ex-2.恋患いの成れの果て
『王たる者、常に公正冷徹であれ』
物心つく前から、そう教えられてきた。
私の命は国のモノであり民のモノである。国を愛し民を愛せと、半ば脅迫のように刷り込まれてきた。
では、私のことは、誰が愛してくれるのだろう。
父か? 母か? 守るべき民か?
違うだろうな、と。子供心にわかっていた。民が私に向けるのは“畏敬”であり、両親は私を“王位を継ぐモノ”としか見ていなかった。きっと両親も、私と同じように育てられてきたのだろう。
幼いながらに聡明だと誉めそやされていた私はしかし、自分は『小賢しい』と評する方が似つかわしいと理解するほどにもう歪んでいたし、『理想の王子』を演じることで得られる周囲からの称賛を愛情の代替品と割り切ることができた。そうやって、自分の心を守っていたように思う。
そんな私に“婚約者”の話が持ち上がったのは、四歳と半年も過ぎようかという頃。
それは決して喜ばしい話ではなく、王冠を戴いて早々床に臥せった父王がそのまま隠れてしまわれた場合に国が揺らいでしまわぬよう、“その次”である私の足元を固めるためのものだった。
「我が娘、マリアネラ・エヴァ・フェリシアーノと申します。王太子殿下には拝謁賜り光栄にございます」
このような大事には国の屋台骨となるよう重鎮の娘と添うべきで、ならば血筋は清く忠義に厚く野心のないその家の娘こそ、王太子妃に相応しい。既に教師が数人付いていた私は、そうした事情をある程度は理解できた。だから、その相手が父の信も厚いフェリシアーノ侯爵の娘だと聞いて特に疑問も持たなかったし、もし本当にこのまま王位を継いだとしても、私とその娘が父と母のように笑顔で当たり障りのない会話をしていれば後は侯爵たちが国を回してくれるものだと思っていた。
私にとって彼女は“その程度”の存在でしかないはずだった。
そして顔合わせの日。侯爵の腕の中で、紹介されたはずの娘はスヤスヤと可愛らしい寝息をたてていた。その時になって初めて、私は自分の婚約者がまだ話もできない赤ん坊だと知ったのだ。
「マ、マリアネラ、起きなさい。殿下の御前だ」
「……抱かせてくれる?」
赤ん坊を間近に見るのは初めてだった。一歳半を過ぎているというので正確には赤ん坊ではないかもしれないが、彼女が私の知的好奇心を刺激したことには間違いない。
侯爵は渋ったが、もう一度頼めば私の腕にそっと彼の宝物を託してくれた。
小さくて、柔らかくて、でもしっかりと重みがあって、とても温かい。そうしていたら、なんだか泣けてきた。
「でっ、殿下!?」
父が死の淵にある中、小さく力強く脈打つ命の重さに感動したのか、乳母ではなく父親に抱かれていた子供に嫉妬したのか、自分でもよくわからない。ただ胸が一杯になって、涙が溢れて止まらなかった。
もしかするとただ、ずっと心細かっただけなのかもしれない。
声もなく泣いて、水滴がいくつも赤ん坊のふっくらした頬に落ちた。すると、感心するほど長い睫毛に縁取られた瞼がゆっくり開いて、夜空を思わせる艶やかな黒い瞳が私に焦点を合わせた。
そしてマリアネラは、にっこりと、笑った。
赤ん坊なのだ。そこに意味はなくただ偶然に笑っただけ。けれどとても嬉しかった。
今も鮮明に覚えている。言い様のない高揚と、背筋を駆け上がってくる衝動。私は泣いて、マリアネラは笑った。ただそれだけの出来事がどうしようもなく尊くて愛しい思い出として胸の奥で輝いているのだ。
「……殿下。あまり長々と抱いていただくのも畏れ多いことでございます。娘が粗相などいたすやもしれませんし、そろそろ」
「……嫌だ。マリアネラと一緒にいる」
こうして、婚約者となったマリアネラを私は王城に留め置いた。父王の危篤で不安定になった風を装えば、周りは寝付きの悪い子供にぬいぐるみを与えるようにマリアネラを私の横に据えてくれたのだ。
マリアネラはとても可愛い。
