オレンジとコーヒー
ある秋の日の事だった。私は、マフラーに顔をうずめながら並木道を歩いていた。枯れた色の葉が風に舞う。それは死だった。小さく身近な死。深緑の季節に彼らは確かに生きていた。
そんなことを気にも留めなかった私は、急ぎ足で、スキップでもするかのように目的地に向かっていた。
今日はすばらしい日だ。きっとそうなるに違いない。
前方に見知った顔の男がいる。自販機で缶コーヒーを買っているようだった。声をかけようかと思った時、彼が私に気づき、声をかけてきた。
「ずいぶん、楽しそうだな」
「何で?」
「すっごい笑顔だったから」
私は口元を抑えた。
「マジで?」
「ああ。しかも、歩き方もキモかった」
私は目の前の男を叩いた。
「いたっ」
男が私に叩かれた肩をさする。
「今のはシュウが悪いんだからね」
「はいはい。すみませんねぇ」
シュウは先程買った缶コーヒーを開けた。
シュウが半分ほど飲み終えたところで、私は口を開いた。
「またブラック?そんなの人の飲むもんじゃないよ」
「俺に言わせれば、何か入れないと飲めないんだったら、コーヒー飲まなきゃいいのにって感じだけどな」
シュウはぼんやりと言った。視線は私に向けられているが、どこか遠くを見つめているような気がした。
「秋って、何かアレだな」
と、シュウ。
「何?アレって?」
シュウは首を傾げ、何か考えるそぶりを見せた。
「うん、アレだよな」
シュウは頷きながらそう言った。話を振っておきながら、どうやら自己完結してしまったらしい。私がそのことについて言及しようとしたとき、シュウが言った。
「今日は」
遠くを見ていたシュウの視線が私に戻る。
「今日は、これから何かあるのか?さっきまですごく楽しそうだったから」
「あるよ。これからデート」
私は声音をなるべく落ち着けるようにしていった。シュウのまっすぐな目が私から逸れ、手元の缶コーヒーへと移る。
「なるほど」
彼は成分表示を目で追いながら言った。
「何?その興味なさそうな態度は」
「まあ、実際興味ないし」
「そう言わずに聞いてよ。今日で付き合って二年なんだ」
私はシュウにピースサインをつきつけた。
「ほう。長続きするもんだ」
中学の時に告白されてからというもの、彼と私は別の高校に進学したが、ずっと付き合っている。
優しく、気さくな彼の事が、私は大好きだ。一日の大半は彼の事を考えて過ごしているような気がする。
お互い忙しくてなかなか会えないので、同じ高校に通っているカップルが羨ましく思う事もあるが、その分、彼に会った時の喜びは大きかった。
ちなみに、シュウとは幼馴染で、高校も一緒である。シュウは、友達といる時も、一人でいる時も、どこか影のある表情をしているような青年だった。
シュウは、誰にでも優しく接し、明るく、周りの人から愛される私の彼とは真逆のタイプだった。
「気を付けてな」
私がぼんやりしてるうちに、シュウはそう言い残し、去って行った。
「うん」
シュウに聞こえたか聞こえなかったかは分からないが、私は返事をすると、スキップをしないよう、待ち合わせ場所まで早足で向かった。
彼は私よりも早く待ち合わせ場所に着いていた。待ち合わせ場所は小さな喫茶店だった。
「ごめんね、寒かったでしょ?」
私が言うと、彼はいつもの様に人懐っこい笑顔を見せた。
「ううん。全然」
二人が店内に入ると、若く可愛らしいウェイトレスが応対してくれた。
部屋の一番隅の席に腰を下ろすと、彼は言った。
「久しぶりだね。この店」
私は頷いた。
「最後にここへ来たのが、去年の夏だったかな?」
私は夏に彼と一緒にアイスを食べた事を思い出した。
「また夏に来たら、アイス食べたいね」
彼は私の言葉に頷いた。
「そうだね」
彼はコーヒーを、私はレモンティーを注文すると、お互いに学校での出来事を語った。
目前に迫った修学旅行の事や、体育祭、学園祭。どれも彼にとって、学生生活でのかけがえのない思い出になるだろうその風景に、私の姿が無いのは少し寂しかった。
注文したものが届き、私たちは談笑しつつ、それに手を付けた。
彼は、コーヒーにミルクを落とす。私も彼も、甘いものが好きだった。小さな共通点が見つかるたびに、嬉しくて「一緒だね」と彼に報告をした。ゆっくりとコーヒーが白濁していく様を、私は見つめていた。
「そっちは勉強、大変なの?」
彼はコーヒーに砂糖を加えながら言った。
「うん。結構大変。私、クラスでも成績ビリだし」
彼は困ったように笑った。
「ミユでもそんなに大変なのか。俺なんかが行ったら、成績が悪すぎて即退学になりそうだな」
「成績不振では退学にならないよ」
彼は少し笑うと、神妙な顔つきになった。
「今日で、付き合って2年だね」
「早いもんだね」
私は彼から妙な緊張感を感じ取った。
「どうしたの?」
「あのさ、いろいろあってさ」
「うん」
彼はコーヒーカップを見つめる。
「別れよう」
彼の言葉が、私に深々と突き刺さる。胸が抉り取られたように痛む。
「何で?」
擦れた声が、辛うじて彼に言葉を伝える。
「私と居ても、つまらない?」
「ごめん。全部俺が悪いんだ。俺が」
