n-4.濡れた水色
道程は順調で、巫女姫が我儘を言うこともなく休憩時には一見和やかにお喋りなんてしたりして、無事に一日目の目的地に着いた。
この街は我が家との関係も良好な別の侯爵家が治めていて、侯爵自身もこれまで王家やわたくしを裏切ったことはない。今回もそうであってほしいと祈りを込めて、領主の館の前で出迎えてくれた父よりも幾分年嵩の侯爵に「世話になります」と微笑み掛けた。
今夜はこの館で侯爵のもてなしを受け、明日の午前中、街の外れにある孤児院を訪問する予定だ。午後にはわたくしは次の街へ向けて出発するし、巫女姫は王都への帰路に就く。行きは通り過ぎたここよりも少し規模の小さな街で一泊し、王都には明後日の昼前に帰り着くだろう。
そして『湯殿の件』は、王都を出た十日後に起きる。だから巫女姫には、帰ってからしかも手駒を奪われている状態からでも、何かを画策する時間は十分にあるのだ。
理由を知らない人たちに「巫女姫に注意せよ」「殿下をお守りせよ」と言い置いたところで、普段以上の警備を望むのは難しい。わたくしの記憶の他に確たる証拠もないのだから。
起きる日も起きることもわたくしだけがわかっているのに、わたくしはその日王都に居ない。公務を途中で切り上げて帰ってくるなんて、それこそ賊に襲われるなどの切り上げざるを得ない不測の事態が起こらなければ難しいだろう。過去に巫女姫を犯人に仕立てての自作自演を謀ったこともあったけれど、その時は雇った人間の寝返りで失敗した。
だから今回もがむしゃらに動いてはみたけれど、どこかで無駄だと思っているのかもしれない。
わたくしにはもう、祈ることくらいしかできない。どうか事が起きぬよう、起きてしまうなら、殿下がご自分を律してくださるよう、巫女姫にお心を奪われてしまわぬよう……婚約者として臣下として、それはごく当たり前の願いだというのに、どうして途方もない叶いようのないものとしか思えないのだろう。
◇◆◇
「お疲れでいらっしゃいますか?」
侍女の気遣わしげな声で現実に引き戻された。
化粧台の鏡に映る自分の顏は、美しく飾り立てられているのにまるで生気が感じられない。死相が出ているとはまさにこういうものかしらと、なんだかおかしくなって頬が緩んだ。
「……そうね、確かに少し疲れているわ。明日も早いことだし、湯を使ったらすぐに休みましょう」
「かしこまりました」
侯爵が催してくれた晩餐会はごく小規模にまとめられながらも、わたくしが陛下の名代であることや巫女姫も同席することから重要な格式が損なわれることのないよう絶妙のバランスで配慮されていて、夫妻のセンスが光る素晴らしいものだった。にも拘らずわたくしがこれほど疲れているのは、すぐ側に巫女姫がいたというただそれだけが理由ではない。
彼女が何を思って慰問に同行しているのか、その理由すらわからない。何を疑い誰を信じればいいのか。そういうことを考えながら同時に侯爵夫妻や列席者たちと和やかに会話をしなければならなかったのだ。繰り返していて会話の内容は前と同じだとしても、むしろどこかにこれまでと違うことはないか、何かこれからのヒントになることはないかと気を張り続けた。
その苦行がやっと終わったのだ。
ドレスを脱ぎコルセットの紐を弛めてきっちりと結った髪を解くとようやく肩の力が抜ける。そうして呼吸が楽になって一心地ついたところだというのに部屋の扉が叩かれて、侍女と怪訝に顏を見合わせた。
侍女が応対に出ると困り果てた様子のメイドの声が聞こえてきた。
「巫女姫様がお越しなのですが……」
「そんな話は聞いていませんよ。妃殿下はもうお休みのお支度をなさっておいでです」
「先触れもなくご本人が直接おいでになって……廊下でお待たせするわけにもいかないので客間にお通しして……」
「まぁなんてこと……そこでお待ちなさい」
衣擦れの音と共に侍女が衝立で区切られたこちら側に戻ってきた。やはり彼女も困り果てた顏になっている。
「巫女姫様がお越しだそうです」
