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4-3.金色の悪意

 一回お休みしてしまいました。待っていてくださってありがとうございます。


「マリアネラ……どうして……?」


 久方ぶりにお会いする殿下は相変わらず溜め息の出るようなお美しさで、けれどあの頃よりも随分と殿方らしい力強さを増していらっしゃる。その殿下が、翡翠の瞳にわかりやすく様々な感情を乗せてわたくしを見つめていらした。

 驚愕、悲嘆、困惑、そして怒り。殿下がわたくしへそういった感情を向けられること自体は最初の終わりによく似ていて、けれどわたくしの状況は大きく違っている。


 本当に、どうしてこんなことになってしまったのだろう。




 陛下から下知をいただいた後、殿下もわたくしも何事もなかったかのように学園へ通い続け、正式な発表があったのは聖なる夜会の最終夜だった。一夜目に白を一欠片も身に付けなかったわたくしに対し様々な憶測が飛び交っていたけれど、事情を知る者は最後まで口を閉ざしていたから、まさに波乱の年明けとなったわけだ。

 邪推と憐れみと自己犠牲への賛辞を混ぜ合わせたような言葉をいくつも受け取ったはずだけれど、それらは一つも記憶にない。わたくしはただ笑みを浮かべて、そこに立っていただけだから。

 それに人々にとっては国での影響力を失う父とわたくしよりも、殿下の新たな婚約者について言及がなかったことの方が重要だったから。きっとわたくしに対し、心からの言葉を掛けてくれた人などいなかったのだろう。


 空席となった王太子妃の座。いずれ王后として国を支え護る栄光と重責の椅子に、手を伸ばそうとする者を咎める権利はもはやわたくしにない。

 それなのに。

 殿下に群がる有象無象が憎らしくて堪らない。

 それなのに。

 『邪魔してやる』と叫んだところで、わたくしにできることなどもはやありはしない。


 悲しくて、苦しくて、それでも微笑んでいなければ、自分を保っていられなかった。焼け付くような胸の痛みだけは、今もよく覚えている。



 それから僅か一月ほどで、わたくしは戻ることのない旅路に就いた。小さな馬車に最低限の供を付けて。いつどのタイミングで巫女姫と同じ末路を辿るかわからなかったから、その時喪うものはできるだけ少ない方がいいと、せめて豪華な支度をしてくれようとする周囲を笑顔で拒んだ。

 必死に虚勢を張って、馬車の揺れも平気なふりをして。泣いて反対する母も付いてこようとするハンナも振り切って、わたくしは笑ったのだ。


 それなのに、わたくしに死に場所は与えられなかった。





  ◇◆◇





「相も変わらず、死んだような目をしているな」

 その男は、何が面白いのかいつもニヤニヤと笑っている。燃えるような赤い髪とくすんだ金色の瞳はいつかの夕焼けを思い起こさせるから、わたくしはこの男が恐ろしい。そして、とても嫌いだ。

 嫌いだけれど、命を握っている相手を無視することはできない。わたくしは書き物をしていた手を止め、立ち上がっておざなりに礼をとるとすぐさま仕事を再開した。

「まったく、俺にそんな態度をとるのはお前くらいだよ」

 男はわたくしが反応を返さなくとも構わずこちらの領域へずかずかと立ち入ってくる。けれど反応を返せば益々面白がってわたくしを踏みにじる。だから男の指が頬を撫でるのを唇を引き結んでじっと耐えていれば、やがて男は呆れたように鼻で笑うのだ。

「……可愛い奴だ」

 男はくるりと背を向けると、部屋の中央に置かれたソファまで移動してそこへ行儀悪く仰向けに寝転んだ。わたくしは書類が積まれた机から動かない。

 男は肘掛けを枕にして寝転んだまま足を組み、まるで気楽な世間話でもするかのようにわたくしへ毒を注ぎ込む。

「そうそう。王太子殿の訪問が決まったぞ。ご執心と噂の新妻も一緒らしい。一時は冷え込んだ二国間もこれで安泰だな。よかったよかった」

「……それは、ようございました」

「あぁ、お前の尽力あってこそだ」

 わざとらしい一本調子が神経を逆撫でる。それを男には知られたくなくてペンを持つ手に力を込めたけれど、そんな小さな変化を男は見逃してくれない。クスクスと、実に楽しそうな笑い声が白々しい。