黒髪黒目に映える白い肌も、ほんの少し桃色がかった柔らかい頬っぺたも、私にしがみつく小さな手も、私の後を懸命に追う覚束ない足取りも、まだ意味のない言葉を発するだけの赤い唇も。何より、どこまでも純粋で屈託のない陽溜まりのような笑顔が可愛くて堪らなかった。
私の姿が見えないと途端に泣き出すし、急いで戻りあやしてあげればすぐご機嫌になって笑ってくれる。親と認識したものに付いて回る雛鳥のように、マリアネラは私に懐き、そうすると私はさらに彼女を可愛がった。
私にとってマリアネラが“特別”な存在になるのに、長い時間はかからなかった。好い意味でも、悪い意味でも。
私室でマリアネラをあやしている間は誰も私に“王太子”としての役割を求めない。
『嫌だ! マリアネラと一緒にいる!』
そう言えば何もかもが許された。まさに魔法の言葉だった。一緒にいたいという気持ちだって嘘ではないけれど、もっと単純な話、私は王太子の重圧から逃げたのだ。何もわからないマリアネラは、無垢な笑顔で私を受け入れた。
可愛いマリアネラ。私の大切な女の子。いい子だね、大好きだよ。ずっと一緒にいようね。
小さな体を抱き締めて、頬を寄せあって、無責任で途方もない欲望を繰り返し言葉にした。
そんな私の歪な寵愛を、周囲がいつまでも許すわけがなかった。
◇◆◇
およそ一年後。幸いにして父王は回復なさり、けれど私には不幸なことにマリアネラは侯爵家へ戻されることとなった。原因である父が回復した以上、『不安定な王太子』を装って彼女を引き留めることはできなかったのだ。
そして王城からの帰り道、侯爵家の馬車が何者かに襲われた。娘をダシに侯爵が権力を握ることを危惧した者の仕業だろう。侯爵本人には野心など欠片もなかったと言うのに。
マリアネラや侯爵夫妻に怪我はなかったが、乳母と護衛数名が軽傷を負い、何より辛いことにショックで熱を出したマリアネラがその後他人を極度に怖がるようになってしまったそうなのだ。伝聞なのは、私が直接マリアネラを見舞うことを許されなかったから……
私は怒り狂い近衛をも総動員して犯人を捜させようとしたが、それを止めたのは国王陛下だった。
「馬鹿なことを言うでない」
「でも父上!」
マリアネラが怪我をするかもしれなかった、もしかすると死んでいたかもしれないのだ。黙っていられるわけがない。
「捜査は通常通り憲兵に任せよ。特別な措置など取れば余計に侯爵家の敵を増やす」
「そんな……しかしマリアネラは私の」
「そなたがやたらと構うからこうなったのだ」
父の言葉は淡々としていて、だからこそ私に深く刺さった。
「臥せっていた私が言えたことではないが、そなたは判断を間違えた。娘ではなく侯爵自身を側に置くべきだったのだよ」
この一年、フェリシアーノ侯爵は『王太子に寵愛される娘』を大義名分に実務を取り仕切っていたのだと聞かされる。私がマリアネラではなく侯爵自身に信を寄せている様を周囲に見せていれば状況はもう少し違っていた、と。
「で、ですが……誰も私とマリアネラが一緒にいるのを咎めませんでした」
「それはそうだろう。侯爵が実力でなく娘を使って内務を牛耳っているとした方が周囲は攻撃し易い。自然娘の身も危うくなるが、故に最も守りの堅いそなたの側に置くのが安全という皮肉となる。そして何より、そなたが娘を側に置きたがった」
あぁ、そうだ。
心配そうにマリアネラを迎えに来た乳母や侯爵夫人に対し、私は癇癪を起こし抵抗した。侯爵に諌められても聴かなかった。小賢しく子供らしく『王太子の初めての我儘』を演じ、だからこそ咎める者はいなくなったのだった。
「幼いそなたには、まだ難しかったか……」
父王は嘆くでもなくただ事実を呟いたが、幼い私でも身に染みてわかった。私の短慮が、何よりも大切な子を傷付けたのだ。
「王の寵愛を欲しがる者は多い。奪いたがる者はもっと多い。だからこそ我らは皆を平等に扱わねばならぬ。本当に大切なものは心の内に隠し、誰にも悟られてはならぬのだ」
その後、大人たちの間で様々な議論がなされたらしい。
