愛したかったんだよ。

 虫のいい話だ。言葉で聴くのと実際に思い出すのとでは、自分の愚かしさも君の最期の笑顔も、重みがまったく違う。どうあっても、私のしたことが赦されていいはずがない。


 それなのに、彼女はいつも通りに美しく微笑んでくれるから。

 私は愛しいその名を呼んで、届かなかった手を伸ばした。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