「お前は本当に可愛いな。どれだけ取り澄ましたところで心の醜さは変わらないのに、それをまるでわかっていない」

 醜い醜いわたくしの心。そんなもの、自分が一番よくわかっている。思い知っている。だからこれ以上、向き合いたくないのだ。

「しかし王太子殿も薄情なことだ。十三年連れ添った婚約者と別れて二年もしないうちに、他の女に現を抜かしているんだからな」

 そんな話、聞きたくない。心を無にして目の前の書類だけに意識を向けて、流れ込む毒に抗う。けれど嘲笑う男の声はわたくしを絡め捕って、絶望を突きつけてくる。

「どうしてお前では駄目だったんだろうなぁ? ひたすら献身的に国のため婚約者のため今なお身を粉にしているのに、向けられた愛情は薄っぺらな偽物だ。終いには生け贄よろしく放り出されて『これで平和になりました。めでたしめでたし』ときた。誰もお前を顧みてはくれない。どうしてだろうなぁ?」


 ドウシテ、ワタクシダケ……


 違う。貴族の婚姻は政の手段。そこに愛情は必要ない。むしろわたくしは、お慕いする殿下の婚約者になれたのだから幸せだったのだ。それだけで十分なのに、殿下のお心までもを求めるなんて間違っていた。

 間違って、わたくしの欲で多くの命を奪い民を苦しめた。だから責任を取らなければならない。捨て駒でも生け贄でもなく、わたくし自身が決めたのだ。


「可哀想になぁ」

 違う。わたくしは、可哀想なんかじゃ、ない。

「お前の魂は真っ黒だ。いったいどれだけの業を重ねたんだか知らんがな。とても救えたものじゃない」

 ニヤニヤと、くすんだ金色の目を細めて男が笑う。いつの間にか、またわたくしの目の前で。

「……気が散りますわ。邪魔をするならお帰りくださいまし」

「いいや、何度でも言ってやろう。醜く、愚かで、可哀想な、可愛い人。お前の業は深過ぎる」

 口の先まで出そうになった悲鳴を飲み込むと、代わりに男が喉の奥で笑った。





  ◇◆◇





 国境を越えてからというもの、いつ殺されるのかと神経を張り詰めたまま馬車に揺られ続け、にも拘らず生きたまま隣国の王都に辿り着いたわたくしは疲労と混乱の極致にあった。

 好意的に見れば、隣国が報復ではなく友好のためにわたくしを後宮に迎え入れる英断をしたのかもしれない。けれどそれは、わたくしにとって絶望でしかなかった。

 わたくしは死ぬのではなく“本当に”殿下ではない他の男のものになってしまうのだ。

 殿下以外のそれも会ったばかりの男に触れられることは、その人物が媚を売るべき隣国王だとしても耐えられなくて、薄闇に蠢く赤が恐ろしくて、わたくしは初夜の清らかな寝具の上に激しく嘔吐した。祖国を守り罪を償うために隣国までやってきたのに、最後の最後で我が身可愛さに役目を拒んだ。

