ex-3.恋患いの成れの果て②
ご無沙汰しております。なんとか再開にまで漕ぎ着けました。
待っていてくださった皆様に感謝を込めて。
──裏切り者。
思い出すのはいつも、彼女を喪ってから。悪いのは私なのに、ツケを払わされるのはいつも彼女だ。
押し寄せる後悔と絶望。それを上回る、愚かな自身と周囲への怒り。けれど何人殺しても、国を焦土と化しても、彼女は戻ってこなかった。
赤い闇の向こう、手の届かない場所から、彼女がじっと私を見ている。その表情は慣れ親しんだ美しい微笑みではなく、怒るでも悲しむでもなく、ただ深い失意に沈んでいるのだ。
──マリアネラ。
可哀想なマリアネラ……私の大切な人。
みすみす君を死なせた私を、どうか赦さないで。
◇◆◇
可愛いマリアネラ。私の大切な女の子。いい子だね、大好きだよ。ずっと一緒にいようね。
それは幼く身勝手な、恋とも呼べない、けれど私にとっては確かに“初恋”だった。
私の部屋に、彼女と二人きり。くりくりと可愛らしい大きな黒い瞳が興味を示せば片っ端から、貴重な歴史書を塗り絵にして、ぬいぐるみを本物の宝石で飾って、王家の紋が入ったぶかぶかの指輪を小さな指に与えて遊んだ。
ただ、喜ぶ顔が見たかった。
けれど、陽溜まりのように無垢な笑顔がやがて凛とした冬の夜空の美しさを纏うようになり、どこまでも気高く育った彼女が願ったのはただ一つ。私が王太子として健全であることだけだった。
それは彼女自身の願いではなく、臣下としてまた未来の王后として、そうあることが正しいからに他ならない。
あまりにも無欲で私の愛すらも欲してくれなくなった愛しい人を、いっそ恨めしく思う日もあった。けれど、その姿勢こそが彼女を守るのだということも嫌になるほどに理解している。
本当はこの腕の中に彼女を囲いすべての悪意から遠ざけて、大切に大切に惜しみ無く愛を注いでいたい。淑女の微笑みよりも、無邪気な笑顔を見せてほしい。けれどそんなことをすれば更なる悪意が彼女に向けられる。それでも彼女を愛したいと願うのなら、皆が諸手を上げて祝福してくれるほどに私が王として強くならなければ。
今の私に許されるのは、優秀な婚約者をその優秀さ故に重んじていると示すことだけ。身勝手な恋心など封じておくべきなのだ。
そんな私の思いを知ってか知らずか、彼女はひたすらに私を支えながらいつ何時その身を切り捨てられようとそれが国のためになるなら構わないという殊勝に過ぎる態度を崩さなかった。いずれ私と共に国の頂点に並び立つ彼女を羨み妬み時に陰で蔑みさえしている者たちですら彼女に対し一定の畏敬を抱いているのは、彼女が淑女として王后としての理想を体現し続けてきたからだ。
可哀想なマリアネラ……あまりに歪で、息苦しくて、憐れで、愛しい人。
そんな彼女と、彼女をどうして重ねてしまうのだろう。
『慣れるまで不安だから、王太子様、一緒にいてくださいね?』
腕を絡め可愛らしく首を傾げる少女。こんな風に甘えてくれることを、私は確かに望んでいた。
けれど、幼い頃のように無邪気に笑っていたはずの彼女が見慣れてしまった美しい微笑みをほんの僅かに翳らせて言うのだ。
「お心を煩わせまして……」と。
境界を有耶無耶にしていた靄がゆっくりと晴れていくようなもどかしい感覚に目眩がする。
「……そうだね、胸が張り裂けるかと思ったよ」
君が倒れたと聞いて。
あぁそうだ……彼女はこの数日臥せっていて、私の隣にはいなかった。では、私の隣にいた彼女は……
キャラキャラと笑うその人に、いったい何を見ていたのだろう。私は何か、とんでもないことをしでかしてはいないだろうか。
ふと気付けば、彼女が真剣な面持ちでその黒い瞳をこちらに向けていた。
「お話ししたいことがございます」
見覚えはないはずの、けれど酷く落ち着かない気持ちにさせる寂れた小さな庭に立って、マリアネラは私に言った。「言いたいことが山ほどある」のだと。
けれどそれらをすべて飲み込んで、やはり彼女は見惚れるほどに美しく微笑むのだ。
