赤と黒の追憶
鬱展開注意ですが、ハッピーエンドです。
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世界は真っ赤に染まっていた。
窓から差し込む夕陽、いたる所に飛び散る鮮血。
夢のように美しいと人々が褒め称えた王城の中は、今や戦場独特の悪臭に満ちている。血の匂い、肉や脂の焦げる匂い、撒き散らされた臓腑の生臭い匂い、死に際に垂れ流された体液の匂い。火薬と木材が燃える匂いに混じって、それら『死臭』としか言いようがないものが濃く漂う中を、一人の娘が駆け抜けていく。細身の体を銀の鎧で包み、血の気の引いた顔に悲痛な表情を浮かべた彼女は、迷うことなく塔の先端を目指していた。
上へ、上へ。塔の最上階へ。
彼は必ずそこにいる。
遥か遠くを見渡せるあの場所。誰よりもこの国と民を愛し憂えた男は、昔からあの場所を好んでいた。
だからきっとあそこにいる。
息を切らし、疲れてふらつく体を叱咤しながら、彼女は長い階段を登りきった。
塔の最上階は屋根を支える円柱があるのみの吹きさらしだ。昔は物見を兼ねていたようだが、今では全く使われていない。こんなところへやって来るのは、ほんの一握りの酔狂者だけだ。
荒い息を整える間もなく顔を上げれば、視界に沈みかけた太陽が入り、眩しさに眩暈がした。
平衡感覚を失ったがかろうじて踏みとどまった彼女の周りを、焦げ臭い風が駆け抜けて行った。
「よお。来たか」
円柱の一つに寄りかかっていた黒い影が、ゆっくりと振り返った。
まるで何事もなかったかのような暢気な声音に、彼女はぎりっと奥歯を鳴らした。
「叔父上!」
吐き捨てるように、男を呼んだ。苦しい息の下、それだけ言うのがやっとだった。
どうしてこんな事をしたのか。
どうして。
どうして。
どうして!!
問い詰めたかった。
ガチャリと鎧を鳴らしながら、彼女は男に一歩ずつ近づいて行く。
ふらり、ふらりと覚束ない足取りで、しかし燃えるような瞳で男を見据えながら真っ直ぐに向かう。対する男はただじっと彼女が傍に来るのを待っている。
「お前が来るのはもう少し後だと思ってたんだがなぁ」
意外と早かったな。そう言って笑う男の顔は血と煤と泥に汚れ、隠し切れない疲労の色が滲んでいた。
そして、ゾッとするほど夥しい血に濡れていた。この男が剣で他人に後れをとることなどない。とすれば、体を濡らすのは全て返り血。一体どれほどの人間を屠ってきたのか。
「どうしてこんな事を……」
南の離宮に滞在していた彼女のもとへ、一報が入ったのは昨日の朝だった。
先から始まった治水工事の視察へ出かける支度をしてたところへ、息も絶え絶えの伝令がもたらした報に彼女は耳を疑った。
彼女の父である国王が王弟に弑され、また王の寵臣たちも次々とその刃にかかって果てた──と。
信じたくないと言う思いに呆然としながらも、彼女は動揺する家臣たちに機械的に指示を出し、精鋭を数騎伴って王都へ取って返した。
通常なら三日かかる距離を約一日で駆けた。離宮を出る時に乗った愛馬は途中で潰れた。潰れることが分かっていながら、それでも焦燥に駆られて足を止めることが出来なかったのだ。
そうして彼女は今、謀反の首謀者である王弟と対峙している。
「ん? ああ。何でだろうなぁ」
彼は眩しそうに目を細めて、眼下を見下ろした。
つられて見下ろした彼女は思った。
ああ、世界は赤に満ちているんじゃない。赤と黒に満ちているのだ。夕陽の赤、血の赤、炎の赤。そして黒煙の黒。屍が纏う鎧の黒。迫りくる夜の黒。彼女と彼の世界にはそれだけしかない。
「きっとな、俺はもう疲れちまったんだよ」
ぞんざいな口調は彼の悲しい癖だ。
正妃から生まれた兄と違い、彼の母は王城の片隅で働いていた下女だった。
嫉妬深い正妃に事あるごとに蔑まれ、忌まれ、時には命を狙われながら、それでも生き抜いた。その秘訣の一つが市井の民のような喋り方だ。彼がそんな喋り方をすればするほど、正妃は彼を見下し、己が息子の脅威にはなるまいと愚かしく安堵したものだ。
「聡明なお前の事だ。もう分かってるだろう? 兄者は佞臣どもの甘言を信じて何も考えようとしない。国中に不正が蔓延って、正そうとする者は逆に粛清される。この国はもう腐りきってるんだよ」
「それは……!」
彼女もそれは嫌と言うほど分かっていた。
酒に溺れ、色事に溺れ、気に入った取り巻きの言う事にしか耳を貸さない。老いがそうさせたのか、長年の重圧が狂わせたのか、王は暗君と成り果てた。もちろん、諌めようとした者もいたが、ありもしないような罪を擦り付けられて左遷され、処刑され、王の周りから消えて行った。
亡国の危機だと分かっていても、小娘一人に何が出来ると言うのか。次期女王とは言え、彼女に出来ることは少なく、迂闊に動けばすぐに自分の身が危なくなる。