 その瞬間、わたくしにはマリアネラ・エヴァ・フェリシアーノを名乗る価値も資格もなくなった。そう、認めざるを得なかった。


 けれど隣国王は鼻で笑って言ったのだ。

「吐くほど嫌か。ちょうどいい。俺もお前のような得体の知れないモノを抱きたくはないからな」


「お前の魂は真っ黒だ」と、初めて会ったその夜から男は繰り返し言った。男には“視る力”とやらがあるのだとも。

「どこの国でも王の血には何かしらの“力”があるものだろう? まぁ、自由だの平等だのと言って王の権威を貶め力を廃れさせた国も少なくないがな」

 訝るわたくしに、男はニヤリと笑って続けた。

「お前の魂は普通じゃない。そこらの罪人と比べ物にならないくらいに澱んで真っ黒なんだよ。なぁ、教えてくれ。お前はいったい、どれだけの罪を重ねてきたんだ?」

 くすんだ金色が妖しい熱を帯びるのに反して背筋が凍る。


「あとどのくらいで完全に壊れてしまうだろうな?」


 それは純粋な好奇心のようにすら思えた。だからこそ残酷で、迷いがない。

 そして男はわたくしに命じた。「俺の国のために働け」と。

「お断りいたし──」

「断ればこの場で犯して無礼討ちのうえ、お前の不調法を口実にあちらへ攻め込む。今現在お前は間違いなく俺の面子を潰しているわけだしな」

 終始ニヤニヤと笑っていた男がその笑みを引っ込めると途端に威圧感が増す。暴君である。けれども確かに“王者”であると、否が応でも思い知らされた。

「別に『あちらの機密を洗いざらい吐け』なんぞ言わん。粛清しすぎたせいでうちは純粋に人手不足なんだよ」

 そう言って男はまた楽しそうに笑った。





  ◇◆◇





 隣国王がわたくしに命じたのは福祉と教育分野の統括だった。つまり、わたくしがこれまでに積み上げてきた知識と経験を本当に欲していたのだ。

「あちらが適当な娘を寄越すなら見せしめにするつもりだったが、お前は殺すより生かして使う方が有益だからな」

 動き始めてわかったことは、この国は祖国に比べ何かと行き届いていないことが多い。仕組みはあるのに機能していなかったり、同じ仕事を違う部署が別々にやっていたりするのだ。

 王と教会がそれぞれに権限を持っていることからくる弊害だった。

「やっと親父殿が死んで教会の強欲共を切り捨てられるかと踏んだところへお前まで手に入った。おまけに面白い遊びもできそうだ。笑いが止まらんのも仕方ないだろう」

 そもそもわたくしの記憶では、隣国王は父よりも年嵩の老王だった。その老王が流行り病で亡くなったのは、やはりわたくしが未来を歪めてしまったからだろう。当時二十七才、王太子として若さだけではなく権謀術数も板に付き辣腕を振るっていた男が頂点に立ったことで、この国は更なる強硬路線をとったのだ。

 わたくしが祖国を想って為すことは、どうあっても裏目に出てしまう。


「この国の方は信心深いものだと思っておりました」

「まぁ民はそうだろう。だが教会の中身は腐りきっているし、何をするにも一々迷信だのなんだのと煩くてな。そこでお前の出番だ」

 わたくしはこの国にとって巫女姫を殺したモノの象徴だ。それは勿論事実であるから否定できない。その憎むべき相手が先頭に立って改革を推し進めていくことで、反感は全てわたくしが請け負い王は動きやすくなる。そして教会が噛まない改革が上手くいけば、人々の心も少しずつ教会から遠ざかるだろう。

「権力者は一人でいい」

 それが、男の描いたシナリオだった。

「お前が我が国のために働くことで、民の感情もいくらか歩み寄りに転じるだろう。祖国のためにもなるのだ。悪い話ではなかろう」

 存在価値をなくしたわたくしにとって、それは最後の希望だった。こうしてわたくしは男の前に膝を折ったのだ。





  ◇◆◇





 国の現状に不満を持っていた者は多く、改革は思いの外順調に進んだ。最初は福祉教育に関するものだけだったのが、一つ解決する度に男がまた別の仕事を押し付けてきて、方々から嫌みを言われ何度も命を狙われた。

 それでもわたくしは止まらなかった。この国をよくすることがいつかきっと、殿下の御代を安らかにするのだと、それだけを心の支えにして邁進した。


 気付けば季節は廻り、わたくしの十八の誕生日も間近となった頃。新しい友好条約の締結のため、殿下がご訪問くださる運びとなった。

 わたくしは事務方の実質的なトップとはいえ名目上は王の一側室に過ぎない。表に出ることはないと思っていたのだけれど、男は全ての公式行事への出席を命じた。

 そこで目にしたのは仲睦まじい王太子殿下ご夫妻の姿で。わたくしの代わりに殿下のお隣に立っていたのは、淡い金髪に水色の目をした可愛らしい人だった。



 意味がわからない。だって、その顔は忘れるわけがない巫女姫そのもので。


 ドウシテ貴女ガ生キテイルノ……


 殿下が花嫁を迎えられたことは知っていた。悲しいけれど、それは仕方のないことでわたくしが口を出せることではなかった。

 選ばれたのが他の貴族の娘ではなく、教会出身の少女であることも世情を鑑みれば不自然ではなかった。この国とは逆に、祖国はしばらくの間宗教関係者に幾分かの配慮をする必要があったからだ。


「王太子殿は、奥方とは孤児院の慰問中に出逢われたのだったか?」

「えぇ。子供たちの世話をする彼女に、恥ずかしながら一目惚れしまして」

「やだ王太子様、そんな話しないでください。照れちゃいます」

 幸せそうに、無邪気に笑う巫女姫そっくりの女。

 どうして、貴女がそこに居るの?