「わたくしはマリアネラ・エヴァ・フェリシアーノ。王家と国家に忠誠を誓った娘ですの。ですからわたくしは、これからも言うべきことしか申しませんし、泣きたい時でも微笑ってみせますわ」
まるで、私の内心を見透かしたかのように。
「君は……それでいいと思っているの?」
「はい、殿下」
彼女は間違いなく、誰もが認める王后になる。私の隣に立ちながら私と愛し合うことはない、王家と国家の安寧だけを願う理想の王后に。
──嫌だ。
体の前で重ねた小さな手を、私にすら見せないように震わせて。僅かに漏れた彼女の弱音が押し込めていたはずの欲を煽った。
可哀想なマリアネラ。私の優秀な婚約者。
不安を溢すことすらできないなんて、悲しいことを言わないでくれ。どうかこの手を離さないで。私が君を守るから。
だから、もう一度笑って……さっきまでみたいに、私を頼って。
「君が婚約者でよかった」
これは本心で、虚言だ。役割を押し付け彼女を縛る呪いの言葉。けれどこう言えば、彼女は少しだけ柔らかく微笑んでくれるから。君のいじらしい願いを“我儘”だなんて言わない。誰にも言わせない。
城より高価な宝石も、氷菓子も街歩きも、君が望むなら叶えてみせよう。
あぁ、けれど……それを望んだのは、本当に彼女だったろうか……
境界が曖昧になる。泣き喚いた彼女に突き飛ばされて、私の腕の中で弱々しく震えていた彼女が──あの子こそが、淑女であり続けようともがく私の愛しい人だと、それすらも確信が持てなくなってしまう。
だって彼女はこれまで一度も、私に弱さを見せてくれなかったのだから。この姿が本物の彼女なのか、わからない。
私は、彼女は、どうしてしまったのだろう。本当にこれで、間違っていないのだろうか。
「巫女姫様。ご自分のなさっていることをご理解いただけましたか?」
抜けるような白い肌と言えば聞こえもいいが、血の気のない頬が痛々しい。優雅に弧を描いている唇も微かに震えていて、人工的な紅色がやけに映えた。今にも壊れてしまいそうな危うさですら、キンと静まり返った冬の空気を思い起こさせ彼女の美しさを際立たせるばかりだ。
つまりは目の前の彼女こそが、マリアネラ・エヴァ・フェリシアーノその人に違いない。ならば、今日一日私の隣で無邪気に笑っていた彼女は……
何かが歪んでいる。じりじりとした焦燥感のようなものが薄い幕を一枚隔てた向こうにあって、その正体を知るべきだと思うのに伸ばした手は届かない。
「マリアネラ、あまり巫女姫殿ばかり責めないで差し上げてくれ」
言うべき言葉は、こんなものではないはずだ。けれど思考も境界も、酷く曖昧で。私ではない私が何か勝手なことを言っている。
私の隣には彼女がいて、あの頃のように可愛らしく笑っていた。いつも完璧な淑女として気を張っている彼女が視察の合間にちょっとしたおふざけをするくらい、構わないと思った。彼女が楽しそうにしているだけで嬉しかった。
彼女がそんなこと、するはずがないのに。
「悪いのは、私だ」
あぁ、そうだ。そうだけれど、結果彼女の言葉を遮るような形になって、彼女はいつものようにただ美しく微笑んで言った。
「……はい、殿下」
泣きたい時でも微笑むのだと、約束していたから。けれど同時に、そんなことはさせないと密かに胸に誓ったはずだったのに。
せめて、マントに包んだ彼女を無理にでも同じ馬車に乗せるべきだったのだ。弱々しくも初めて私を拒んだ彼女を、抱き寄せることができていれば……
乱暴に停まった馬車。狙いが私ではないと気付いて飛び出した時にはもう遅かった。
近衛も憲兵も総動員したのに、どうして見つからないのか。空が赤みを増していくほどに焦りと不安が募る。そしてようやく見つけたのが、どうして彼女の方だったのか。
「王太子様っ!」
「巫女姫殿、ご無事でしたか。お怪我などは?」
「私は大丈夫です。でもマリアネラ様が……」
「マリアネラがどうしたのです!? 彼女はどこに!?」
気を急いて詰め寄ると、薄い水色の瞳が奇妙に歪んだ。