反対の声もあったそうだがマリアネラが私の婚約者の座に留まったのは、まず侯爵の一年間の働きが純粋に素晴らしかったからだろう。それにここで彼女との婚約を取り下げれば、侯爵家や引いては王家が暴力に屈したことになる。おそらくはそういう面子の部分が大きかったのだと思う。
マリアネラは私の婚約者として御輿の上に乗せられたまま降りられなくなってしまった。罪悪感の一方で確かにそれを喜んだ私は、最低の屑だ。
可哀想なマリアネラ。
今の私に彼女を守る力はない。私が彼女に傾けば人はそれを“傾国”と呼ぶ。
ならばと、私は誰もが認める完璧な王を目指すことにした。彼女を守れるだけの力を持った、完璧な王になる。それくらいしか償う方法を思い付けなかった。
将来私が王として完璧であれば、王后となったマリアネラを堂々と愛しても構わないはずだ。だってそれは“寵愛”ではなく“真実の愛”なのだから。
幼い身勝手な理屈だ。それでも私はこの方法を一筋の光明と信じて、ひとまずこのどろどろとした感情をひた隠すことに決めたのだった。
◇◆◇
豪奢に輝くシャンデリアと華やかに着飾った人の群れ。夜会はいつだって息苦しくて憂鬱だ。それでもどうにか愛想笑いを浮かべているのは、隣に立つ人に相応しい男でいたいという意地があるからだ。
「巫女姫様のご案内役を仰せつかりました、マリアネラ・エヴァ・フェリシアーノと申します。お見知りおきくださいませ」
瑠璃紺色の細身のドレスを着こなした麗人は、お辞儀の所作一つ取って見ても優雅でありながら一切隙のないその美しさが際立っている。そうして私の自慢の婚約者は、隣国からの賓客に向かって麗しい微笑みを浮かべた。
彼女はもう、可愛らしく声を上げては笑わない。ただにっこりと、淑女の規範に沿ってお手本のように微笑むのだ。
完璧な王を目指した私よりもずっと完璧な姿。誰よりも幼いうちからそれを強要された彼女は、完璧であるのにどこか歪な存在になってしまった。一緒に過ごしたあの一年がなければ私でさえ、彼女を陰で『人形』と呼んだかもしれない。
血筋身分教養容姿、どれを取っても貶すところのないマリアネラを攻撃できる点があるとすれば、色素の鮮やかな者が多いこの国では重く厳しい印象を与えて目立ってしまう黒髪黒目と、非の打ち所がなさすぎて人間味に乏しいということくらいだろう。
如何なる羨望も嫉妬も撥ね除ける完璧な淑女。だからこそ皆、少しでも粗を探そうとする。自尊心の塊のような貴族たちは、世辞ならいくらでも言うが自分より優れた者を手放しで称賛することなどできない生き物なのだ。
だから私は、他愛ないお喋りをしながらも周囲に気を配る。皆が私たちを──次代の国王夫婦の外交手腕を観ている。そして、どうにかして僅かにでもマリアネラを批判できる糸口はないかと目を凝らしているのだから。
それにしても、この巫女姫とやらは明け透けによく笑う。庶子だと聞くし、淑女としての教育を受けてこなかったのだろうか。確かに愛らしい雰囲気はあるが、これでは隣国王家の格も下がるのではと余計な心配をしてしまう。
マリアネラは、彼女の価値観からかけ離れた巫女姫の振る舞いに唖然としているのだろうか。眉をほんの少し寄せて慈愛の眼差しの中に微かな苦笑を滲ませている。まるでお転婆が過ぎる娘を見つめる母親のような高尚さだ。
いや、そう見えるだけで彼女の本心なんて誰にもわからないだろう。マリアネラはいつだって、“王太子妃に相応しい言動”を求められるまま正しくなぞっている。だから……
「マリアネラ、辛くなったら言いなさい」
「はい、殿下」
体調を気遣う言葉を掛けても、彼女は決してそれに甘えてはくれない。私が気にすることではないと、どこまでも気丈に美しく微笑むのだ。
マリアネラは巫女姫に対し、随分と厳しく熱心に指導しているらしい。淑女の頂点に立つ者としても案内役としても、やはりあの気品や教養を感じられない立ち居振舞いを見過ごせないのだろう。
だがそこに隣国の侯爵子息が加わったことで、不穏な空気が漂い始めた。