 ふと殿下が、他の大臣らと共に並び立つわたくしへ視線を向けられ、昔のように穏やかに微笑みかけてくださった。目の前が真っ赤で、息ができないくらいに苦しくて堪らない。殿下の視線に気付いた王もわたくしを見遣りニヤリと笑う。

「彼女は本当によく働いてくれた。二国間の友情の立役者だ」

 王が心にもない台詞を口にすると、殿下もゆっくりと頷かれた。

「マリアネラのことは、ずっと案じていました。国を離れてなおこうして私たちを繋ぐために尽力してくれた。本当に素晴らしい女性です」

 殿下が褒めてくださっているのに、ちっとも嬉しくない。わたくしはどうしてしまったんだろう。

「奥方の前で他の女を褒めるとは感心しないな。それにあれは俺のものだ。貴殿に名前を呼ぶ権利はもうないはずだが」

「あぁ……これは、失礼……」

 今すぐこの場から消え去ってしまいたい。わたくしはこんな思いをするためにこの地で辛酸を舐め生きてきたわけじゃない。

 こんなことならあの夜、男に逆らって死んでしまえばよかった。



 どうやってその時間をやり過ごしたのか、はっきりとは覚えていない。とにかく必死に、殿下の笑顔を見つめ続けた。

 殿下が笑っていてくだされば、わたくしは何だってできるのだ。そう自分に言い聞かせ、震える唇を懸命に吊り上げた。


 そうしてようやく解放され、ふらふらと自室に引き上げようとしたところへ後ろからパタパタと軽い足音が追ってきた。

「あのっ! マリアネラ、さん?」

 名指しされて無視すれば罪になるだろうか。あちらは王太子妃、わたくしは側室。けれどもうどうにでもなってしまえと、自棄になったわたくしは足を止めなかった。

「マリアネラさんっ!」

 走って前に回り込まれてはどうしようもない。こんな風に王族としてあるまじき振る舞いをするところまでそっくりで嫌になる。

「……これは王太子妃殿下。いかがなさいました?」

 殊更にっこりと微笑んでも彼女にその意図を読む能力はないらしい。緊張していた面持ちが、まるで何もかも許されたかのようにホッとしたものに変わった。

「あの、私、貴女がどんなに素晴らしい方だったかって色んな人から聞かされて。お会いするのを楽しみにしてたんです」

「まぁ、光栄ですこと」

「立派な志を持ってこの国で働いているって聞いて、私とても敵わないなぁって思って。それであの……」

 たどたどしい言葉遣いは己を弱く見せる。それをわかっているのだろうか。こんな娘に王太子妃なんて務まるわけがないのに。

 躊躇うように一度下を向いた水色の瞳が、涙の膜を張ってわたくしに向けられた。

「王太子様のこと、まだ好きなんですか?」

「……お答えして、何の意味があるのでしょう?」

「それは……私の、気持ちの問題と言うか……」

 怒りがどろどろと溜まっていく。わたくしが未だに殿下を“好き”だとして、何が悪いの?

