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n-6.闇の先に

 父から手紙が返ってきたのは、王都を離れて七日目の深夜。少し時間が掛かったのは、あちこちに手を回しこれからの計画を整えていたのだろう。


 手紙には、わたくしの話を信じてはくれるが巫女姫の身柄を押さえるとなると客観的な証拠が乏しいこと、そのため敢えて『湯殿の件』を起こし恐ろしいことに殿下への暗殺未遂容疑者として巫女姫を捕縛する計画だと綴られていた。

 そんなことをしたら隣国や教会と全面的に争う事態となってしまう。けれどその点は気にするなとしか書かれていなかった。


 わたくしを信じてくれたことは素直に嬉しい。けれど不安はちっとも晴れなかった。

 わたくしはこのまま慰問を続け、十一日目の夕刻『湯殿の件』を急使から伝えられその後の予定を取り止めて急ぎ王都へ戻るという筋書だそうだ。これではどんなに急いでもわたくしが王都に着くのは、十二日目の深夜だろう。暗くなってから馬車を走らせることは反対されるだろうから、途中の街で最低一泊、もしかすると二泊。もどかしいけれど、決まったことには従うしかない。わたくしが言い付けを破って動いたばかりに計画が狂うことだってあり得るのだ。

 手紙を粉々に千切ってから暖炉の火にくべる。そしてもう一通の手紙に手を伸ばした。


 少し縦長に癖のある、殿下の字。『親愛なるマリアネラ』と、わたくしの名を綴ってくださるだけで心を躍らせていたのはいくつまでだったかしら……いいえきっと、今も喜んでいる。だって最後に記された殿下のお名前を指でなぞるだけで、こんなにも苦しいのだから。



『どんなに謝罪の言葉を重ねても、君の苦しみに報いれるとは思わない。だがどうかまず謝らせてほしい。私が不甲斐ないばかりに、幾度となく君を追い詰めてしまったのだから。

 君は私を憎んでいるだろう。その微笑みの下で何もかもを飲み込んでいてくれたのなら、私は責めを負うべきだ。これは謂わば私の長年の不貞なのだから、君が望むなら婚約の解消すら甘んじて受け入れよう。

 それとも他に、君に対して誠意を示す方法があるだろうか? 君は私に願い事などしなかったけれど、この件に関しては何としても君の願うまま気の済むようにしたいと思う。

 だからまずは、どうか無事に帰ってきてほしい』



 綺麗に並んだ文字がぼやけて滲んで、慌てて上を向いてやり過ごす。込み上げる感情は複雑で、自分でもよくわからない。

 嬉しい、のだと思う。殿下がわたくしを悼んでくださることも、それをご自分の責だと仰ってくださることも。けれど殿下も仰る通り、どれだけ謝罪の言葉を重ねられても繰り返した痛みや悲しみが消える訳じゃない。それにわたくしが殿下を憎むだなんてあり得ないのに、殿下にはわたくしがそのように見えていらっしゃるのだと考えると悲しくて仕方がない。


 もう一度手紙に視線を戻してゆっくりと読み返す。そこに『私の心はこの国と君と共にある』という文言はなかった。それは以前、わたくしが繰り返しについてご説明申し上げた時に、殿下がお約束してくださったことだ。

 あの時も、殿下は酷く驚かれて謝ってくださった。どう考えても普通ではないわたくしの話を、真に受けていらした訳ではないと思う。それでも信じる姿勢を見せてくださったことがとても嬉しくて、約束の言葉だけで救われた気になって、けれど殿下からすれば、模範解答をなさっただけのことだったのだろう。それとも本当にそう思ってくださって、けれど巫女姫の“力”に抗えなかったのだろうか。


 目の前に綴られた優しくも少し苦いお言葉は、あの時のものとは意味が違うと思う。実際口に出すのと文字にするのとでは、表現が違ってくることくらいわかっている。でもそうではなくて、言葉の重みが違う気がするのだ。

 まるで、わたくしの身に何があったのか、本当にご存じのようで。つまり出立の朝に考えた通り、殿下は繰り返しに気付いていらっしゃる、もしくはわたくしからの手紙によって確信をお持ちになったのでは、と思うのだ。だからこそ、あの約束の言葉を避けられたのでは、と。