焼け石に水とは知っていたが、自分で出来る範囲の事を成しながら、いつか来るはずの日を待つしかなかった。
父の代が終わり、自分が王になる日。
それが、まさかこんな形で、こんなに早く来るとは思ってもみなかった。
「この国の中枢に巣食ってた怪物どもはこれでほぼ一掃できたはずだ」
「叔父上……」
「汚ねぇもんは全て俺が持っていく。だから後は頼んだ。お前なら良い王になるだろう」
後悔など微塵もない晴れやかな笑顔を、夕陽が彩った。
男は留め金を外して兜を脱ぐと、その場にどかりと胡坐をかいた。
「叔父上。叔父上は酷い男だ」
「ん? まぁ、そうだな。悪い。──お前は良い女になったな」
「今さらそんな事を言いますか。貴方は酷いうえに狡い男だ」
「そうか」
男は声を上げて笑った。その笑い声を聞きながら彼女はすらりと剣を抜いた。鞘走りの音に笑い声が止まる。
「あー……悪い。一つだけ頼みてえことがあるんだが……いいか?」
「何でしょうか」
「俺の部下たちをよろしく頼む。あいつらは上官である俺の命令にただ従っただけだ。奴らに罪はねぇ。どうか寛大な処置を頼む」
深々と頭を下げる男に彼女は首を横に振った。
「申し訳ないのですが、その願いは聞き届けられません」
弾かれたように顔を上げて、彼女の顔を凝視する。その視線を真っ向から見つめ返して彼女は告げる。先程目にした光景を。
「貴方の部下はみな、すでに自決しています。このすぐ下で」
「な……ん……」
「みな、満足そうな顔でした」
「あの馬鹿どもが……」
男は項垂れて、石畳に拳を叩きつけた。
長い沈黙が流れ、いつの間にか太陽は稜線に姿を消した。
「先に逝って奴らが来るのをのんびり待つつもりだったのによ。俺より先に逝きやがって! ──あいつらをあんまり待たせるのも可哀想だ。そろそろ頼むわ」
ようやく顔を上げた男は彼女の目をじっと見つめた。男の目にはもう感情の揺らぎはない。ただ凪いだ夜の湖のように静謐な色が浮かぶばかりだ。
ああ、これで本当に終わってしまった。
無表情の仮面の下で、彼女は慟哭した。
彼にはもう生きる気がない。彼女がやらねば、恐らく自刎するのだろう。
ならば、せめて自分のこの手で。
誰にも……そう、彼自身にも、その役は譲れない。譲りたくない。
「分かりました。叔父上、今までお世話になりました。私は貴方が大好きでした」
これからも大好きです。きっと、一生、貴方以上に愛し敬える人には巡り会えないでしょう。
彼女はその言葉はかろうじて呑み込んだ。
「俺も好きだったよ。──生まれ変わったらよ、もっと違った形で会いてぇなぁ」
今度は叔父と姪じゃなくて、ただの男と女として。
男はその言葉はかろうじて呑み込んだ。
「生まれ変わり、ですか」
「ああ、そうだ。もっと平和な世の中に生まれてよ、下らねえことで笑って、怒って、泣いて。良いだろう、そういうの」
くすくすと楽しそうに笑う男につられて、彼女の口元もうっすらと緩んだ。
「生まれ変わるより、地獄で会う可能性が高いのでは?」
叔父は沢山の人を屠った。
自分もきっとこれから叔父以上に沢山の人々を屠るんだろう。
為政者とはそう言うものだし、膿は出し切らねばならない。
生まれ変わることなど許されるはずもない。
永遠に地獄で罰を受けるほうが似合っている。それでもこの叔父とともに受ける責め苦なら、それもまた良いだろう。
「あー。そうかもなぁ。よし、分かった。んじゃあ、地獄で会おう。俺は先に逝って待ってるからよ」
「ええ。地獄でまた会いましょう」
彼女は剣を振り上げた。
「では、叔父上、しばしの別れを」
「おう」
男の太いうなじに食い込んだ刃は、そのまま彼の首を両断した。噴き出す血しぶきに、白銀の鎧が、刃が、彼女の白い面が赤く染まった。
転がった首を抱き上げて、彼女は夜が明けるまで空を見ていた。
いつか幼いころ、男に教わった子守唄を歌いながら。
彼女の腕の中の首はうっすらと笑みを刻んでいた。
まるで彼女の歌声に眠気を誘われて、のんびりと午睡に興じるように。
「うわあああああー!」
大声を上げながら、彼女は飛び起きた。
最近頻繁に見る赤い夢。
夢の中で彼女は愛してはならない人を愛していて、そして自分の手で殺さなければならない。
悲しくて悲しくて悲しいのに、夢の中の自分は泣くことすらできなくて。その反動なのか、目覚めたらしばらくは涙が止まらない。
ようやく涙が止まった頃を見計らって、のろのろとベッドから抜け出した。
欠伸をかみ殺しながら、高校の制服に袖を通す。
「何であんな夢見るんだろー? なんか中二病っぽいよねぇ」
最近はそれっぽい映画もドラマも漫画も小説も読んでないのに。遥か昔に見た何かのシーンが頭に残ってて、それが今さら出てきたってことなんだろうか?
