n-3.薄花に白銀
秋は深まり、恒例であり鬼門である孤児院慰問の時期となった。
朝早くから登城して、まずは陛下から名代を承るためにご挨拶する。それからこの日のために作ってもらったドレスに着替えて隊列の待つ前庭に向かえば、途中でやはり真新しいドレスに身を包んだ巫女姫と鉢合わせた。
「マリアネラ様、おはようございます。二日間、よろしくお願いしますね!」
ベビーピンクの生地にココアブラウンのレースを配したドレスは形こそシンプルで落ち着いているけれど、温かな色合いが巫女姫の愛くるしさを引き立てている。ぱっと花が咲くような笑顔はきっと、これから会う人たちを元気付けることだろう。
「ごきげんよう、巫女姫様。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
強張りそうになる口角を無理矢理持ち上げて微笑を作り挨拶をすると、すぐに歩き始める。立ち話をしているような暇はないのだ。巫女姫もそれはわかっているようで、けれど隣を歩きながらも他愛ない話を振ってくる。
「お天気がよくてよかったですね」
「えぇ。雨の中隊列を待たせるのは忍びないですもの」
「馬車の中って退屈かなって思って、カードを持ってきてるんです。一緒に遊んでくださいね!」
「まぁ、遊びに行くわけではありませんのよ」
「でもずーっとお仕事でもないでしょう?」
「……わかりました。時間があればご一緒させていただきますわ」
「やったぁ!」
後ろを静かに付いてくるそれぞれの侍女は、配置替えの時に背後を徹底的に洗ってある。心配いらない、以前のようにはならないと、何度も自分に言い聞かせているけれど、底抜けに明るい巫女姫の様子が不安で堪らなかった。
一つ目の孤児院までの旅程に巫女姫が同行すると知らされたのは、十日前のこと。正規のルートで申請、検討、承認された『巫女姫による慰問』だ。わたくしに口を挟む権限などなかった。
巫女姫がわたくしに同行すれば、『湯殿の件』が起こる可能性は更に減る。そのことを、わたくしも考えなかったわけではない。実際に何度か前、早い時期から巫女姫を唆して二週間すべての旅程に同行させたこともある。
結果、途中で賊に襲われ慰問は中止。その上、わたくしは賊を雇い巫女姫を襲った疑いを掛けられ獄死した。冷え込んでいく二国間を前に、その時もわたくしは無力だった。
今回は、わたくしが勧めたわけでなく巫女姫が自分から言い出したこと。これまで彼女に協力してきた者はきちんと排除しているけれど、他の誰かが彼女を動かした可能性はある。
平和で秩序が保たれているように見えるこの国が一枚岩でないことは、嫌と言うほどに垣間見てきた。また新たな危険人物が現れたのなら、早く対処しなければ。
不安と焦りがちりちりと胸の奥を焼いていた。
◇◆◇
前庭では、殿下が出迎えてくださった。
殿下はまず巫女姫にご挨拶なさって、それからわたくしにも笑い掛けてくださる。序列として当たり前のことなのに、不安が炎のように渦巻いて胸が痛い。
「……あまり顔色がよくないね。大丈夫かい?」
「はい、殿下。ご心配には及びませんわ」
「だが君は馬車が苦手だろう。こんな状態で乗せて送り出したくはない」
「え……?」
わたくしが呆気にとられていると、殿下も一拍置いてご自分が口になさった言葉に首を傾げられた。
「あ……いや、何故だろう……君に苦手なことなんてないのにね」
殿下はそう仰って翡翠の瞳を細められた。首肯は随分とぎこちなくなってしまったと思う。
何度も怖い思いをしてすっかり重症化しているけれど、わたくしは一度だって馬車が苦手だと殿下に申し上げたことはない。そして他の誰にも、この弱点を察せられることがないよう気を張ってきた。
長時間の乗車が避けられない慰問中でさえ、体調を崩していることを悟られるのは旅程の最後。長旅の疲労が重なっては当然のことだと誤解されるまで、これまでも耐えてきたのだ。
殿下はわたくしを頭のてっぺんから爪先までじっくりとご覧になって、一つ頷かれた。
「君はいつも通り、完璧だ。慈愛に満ちた未来の国母たる装いだね」
「勿体ないお言葉ですわ」