「えぇ、聞こえていてよ。支度をしましょう。その前に、お待たせする旨をお詫びしてきてくれる? メイドたちでは可哀想だわ」
「かしこまりました。それにしても子爵夫人は何を考えていらっしゃるのでしょう? 非常識ですわ」
「そうね……」
侍女が継ぎの間へと出ていき扉が閉まる。その音を聞いた瞬間、鏡の中の自分から駄々をこねる子供を前にした時のような笑顔が剥がれ落ちた。
城勤めができるほどの上流階級とはいえ、平民であるメイドでは巫女姫に逆らうことなんてできない。巫女姫に付けた侍女はわたくしより八つ年上の軍閥の子爵夫人で、規則にとても厳しい方として寄宿学校時代にも有名だった。彼女なら巫女姫の我儘もぴしゃりと撥ね付けてくれると思ったのに、もうほだされてしまったのだろうか。
程なく侍女が戻ってきててきぱきと支度をしてくれる。晩餐に着たドレスでは派手すぎるので、明日着る予定で出していたものに袖を通すことにした。
秋らしい青朽葉の生地全体にこちらの侯爵家の色である蘇芳で小さな花模様を染め付けてあり、装飾は背中に並んだ銀の胡桃釦と袖口にやはり蘇芳を濃淡で重ねたフリルだけというシンプルさで、旅装の中でも気に入っている。そのおかげか、少し気持ちも落ち着いた。
「化粧を落としてしまう前でよかったわ」
「左様でございますね」
せっかくすっきりしたところにまたあれこれと塗り直していたら、気持ちは更に鬱々としただろう。鮮やかな赤い口紅を透明感のある薄い色に変えれば、全体的に少し濃いけれどこのドレスでもおかしくはない。解いてしまっていた髪を簡単にまとめれば、人前に出ても問題ない姿になった。
「お待たせいたしました」
「いえっ!……私こそ急に押し掛けてごめんなさい」
わたくしが客間に現れると、巫女姫は口にしたばかりだったらしいお菓子を無理矢理お茶で流し込みカップを置いて立ち上がろうとした。あんまり見苦しくて、それを手で制す。巫女姫がしゅんとしてソファに沈みこむと、わたくしもその対面に腰を下ろした。
「ですがやはり、先触れは出していただきたいものですわ。“学生は皆平等”として自由のきく学園とは違いますのよ」
「はぁい」
「子爵夫人も、どうしたと言うの? 貴女ならその程度のことわかるでしょう」
巫女姫に付き添うようにしてソファの後ろに立っていた侍女に目を遣れば、その人は決まりきった角度ぴったりで優雅に頭を下げて見せた。
「巫女姫様のお世話を承った身ですので、そのご要望を第一といたしました。ご無礼お許しくださいませ」
「……そうだとしても、部屋を訪ねる手順を省いていい理由にはなりません。わたくしが陛下の名代であること、よもや忘れてはいないでしょうね?」
「あのっ、ごめんなさい! 私が無理を言ったんです。今日は全然ゆっくりお喋りできなかったし、マリアネラ様が寝ちゃう前に急いでって……」
巫女姫は立ち上がって、身振り手振りを交えてたどたどしく弁明する。わたくしが侍女に向けていた視線を遮ったのは、意図してのことだろうか。思わず少し目を細めると、大袈裟に肩を縮こまらせて言葉を詰まらせた。そのまま力なく腰を下ろし俯く。
わたくしが悪いわけではないのに、そんな不当に厳しい糾弾を受けたような顏をしないでほしい。
「お友達の部屋を訪ねるだけなのに、先触れだなんて大袈裟なことしなきゃいけないと思わなくて……」
プルシャンのベルベットが美しいガウンの下は、どうやら寝間着姿らしい。立って座ってを繰り返して開いた裾から桜色がかった薄絹が覗いている。両手で膝の辺りの生地をぎゅっと握り締めて震えているものだから、その薄絹に皺が寄って痛々しい。
巫女姫はいつもこうだ。どうしてこんなにも、自分を弱く見せるのが巧いのだろう。無知で無力で守られ愛されるべき存在なのだと、全身で主張する。
それを疎ましいと思うのに、わたくしの意思を裏切るように心はズキリと痛むのだ。
「……わかりましたから、ご用件は何でしょう?」
