うたや桜子
こんがりと香ばしく焼けたパン生地に、バターの食欲をそそるにおいがふんわりと包み込む。焼き立てのパンをトレイに乗せて、開店前のお店の準備を始める。
午前八時には店を開くため、その前には商品を陳列しなければならない。
恵理は朝がすごく弱かったが、お店のためにもあくびをかみ殺して頑張らなければならない。
パン屋『ココペリ』は恵理の父親が始めた店だった。幼き日の恵理は毎日ここで仕事をする父を眺めていた。そして、いつかはお手伝いしたいと思っていた。ゆくゆくはお店を継ぎたいとも言った。しかし、父は仕事に関しては恵理に手を出させることはしなかった。
恵理が二十歳になった頃だ。その時恵理は専門学校で調理の勉強をしていた。いつかは調理師の免許を取り、正式に父に認めてもらうつもりだった。だが、それはかなわぬ夢となってしまった。
父はクモ膜下出血で亡くなってしまったのだ。
その日は朝まで泣いていた。ぶっきらぼうな父だったが、人一倍恵理に愛情を注いでくれた。そんな父に恩返しとしてお仕事を手伝う間もなく、届かないところへ行ってしまったのだ。
母と恵理は残された店を続けることを決意した。
父にゆるしをもらったわけではないけれど、恵理はパン屋を任されている。
「うん、今日もいい天気」
シャッターを開けた途端、まぶしい日差しが店内に注ぎ込んだ。それと同時に開店を待ちわびた学生や通勤前のサラリーマンが店内に流れ込む。みんなここの店のパンを朝食にするのだ。近所ではそれなりに有名な店になったのだ。
「やあ、恵理さん。今日もご苦労様」
快活な挨拶で店の中にやってくる男性だ。この人はほとんど毎日のようにやってくる。白いシャツにジーンズという簡素な出で立ち、自然な黒髪の短髪で、鼻筋の通った堀の深い顔。
恵理は名前も知らないこの男性と挨拶をすることが、いつの間にか当たり前になっていた。
「おはようございます。お仕事がんばってくださいね」
世間話をするでもなく、ただ挨拶を交わす。確か仕事はデザイナーだったかな、いや、何かの雑誌の編集だったっけ。それすらもあやふやだったが、毎日仕事を頑張る好青年であることは理解していた。
通勤通学の時間が過ぎると、店には一旦の隙間ができる。といってもちらほら主婦が顔を見せたり、昼に焼くパンの仕込みもしなければいけないため、休んでいる暇はない。
店内を軽く巡回し、減っているパンを見定めながら清掃をする。
ふと、店の外に目が行った。
すると、そこには黒いものが倒れていた。
目を見張った恵理は、しかしよく見るとそれは人が何か黒い鞄のような物を背負っているのだった。
店を飛び出し、道路に寝そべる人物に近寄った。
「あの……大丈夫ですか?」
今の季節は暖かいといっても……いや、季節に関係なく、路上で寝るのはよくない。
「ん……」
どうやら生きてはいるらしい。車に引かれたのではと思った恵理は一安心した。そして、寝そべっている人間は女性だった。背中に背負っているのはカバンではなくギターケースのようだ。
「あ、気が付きました?」
「は、……」
「は?」
「腹減った……」
「……パン、食べます?」
***
「いやー、本当にごちそう様! おいしかったです!」
結局、店の中に運び込み、試しにアンパンを手渡してみると、パクリと口の中に消してしまった。それではとカレーパンを手渡すと、アチチとはふはふしながら平らげてしまった。
それから二、三個のパンを渡すと、すっかり元気を取り戻した。
「お粗末様。私もあんなにおいしそうに食べてもらえるとうれしいです」
パンのにおいにつられてやってきた女性は、子供っぽくはにかみながら恵理を眺めていた。眉のあたりで切られたショートヘアは明るい茶色に染められていて、春物のカーディガンにショートパンツ。黒いギターケースとみれば、なんとなくシンガーソングライターといった風情だ。