彼は暗く重い声で言うと、紙幣をテーブルにそっと置き、私の元から立ち去った。
私は彼を追いかける事が出来なかった。指一本動かせないで、座っていることしかできなかった。涙も出なかった。
幸せだった思い出も、たくさん思い描いたこれからも、すべて崩れ去った。
落ちてしまった枯れ葉が、もう元の場所には戻らないよう、私の崩れた一部分ももう二度と元に戻ることは無いだろう。
ただただ、胸の痛みが消えなかった。
気づけば帰路についていた。
何も考えず、無意識のうちに代金を支払い、ここまで歩いてきたようだった。
本当に何も考えられなかった。
「危ないぞ」
聞きなれた声が降ってきた。
何者かに手を掴まれる。恐らく声の主だろう。
「信号、赤なんだけど。何ぼーっとしてんだよ」
彼は私の顔を覗き込む。声の主はシュウだった。
シュウは私の様子に気づき、少し戸惑ったようだった。
シュウは私の手を引き、そのままどこかへ向かっていく。
日が傾き始め、並木道が眩しかった。
気づくと、私は公園にいた。
公園と言っても、遊具のない、ただの広場のような場所だ。
シュウは、私に「座ってろ」とだけ言うと、どこかへ行った。
私はゆっくりと腰を下ろすと、ぼんやりとシュウが戻ってくるのを待った。
シュウは、缶を二つ持って戻ってきた。
「どっちが良い?」
オレンジジュースとコーヒーだった。
コーヒーはシュウが自身の為に買ったのだと見当がついたので、私はオレンジジュースを指さした。
シュウは缶を開け、私に差し出した。
ジュースを口につける。
冷たかった。冷たくて味がない、まるで、ただの水の様だった。
風が私の髪を乱していく。寒かったので、私は腕をさすった。
シュウは私に「寒いのか?」と尋ね、コーヒーを開けると私に差し出した。
コーヒーは暖かかく、私の冷たくなった手を温めた。
私はコーヒーに口を付けた。
「苦い」
私がそうこぼすと、シュウは私の手越しに両手でコーヒーを包み込んだ。
「飲まなくてもいい。こうして、お前が寒さを少しでも和らげられるのなら、それでいい」
シュウは私から手を放すと、私の隣でぼんやりとどこかを見つめていた。
私もシュウも何も喋り出さなかった。
何も考えずにいると、時間がやけに早く過ぎる。もうほとんど日が沈みかけていた。
「野暮なことを聞くが、何かあったのか?」
シュウは独り言のように私に言った。
私は答えられなかった。
「今、お前は悲しいのか?」
「そうよ。悲しくないわけないじゃない。フラれたんだから」
私が吐き捨てるように言うと、シュウは私を見た。そして、視線を元に戻し、小さく、悲しそうな声で「そうか」とつぶやく。
このままの調子ではシュウにやつあたりをしそうで怖かった。私の事は、いつもの様にほうっておいてほしかった。
シュウが私に手を差し出す。
「俺に、お前の悲しみを半分よこせ」
私は半ば呆れた目で、シュウを見た。
何を言い出すのかと思えば、こんな馬鹿げた恥ずかしい台詞をよく真顔で言えるものだ。
「喜びは、その時にお前が一緒にいたいと思う人と分け合えばいい。でも、悲しみは、お前の分を俺が半分背負ってやる」
シュウの表情は真剣そのものだった。
シュウの真摯さに、私は、いつの間にか彼の手を取っていた。
シュウの大きな掌に、私の悲しさや胸の痛みは吸い込まれていく。私はシュウの手から、体温と、それとは別の、もっと暖かいものを感じた
あたたかな夕陽が私たちの顔を照らす。
「暖かい」
私はそう言うと、涙を零した。
悲しいわけでも、嬉しいわけでもなかった。嗚咽もなく、ただ目から涙が次々と溢れてくる。私は手で涙をぬぐった。頬を濡らす感覚が無ければ、自分が泣いているという事に気づかなかっただろう。そんな私を、シュウは何も言わずに見守っていた。
「オレンジ色だな」
シュウは夕陽に目を細めた。
私は夕陽を眺めるシュウの横顔を見つめる。
「シュウの横顔、リバーに似てる」
シュウはよく分からないというような顔をした。
「俳優。スタンドバイミーのクリスだよ」
「知らない」
私が少し笑うと、シュウも笑った。
「オレンジ色って、落ち着くよな。暖かい色だ」
「オレンジ色ってさ」
私の言葉にシュウが首を傾けながらこちらを見る。
「和名で朱色っていうんだよ」
「ほう。覚えておこう」
シュウは笑むと、「行くか」と立ち上がった。私もシュウに続く。
辺りは薄暗く、闇に包まれつつあった。
家に帰る間、シュウは私と手を繋いでいてくれた。
「じゃあ、また明日」
「ああ。それじゃ、また」
別れ際に私たちは手を離した。
「明日、ちゃんと学校来いよ」
「分かってるって」
シュウは私に軽く手を振ると、去って行った。
私も手を振り返し、シュウに背を向け歩き出す。
私はマフラーに顔をうずめ、薄暗い夜道を歩いた。ベン・イー・キングのスタンドバイミーを口ずさむ。
シュウと触れ合っていた右手が、今もまだ暖かかった。私が前に進もうと、立ち止まろうと、シュウからもらった温もりは、決して消えることは無いだろう。
いつの間にか、ぽっかりと空いたはずの胸の穴も、少しだけ塞がっているような、そんな気がした。