つい零れそうになる溜め息を笑顔で誤魔化して訊ねた。巫女姫の失敗をおおらかに受け入れ正しく導く“よき友人”の仮面を被って。そうすれば、巫女姫はいとも簡単に表情を一変させ仔犬が尻尾を振るようにして甘えてくるから。
「えっと、用件ってほどかしこまることじゃないんですけど、マリアネラ様とお喋りしたくって」
巫女姫はそう言ってへらっと照れたように笑う。無邪気とも無神経ともとれるその姿に、胸の奥から何かが込み上げて苦しくなる。
「まぁ……お気持ちはありがたいことですけれど、明日も早いのですよ?」
「でも二人っきりでお喋りする機会なんてなかなかないじゃないですか!? 皆で話してるとマリアネラ様はいっつも聞き役だから、王太子様とのお話とか全然してくれないし!」
「殿下のお話、ですか……それは、わたくしの口から軽々しく申し上げることではありませんもの」
「そんなことないですよ! 今朝だってすごく仲良さそうにしてたじゃないですか。どんなお話したんですか? 『二週間も会えなくて寂しい』とか!?」
水色の瞳を輝かせ虚空に思い描くのは、巷に溢れる恋物語か。可愛らしい夢想に胸をときめかせるだけの“普通の女の子”になってほしいと願ったのは、わたくし自身だ。
けれど、この娘はわたくしに何を話せと言うのだろう。わたくしと殿下の間にあるはずだったすべてを壊すのは、貴女なのに。
わたくしが答えず曖昧に微笑むと、巫女姫はわざとらしく頬を膨らませた。
「もうっ! 独り占めなんてズルいです。いいですよーだ、どうせ私には教えたくないんでしょー」
「あら、そんなこと」
ぞわりと、嫌な気配に背筋が強張る。冗談めかしていようとヒステリックにだろうと、巫女姫が機嫌を損ねればろくなことがないのはわかりきっているから。取り繕おうとした明るい声は、逆に少し低くなった巫女姫の声に断ち切られた。
「気付いてます? マリアネラ様、私が王太子様のお話を出すとすっごく怖い顏になるんですよ」
挑むように、わたくしをまっすぐ見つめてくる水色の瞳。涙の膜がキラキラと輝いて、胸が締め付けられるように痛い。
「……何か、誤解なさっておいででは?」
嗚呼、どうか……
「私も、誤解だと思いたいんです。だから、二人でゆっくり話したくて、ここまで付いてきたの」
今にも泣き出しそうに声を震えさせ途切れさせながら、巫女姫が懸命に語る。小さな子供が言い訳するようなその姿と、一瞬見せた鋭さとの落差が大きくて動揺してしまう。まずはその言い分を聴いてやらねばと思わされて黙ったまま先を促した。
「私……ごめんなさい。マリアネラ様の優しさに甘えてばっかりで……でも! 王太子様に疚しい気持ちなんて持ってないから! ただ、お二人の関係に憧れてるだけだから、だから……嫌わないで……」
嗚呼、どうか……
「お顔を上げてくださいまし、巫女姫様。どうして貴女様を嫌いになんてなれましょう」
泣カナイデ──
「本当に? 私のこと、好きでいてくれる?」
「勿論ですわ。わたくしたち、お友達ですもの」
「嬉しい! マリアネラ様、大好きよっ!」
笑ッテ。貴女ノタメナラ何デモスルカラ……愛シイ可愛イ、貴女ハ──違う。
巫女姫がパッと破顔する瞬間、愛らしい口元が微かに歪んだ。そこに重なった軽薄な笑みに、これまでの記憶が収束していく。
赤い髪にくすんだ金の瞳を持つ男はニヤニヤと笑いながら言った。
『王の血には何かしらの“力”があるものだ』
白銀の髪を振り乱し翡翠の瞳を熱に浮かせて彼は言った。
『世界中を敵に回しても、君を愛している!』
淡く輝く金の髪を睨み付けて、わたくしは言った。『巫女姫様が追い詰めるおつもりだったのは、この国そのものですものね』
そう言ったのに、春の空のような水色の瞳が濡れるのが苦しくて悲しくて。彼女を責める度、胸が痛くて堪らなかった。今と同じように……
嗚呼、胸が痛い。虚ろな目をして、大切な人が去っていく。熱くて寒くて痛くて、そして男が囁くのだ。
『王太子殿は我々がしっかりと導いて差し上げよう』
嗚呼、そんなこと、させるものか!