「王太子様は、やっぱり誰よりもマリアネラ様が大切なんですね」
「な、にを……」
「あの人に笑ってほしかったんでしょう? でも大丈夫。私なら、笑顔も心も全部あげるわ」
可愛らしい小さな唇が、蠱惑的につり上がった。
『ねぇ、殿下?』
境界が、曖昧になる。
目の前の少女は水色の瞳に淡い金の髪を煌めかせていたはずだ。なのに、私を惹き付けて離さない黒が、涙に濡れている。
『殿下、嗚呼……来てくださったのですね。わたくし、とても怖くて……』
彼女が体をぴたりと寄せて震えてみせるけれど、彼女なら、そんなことはしない。腕の中で震えながら、それでも決して私にすべてを預けはしなかった。
「……きみ、は……違う」
『まぁ、酷いことを仰らないで』
だって、違うんだ。
私が捜しているのは彼女で、あの子もきっと私を捜している。きっと心細くて震えているだろうに、それでも私の身を案ずるような子だから、捜し出して今度こそちゃんと抱き締めて、たくさん謝って……
そう思うのに、目眩が止まらない。頭の中を掻き回されているような、酷い気分だ。
『殿下、殿下。ねぇ、わたくしを見て!』
違うのに。いや、どうだろうか……でも、泣いているから、笑ってほしいと思った。泣かないで、私の可愛い──
「マリ、ア、ネラ……」
『はい、殿下』
名前を呼べば、にっこりと陽溜まりのように笑う彼女。
最初から、彼女が彼女なのだろうか。
『殿下、わたくしはここにおりますわ。お側を離れたりはいたしません。ずっとずっと、殿下だけを想っております』
甘く甘く、そんな風に笑ってほしいと、ずっと思っていた。けれど、彼女は笑わない。もう、笑ってくれない。そのはずだ……
だってその笑顔は私が奪ってしまった。
『殿下。わたくしの愛しい御方。見つけてくださって嬉しい』
夢なのか、妄想なのか。でもどうか、彼女が無事だと言うのなら、現実であってほしい。
陽溜まりのような笑顔を浮かべて、私に愛を囁く美しい人。
「“好き”の気持ちって不思議ね。強ければ強いほどがんじがらめになって、身動きがとれなくなるのよ」
あぁ、それはたしかに、そうだろう。私はただ、マリアネラが“好き”なだけだったのに……
『殿下、これからは正直にわたくしが愛しいと仰ってくださいませ』
「……そう、だね……愛しているよ、マリアネラ。無事でよかった」
小さな体を抱き締めて髪に唇を寄せる。ずっとずっと、こうしたかった……
「殿下!……フェリシアーノ侯爵令嬢を、発見いたしました」
何を言っている?
マリアネラなら、ここに──
◇◆◇
「何故マリアネラを差し出さねばならないのです!?」
「畏れながら殿下。亡くなった巫女姫様と近い年頃の令嬢で、マリアネラ嬢よりも素晴らしい方がおりましょうか?」
「それは……」
神妙な顔をした老獪な貴族たちは、平然とマリアネラを生け贄に指名しながら「お痛わしい」と口だけを動かす。
父王と宰相そして五大家当主のみでの内々の話に加わったところで若輩の私が太刀打ちできるはずもなく、ただ己の無力さに歯噛みするしかない。
「遺憾ではありますが、隣国の要求は『我が国で最も価値のある未婚の令嬢』。となればその第一位にマリアネラ嬢が立つのは至極当然かと」
「他の勇気ある令嬢を送り出すとしても、その選択をなさった時点でマリアネラ嬢の価値はその方に劣ると内外に示すことになってしまいますし……」
「フェリシアーノ侯爵、貴殿は何も言わぬのか?」
場が静まり返る。
重く息を吐いてから顔を上げたフェリシアーノ侯爵は、父に向かって深々と礼をとった。
「我が娘には『王家と国家の御為にその身を捧げよ』と言い聞かせ育てて参りました。陛下の御意とあらば、如何様にも……」
彼は、そう答えるしかないのだ。「娘を差し出したくない」と言えばつまり「他の娘を死なせろ」と言うのと同意なのだから。
国内の令嬢のうち、誰か一人は隣国へ行かなければならない。その事実は変えようがなくて、けれど命を差し出せという命令が容易なはずもない。
「……彼女は、私の婚約者だ」