薄花色のドレスは一見地味だけれど、胸元から詰まった襟首までを白銀の糸で丹念に刺繍して覆うことで清廉な印象を強くする。可愛らしさや幼さとは一線を画し、威風と静謐を感じさせるよう計算し尽くした意匠だ。刺繍よりも手間はかからずかつ華やかなレース襟で飾り立てる案も出されたけれど、首を縦には振れなかった。
「王太子様っ! 私はどうですか?」
巫女姫が横からそう言ってドレスの裾を広げて見せると、殿下は少し驚かれたように目を瞬かせて、それからふわりと甘く微笑まれた。
「よくお似合いですよ。とても可愛らしくて、こちらも笑顔になってしまう」
巫女姫が嬉しそうに頬を染める。けれどそれより早く、わたくしの意識が赤く染まっていく。
「どうぞ、馬車までご案内しましょう。あまり待たせると兵たちが可哀想だ」
殿下はわたくしに「後で」とだけ言い残され、巫女姫をエスコートして彼女のための可愛らしい馬車へ向かって歩きだされた。
すっと伸びた背中が、遠くなる。王太子殿下としては決して間違っていない振る舞いで、わたくしもきっと昔なら納得できて悲しみなどしなかった。けれど、化膿した傷口はそよかな風に撫でられるだけで耐え難い激痛に襲われるのだ。
その痛みから目を逸らすように、今はすべきことに集中する。震えそうな膝に力を込めて、侍女に促されるままわたくしも自分に用意された馬車に向かった。
王家の紋章があしらわれた重厚感溢れる馬車。それに乗り込むということは、重い責任を伴う。
もはやそんな資格はないと理解しているけれど、今はまだわたくしが殿下の婚約者だから。陛下の名代として、既に『妃殿下』と呼ばれる者として、求められるだけの振る舞いをしなければ。
扉を開けてくれた従僕が控えめに差し出した手を借りて、ステップに足を掛ける。けれどその手を引き留められて、ぐらりと視界が傾いた。
油断したと言うよりは、平静を保つためにまた意識を持っていかれていたのだろう。悔しさと恐怖で背筋が凍る。周囲の戸惑うどよめきが一瞬どこか遠くに聞こえて、すぐに頭上から大好きな声が降ってきた。
「おっと……見送りもさせてくれないのかな?」
気付けば殿下の腕の中で、慌ててその腕から脱け出して軽く礼をとった。
「まぁ、殿下。驚かせないでくださいませ」
「確かに、君が怪我でもしたら大変だ」
殿下は冗談混じりに仰って、もう一度わたくしの姿に乱れたところがないか目を配ってくださる。その視線はとても静かで、けれど優しいものではなくて、わたくしがそのお隣にある者として相応しいかを確かめていらっしゃるかのようで落ち着かない。
「……マリアネラ」
「はい、殿下」
名前を呼んでくださるのに少し間を置かれたことは気になったけれど、ごく自然な反射で顔を上げた。
殿下のお顔がとても近くて、酷く真剣で、思わず小さく息を飲む。それから不自然にならないよう気を付けて、笑みを深め首を傾げて何事かとお訊ねした。
「……いや。何と言うか、妙な感じでね……」
殿下が言葉を見つけられずに戸惑われるだなんて、どうなさったのか。あまりに似つかわしくないお姿だ。不安か期待か自分でもよくわからないものが溢れ出しそうで、息を詰めてお言葉を待つ。
「……『行くな』と言ったら、中止してくれる?」
囁くように仰った殿下はまるで迷子のように翡翠の瞳を揺らしておいでで、わたくしも言葉を失った。
表情を変えずにいるのが精一杯で答えられずにいると、殿下はわざとらしく肩を竦められた。翡翠の奥で一瞬揺らめいたものはまた綺麗に隠れてしまって、もういつも通りに凪いでいらっしゃる。
「つまらない冗談だったかな」
「……今朝は、随分と驚かせてくださいますのね」
自然に振る舞えているだろうか。
何ヵ月も掛けて準備された公務を明確な理由もなくたった一言で取り止めることなんて、あってはいけない。できるわけがない。
こんな馬鹿なことを殿下が仰るなんて、絶対におかしい。頭ではそうわかっているのに、押さえつけたはずの炎がまたゆらゆらと勢いを増す。
「巫女姫様が今になって『行きたくない』とでも仰いましたか?」
そんな我儘を聞き届けようとなさるなら、殿下の威信は地に落ちる。先に待つのは国を割る争いだ。
どうか目を覚まして……あの娘のことなんか、見ナイデ……!
