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1.はじまりの赤

 耳鳴りがする。

 大好きな声が、よく聴こえない。


 視界が霞む。

 大好きな顔が、苦しそうに歪んで見える。


 お願い……そんな顔、しないで。そんな酷いこと、言わないで。


『君には失望したよ。未来の王妃に相応しいのは君だと思って、十分に尊重してきたのに……』


 足が震えて、立っていられない。


『マリアネラ・エヴァ・フェリシアーノ。君との婚約を、解消する』


 耳鳴りは、一番聴きたくなかった言葉だけは邪魔せず綺麗に聴かせてくれた。

 覚悟はしていた。それでも世界が足元から崩れていくような気がして、わたくしは思わずよろめいて地面に膝をついた。


『それから残念だが、私どころか彼女にまで刃を向けた罪は重い』


 それは違う。けれど、状況だけならそう見えてしまうのはわかっていた。

 わたくしは少し離れたところに弾き飛ばされた短剣と、真っ赤な自分の両手、それから愛しい人の綺麗な顔に走る一筋の赤を順に見つめて、項垂れた。



 大好きな人。

 向けてくださる笑顔はいつも穏やかに凪いでいて、翡翠の瞳にわたくしは映っていなかったけれど。

 物心ついた時には、わたくしはこの方を当然のごとくお慕いしていた。


 聡明で、努力家で、不正を嫌い、国と民を愛する、未来の賢王。

 どこまでもまっすぐですべての人を平等に愛していらっしゃる王太子殿下を、隣でお支えしていくのがわたくしの務めだと思っていた。まだ婚約中の仲でありながら社交界をして『理想の仮面夫婦』と称されることすら誇らしかった。

 わたくしと殿下の婚約は国のための契約。そこに必要なのは愛情ではなく、誠意と為政者たる覚悟。わたくしも殿下も互いにそれをしっかりと示し、いずれ国の頂点に立つ夫婦として立派な仮面ぶりだと、既に認められていたのだ。

 だから、わたくしの秘めた恋心に対し殿下のお心が凪いだままでも、なんでもないかのように微笑んでいられた。


 殿下の“特別”にはなれなくても、共に歩むことはできると、それだけで十分だと、思っていたのに……



『マリアネラ様……あの、私……貴女を追い詰めるつもりなんて……』


 こんな時でさえも可愛らしい声。

 のろのろと顔を上げると嫌でも目に入る、愛しい彼に守られて震えている“特別”な少女。

 誰にでも平等だった王太子殿下が唯一執着なさった、決して結ばれない隣国の巫女姫。


 神の妻であるため生涯を未婚で過ごすという不思議なしきたりに縛られた彼女は、見聞を広めるために我が国に留学し、殿下と恋に落ちた。



『……そうですわね。巫女姫様が追い詰めるおつもりだったのは、この国そのものですものね』


『なっ!? 何を、仰っているのか……わかりません』


 巫女姫の明るい水色の瞳が不自然に揺れる。少しは後ろめたい気持ちがあったのかと、乾いた笑いが込み上げてきた。



 淡く幼い恋心なら、まだ我慢できた。


 たとえそれが刷り込みでも、報われなくても、わたくしは殿下に恋をして、苦くても甘いその喜びを知っていた。

 同じ少女として、彼女だけがそれを許されないのは不憫だと思った。

 心に淡い想い出の花を抱くことくらいは彼女の夫だという神も許してくださるだろうと、その想い出が彼女の人生を支えるならと、わたくしは二人の仲に対して何も言わなかった。


 それに、割って入ったところで、わたくしが殿下の“特別”に成り代われるとは思わなかったから。



『マリアネラ……どういう意味だ?』


『王太子殿下。これは嫉妬深い元婚約者ではなく、国を憂う、臣下の言葉としてお聴きくださいませ』


『……申してみよ』


 真剣な表情で耳を傾けてくださる殿下。

 そんな貴方だから、愛しくて、苦しい。


 殿下は、巫女姫に恋をしてもそれが叶わないものだと理解して自制していらした。けれど意識しないように努めるのは、意識することと同義。

 わたくしには決して向けてくださらなかった熱のこもった目で巫女姫の姿を追っていらしたこと。夜会で巫女姫と踊る時の蕩けるような笑顔、力の籠った指先、珍しくステップを間違えられたこと。