食いしばった歯の隙間から溢れた本音。ざっと音がしそうな勢いでこちらを向いた十四の目は寒気がするほどに無機質だ。
私の大切な人だから、他の娘を。
“王太子”として、それは決して許されない。わかっている。だが、言わなければ彼女が死ぬのだ。
「いずれ国母ともなり得た御方だからこそ、その犠牲は何よりも尊いのではなかろうか」
従伯父上が尤もらしい理由をつけて彼女を死地に追いやっていく。
「だが」
「それに、あれだけの高潔な淑女だ。他の娘が己の身代わりになることなど、受け入れぬだろう」
「何か……他に方法は?」
例えば王家が養子を取りその娘を隣国に送るという手も、考えられなくはない。仮にも王女となれば形式上“最も価値のある”娘に違いないのだから。だがそれは“死んでも構わない”娘を敢えて作り出すことに他ならず、隣国が納得しなければただこちらが非道な真似をした事実しか残らない。
そんなことをやはり彼女が認めるわけがないことも容易に想像できた。この話が彼女の耳に入った時点で、彼女は「自分が行く」と名乗り出るだろう。誰もがそう思った。
そして、実際に彼女はただ美しく微笑んで言った。
「陛下のご命令とあらば、謹んで」と。
あの子はそういう風に育てられたから。
完璧な淑女は、国のために己の命すら擲つのだ。他人の命と引き替えに自分が助かろうなどという思考は持ち合わせていない。
そんな風に、歪めてしまった。
侯爵に無理を言ってマリアネラを私室に連れ込んだけれど、何を話したらいいのかわからなかった。
未婚の男女、しかもつい先ほど婚約を解消すると決まった間柄の私たちを、あの厳しい侯爵が見逃してくれたのだ。その貴重な時間を使って伝えたいこと、伝えるべきことはたくさんあるはずなのに。押し込めることに慣れしまった気持ちは、言葉にならない。
幼い頃の他愛ない話。あの頃から、君は必死に大人になろうとしていた。幼い日の私の我儘が、君をこんな風にしてしまった。
私にもっと力があれば、真綿で包むようにして彼女を守ってあげられたのだろうか。例えばこのまま幼い頃のように彼女を部屋から出さなければ、奪われずに済むのだろうか。
そんなこと、できないとわかっているのに。
白い肌に美しく弧を描く唇の紅色がやたらに映えて、悲しくて堪らない。
「……殿下の御代が、安らかでありますよう」
結局は私も“王太子”として、彼女の命より国を取った。それなのに、彼女は私が統べる代の安寧を祈ってくれる。
「君は、それでいいの?」
「はい、殿下」
「そう……いい子だね」
可哀想なマリアネラ。
守れなくてごめん。最後までいい子でいさせてしまって、ごめん。
『わたくしを連れて逃げて』だなんて物語のお姫様のようなことは言わない。そんなことに考えの及ばない君が愛しくて悲しくて、けれど私も王太子だから『一緒に逃げよう』とは言わない。そんなことを言う私を、君は望まない。
それでも、『逃げよう』と言えなくて、ごめん……
季節が巡り出会ったのは、花が咲くように陽溜まりのように、無邪気に笑う少女。そこにまったく似ていないはずの面影が重なって、目眩がした。
「私をマリアネラ様だと思ってください」
思えるわけがない。姿も振る舞いも何一つ似ていない。彼女は完璧だった。
『私はずっとお側にいますよ。いなくなったり、しませんから』
違うと、わかっているのに。彼女が笑う度、境界が曖昧になっていく。
二度と叶わないはずの、優しく歪な時間。
可愛いマリアネラ。私の大切な女の子。いい子だね、大好きだよ。ずっと一緒にいようね。もう絶対に、離さないから。
『はい、殿下』
彼女が満面の笑みで応えてくれる。私たちはあの悲しい別離を乗り越え再び結ばれたのだ。そう、信じて疑わなくなった。
なのに、どうして──
両の手を差し出すようにしてゆらりとこちらへ歩み寄るその人の黒い瞳は冬の夜空に似て、悲しいほどに美しい。
彼女は、彼女で、けれどならば、彼女は……
「……殿下。どうか今ここでわたくしを殺してくださいませ」
