4-2.いとしい翡翠
溺れ死んだ巫女姫を悼むように、雨は降り続けた。
麦は頭を垂れず、家畜は弱り、小さな村は土砂に押し流された。こんなこと、今までにはなかったのに。わたくしが彼女の死を願ったばかりに、より多くの消えずともよい命が喪われてしまった。
周辺国、特に隣国との関係は芳しくない。表向きは事故の説明に納得していても、怒りと悲しみは簡単に消えない。少なくない数の学生が時勢を理由に休学し各々の国へ帰り始めているのが現状だ。
わたくしは、また間違えてしまったのだろうか。
この国が乱れることのないようにと願ったはずなのに。どうして……
前回までよりも更に質素にしつらえた慰問用ドレスに身を包んだまま、わたくしは馬車に揺られていた。もうじき王都を囲む壮大な街壁が見えてくるだろう。
けれど今、車窓の向こうを流れていく景色は暗く、空には鉛色の雲が重く垂れ込めている。収穫を祝うこともなく、より厳しい冬をただ待つしかない悲壮感だけが漂っていた。
これが、わたくしの願いの結果だと言うのか。巫女姫はそれほどまで、神に愛されていたのだろうか。だったら何故、その神から逃げよりにもよって殿下と結ばれようだなんて考えを持ったのか。
いくら考えても答えは出ない。だって巫女姫は、いなくなってしまったから。
長雨で道が荒れているせいか、車体は時折大きく揺れる。その度に気分が悪くなっていって、気を紛らせようと外を見ているのに物悲しさばかりが目に入ってて心は晴れない。
堪らないと目を瞑れば、出向いた先々で会った痩せた子供たちの姿が脳裏に甦る。
固く小さなパンを分けあいながら、それでも明るく笑っていた最も弱き民。わたくしは知っている。子供の数が、減っていたこと。あの子たちの頬は、もっとふっくらとしていたこと。
わたくしがもう一度巫女姫と対峙する強さを持っていたら、あの子たちに辛い思いをさせずに済んだのに。嗚呼でも、これまでのわたくしが死んだ後の世界でも、混乱の末に似たような道を辿っているのかもしれない。
だとしたら、わたくしのしていることに意味はあるのだろうか。
今、王都に巫女姫はいない。わたくしが留守の間に問題が起きているなんてことはないはずだ。それなのに、どうして胸騒ぎがするのだろう。
瞬きをして祈るような気持ちで空を見上げても、明るい水色はどこにも見つけられなかった。
◇◆◇
王城に戻ると部屋をお借りしてドレスを着替える。これから陛下へ拝謁し、全ての務めを恙無く終えたことをご報告申し上げなければならないのだ。陛下はご多忙でいらっしゃるから、決められた時間に遅れるわけにはいかない。当然のんびりと疲れを癒すような暇はないので、顔色を誤魔化すよう念入りに化粧をしてもらった。
ちなみに詳細な報告は同行した文官が書面に起こしわたくしも目を通した上で提出する。だから陛下の謁見を賜るものの、簡単に言えば帰還のご挨拶をするだけなのだ。
そのはずなのに。通されたのは謁見の間ではなく、陛下の執務室で。父と殿下、宰相閣下までが揃った重苦しい雰囲気に、わたくしは深々と礼をとることで強張った表情を隠した。
「よい、マリアネラ嬢。面を上げよ」
「はい、陛下」
顔を上げ、勧められるまま父の隣に腰を下ろす。いったい何があってこんな事態になったのか、心当たりはあまりにも恐ろしくて考えたくない。とにかく平静を装うことだけを考えて、わたくしは引き結んだ唇を自然な美しい角度まで持ち上げた。
「……さて。まずは孤児院慰問、大儀であった」
「勿体ないお言葉でございます」
「地方はどうであった?」
殿下の美しいお顔はどちらかと言えば王后陛下の面差しを継いでいらっしゃるのだけれど、瞳の色は父君譲りだ。つまり、わたくしを射抜くような陛下の瞳は、底の見えない翡翠色。
「はい……」
殿下のように何もかもを隠して凪いでいるのではない。様々な思惑を敢えてちらちらと覗かせて、けれどそれらが折り重なっていて読み取れない。遥かな高みからわたくしを見下ろしていらっしゃるのだと、身が竦む。
「……民は疲弊しながらも気丈に耐えておりました。けれど、冬を越せぬ者も少なくないかと……」
陛下は一つ頷かれて、お疲れの色を滲ませたお顔を片手で覆い溜め息を吐かれた。もうずっとお心を痛めておいでなのだろう。
「マリアネラ嬢。一つ、頼まれてはくれぬか?」
「何なりと、陛下」
「……王太子との婚約を解消し、隣国王の後宮に入ってほしい」
目眩がする。
それなのにわたくしの脳は陛下のお言葉の意味を正確に理解しようと努めていた。
長雨だけなら、ここまでの打撃にはなっていない。隣国とそれに同調する諸国からの報復的経済封鎖が状況を悪化させているのだ。解消の手立ては大きく二つ。報復に参加していない他の国との繋がりを強固にするか、隣国との関係を改善するか、だ。