 そんな殿下に、わたくしは何も言えなかった。

 殿下はわたくしにも微笑みかけてくださるし、夜会でもエスコートして最初に踊ってくださる。だから、何も言えなかった。

 “好き”という気持ちはどうしようもないことを、わたくしも痛いほど知っているから。


 けれど、殿下ご自身が一番よくわかっていらっしゃる残酷な現実を、わたくしは言葉にして突き付ける。


『神の妻を誘惑し不義を為したとなれば、隣国は勿論他国からも非難されることはおわかりでしょう。国際社会からの孤立は、破滅と同義ですわ』


 息をするのも辛いのに、言葉は驚くほどするすると口を出た。

 そして殿下は、それまでの困惑や失意に替えて初めてわたくしに対して怒りを向けられた。いつも穏やかな光を湛えていらした翡翠色が鋭い刃となって、わたくしの心臓を穿つ。


『私と彼女の間に疚しいことなどない!』


 語気を強めて仰る殿下を否定するように緩く首を振って、その背に隠れて立つ巫女姫を見つめた。

 そう。

 殿下はずっと耐えていらした。二人の未来は重ならないと、叶えてはいけない恋だと、ギリギリの距離を保ち続けていらした。

 その忍耐。まさに殿下は成人君子でいらっしゃる。


 それなのに、巫女姫は領分を越えようとした。

 一国の王太子と巫女姫の醜聞が周囲にどれだけの影響を及ぼすか、わからないはずはないのに。許されない想いを遂げようとした。


『……例えば、遠乗りから帰って汗を流そうと向かわれた湯殿に何故か巫女姫様がいらして狼狽した挙げ句濡れた床で滑って妙な体勢になってしまったとして』


『……!』


『例えば、夜会でいつもよりお酒を召されて夜風に当たっていらしたら同じく酩酊なさった巫女姫様が近付いていらして何故か制止も聞かずしなだれかかって眠ってしまわれたとして』


『……!!』


『例えば、ご寝所に妙な香が焚かれお辛い思いをなさっているところへ何故か巫女姫様が訪ねていらしたとして』


『……っ!!!』


 知ったのは、偶然。

 それでも殿下は己を律することを貫かれたのだから、本当はわたくしが口を挟むことではなかったのかもしれない。けれど、耐えきれなかったのだ。


 湯殿の件は、巫女姫付きの侍女に注意を促した。巫女姫の身に何かあれば真っ先に責めを負うのは彼女たちなのだからと、この時は本気で心配したから。

 深酒の件は、巫女姫に直接。淑女としてあるまじき振る舞いであると、貴女は“巫女姫”なのだと、真摯に諭した。

 巫女姫が水色の瞳を潤ませて殊勝に頷いたから、嫉妬を露に怒鳴り付けたりしなくてよかったと内心ホッとしたものだ。


 そして、寝所の件の後、すべてが不慮の事故ではなく仕組まれてのことだったと知った。

 許せなかった。



『巫女姫様はずっと、“既成事実”をお望みだったのですよ』


 彼女を縛るしきたりは、確かに理不尽だ。

 けれどその檻から脱け出すために人の心を弄びあまつさえ強引に関係を結ぼうだなんて、許されるはずがない。しかもそれによって生じる軋轢は、世界をも揺るがしてしまうのに。



 お願いだから、殿下とこの国の未来を貴女の都合で台無しにしないで。



 わたくしは自分の命を懸けて、巫女姫に訴えた。

 殿下とこの国が「神から妻を奪った冒涜者」と蔑まれ攻撃されるより、わたくし一人が「巫女姫に嫉妬した愚か者」として断罪される方がマシだから。

 わたくしが“ありもしない”二人の仲を疑って嫉妬し、巫女姫は傷付いて自国へ帰り、この国はわたくしを処分してケジメをつける。その筋書きでいいから、と。


 これは本物の嫉妬ではなく、国を思ってのことなのだと、わたくしは巫女姫の前で自分の首筋に短剣を添えた。わたくしが本気だということと、自分のしていることの重さをわかってもらうために。

 もしくは、自分自身にそう言い聞かせるために。


 確かにその点は、迂闊で短慮だったと思う。わたくしはやはり、冷静な考えができない程度には追い詰められていたのだろう。



 『……わかったから、剣を下ろして』と、巫女姫はわたくしに近付いて、驚くほどの早さでわたくしの手から短剣を奪った。

 優しげな水色の瞳が見たことがないくらいに冷たくて、胸の辺りがカッと熱くなって、痛くて苦しくて。両手で押さえても、ドクドクと熱くぬめった何かが溢れて、息の仕方さえわからなくなった。