あのマリアネラをも悩ませる存在として、巫女姫と子息は次第に注目を集めていく。私からも巫女姫を諌めるべきかと考えたが、これ以上彼女の回りに男の影があるのは善くないと学友たちに止められた。代わりに子息の方には釘を刺しておく。
「あの方はただ、お寂しいのです……」
「だが君のために巫女姫殿があらぬ誤解を受けているんだぞ」
「そのような悪意すべてから巫女姫様をお守りすることも私の使命と心得ております。どうかそっとしておいていただきたい」
銀縁の眼鏡の奥にある冷たい紫の瞳は、けれど確かに炎を宿していた。愛しい者を自ら傷付け自ら癒すその所業は、男であり狂信者でもあるが故の歪な愛だ。それを少しだけ羨ましく思う自分に驚き、気付かなかったふりをした。
私はマリアネラをそんな風に振り回したいと思っているのか? あの微笑みの裏にある涙や怒りを暴き出して、それを訳知り顔で慰め暗い悦びに酔う。そんなことをして、何になる?
私はこれ以上、あの子を傷付けたりしない。してはいけないのだ。
久しぶりにカフェで向かい合わせに座って話をしながら、彼女の憂いを晴らすためにできることはないか考える。
「少しは緊張したりしないのかい? 私がいなくて心細いとか」
下手な冗談だ。マリアネラは一人でも十分立派に公務を勤められるし、そうでなくてはいけないのに。けれど彼女は私に付き合って黒い瞳を優しく細めた。
その煌めきは冬の夜空に似て、どうしたって手が届かない。対する私ももどかしさを押し隠すようにして笑う。私だって心を隠すのは得意だ。
自分でも馬鹿なことを言ったと、早々に話題を変えた。
「君が留守の間は、私もそれとなく巫女姫殿たちに気を配っておくよ」
話の流れから自然と出たその言葉に、マリアネラが珍しく僅かに狼狽える様子を見せた。不思議に思って首を傾げればますます困ったような顔をする。
「……巫女姫様は、とてもお可愛らしい方ですから、その……」
口ごもる様子があまりにも新鮮で、心臓が妙に跳ねた。そういえば、巫女姫と接するようになってからマリアネラは少し変わったかもしれない。これまでよりも少しだけ、感情を滲ませるようになった。
けれど、まさか……
「マリアネラ……まさか、私が巫女姫に近付くのが嫌なの? 嫉妬しているのかい?」
マリアネラに限って、そんなことはあり得ない。けれど、淡い期待を抱いてしまう。気を抜くと口許が弛んでしまいそうで、欲望が表に出てしまいそうで、必死に表情を固定する。
落ち着けと、何度も心の中で唱えた。
こんな衆人環視の下でする話ではなかった。マリアネラが私と巫女姫に嫉妬しているだなんて、疑惑すらも持たれてはいけない。そんな噂が流れれば、彼女は一斉に攻撃されるだろう。これまで彼女が努力して作り上げてきた淑女の理想像がすべて崩れてしまうのだから。
「これ以上の高望みは分不相応というものでしょう」
あぁ……完璧な淑女の顔をして、君はすらすらと正論を述べる。
「……私の心まではいらない、と?」
「もしいただけるのでしたら身に余る光栄でございます。けれど殿下のお心は殿下のものですわ」
何も間違っていない。それで正しい。
こんな歪んだ感情はただの、私の我儘だ。
「まったく……」
こんなだから、私たちは『仮面夫婦』だなんて言われるのだろう。互いに決して胸の内を明かさない。求めるのは愛情ではなく、誠意と為政者としての覚悟。それは間違っていないはずなのに。
可愛いマリアネラ。私の大切な女の子。いい子だね、大好きだよ。ずっと一緒にいようね。
可哀想なマリアネラ。私の優秀な婚約者。いい子だね、信頼しているよ。共に国を護っていこう。
この腕の中で大切に守ってあげたかった小さな愛し子は、まっすぐに顔を上げ私と背中合わせに立つ淑女になった。それが誇らしくて、切なくて、居たたまれない。
「いい子だね」
マリアネラは私の愛情なんて求めていないし、私も彼女に向けるのは信頼だけだ。それでいい。そうでなければいけない。“王太子の寵愛”なんて、向けられても周囲から妬まれるだけの重荷でしかない。