そして陛下は、否、この国は後者を選択した。殿下も父も宰相閣下も反応しないのだから、これは決定事項なのだ。選択は妥当。隣国とこれ以上拗れれば、最悪戦争にだって発展しかねないのだから。既にあちらとも交渉は進んでいるのだろう。
だから、わたくしの答えは決まっている。
「陛下のご命令とあらば、謹んで」
青褪めた顔を化粧で誤魔化し、必死に微笑む。心臓がズキズキと嫌な音を立てて血を流しているけれど、自業自得だ。
「そなたの挺身に感謝する。これほどの娘を手放さねばならぬとは、本当に惜しいことだ……」
「とんでもないことでございます。本来なら父とのお話と書類一つで片付きますのに、陛下御自ら下知くださいますこと、身に過ぎたる光栄でございますわ」
頭の中は真っ白か真っ赤かもしかすると真っ暗で、とにかく何も考えられない気がするのに、口からはするすると言葉が出ていく。
陛下は翡翠の目をすっと細められて、それから父に向かって「許せ」と短く仰せになった。父もわたくしと同じように陛下のお心遣いに感謝を述べて、御前を辞する挨拶で纏めた。
◇◆◇
「侯爵!」
美術品で飾られた長い廊下を、父の背だけをぼんやりと見つめながらそのまま歩いていきたかった。足を止めて振り返ってしまったら、もう動けない気がしたから。
けれど父は既に振り向いて殿下に礼をとっており、わたくしも気付けばそれに倣っていた。
「マリアネラと二人で、話がしたい」
それは、前回はわたくしが殿下にお願いしたことだった。嬉しいのか、悲しいのか、よくわからない。
殿下のお部屋に入るのはいつぶりだろう。二回目の時に巫女姫への嫌がらせのことでお話をしたのは、私室ではなく殿下の執務室だったから。
そうだ、三年前の春休みの終わりに「成人してしまったら気安く二人きりにはなれないから」と、お茶に招待してくださったのだ。わたくしはその数日前にやっと十二になって、差が縮まったと喜んでも殿下はそこから二月と経たないうちにまた大人になってしまわれるし、それが成年ともなれば益々置いていかれる気がして、誕生会でも微笑みの裏で浮かない顔をしていた覚えがある。そうしたら、会にはおいでにならなかった殿下がお手紙をくださったのだった。
甘く、優しい思い出だ。もうずっと遠い記憶のような気がするのは、繰り返しているせいだろう。あの頃はこんな未来があるなんて、露ほども思わなかった。穏やかでほんの少し苦い幸せがずっと続くのだと、信じて疑わなかった。
「ここで話をするのは久しぶりだね」
「はい、殿下。以前お伺いしたのは三年半ほど前ですわ」
「あぁ、そうだ。私のお姫様が誕生会をすっぽかした婚約者にご立腹だと聞いて、慌ててお茶を支度したんだった」
「まぁ、いったいどなたが告げ口なさったのでしょう? わたくしずっと不思議でしたの」
楽しそうに笑みをお作りになるのに、翡翠の目はちっとも笑っていらっしゃらない。以前はこのお姿が殿下だと思っていたから、仕方ないと割り切れて悲しくはなかった。
けれど、わたくしは知っている。心から幸せそうに笑う殿下のお顔を。だから殿下が微笑まれる度、苦しくて悲しくて、微笑みを返すのだ。
「座って。お茶を淹れるよ」
「いけませんわ、殿下のお手を煩わせるなんて」
「……やり取りも同じだ」
「あ……」
折よく入ってきた侍女には茶器の支度だけさせて退室させポットを取り合ったのも、確かに覚えている。
あの頃と同じく、譲らなかったのはわたくしだ。殿下のために、丁寧に丁寧に淹れたお茶もやはり変わらず綺麗な飴色。淹れ方は上達しているから、味は少し変わるだろうか。
「うん、美味しい」
「……ありがとう、ございます」
変わらないのに、変わってしまった。
「私たちは、変わらないと思っていた……」
心の声が表に出てしまったのかと思って、飴色の水面から目を上げた。その先に、テーブルを挟んで座っていらっしゃる殿下がわたくしを真っ直ぐ見つめていらして、カップを置いて手を伸ばしてこられた。どうしたらいいかわからなくて、視線が泳ぐ。
「マリアネラ」
反射的に返事をしようと開きかけた唇に、殿下の指先が触れる。あまりのことに、頭のてっぺんにまで血が上ってしまいそうだ。
慌てて、けれど失礼にならないようそっと顔を背けて「お戯れを」と言うのが精一杯だった。
「すまない……」と、殿下の指先が引いていく。名残惜しいと思ってしまう自分が浅ましくて恥ずかしい。
「君はもう、私のものでなくなるんだね」
お声は、寂しそうで。けれど翡翠に悲しみが見えないことを突き付けられるのが嫌で、わたくしは思わず目を瞑った。
「こんなことになるなら、統一四百年なんて待たずに結婚していればよかった」
殿下がぽつりと溢されたのは、二度目の最期と同じ言葉だった。ならばわたくしはやはり、死を覚悟しなければならないのだろう。