回らない頭でぼんやり考える。
「ちょっとー! いつまで寝てるの? 学校遅刻するわよー??」
部屋の外から母の声が聞こえて、彼女は慌てて時計に目をやった。
「げ!! やっばー!! 遅刻するぅぅううう!!」
机の上に昨夜用意しておいた鞄を引っ掴んで、彼女は勢いよく部屋を飛び出した。
「おかーさん、遅刻する、遅刻ー!!」
「だからさっきからそう言ってるでしょ! ごはんどうするの、ごはん」
「食べてるヒマないよおおお~!」
彼女は母の用意したカロリーメイトを手に掴んで、慌てて家を飛び出した。
彼女は夕焼けの街をとぼとぼと歩いていた。
夢ばかり見てきちんと睡眠がとれていないのか、授業中にぼんやりしたり居眠りしたりが続いて、とうとう担任の先生から呼び出しを喰らって、今しがたお小言を頂戴してきたばかりだ。
反省しています、気をつけますと頭を下げて来たものの、どうやってあの夢を見ないようにすればいいのかも分からないのに、どう気をつければいいんだろう。
なるべく楽しい話ばかりを見聞きする、ぬるめのお風呂にゆっくり浸かってリラックスする、安眠に効果があると言うネロリのアロマオイルを枕にスプレーする……思いつく限りのことをやってみたけど、全然効果はなかった。
「困ったなぁ」
悲しい夢ばかり見ていては、心だって疲れてくる。何とかならないものかと、もう一度深いため息をついた。
俯きながら雑踏を歩く。
視界に入るのは自分の足と、道路と、すれ違う人の靴だけ。
「ん?」
今しがた彼女とすれ違った男が足を止めて振り向いた。
「あ、おい。ちょっと……」
戸惑ったような、それでいてどこか確信めいた芯がある声が彼女を呼び止めた。
見知らぬ男から声をかけられても普段だったら聞こえなかったふりをして無視を決め込むのだが、男の声に引っ掛かりを覚えた彼女は足を止めて振り返った。
どこかで聞き覚えのある声。それも、胸がズキズキ痛むくらいに懐かしい。
困ったような顔をした男を見た途端、どくりと心臓が跳ねた。
「あ、急に呼び止めて申し訳ない。俺は、その、怪しい者じゃなくて……だな、その……」
呼び止めて見たものの何と説明していいのか分からず、男はしどろもどろになりながら頭を掻いた。
「……叔父、上?」
彼女が呟いた途端、男は頭を掻く手を止めて、驚いたように彼女を見た。
「やっぱりお前なのか?」
呆然とした呟きに、彼女は頷いた。
精悍な顔も、高い背も、がっしりした体つきも、あの夢のままだ。
「また良い女になったな」
「叔父上は変わりませんね」
探るように言い合ってから、二人はじんわりと笑った。
「叔父上はよしてくれよ。俺はもうお前の叔父じゃない」
「でも、私、叔父上の新しい名前も何も知らないんですよ!? 他に呼びようがないじゃないですか」
突っ込まれて、男は声を立てて笑った。
「それもそうだ! なぁ、今から少し時間あるか? どっかでゆっくり近況報告でもしよう」
「私は大丈夫ですけど、叔父上は仕事中なんじゃ?」
男の背後に視線を投げれば、彼の後輩らしきスーツ姿の男性がひとり所在なさげに立っている。目があったら会釈をしてたので、彼女も会釈を返す。
それを見て男は「ああ」と声を上げた。
「お前いたんだっけ。すまん。すっかり忘れてた!」
「え!? ちょっと、先輩! それは酷いですよ!!」
「悪ぃ、悪ぃ。俺はちょっと用事が出来たから。お前、先に戻っててくれねえか?」
それだけ言うと、男は彼女の手を引いて歩き出した。
二人の背後で、後輩だと言う男が焦ったように呼び止めていたが、男はどこ吹く風ですたすたと歩く。
「結局、地獄じゃなかったな」
「それどころか世界さえ違いますよね」
「血の因果をぶっちぎるには、世界まで飛び出す必要があったって事だろ」
にやりと男臭い笑みを向ける男に、彼女も悪戯っぽい笑みを返した。
二人の笑みは、夕陽を受けて赤く赤く染まっている。
赤で終わった二人の関係を、また赤から始めるかのごとく、夕陽は赤く、赤く世界を染め上げた。
昨日の夜、一人でこっそりと「2時間で短編を書く」ことに挑戦してみました。
それで出来上がったのがこの短編なのですが、15分オーバーしたので厳密に言うと挑戦失敗でした(笑)