ぼんやりと薄靄の掛かっていた思考が一気に赤く塗り潰されて、全身の毛が逆立つような感覚に振り回される。それでもなんとか笑顔を保っていられたのは、これまで幾度も絶望の縁で微笑み続けた経験の賜物だろう。
「わたくしもです。誤解が解けてよかったですわ」
巫女姫の笑顔は変わらない。わたくしの変化に気付いているだろうか。殿下と令嬢たちの前で平静を装っていたのは見破られたのだから、今もそうかもしれない。無邪気なふりをして、彼女はわたくしよりずっと巧く本性を隠している。
「お茶を淹れ直してくれる?」
速くなる鼓動を落ち着けようと侍女に声を掛けた。すぐに動き出した侍女は、わたくしが意識しすぎているせいかもしれないけれど、とても静かで、一切の無駄がないその所作は子爵夫人と同じに思える。
「仲直りの印に、と言うのはおかしいかしら?」
「ううん。これで私たち、本物のお友達ね!」
キラキラと本当に幸せそうに、巫女姫が笑う。気を抜くとその笑顔に魅せられてしまいそうで。
彼女は意を酌んで動いているのか、ただ掻き乱すことが目的なのか。どこまでが嘘で、どこからが真実なのか。そもそも真実なんて存在するのか。嗚呼なんて、おぞましい。
お茶を飲んで、他愛ないお喋りをして、気が済んだらしい巫女姫を見送ったのは夜も更けた頃。
肩で大きく息をして、部屋に残った侍女とメイドを見遣る。
「……貴女たちが忠義を尽くすべき相手は誰?」
「それは、勿論王家と国家に」
わたくしの唐突な問い掛けに侍女は少し戸惑いを見せたけれど、この国に生きる者として間違いのない返答をくれた。それに倣ってメイドも頷く。
「そう……おかしなことを訊いたわね。でも安心したわ」
完全には信用できないけれど。巫女姫の魅力に抗えなくなるのだとしたら、そして何か命令がない限り普段通りに振る舞えるとしたら、それはあまりにも恐ろしい。
少しずつ自分の意志が弱まっていって、最後には彼女のことしか考えられなくなる。そうなる方を、わたくしは知っている。そうやって今まで何度も間違えてきたのなら……
「手紙を書きます。支度を。それから貴女、三番隊にいるマシュー・ブロワという騎士を呼んできてちょうだい。侯爵家の者だから遣いを頼みたいの」
わたくしの様子にただ事でない何かを察したのだろう。二人はすぐに動き出した。けれど部屋を出たメイドが巫女姫へ報告に行く可能性だってある。
一秒だって時間が惜しいのに、手が震えて思うように文字が綴れない。手詰まりとなって焦れた巫女姫が殿下ではなくわたくしを崩しにかかった。これまでにないチャンスなのだ。ただし証拠はわたくしの証言だけで巫女姫に疑いをかけるには弱い。
それでも、どうかどうか、今度こそ、すべてを守りたい。
書き上げた手紙は二通。父と、殿下に。
それを諜報員の一人であるブロワに託して、ようやく長い長い一日が終わった。空はもう白んでいて、けれどまだそこにより白い月影がはっきりと残っていて、まるで殿下がすべてを見届けてくださっていたような気がした。