「マリアネラさんは、この国の陛下のご側室なんですよね? だったら──キャアッ!!」

 それ以上は許せなかった。わたくしがどんな思いであの男の口撃に耐えていたかも知らないくせに。娘を突き飛ばし髪を纏めていた簪を取って振り翳したところで、王太子妃を捜していたのだろう、わたくしたちを見つけた侍女が大声で人を呼んだ。



 乱れた長い髪が鎖のように絡み付く。そんなわたくしを見つめ、殿下は妃をご自分の背に庇われた。

「マリアネラ……どうして……?」

 そんなこと、わたくしが訊きたい。どうしてこんなにも、世界はわたくしを裏切るのだろう。

 願ったのはただ一つ。

 殿下の御代が安らかでありますよう。

 それは確かに叶うのかもしれない。両国は平和の道へ進みだした。けれど、殿下のお隣に立つのが巫女姫だなんて。

 わたくしの“好き”は報われないのに。彼女はわたくしが殿下に付けた傷さえも癒して、なかったことにして。二人で手を取り合って安らかな御代を作っていくのだ。

 そんなの許さない。許せるわけがない。


 『邪魔してやる』


「……殿下。どうか今ここでわたくしを殺してくださいませ」

「何を言う!?」

「でなければわたくしが妃殿下を殺しますわ」

 にっこりと、我ながらとても上手に笑えていると思う。そうでなければあの殿下が絶望を表情に出されるはずがない。

「陛下。名ばかりとはいえ側室が殺されれば、それなりの報復をしてくださいますでしょう?」

 実に楽しそうに傍観していた王に話を向ければ、いつも通りの厭らしい笑みを返してきた。

「さぁ、殿下」

 両手を差し出すように広げて、一歩殿下に近付く。殿下が麗しいお顔を苦悶に染められた。とても酷いことをしているのに、あるまじき振る舞いだとわかっているのに、殿下のお心を乱しているのだという実感は歪な歓びでしかない。

 一度はわたくしが奪った“好き”の気持ち。他の誰かとの間に見つけられるのなら、どうしようもないと諦められた。けれど、その娘だけは我慢できない。

 その手を取ると仰るのなら、わたくしが命を懸けてお膳立てした平和ごと切り捨てて。

「冷静になってくれ、マリアネラ。妃が何か失礼をしたのなら私から謝罪する。君を殺すだなんて、そんなことできるわけがないだろう!」

「王太子殿下ともあろうお方が、軽々しく謝罪などなさってはいけませんわ」

 殿下の背に庇われた愛らしい真っ青な顔の娘に微笑みかける。

 別に今更、わたくしを選んでいただこうだなんて烏滸がましい考えは持っていない。ただせめて、お二人の間に癒えない傷として残りたいのだ。貴方たちの幸せはわたくしの死の上にあるのだと、手を取り合う度に苛まれるといい。

 わたくしにできることなんて、もうそのくらいしかないのだから。


 殿下が眉を寄せ、一度閉じた目をゆっくりと開かれた。悲しみに揺れる翡翠が、今なお愛しい。

 躊躇う近衛から剣を奪い取り、けれど鞘からは抜いてくださらない。わたくしはただ、じっと待つ。殿下がもたらしてくださるのなら、死すらも穏やかな休息になると信じて。

 それなのに……

 急に体の真ん中が燃えるように熱くなって、息ができなくて、足に力が入らない。殿下がわたくしの名を叫んでいらっしゃるのはわかるのに、何も聴こえなくて。膝から崩れ落ちながらも伸ばした手は、強い力で引き戻された。

「側室ごときが王太子ご夫妻にとんだ失礼を。これで手打ちとしていただけるかな?」

「あ……」

 男が腕に力を込める度、痛くて苦しくて堪らない。熱くて、なのに寒くて、悲しみが心を覆い尽くしていく。


「滑稽だな」

 楽しそうな男の声だけは耳に滑り込んでくる。欲しいのはそんなものじゃないのに。

「あぁ、また黒が深まった。可哀想になぁ」

 反論したいのに、痛みと熱と寒さでまともに考えられない。殿下が、妃や近衛に追い立てられるようにして去っていく。それがとても寂しい。

「真っ黒に煌めいて、とても綺麗だ」

「……あ、なた……なんかに……」

 ニヤニヤと笑う男の顔すらよく見えない。

「まったく、最期までつれない奴だ。俺はお前の愚かさも醜さも気に入っていたんだぞ」

 そんなもの、いらない。ただ、願うのは、殿下の……

「心配するな。王太子殿は俺たちがしっかりと導いて差し上げよう」


 破滅へ──


 くすんだ金色は三日月のようで、血に塗れた黒髪に寄せた唇はやっぱり愉しげに歪んでいた。




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