「……『君を送り出すのが不安だから』と言ったら、信じてくれるかな?」
凪いだ瞳のまま、柔らかく微笑まれる殿下。わたくしが存じているいつも通りのお姿だ。安堵すべきなのに、違和感が拭えない。
今の殿下は“婚約者の道中を案じて”優しいお言葉をくださっている。まだ巫女姫にお心を奪われてはいらっしゃらないみたい。嗚呼でも、それなら何故冗談とはいえ慰問の中止なんて愚かなことを口になさったのだろう。
「わたくしでは陛下の名代など務まらないとお考えでしょうか?」
「いや、君なら立派にやり遂げるだろうね」
「では……」
「畏れながら殿下、お時間が……」
「あぁ……それじゃあ、気を付けて行っておいで」
侍女に遠慮がちに急かされて、殿下が手の甲に口付けてくださる。ときめく暇もなくわたくしも慌ただしく礼を返して、そのまま殿下のお手をお借りして馬車に乗り込んだ。
窓越しに殿下を少し見下ろす形になって不敬だけれど、これだけは訊いておきたいと口を開く。
「殿下……何か、ご存じなのでしょうか?」
例えば、わたくしが襲われる計画だとか。
例えば、繰り返すわたくしの愚かさ、だとか……
「戻ったら話をしよう。だから無事に帰っておいで」
それは確かに“何か”を知っていらっしゃる口振りで、不安の闇の中に小さな希望が灯る。
「はい、殿下。恙無く終えてご報告申し上げますわ」
動き出した馬車の中、今始まったばかりなのに『早く旅が終わりますように』と強く祈った。
◇◆◇
馬車は六人乗りの大きなもので、そこに侍女と二人きりなのでゆったりとできる。
慰問の旅にぞろぞろと侍女を連れていては民からの心証が悪いので、表立ってわたくしの世話をしてくれるのは彼女一人だ。別の馬車には数人のメイドが乗っているのでそこまで不便は感じない。むしろ側に人が多過ぎると誰も彼もを疑ってかからなければならないので、そういう意味では気も休まる。武器を帯びて馬車を囲む護衛騎士たちが誇りを捨てる可能性には、一応留意しておくけれど。
王都を出るまでの一時間ほど笑顔で手を振り続けてから、その侍女に「朝が早かったので休みたい」と頼めば、片側の座席にクッションを敷き詰め席の間には布を張って目隠しもしてくれた。
「ありがとう。貴女も疲れているでしょうし、休んでいてくれて構わないわ。貴女のぶんのクッションは足りるかしら?」
「お気遣いありがとうございます。同じものを使わせていただくのは畏れ多ございますけれど、お言葉には甘えて休ませていただきますわ。ご用がございましたらお声掛けくださいませ」
侍女は「お休みなさいませ」と頭を下げて布の向こうへ姿を消した。
簡易とはいえ一人の空間を手に入れたわたくしは座席に横たわり、これまでのこととこれからのことに思いを馳せる。街道に出てから速度を上げた馬車の揺れは小さく一定で、重ねたクッションのおかげもあって気に病むほどではない。