 嗚呼だとしたら、これまでのわたくしを、殿下はご存じなのだ。

 血に濡れたまま揉み合い殿下のお顔に傷を付けてしまったはじまりも、数々の嫌がらせをした挙げ句白いドレスに我を忘れた夜会も、真っ赤に染まった裏路地も、異国の城で違う男に抱かれて息絶えた日も。

 役目から逃げて、みっともなく足掻いて、結局力が足りなくて、繰り返してきたわたくしの醜さを何もかも知られてしまったのだ。

 体から力が抜けていく。ソファに座ったままでも倒れ臥してしまいそうなくらいに気が遠くなった。


 父への手紙には、これまでわたくしが試みたことやその結果もつぶさに記した。巫女姫への協力があった人物、“血の力”について、国を護るため知っていることは余すところなく淡々と書き列ねた。

 だから殿下も、父から事の全容をお聴きになるだろうと覚悟はしていた。だとしてもそれは歴史を学ぶように、起きたことを順序立てて整理し理解する作業になると思っていた。けれどそこに殿下ご自身の記憶や感情を伴うのだとしたら、見える景色は違ってくるだろう。

 そうして殿下は、わたくしが殿下を憎んでいるなどという結論を導きだされたのだ。

 嗚呼、だからこんなに、悲しいのか。

 確かにずっと心の内に秘めてきたけれど、わたくしが殿下をお慕いする心の一欠片さえ、殿下には伝わっていなかったのだ。それは正しいことのはずなのに、どうしようもなく悲しいと思うわたくしは、なんて身勝手なんだろう。


 殿下とお話がしたい。


 三度目の比ではないくらい強く強く、そう思った。知られたくないことはすべて知られてしまったのに、一番お伝えしたい気持ちだけが秘されたままだなんてあんまりだもの。どうせ婚約の解消は決まったようなものだし、なんとなくだけれど、これが最後だという気がするから。

 事の始末はすべて父に頼り、断ち切るべき殿下への想いは結局捨てられなかった。これまでの相応しくない行いもすべて知られてしまった。繰り返す度に「やり直しだから」と誤魔化してきたけれど、わたくしがマリアネラ・エヴァ・フェリシアーノとして胸を張れることは今度こそもう、何もない。

 だったら最後くらい、父に叱られたって殿下に呆れられたって、ただの娘として一言“好き”だと我儘を言わせてほしい。


 少し息を詰めて、一気に紙を裂く。殿下からいただいたお言葉を破り捨てるのは気が引けるけれど、証拠を残す訳にはいかない。それにわたくしがほしいのは謝罪の言葉ではない。

 けれどやっぱり少しだけ惜しくて、『無事に帰ってきて』という部分だけを丁寧に千切り残した。





  ◇◆◇





 そこからは一日一日がもどかしくて。けれど何事もないふりをしてやるべきことをやり続けた。

 国を揺るがしかねない陰謀なんて、孤児院の子供たちには関係ない。勿論国が崩れるようなことになればこの子たちも苦境に立たされるだろうけれど、それを今どれだけ憂いたところで何にもならない。

 今、わたくしの役目は、陛下のご慈悲を届けることだ。表舞台から消え去るその瞬間まではきちんと役目を果たすべきだから。



「何か困っていることはありませんか?」

「はい、苦しいですがなんとかやっております」

「この夏は嵐が二度も通ったとか……」

「えぇ、それはもう酷い嵐で。なにぶん建物が古いものですから、修繕費も嵩んでしまいまして……」

 当然だが運営に余裕のある孤児院ばかりではない。特にその地の領主に余力がない場合、頼りは国からの補助金だ。その補助金だって決して多くはない。正式に政に参加できるようになったら、予算の見直しやこういった災害時の見舞金手続きの簡略化や、具申したいことが他にもたくさんあった。