「……手放すのが惜しいと、思っていただけるだけで身に余る光栄ですわ」
「当然だろう! 君ほど王后に相応しい人はいない。君と二人で国を守っていくと思っていたんだから」
気付けば殿下はわたくしの足下に跪いたうえにわたくしの両手を握ってくださっていて、こんな上下が逆転したような振る舞いは許されないと思うのに、動けない。頭の中がぐちゃぐちゃで、けれどこのまま時が止まってしまえばいいのにと、甘えた考えが過った。
握ってくださっている両手に、わたくしも少し力を込める。
「……殿下。だからこそわたくしは、国を守るために行くのです」
そして、己の犯した罪を償うために。
「どれだけ危険なことか、わかっているのかい?」
「はい、殿下」
これは謂わば、両成敗での手打ちだ。我が国としては巫女姫の死はあくまでも事故で、謝罪も弔問金も必要以上に出す気はない。むしろ根拠のない経済封鎖に憤っている。対して隣国はまだ深い恨みの中にいる。けれど両国とも、この問題を戦争にまで発展させるのは悪手だという認識では一致しているのだろう。
現在の緊張状態を払拭するには、政略結婚が最も効率的だ。姻戚となればこれ以上のいがみ合いは表に出せない。むしろ、そういうものが解決したからこそ婚姻を結んだのだと周囲に示すことができる。
そして、もし花嫁が嫁いだ早々に死去したとしても、それはあくまでも不幸な事故である。双方の国が“最も大切な姫”を喪うことで、痛み分けとなるのだ。
「君を喪うことが私に、我が国にとってどれだけの痛手か……」
「……勿体ないお言葉でございますわ」
手を軽く引いて、そろそろ殿下にもソファに座っていただくよう促す。元の席に戻られるかと思ったら、わたくしの隣に腰を下ろされた。殿下のいらっしゃる側だけがなんだか熱くて、くらくらする。
「マリアネラ」と、また名前を呼んでいただいて、ぎこちなく視線を動かす。
殿下の瞳はやはり綺麗な翡翠色で、けれどその奥に息苦しくなるほどの熱と苦悩が見てとれた。初めて、殿下のお心が、わたくしに向いていた。
嬉しくて、悲しくて、どうしようもないほどに胸が高鳴る。
どうして今更……どうして、もっと早く──
考えたって、仕方ない。殿下とわたくしは、もう二度と重ならないのだ。
そっと、殿下の唇に指先で触れる。何か仰ろうと開きかけていた唇は震えて、固く引き結ばれた。
「どうか……もう何も仰らないでくださいませ」
殿下の瞳に映るわたくしは、ちゃんと微笑んでいる。よかった。殿下のお心に残れるのなら、わたくしらしく淑女の笑みを浮かべていたい。だってそれは、殿下のお隣にいるために身に付けたのだから。
「お心、大変嬉しくありがたく存じます。わたくしはこの上ない果報者ですわ」
一度目。殿下は死に逝くわたくしを傍目に、巫女姫をお選びになった。
二度目。手を取り合うお二人を邪魔したわたくしに、慰めの言葉と共に死の杯を与えてくださった。
三度目は、思い出したくもない。一度はわたくしを選んで守ってくださって、それなのに……
それらに比べたら、今回は十分に出来過ぎている。元を辿ればわたくしの恐ろしい願いから始まった混乱なのだから、償いはわたくしがしなければならないに決まっているのだ。
これでいい。
巫女姫はおらず、殿下はこの国を守ってくださる。わたくしの命一つでこれまでの犠牲に報いれるなんて傲りはしないけれど、このまま知らないふりをするよりは死で以て今後の憂いを減らす方がいい。
たぶん、陛下もご存じだから、他の適当な令嬢を宛がわずわたくしを送り出してくださるのだ。
嗚呼、それなのに……
わかっているのに、この温もりを離したくない。こんな我儘は許されない。
わたくしはフェリシアーノの娘で、王家と国家の御為に最善を尽くさなければならないのに。わたくしはどうしようもなく、ただの娘だ。
やっと手に入れたこの方を、失いたくない。
誰かが、たぶん父が、扉を叩く。これ以上は引き延ばせない。
わたくしはそっと殿下の胸を押し返し、立ち上がった。扉の前まで殿下がエスコートしてくださる。見上げた殿下の瞳はもうすっかりいつも通り、全てを圧し隠して凪いだ翡翠色。
繋いだ手は離し難くて、けれど気力を振り絞って膝を曲げ腰を落として、一番美しく見えるように礼をとった。
「……殿下の御代が、安らかでありますよう」
この願いだけは、揺るがない。
「君は、それでいいの?」
「はい、殿下」
「そう……いい子だね」
ふわりと笑みを浮かべられた殿下は消えてしまいそうなくらいに儚くて、息ができないくらいに苦しくて嬉しかった。
ごめんなさい。
愛しています。
貴方と一緒にいたかっただけなの。
罪も罰もわたくしが全部背負うから。どうかその心に、消えない傷痕を。
わたくしは最後まで微笑んだまま、父に連れられ王城を下がった。