コズミックホラーの隣人
ニンゲン。
結局のところ、ニンゲンとはこの世界の中で一番怖い生き物である。二回刺したら生き物を猛毒で殺すことができるオオスズメバチよりも、虎よりも、ライオンよりも、鮫よりも、ありとあらゆるこの世界に存在するものよりも。
架空世界、空想世界、創造世界。いわゆるファンタジーに出てくる、二次元の世界に存在する幻想的生き物よりも、僕はニンゲンという生き物の方が断然怖い。
彼らは怖くて恐ろしい。その所業は至る所に存在を示させる。彼らの行ってきたことにしるしが憑くとするならば、この世界はたちまち彼らのしるしで溢れかえって、僕の視界を完全にそのしるしでふさいでしまうだろう。そんなありもしないIFの話でさえ、僕は畏怖することを止めれないだろう。まぁ、そんなニンゲンを一番怖がっているのは他でもないニンゲンの僕なんだが・・・。
ニンゲンである僕が同じニンゲンである彼らを恐れるなんて変な話なんだろう。でも、それは多分僕が他のニンゲンよりも狂っているほどの潔癖症だったからなんだと日々常々思う。それでも、僕は自分がこの潔癖症で良かったと思う。
彼らが不思議に思わなかったことを僕は不思議に思ってしまう。彼らがなんとなく納得したことを納得できない。彼らが目をそらしている事実に目を向けてしまう。それが僕の潔癖症だった。『バカは死んでも治らない』というが、おそらく、僕のこれも同じなんだと思う。これから先、僕がこれと『付き合いきれなく』なったとしても、これは僕から切れてはくれないだろう。文字が変わって『付き合い切れなく』なるだけだ。そうなれば、もはや、これは呪いといっても、おかしくはなくなる。他人からしたら可笑しい話になるんだろうが・・・。僕としては一向に笑えない。
そんな負荷を背負わされたから僕というニンゲンが孵化したのは一種の運命だったといいたくなってしまう。まぁ、定められていたならこんな僕がそれに逆らえるはずもなく、只、流転に流されただけなのだろう。さすれば、僕というニンゲンは失格するためだけに生まれたのだろうか?・・・考えたとこで時間の無駄だが。
そうそう、ニンゲンが失格といえば、大御所といってもいい、専売特許でもいい。彼の太宰 治がいる。彼の作品の一つに『人間失格』というのがあった。でも、僕からすれば、僕はニンゲンから失格してもいいと思う。傍からみたら欠陥製品でもいいと思う。僕はニンゲンであることが恥ずかしい。
本能を理性で覆い隠し、裏で本能の赴くままに何かするニンゲンがいるなら、僕はそれをせず、最初から本能のままにしてくれるニンゲンの方が好ましい。表で仲良くして、裏で平気で裏切る。そんなニンゲンがウロチョロとそこらじゅうにいることに、僕は吐き気を隠しきれない。ニンゲンの心の声が聞こえるようになったら、僕は間違いなく廃人になるか、いの一番に自殺するだろう。邪悪に耐え切れなくなって。
そんなニンゲンを作り上げるのは、小学校の道徳や倫理が原因だと思う。ニンゲンの情緒を養うはずの教科だが、僕にはそれが悪意を強化させているようにしか思えないのだ。それを教える教師でさえも。
小学校時代、何が一番つまらなかったと聞くと、おそらく、ほとんどの子供は道徳とは答えないだろう。それが立派に悪意を強化させた証拠ではないだろうか。まぁ、たまにバカ正直に道徳と答えて、親に怒れる子供もいるかもしれないが。
道徳では、命の大切さや仲間、友達を大切にすること、また、いじめはいけないことだとか、その他たくさんの知ってて当たり前、こうして当たり前という。世間でいうとこの『常識』を教えていく。おそらく強制的に。だが、これは当たり前だと、ニンゲンはいう。常識のないニンゲンは嫌われる。言わずもがな、常識がないなんて、どうかしている。と周りは言い出す。こうして当たり前という自意識を子供たちに強要させる。強要することが教養を養うことなら、何も間違ってはいない。だが、そんなことはない。自身で考え、行動し、知識を得て、自信をつけさせることが大事だろう。与えられた時間に与えられたことをしていては道徳や倫理の意味をなさない。感想文を書かせて、何が分かるという。何を理解したといえる。それでは中途半端だ。上辺だけ理解させているから、何の解決にもならない。