 何もかもが無事に終わったら、わたくしにはもう何もできない。けれど殿下がご無事なら、すべてを託せる。そんなふうに、不安や焦りを希望にすり替えていた。


「皆でちゃんと院長先生のお手伝いをしているのね。偉いですね」

「うんっ!」

「『はい』って言わないといけないんだよー」

「ふふ、皆いい子だから大目に見ましょう」

 この子たちを守りたい。未来を繋ぎたい。

 どうかどうか、すべてが上手くいきますようにと、夜毎月を見上げて祈った。

 神には、祈れなかった。わたくしの想いはすべて、美しい白銀に捧げるためにあったから。



 そして、十一日目。まだ日が傾く前に、街道で急使と会うことができた。

 汗と砂埃にまみれ息を切らした使者を前にすると、事情をわかっているにも拘わらず胸騒ぎのようなものがして演技ではなく震えてしまった。喉を潤し汚れた顔を拭うくらいは待ってやらねばと思うけれど、気が急いてしまう。

「いったいどうしたと言うのです?」

「はっ……王太子殿下が、お命を狙われましてございます」

 押し殺した悲痛な声に、こちらも引き込まれるように小さく息を飲んだ。

「……それで、殿下はご無事なのでしょうね!?」

「お怪我をなされたと、伺っております」

「なっ……」

「妃殿下におかれましては、急ぎ王都へ帰還せよと陛下の仰せにございます。詳しくはこれに」

 王家の紋が入った手紙を受け取り、震える手を無理矢理動かして封を切る。けれどその内容は使者の口から語られたこととさして変わらない。辛うじて、殿下のお怪我が大事には至らないとわかったくらいだ。


「急ぎ王都へ向かいます。今日中に一つ先の街まで進むよう手配を」

「お言葉ですが妃殿下、もう一時間もせぬうちに日が暮れます。夜道で馬車の隊列を急がせるのは危のうございます」

「王家の一大事なのです! 多少の危険は承知していてよ」

 強い口調で言えば、旅程の管理責任者も護衛の指揮官も深刻な面持ちで押し黙った。それを了承と取って話を進める。

「隊を分けて、わたくしの護衛は精鋭のみに。他は文官らと日程通り孤児院を廻るようになさい。素通りしてしまう領主にお詫びの手紙を書いたらすぐ出発します」

「仰せのままに」

 深く頭を下げてそれぞれの部下へ指示を出しに向かう者たち。わたくしも使者を労ってから、急いで詫び状をしたためる。


 殿下と巫女姫のこととなると冷静な判断ができなくなるのは自覚している。それでもこういう場合、一刻も早く王都へ戻ろうと考えるのは当然だろう。だからこそ何か仕掛けられる可能性はある。

 危険は承知の上。それでも、こんなところで止まってはいられない。速さと安全性を秤にかけて、ぎりぎりの選択を。殿下が「無事に帰れ」と仰せなのだから、わたくしはそれにきちんと応えなければ。



 馬車は本来泊まるはずだった街を越え、夕暮れの中をひた走る。整備された見通しの良い街道の上には茜色の空が広がっていて、迷路のような赤い裏路地とは重ねずに済んでいるのが幸いだ。気分は悪いけれど、馬車を走らせ続けられないほどではない。

 闇が迫ってくる。微かに伝わってくる、地面を蹴る蹄の音、馬の荒い呼吸や嘶き、車輪の震動。息苦しくて堪らない。けれど、一歩一歩、確かに進んでいる。だから大丈夫。





  ◇◆◇





 夜遅く、到着したのは伯爵領の小さな町。予定より一日早くしかも時間帯としては非常識な訪問にも拘わらず、三十前の若い伯爵はにこやかにわたくしたちを歓待してくれた。

「これはこれは、ご無事のお着き、何よりでございます」

「慌ただしくて迷惑をかけます」

「いえ、滅相もないことで。あぁ、お疲れでございましょう。小さな屋敷でご不便をおかけいたしますが、どうぞごゆるりとお休みくださいませ」

 時間が遅いということで、伯爵は胃に負担の少ない軽食を用意してくれていた。更には替えの馬も準備してくれていると言う。

 それは少々、準備が良すぎるのではないか。


「ご配慮感謝します。けれど王家の馬をここに置いては行けません」

「ご安心ください。私が責任を持って後日王都へお届けに参ります」

「……馬を見て決めましょう」

 王家の車を牽く馬は歴とした軍馬だ。見目に優れ、群衆の歓声の中を物怖じせず足並みを揃え堂々と進む胆力があり、火急の折はどの馬よりも速く駆け王族を安全な場所まで運ぶよう訓練されている。