「君が婚約者でよかった」
「勿体ないお言葉ですわ」
何もかもを押し隠した儀礼的な口付けに、恭しく頭を下げる美しく悲しい人。いつかもう一度、彼女があの陽溜まりのような笑顔を私に向けてくれる日はくるのだろうか。いっそ泣いてくれてもいい。涙を拭わせてほしい。私に“心”を見せてほしい。
そんなことを乞えばきっと彼女は「敬愛しております」だとかの綺麗な言葉と微笑みをくれるだろう。
それ以上を望むのは私の我儘だ。やりきれない気持ちをぐっと抑え込んで笑うことしかできなかった。
「王太子様!」
マリアネラが慰問に出て一週間。
今日も巫女姫が私を見つけるなり満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくる。そこにまったく似ていない面影を重ねるようになったのは、ここ数日のことだ。
「……これは巫女姫殿。ご機嫌麗しゅう」
「そんなに改まらないでください。私もっと王太子様と仲良くなりたいんですから! あ、お昼お済みですか? よかったら一緒に」
「いや、申し訳ないが急ぎ城へ戻らねばならないのです。食事はまたの機会に」
巫女姫と同席するのはできるだけ避けるべきだ。学友たちの勧めもあるし、マリアネラはずっと彼女の奔放さに悩んでいる。私が彼女を肯定するような真似をしてはいけない。
そう、理解しているのに。くるくると変わる表情にどうしてもあり得ない夢想をしてしまう。彼女がこんな風に私を求めてくれたら、どんなによかったか……
そんな馬鹿なことを願ったからいけないのだ。
「王太子様……私っ」
境界が曖昧になっていく。小さくて柔らかくて、いつもにこにこと笑っている彼女は──彼女は私の求める彼女とは違うはず。いや、どうだったか……
謹慎を言い渡され神殿に籠って、夢に見るのは黒い瞳だ。こちらが身構えてしまうくらいの美しい顔に満開の笑顔を咲かせて、私の名を呼び愛を囁く。その度心に歓喜が充ちて、すぐ虚しさに変わる。
あり得ない。彼女はそんなことをしない。
けれど彼女が彼女に悪意を向けているという話を聞いて、にわかには信じがたいその話が真実なら私が夢に見た彼女もまた真実なのではないかと、おかしな思考に囚われてしまう。
そもそも“彼女”とは、誰だったろうか……
夕日の射し込む執務室で弱々しく肩の力を抜いた彼女は「国益にならない」という私の言葉に同意した。その後も「嫉妬しているの?」という問いには答えなかった。それでも一つだけはっきりしている。
私の気持ちは『国益にならない』のだ。
でも、何かがおかしい。
「他言無用の話なのだが……」
「私は殿下の専属医でございます。今までもこれからも、殿下の御身に関わることを他に漏らすことはございませぬ」
医師は大真面目に請け負って先を促す。
「……このところ、妙な幻覚を見る」
調べてもらっても体に異常はない。口にするものもこれまで以上に注意を払っている。
それなのに、気付けばあの子の笑顔を目で追っている。違う。そうじゃない。彼女の笑顔は私が奪ったじゃないか。今の彼女はあんな風に笑わない。あぁでも、笑ってほしい。その笑顔をずっと見ていたい。守ってやりたい。
これは私の我儘なのか?
翡翠はフェリシアーノ侯爵家の色だ。ならばそれに身を包む美しい人は、私の婚約者マリアネラ・エヴァ・フェリシアーノに違いない。
では私の胸に飛び込んできて震えている小さな女の子は? 泣き虫で、けれどよく笑って、守ってやらねばという気持ちにさせられるこの子は……
「マリアネラ、巫女姫殿に夜会のことをお教えしなかったのかい?」
あぁ、そうだ。巫女姫殿だったか。私の小さなマリアネラでも、身勝手な夢想の具現化でもない。冷静になれ。
「はい、殿下。わたくしの落ち度でございます」
深々と下げた頭。黒に映える白い髪飾り。彼女こそが、私の守るべき人のはずだ。
顔を上げたその人の黒い瞳は、悲しいほどに美しく煌めく冬の夜空に似て。
私の手は、届かない。
どうしてこんなことになった?