上辺だけ理解して、いじめがなくなるなら、命の大切さがわかるなら、自殺するニンゲンなんていないし、最初から世界に戦争が存在するはずがない。だから世界平和を願うニンゲンが平気で、暴言や暴力を振るうニンゲンに暴言と暴力をもって戦う。正義という大義名分を振り回して。勇者や正義なんて専らの大義名分として、都合のいい時に都合のいいように使える。チープなくせにニンゲンを支配しやすい言葉が、ニンゲンが好む言葉でもある。なんて皮肉にもほどがある。
道徳とは書いて字の如く、徳を道びくものだ。倫理とは理を倫することだ。それすらわかっていないから、これらの授業は子供たちに道徳や倫理を上辺だけ理解させて、感想文で「こんなのひどいです」「私はこんな人にはなりません」「僕はいじめを見かけたら、止めさせる」なんてありふれたコピーアンドペーストしたような文章しか書かれない。実際彼らがこのような場面に遭遇したら、参加するか、無視するかの二択なんだから。
とどのつまり、本心を仮面で覆う練習をする教科でしかないのだ、学校でやる道徳など所詮は。まぁ、あくまでも飽くままに僕の意見でしかないのだけど。
僕はまともなニンゲンではない。それを自覚し始めたのは、一体いつの頃だっただろうか。覚えてもいない。生まれた時だったかもしれないし、物心ついた時かもしれない、はたまた、ここ最近かもしれない。自分のことは自分にも理解できないのだ。他人になると尚更だが。自分のことが分かるなら、それはとんでもない未来予知者だと、僕は思う。だって、自分を理解するって、自分が何をするかもわかるだろう。じゃなきゃ自分を律することなどできない。その場限りで行動が変わってるんじゃなくて、この時この時間なら、たぶんこうするなって、動いてるかもしれない。偶然じゃなくて必然。確定された条件。サイコロを振る前から、出る目が分かるというものだ。気持ち悪いったらありゃしない。それはニンゲンの行う行動ではなく、機械の規定された行動だ。
ああ、吐き気がする。自分のことを自分が一番理解できるなんて、なんて傲慢だ。虚栄でなくて、傲慢だ。気持ち悪くて、気味が悪い。欲が深過ぎる。そして、自分勝手だ、何もかも。そのくせ、自分が罪深い存在だというのに気付いてすらいない。罪は築いてるくせに。何もかも取り返しがつかなくなってから、騒ぎ出す。もう、手遅れなのに。
ニンゲンの不幸な所は、否、最悪な所は、もっとも大切なものが、もはや取り戻し不可能なまでに失われてしまってから、その重みに気付くという絶対的な欠陥を備えているところだ。例を挙げるなら、自然を回復不可能までに破壊した後で、自然を守ろうと言っている。・・・虫唾が走る。死ねばいいのに、刺ねばいいのに、弑ねばいいのに。動物や植物が生きている環境を己が欲望を満たす為に奪い尽くし、その略奪行為によって上手い汁を他の何よりも啜ってきたのはニンゲンなのに。そのエゴの犠牲となった他の自然生命を壊した後で事後的に神聖化する。嗚呼、隠しきれない邪悪だ。いつだって、凶悪な悪意を偽善で覆って詐欺めいたことをする。免罪符よりも質が悪い。
きっと、神様が七日目に何もしなかったのは、我々、ニンゲンの悍ましい悪を見るに堪えなくなってしまったからだろう。己が作った失敗作をこれ以上見たくはなかったのだ。まるで、これを作った自分が巨悪そのものに、悪意そのものに感じてしまうから。分からなくもない。だって、目の前にゴミがあったら、避けて歩くだろう。きっと、そういうことなのだ。神にとって、我々とは、その目にしたくない、避けて通りたい、ゴミなのだ。
他人を差別している我々は、創造主である神に侮蔑されている。嫌悪の対象となっているに違いない。それなのに、ニンゲンは自分たちがもう、見捨てられた者だとは知らず、日々暢気に暮らしている。正に知らぬが仏だ。まぁ、その仏に見放されているのが我々だが。
くだくだ言うのも、嫌だろう?ならば、簡単に言おう。我々ニンゲンは、差し詰め、こういうのだろう。
居たら邪悪で、気付けば最悪、存在するのは害悪。
言葉遊びにもならないだろうが。さて、御託を堂々と述べたところでつまらないだろう。事実、僕はつまらない。一番つまらないのは、この世界だが。いや、下らないというべきだろうが。どっちでもいいか。では、そろそろ限界だ。僕も貴方も。結論出そうか。否、答えを聞こうか?
貴方の身近にいる人は、本当に貴方の友達ですか?家族ですか?知り合いですか?
貴方は存在してますか?貴方は自分を信じられますか?貴方は今を生きていますか?
貴方はニンゲンですか?それとも・・・。
見にくくて醜いお話でした。