あぁ……そうだ。彼女はこうやって、美しく微笑むのだった。
「冷静になってくれ、マリアネラ」
冷静になるべきは私の方だと、霞がかった意識のどこかが喚いている。じりじりとした焦燥感は薄い幕の向こうにしかなくて、手を伸ばしても届かない。
彼女がマリアネラなら、これまで私が見ていたモノは、私が守るべき人は……
「君を殺すだなんて、そんなことできるわけがないだろう!」
守りたかった。
守れなかった。
けれど彼女は、私の隣で笑っていたはずなのに。
「王太子殿下ともあろう御方が、軽々しく謝罪などなさってはいけませんわ」
でも、君には何度謝っても足りないんだ。君はいつだって、最期まで私を責めないから。今にも泣き出しそうになりながら、それでも微笑むから。
何度も、何度も……
あぁ……目眩がする。頭の中を掻き回されるような、酷い気分だ。
細い体が崩れ落ちた。それを抱き抱えるのは私ではなくて、伸ばした手は届かない。
どうしたって、届かないのだ。
押し寄せる記憶。喉が張り裂けるくらいに叫んでいるのに、その喉より記憶で破裂しそうな頭より、心が痛くて堪らない。
動けない体を近衛たちが無理矢理引っ張っていく。
嫌だ……嫌だ! マリアネラと一緒にいる!
『殿下、わたくしはここにいるではありませんか』
「……マリアネラ?」
『はい、殿下』
すぐ側には、陽溜まりのように笑う少女。とても幸せで、けれどあまりにも虚しくて。
「……違う」
ようやく働き出した理性が絞り出した拒絶の言葉。それを合図に黒い髪黒い瞳の美しい幻が歪むと、淡い金の髪と水色の瞳が露になった。
──どうして
「どうしてお前が生きているっ!?」
とりすがる腕を乱暴に振り払えば、小さな体は容易く床に放り出された。
「お前が死んだからマリアネラを寄越せと言われたんだ。なのにどうして!?」
「な、なに? なんで、解けて……で、殿下! わたくしがわからないの!?」
彼女が水色の瞳をおろおろと揺らし妙なことを口走るものだから、こちらもつい口元が歪んでしまう。尻餅をついたまま後ずさろうとしていた片足に、ずっと手にしたままだった剣を突き立てた。空気を雑に切り裂くような耳障りな悲鳴が上がる。
「わかるとも、巫女姫殿。よくも散々欺いてくれたな」
「殿下っ!? 何をなさるのです!?」
「寄るな!……この女だけは、生かしておけない」
止めに入ろうとした近衛らが息を飲む。彼らの目には、ただ私が乱心したようにしか映らないだろう。だが私からすれば、これまでが乱心だったのだ。
「お前の前回の死に様を教えてやろうか」
水色の瞳からぼろぼろと零れ落ちる涙に虫酸が走る。彼女は泣くことさえできなかったのに、どうしてこんなモノを彼女と混同していたのだ。膨れ上がる苛立ちを抑えられない。
「な、なに、いって」
「四肢を地面に縫い付けて胎を裂いてやった。息のあるまま炎に巻かれて、周りは夕焼けよりもさぞ赤かっただろう」
聞くだけでもおぞましい所業に巫女姫がまた引きつった声を上げる。背後で近衛たちが体を強張らせたのもわかった。
「その前は公爵の死骸をお前が逃げ帰った神殿に送りつけてやった……人であることをやめれば国中の井戸に毒を撒くことすら簡単だったよ」
だがそれだけのことをしても、彼女の苦しみには遠く及ばない。
残ったのは埋めようのない喪失感と、後悔と憎悪。
それもこれも、すべては彼女のふりをして笑うこの女が原因だ。
「お前はいったい、私に何をした?」
「……意味わかんないっ! 私のことなんか見てなかったくせに、今更被害者ぶらないでよ!!」
逆上し泣き喚いた台詞は奇しくも、前回の終わりと同じだった。つまり何度繰り返そうと巫女姫の本質は変わらない。
「そうだ……私が愛したのは、お前じゃない」
用済みとなった煩い口に剣を突き刺せばようやく静かになった。散々甘え紛い物でも夫婦となった相手を手に掛けたというのに、一欠片の罪悪感すら抱けない。女の側から見れば理不尽な仕打ちだろう。それがどうした?