 『邪魔しないで』と。

 彼女は言い捨ててから悲鳴を上げた。まるで自分が襲われたかのように。


 『邪魔してやる』と。

 だから思った。加害者に見せかけるため返して持たされた短剣を振り上げたところへ、殿下が駆け付けていらした。



 どこにそんな力があったのだろう。殿下と揉み合いになっても、わたくしは握り締めた短剣を易々とは手放さなかった。

 そのせいで殿下の綺麗なお顔に傷まで付けてしまったのだ。

 わたくしが殿下に刃を向ける日がくるなんて、考えたこともなかったのに。


 殿下の背後で、巫女姫は驚愕していた。

 同じように揉み合ったという体で、彼女はわたくしに致命傷を負わせたのだから。それにはわたくし自身も驚いていた。

 人間、死の間際には信じられないような力を発揮するらしい。




『……本当、なのか?』


 殿下の声が震えていらっしゃる。

 わたくしは深く頷いて、咳き込んだ。ぼたぼたと赤が落ちるにつれて、体から力が抜けていく。

 わたくしにはもう何もできないけれど、真実を知った殿下はきっともう惑わされないだろう。巫女姫を遠ざけ、この国を守ってくださるはずだ。


 だから、大丈夫。



『王太子様! 私はただ』


『君は私と結ばれたいと……本気で思ってくれていたのか!?』


『えっ!? えぇ……はい! 勿論、心からお慕いしています!』


『だったら……だったら私も、もう迷わない! 世界中を敵に回しても、君を愛している!』


『あぁ……王太子様! 嬉しいっ!』



 ねぇ……何を仰っているの?


 貴方たちは、結ばれてはいけないのに。

 どうして幸せそうに抱き合っているの?


 白銀の髪に翡翠の瞳。淡い黄金に明るい水色。

 物語の恋人たちのように光り輝く、お似合いの組み合わせ。

 あんまり苦しくて、目を逸らすことすらできない。


 “好き”の気持ちはどうしようもない。

 それでも殿下、貴方は“王太子”としての立場を理解していらしたじゃない。

 巫女姫、貴女は神と添い遂げるからこそ“巫女姫”と呼ばれるんじゃない。


 なのに、どうして?


 わたくしの“好き”は報われないのに。

 どうして貴方たちだけが“好き”を貫くの?




 国を捨てて。

 神を捨てて。




 裏切り者。裏切り者。裏切り者。裏切り者。裏切り者。裏切り者。裏切り者。




 『邪魔してやる』




 それを最期に、わたくしの意識は、真っ赤な闇に沈んだ。





  ◇◆◇





 ゆっくりと目を開ける。

 たったそれだけのことが酷く億劫で、暴力的な光の洪水に視界は真っ白のままぐるぐると回った。気持ちが悪くて思わず呻いたけれど、その声は驚くほど掠れていた。


「まぁっ! お嬢様、気が付かれましたのね。あぁ、よかった!」

「……ハン、ナ?」

「はい、ハンナでございますよ。本当に心配いたしました。あ! すぐにお水をお持ちしますわね。それからお医者様! 旦那様も奥様もそれはそれはご心痛のご様子でしたのよ」

 ハンナはそばかすだらけな顔でくるくると表情を変えて怒濤のように話す。ただでさえ賑やかなメイドの声は興奮ぎみで、いつも以上にうわずっていた。

「今日は、何月何日?」

「五月二十二日ですわ。お嬢様ったら、一週間も眠っていらしたんですよ」

「一週間……」

 それは、おかしい。

 わたくしが巫女姫に帰国を直訴し返り討ちにあったのは、二月の十五日だった。三ヶ月もずれている。

 わたくしの戸惑いには気付かず、ハンナはつらつらと話し続ける。

「本当にようございました。週末の歓迎式典にもなんとか出席できそうですね」

「……歓迎、式典?」

 ハンナが顔色を変えた。

「お嬢様、もしかして記憶が……? あぁ、どうしましょう!」

「ちょっと、ハンナ」

「無理もないですわ! あんな高熱でしたもの。すぐにお医者様を! あぁっ、お水もすぐに!」

 ハンナは一人で大騒ぎして、ばたばたと部屋を出ていった。


 取り残されたわたくしはぼんやりと天蓋の薄布が風に揺れるのを眺めた。

 何がどうなれば三ヶ月も日にちがずれてしまうのか、よくわからない。ハンナの勘違いなのだろうか。

 ただ“五月の週末の歓迎式典”といえば、一つだけ心当たりがあった。

 けれどそれは、約一年前のスケジュールだ。


 それから大慌てのハンナに急かされてやってきた医者が診察をしてくれて、「体力の消耗はあるが他に問題はない」と太鼓判を捺してくれた。

 わたくしの頭はおかしくないし、日付にも間違いはない。そうなると、あり得ない事実を認めるしかなかった。


 わたくしは、約九ヶ月前に戻ってきたのだ。


 あの日わたくしの意識は真っ赤な闇に沈んだのだけれど、天に召されることなく時を遡った。

 人間、死の間際には信じられないような力を発揮するらしい。

 さぁそれなら、道は決まった。わたくしの為すべきことはただ一つ。



 『邪魔してやる』



 一国の王太子と巫女姫の禁断の恋なんて。そんなもの、絶対にあってはいけないのだ。

 近付くことも、仄かな憧れを抱くことすらも許さない。殿下は誰に対しても平等で、巫女姫は神の妻らしく貞淑にしていなければならないと決まっている。


 この国のため、そしてわたくし自身のために。




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