殿下は“何か”をご存じのようだった。わたくしを送り出すことを躊躇われ「無事に帰れ」と仰せになったのだから、この道中に危険があると考えるのが自然だろうか。けれど侯爵家の諜報員は何も掴んでいないし、殿下も危険な計画があることを突き止められたのならその旨をきちんと公表なさって慰問の中止を求めてくださるだろう。見送ってくださった時のあのご様子から、さすがに殿下がわたくしの死を願っておいでだとは考えられないし考えたくない。それに道中襲われるとなれば、巫女姫に被害が及ぶ可能性だってあるのだ。以前賊に襲われた時、出発前の巫女姫と殿下の仲は今回とそう変わらなかったけれど、慰問を中止して戻ったわたくしたちを出迎えてくださった殿下は巫女姫の手を両手で握ったまま小さく震えていらした。それから手枷をされたわたくしを見つめて酷く傷付いたようなお顔をなさったのだ。そんな殿下が、巫女姫が危険に晒される可能性を放置なさるとは思えない。
そう考えると、襲撃があるとすれば三日目以降。ただし日時まで露見した計画が成功する確率は低いだろう。殿下がその主犯でいらっしゃらない限り。
すっかり気が滅入ってしまったので、もう一つの可能性について考える。
つまり、この世界が繰り返していることに、殿下が気付いていらっしゃるとしたら。
これまでにも、父や殿下に繰り返しを打ち明けて協力を仰いだことはある。けれど特に殿下には、わたくしの醜い内心や起きたことのすべてをお話しすることはできなかった。
殿下は巫女姫と恋に落ち、わたくしがお諌めしても耳を貸してくださらない。結果国は荒れわたくしは何らかの形で命を落とす。そう表面だけをかいつまんだ説明に、殿下は翡翠の瞳が零れ落ちそうなほどに目を見開いて、けれどしっかりとお約束してくださった。
『私の心はこの国と君と共にある』
身も心も震えるような甘く尊いお言葉だった。
けれど、殿下のお心はやはり巫女姫に傾いたのだ。
『この国と共に、と仰ってくださいましたのに……』
『君は……こんなにも狂おしい想いを抱いたことがあるか?』
『その想いが、国を危うくなさっているのですよ!?』
翡翠は熱に浮かされたように鈍く潤んでいらして、わたくしの言葉など届かなかった。
『……いっそ従伯父上に王位を譲ろうか』
『あの方は“神の妻”です。玉座を手放したところで許されませんわ!』
『神など……』
益々気が滅入ってしまった。目を閉じて、真っ赤になった視界を無理矢理闇に返す。
あの回は本当に苦しくて、何度も部屋に閉じ籠り懐剣を見つめた。それを忍ばせたまま殿下とお会いするほどに思い詰めたけれど、結局刃先を殿下に向けることはできなかった。わたくしにとって殿下は、お支えしお護りするべき愛しい御方で、弑すなんて考えに至るだけで気が狂いそうだった。その刃を自分に向けて逃げる方がずっと楽だったのだ。
殿下が繰り返しに気付かれたのだとしても、またあの時と同じようになるだけかもしれない。それともわたくしがそうであるように、ご自分のお心の移り変わりの歪さまではっきりと覚えておいでなら、未来は変わるのだろうか。
わたくしは馬車が苦手だと仰ったのも、これまで何度も乗車中に襲われたことをご存じなら思い至るのもおかしくない。今回の慰問も何かが起こるかもしれないとただ不安になって、道中を案じてくださったのかもしれない。
希望を持って、いいのだろうか。前のようにはならないとお約束してくださったとして、それを信じていいのだろうか。
嗚呼でも、信じたいのだ。『今度こそ終わる』と。
考えるのに疲れて、僅かに開けたカーテンの隙間から流れていく景色をぼんやりと眺めた。