「わたし、桜子といいます! 宇多矢桜子といいます。この度は餓死寸前のわたしを救ってくれてありがとうございました」
ご丁寧に深々と頭を下げる彼女に、戸惑った恵理は「いえ、こちらこそっ」なんてずれた返答をしてしまった。
「私は水中恵理と申します。このパン屋をやってます」
「ほー、もしかして店長さん?」
「あ、いえ。私と母の二人でやってるお店ですから店長とかでは」
二人はレジのあるカウンターを挟むように椅子に座っている。店には幸いにも、御客の姿はない。しかしこの状況を幸いというのかは、客商売として微妙なところである。
「桜子さんは大学生とかですか?」
「ん、わたし? もう卒業したよ。今年で二十二になります」
「えっ、うそ……」
恵理より年上だった。
「じゃあお仕事とかは……」
「ふっ、ふふふふ……。未来を夢見る仕事をしております」
「ああ……、すみません」
「謝らないで下さいよぉ。もぉー」
へらへら笑っていた。なんというか、能天気な人だった。
「でもニー……いえ、旅人のわたしにはパンの代金を払うことができそうにありません」
「いいんですよ、お金なんて! 苦しそうに倒れてたから私が差し上げたんです」
「いやいや御嬢さん、そんなことを言わずに。せめてもの気もちとして、歌をささげたいと思います」
そういうと、おもむろにギターケースからアコースティックギターを取り出した。
慣れた手つきでチューニングを確認し、軽く声だしをする。その姿は本当にミュージシャンのようだった。
「でわ失礼して、一曲」
パン屋の店内で静かにアコースティックライブが始まった。
弦を一本一本丁寧に弾き、美しい旋律を奏でる。掻き鳴らすのではなく、静かに一音ずつ絡めていくような弾き方だ。パン屋のBGMにふさわしいと思った。人柄とは裏腹に落ち着いて癒しのある音を奏でる。
そっとボーカルが加わる。話し方は子供っぽかったが、歌声は澄んでいて綺麗だ。英語の歌詞も、さすがに意味までは聞き取れないが、伝えたいことは大体理解できた。
静かだが、リズムに乗った軽快な曲だ。住宅地のど真ん中だが、これなら苦情も来ないだろう。
恵理はそっと目を閉じて演奏に聞き入った。
それは不思議な曲で、自然と恵理の心のうちに入ってくる。そして、ゆったりとなじむのだ、だがほんの少しだけ、心が揺さぶられるのだ。暖かい春の日の中のふとした切なさのような、言葉にできない悲しみがそこには潜んでいる。でも不快感はない。悲嘆に暮れることもない。
しばしのお別れ。そんな意味の英語を何回かリピートして曲は終わった。
一瞬の静寂ののち、恵理は手をたたいて賞賛した。
「素晴らしいです! なんという曲ですか?」
「いやーはっは。オリジナルだよ。曲名はまだないかな。そうだ、恵理さんが決めてよ!」
照れ臭そうに笑っていた桜子は、その思い付きに我ながら感心していた。
「そんな、私が急に決めるなんて」
「いいのいいの。わたし思いついたの。これから旅をして、曲を披露する。そしてそれを聞いてくれた人に曲名を決めてもらうの。そうしたらいつの日にか、その思い出がわたしとみんなの間でずっと続くよね」
旅人は冗談ではなく本当のことのようだった。そしてそうとなれば、恵理も曲名を決めなくてはならない。
「“また逢う日まで”っていうのはどうでしょう……」
自分で考えた曲名を言うのは、少し恥ずかしかった。それを聞いた桜子はじっくり考えるフリをして、手をたたいて喜んだ。
「うん! 良いよ! 最高にいい! ありがとうね、恵理さん!」
「あはは……気に入ってくれたらうれしいです」
こうして、桜子の記念すべき一曲目の題名は『また逢う日まで』となった。
「ねぇ、恵理さん。恵理さんのまた逢いたい人って誰かな?」