 そんな最上級の軍馬を、日程変更の連絡から一日もないのに用意できるとは思えない。


 厩への案内を頼むと、ずっと笑みを貼り付けていた伯爵の顔が強張った。

「……高貴なご婦人をお連れする場所ではございませんし、護衛の皆様もお疲れでございましょう。我が家の者に仕度させますので、どうぞお部屋でお休みくださいませ」

「馬も車も陛下よりお借りしている大切なものです。申し出はありがたいことですが人任せにはできませんわ」

「しかし……」

「それに、食事に薬を盛るような不忠者の世話にはなれません」

 伯爵がはっきりと動揺を見せた。もしやと思って言ってみただけなのだけれど、本当にそんな愚挙に出ているとは。何と言うか、人を陥れようとする割りには随分と底が浅い男だ。

 この非常時に一世一代の大芝居を打つとなれば、力みすぎるのもわからなくはない。だとしても、これでわたくしや精鋭の護衛たちを欺けると思ったのなら、お粗末としか言いようがないだろう。


 伯爵の身柄を押さえ、屋敷内に巫女姫や他の貴族との繋がりを裏付けるものがないか捜索する。護衛たちも皆一日中馬を走らせて疲れきっているのに、ここへきて更に神経をすり減らすような仕事をさせることになるとは、まさかこの事態まですべて敵方の手の内なのではと思ってしまう。

「妃殿下! これを」

 差し出されたのはとある大貴族から伯爵に宛てた手紙で、わたくしの足止めを条件に役職に取り立てるとあった。安直すぎて溜め息すら出ない。

「如何いたしましょう?」

「……この手紙そのものが罠という可能性も否定はできません。けれどおとなしく足止めされてやる謂れもないでしょう」

「御意に」

 伯爵に求められたのは、わたくしの帰還を十三日目の昼以降にすること。ならばやはり、何としても十二日目の内に王都へ辿り着くべきだろう。

「仮眠を取って、夜明け前に出発します。我々を焦らせ周囲への警戒を怠らせるのが目的とも考えられますから、まずはしっかりと休むように」

「はっ!」

 それから青い顔をした伯爵に向き直る。

「貴殿にも同行していただきます。申し開きは陛下の御前でなさるように」

 伯爵はこの世の終わりのような表情のまま護衛兵に連れられていった。


 与えられた部屋に戻り、くたくたの体を寝台に投げ出す。眠らなければと思うのに、向かうべき敵が強大なことに打ちのめされて不安が渦巻いて眠れない。

 先に父へ手紙を出すべきだろうか。けれど皆疲れているし、手勢をこれ以上減らしたくはない。

 扉が叩かれて固い声で返事をすると、茶器を持った侍女が入ってきた。

「失礼いたします。やはりまだお休みになっていらっしゃいませんでしたか」

 温かくホッとする香りのお茶を差し出された。強行軍に彼女を連れていくか迷ったけれど、付いてきてくれてよかったと思う。

 少し会話をしてお茶を飲む。疑心暗鬼に凝り固まった心が幾分か解れたような気がして、なんとか眠りに就くことができた。



 そして数時間後、まだ薄暗く冷たい空気を切るようにして隊列は走り出した。休息を挟みつつ、王都までは半日強。そうしたら、殿下にお会いできる。

 けれどそれは同時に、巫女姫とその背後にいる者たちとの最終対決が始まるということで、その後にはわたくしが殿下の婚約者でなくなるということでもあった。


 正面から朝日が昇る。車内にも光が差し込んで、世界が金色に──美しくて、大嫌いな色に、染められていく。

 高く長く、馬が嘶いた。車体が大きく揺れて止まる。嗚呼やはり、待ち伏せはあったのか……

 けれどここで止まるわけにはいかない。ここで諦めたら、これまでのすべてが無駄になってしまう。わたくしは無事に殿下の下へ帰るのだから。窓を開けて声を張り上げた。


「邪魔しないで!」


 もう、たくさん。

 わたくしの行く道を、殿下の御代の安寧を、この国の未来を邪魔しないで。

 わたくしの想いの、邪魔をしないで!

 強く強く、そう願った。

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