騙された私が一番愚かなのは間違いないが、騙した方に非がないわけがない。これは正当な報復で、倫理観など最初に彼女を喪った時一緒に葬ってしまった。
ふらりと立ち上がり部屋を出ようとすれば近衛たちが道を塞いだ。
「殿下……」
「退いてくれ。お前たちまで殺したくはない」
前回、彼女を見つけられなかった咎で近衛も皆殺しにした。けれど無意味な殺戮の末に心が晴れるわけもなく、ただ虚しさと怒りが募るばかりで苦しいだけだった。
「……ご乱心あそばされましたか……」
やはりそう見えるかと、乾いた笑いが零れた。
「目が覚めただけだ。ただの裏切り者で愚か者なのは違いないが。それに……」
言葉を切り、おもむろに右腕の袖を捲って見せる。
届かない腕など要らないと、これまで何度も己を呪った。その思いを叶えるかのように、赤黒く爛れた皮膚がヒトではないモノへ変わっていく。肩から始まった侵食は間もなく手首まで届こうとしていた。
「こうなればもう時間がない」
皆が再び息を飲む。
「なるべく多くを連れて逝く。お前たちは帰還して戦に備えよ」
「何を仰いますか!?」
彼女の尽力でようやく安定した情勢も、これでまた騒乱へと引きずり戻されてしまう。何度繰り返そうと私の前には絶望しか残されないのか。
「あぁそれから、『隣国と共謀している者は殺してやるから覚悟しておけ』とも伝えてくれ」
従伯父上とその周辺は前回も絡んでいた。今回もマリアネラを一番に指名したのは彼だ。巫女姫の事故すら仕組まれたものだとしたら、教会も隣国側ということになる。そういうものを一掃すれば、我が国も少しはましになるだろう。
彼女の望んだ安らかな御代は、私の下には敷かれないけれど。
「最期の命令だ……後は、頼んだ」
廊下で鉢合わせる者をことごとく斬り伏せ血を浴びるごとに、体の奥が燃えるように熱くなる。どれだけ殺してもこの恨みが晴れることはない。
赤い闇の向こう、彼女がじっと私を見つめている。冬の夜空を思わせる厳しくも美しい煌めきは、復讐鬼と成り果てた私に何を思うのだろう。
問うたところで、答えはない。
城の大まかな造りというのは往々にして同じもので、最奥を目指せば王の居室に辿り着くのも難しくはない。そうして押し入ってきた私を見ても、奴は驚いた素振りすら見せなかった。
「これはまた、随分と汚れられたな」
そう笑って、血塗れの私に椅子を勧めたのだ。
「これから死ぬ人間が、大層な余裕だ」
「死ぬつもりがないからだろう」
隣国王は手にした書類を眺め時折何か書き込みながら、まるで世間話でもするかのように私をあしらう。膨れ上がる怒りに体が震える。すると隣国王が顔を上げ、くすんだ金色の瞳を奇妙に歪めた。
「余計な世話かもしれんが、激昂した者は至極読み易いぞ」
感情を露にするのは愚者の行い。だからと言って、この激しい憎悪を押し込めて何になる? むしろ奴の口調に煽られて苛立ちは一層増すばかりだ。
「どこからが貴様の策略だ?」
「さて、何の話かな?」
「惚けるなっ!」
距離を詰め変質した右手を机に叩き付けると重なっていた書類が散らばった。隣国の文字で綴られていても、曲線部を少しだけ大きくして柔らかに見せるその筆跡は懐かしい彼女のものに違いなくて、思わずそれを拾い上げた。
孤児への就学支援、国立施療院の拡充、農地改革、どの事業も彼女が民を思って計画したものだ。学園にいた頃からその方面を熱心に勉強していたことが思い出され胸が苦しくなる。
私の変化を見てとったのだろう、隣国王が独特の抑揚を付けた口調でまた煽ってくる。
「賢く慈悲深く、しかしどこか歪んだ、実にいい女だった。惜しいことをしたなぁ」
「貴様に何がわかる!?」