巫女姫に事の次第を問い質す。そもそも何故彼女は白いドレスを着ているのだろう。今夜白を許されるのはマリアネラだけなのに。
それとも君がマリアネラなのか?
思考が、境界が、曖昧になっていく。
「巫女姫殿……」
口に出してその意味を噛み締める。そうだ。これは巫女姫だ。間違えるな。また喪いたくなければ──
……“また”?
「──王太子様。私と踊ってください!」
頭の中を無理矢理掻き回されているような酷い気分だ。目の前の少女が言っていることも理解できない。
けれど、白いドレスを着た彼女が笑って私を求めるから。その手を取った。
頭の奥で誰かが叫んでいる。駄目だ、と。だが私とマリアネラが踊ることの何が問題だと言うのか。
聖なる夜会。お揃いの白い衣装。夫婦となった私たちを咎める者などいない。
そして、すべてが壊れてしまった。
違う。
私が、壊したのだ。
あれだけ望んだ、淑女ではないマリアネラ自身の表情。今にも泣き出しそうに唇を震わせて、それでも微笑んでいた。
泣きたかっただろうに、それすらさせてあげられなかった。
まただ。また私の短慮が何よりも大切な子を傷付けたのだ。
あの異様な感覚は、巫女姫が私に何かしたのだろうか。だが証拠は何もない。第一、私がマリアネラを想っていたと証明できるものがない。
端から見れば、私が巫女姫に懸想してマリアネラがそれに嫉妬した。そんな風にしか映らない。
誰にも隙を見せなかった完璧な淑女の、大きすぎる失態。喜び勇んで食い付く者たちの、なんと醜く愚かなことか。
だが一番愚かなのは他でもないこの私だ。
巫女姫が私に何をしたかなど関係ない。証拠もなく身柄は既に隣国側で保護されている。向こうも王族で“巫女姫”なのだからいくらでも言い逃れできるだろう。むしろ『私が巫女姫に邪な心を持って近付いた』と逆に咎められてもおかしくない。
私が、私が自制できてさえいれば、マリアネラが責められることなんてなかったのに。
「殿下。いくら庇い立てくださっても、娘が巫女姫様に無礼を働き夜会を台無しにした事実は消えませぬ」
「私のせいなのに……」
どうして誰も私を責めない!? 責めて、罵って、あの子への刃を少しでも私に向けてくれ!!
「貴方様は、王太子殿下であらせられます」
普段と変わらない厳めしい声で言った侯爵の握り締めた拳から床へぽたりと、赤が落ちた。
騒ぎはマリアネラと巫女姫の間の個人的な確執とされた。私は何の関係もなく、彼女の死を以て我が国は責任を果たしたことになるという。
私のせいなのに、私を守ってあの子は死ぬのだ。
鉄格子の向こう側で、それでも彼女は静かに微笑んでいた。
「統一四百年なんて待たずに、結婚していればよかった」
「王太子妃であったら、死罪は免れたのに」
どれだけ悔いても嘆いても、起きたことは変えられない。マリアネラは淡々とそれを受け入れていた。
「それでいいのか?」
「はい。これは、わたくし一人の咎ですもの」
悪いのは私なのに、彼女ですら私を責めない。最期まで、たった一人、美しく微笑んで。
あぁ……これでは“前回”と何も変わらない。
飲み干した杯をきちんと返してから、細い体がよろめいて崩れ落ちた。その瞬間、怒濤のように押し寄せる記憶。
「う……ぁ、ぁあああああアアアアアアッッ!!!!」
裏切り者。裏切り者。裏切り者。裏切り者。裏切り者。裏切り者。裏切り者。
彼女の努力、矜持、信頼、すべてを裏切った愚か者に断罪を──私を殺せ!
あぁ……忘れるな。あの子の死を願った者、全員道連れだ。
お休みした挙げ句話は進まなくてすみません。もう少しだけ殿下の身勝手さにお付き合いください。