「わかるとも。あれは貴殿などには勿体ない“王のための女”だ。いや“国のための生け贄”か。幼気な娘をよくもあそこまで洗脳したものだ。あれの親は余程の人でなしか、滅私を極めた忠臣か……是非とも顔を見てみたいものよな」
これ以上挑発に乗ってはならない。そう思っても、彼女を殺した男が彼女を語ること自体、我慢ならないのだ。
この期に及んで再び書類仕事に取りかかろうと奴が手を伸ばす。それを塞ぐように剣を突き出した。切っ先が震えてしまうのは、怒りで呼吸が乱れているから。くすんだ金色の視線がその切っ先からゆっくりと剣を伝い上下に大きく動く私の肩にまで辿り着くと、それまで浮かべていた嫌みったらしい笑みが消えた。
「誰に剣を向けているか、わかっているだろうな?」
「わからないほど馬鹿ではない」
「だが愚かだ」
「あぁ。だが貴様はマリアネラを殺した!」
途端に膨れ上がった殺気に剣を叩き付ける。競り合った刀身がギチギチと不協和音の悲鳴を上げ、微かに火花が散った。
「身内の無礼にしかるべき処分を下しただけだろう。それとも貴国では王太子妃を襲おうとも咎められないのか?」
「あんな女、私の妃ではないっ!」
「ほぉ。まさか道すがら城の人間を斬って捨ててきたように、あの娘まで殺したと?」
「だったらどうした? あの女も貴様の差し金だろう!」
これだけ繰り返せば馬鹿でもわかる。巫女姫に私の愚かさを利用され、いつもマリアネラが犠牲になる。そのすべては、目の前の男が画策したことだ。
憎くて、憎くて、仕方がない。
けれど剣と言葉両方の応酬を終わらせたのは、私ではなかった。
消耗した金属片が弾け飛ぶ高い音と同時に、体の真ん中が燃えるように熱くなる。
「お前には似合いだったろうに。まったくどこまでも滑稽な男だ」
まるで何もかもが自分の思惑通り、掌の上での出来事だとでも言いたげな隣国王の態度に、突き抜けた怒りで頭が真っ白になった。痛みすら理解しないまま使い物にならなくなった剣を捨て、右手で大きく空を薙いだ。肉を削ぐ確かな手応えが意識を繋ぐ。
くすんだ金色の瞳が初めて驚きに見開かれた。
「……なるほど。おぞましいな」
裂傷は首に近いところだったが致命傷には届かなかったようだ。対する私の腹からは命がボタボタと滴り落ちていく。
怒りと痛みが混ざりあって、熱くて堪らない。だがあの子の痛みはこんなものではなかったはずだ。
赤に彩られ崩れ落ちる瞬間の姿が脳裏を過った。
「……マリ、ア……ラ」
「まだあれを呼ぶか? お前はあれを守れなかったのに?」
「……お前、が……」
殺したくせに──!
「不満そうだな? 俺は確かにあれを虐げたが、他のあらゆる害意からは守ってやった。敵しかいないこの国であれが生き長らえたのは偏に俺の庇護があったからだ。そうだろう? あれは俺のもので、活かすも殺すも俺の心一つだ」
くすんだ金の目を細めて嘲笑う男は傲慢で、しかし絶対的な“王者”だった。
あぁ、そうか。この男にとって、他人はすべてただの駒なのだ。自分が王として君臨するために、利用し使い捨てて構わない存在でしかない。
「お前は、それすらできなかったのだろう?」
守りたかった。
守れなかった。
確かに私には、力がなかった。だから利用された。
「お前はあのまま偽者に現を抜かして、属国の傀儡王にでもなるのが分相応というものだったろうよ」
「……死んでもお断りだ」
「ふん。まぁこうなれば“乱心の末、元婚約者との無理心中”とでもしてやるさ。攻める口実には十分だ」
「……させ、ない」
「お前に何ができる?」
今の私には、力がある。己のすべてと引き換えに他のすべてを蹂躙するだけの“力”が──
「殺してやる」
これは正当な報復で、私に残された唯一国を護る術で、ただの、八つ当たりだ。
憎悪で赤く澱んだ闇にすべてを投げ渡し呑まれていく瞬間、無意識に伸ばしたボロボロの手の先に、何か暖かいものが触れた気がした。