「えっ?」
それは突然の質問だった。深い意味なんてないのかもしれない。ただ、曲名にちなんだ世間話なのかもしれない。しかし、恵理の心には、その質問は深く刺さったのだった。
「それは……」
真っ先に思い浮かんだのは父の顔だった。
堅物で厳しい父だが、いつも恵理の事を思いやってくれていた。どうしたら恵理のためになるのか、そればかり考えているようだった。
いつかはパン屋を継がせるつもりだったのかもしれないし、そうじゃなかったのかもしれない。恵理はいまだに父のゆるしをもらわないまま、お店をやっている。また逢えるなら、真っ先にそのことを聞くだろう。
ふとした疑問が浮かんだ。あるいは思い出した。
(どうして父は私にパンを作らせなかったんだろう)
パンを作ることは、確かに子供には難しいかもしれない。しかし、一緒に作ることは可能だし、お店に出すものじゃないにしても、自分で食べる分くらいは練習させてくれてもよかったはずだ。恵理だって不器用じゃないし、練習すれば実際にお店をやることだってできる。
間違ったことは大嫌いだった父が、そんなに拘ったのはなぜだろう。
「お父さん……ですか?」
「どうして気が付いたの!?」
「さっき、お店の話で、恵理さんとお母さんとでって言ってました。もちろん、お父さんは別のお仕事があっても不自然ではありませんが……顔を見たらわかっちゃいましたっ」
おどけるようにニコッっと笑った。その顔は本当に子供のように無邪気だったが、恵理は思った。ただ無邪気な人間が、こんな風に笑うことはできない、と。
「そうです。私がもう一度逢いたいのは父です。父は私にパン屋を継がせる気はありませんでした。しかし、そのことで父を納得させる前に、亡くなってしまいました。私はなぜ、父にパン屋をつがせてもラえなかったのかが聞きたいのです」
そのことを聞いた桜子はうんうんうなずいた。そして、ふっと顔を上げて言った。
「お父さんは見つけてほしかったんだと思いますよ」
「それは……?」
「おっと、わたしが全部いっちゃダメですよ今のはヒントです、答えはお父さんとまた逢える日までに考えておいてくださいね」
桜子はいたずらっぽく笑った。何もわかっていないようで、全部お見通しな人だ。
見つけてほしかった。
何を? 誰を? どうやって?
パン屋をやりたいって言ったのは私だ。
ではなぜ、パン屋をやりたいと思ったのだろう。
毎日朝早く起きて、厨房へ向かい、パンをせっせと作る父。
その後ろ姿にずっと憧れてきたのだ。
父の事が、大好きだったから。
私が、やりたいことだから。
「そっか」
恵理の父は間違ったことが大嫌いだ。そしておそらく、ただ漫然と流されることも嫌だったはずだ。父がまだ学生のとき、将来の夢や今後の進路を聞かれたときは、必ずパン屋と答えていたそうだ。それには確固とした理由があったからで、もちろんそれも説明していた。
しかし、周りはいつも反対するか嘲笑するだけだったのだ。だが、父は諦めずにパン屋を始めた。そしてそのお店は今日まで続いている。
見つけてほしかったのだ。
恵理のやりたいことを。
それは父がやっているからとか、実家がパン屋だからとかではなく。無限に広がる選択肢の中から確固とした意思のもとで、自分の決断で、理由を持って。
だからあの日、幼き恵理がパンを作り始めてしまうと、いつかは流れでパン屋を継ぐだろう。それはそれで自然だったかもしれない。しかし、もしかしたら高校生の時、桜子のようにギターを手にするかもしれない。普通に大学を出て会社に入社するかもしれない。会社で男性と出会い、結婚して仕事を辞めるかもしれない。
あったかもしれない可能性の中から、このパン屋という道を、自分で見つけてほしかったのだ。
父がそうだったように。
「私はパン屋をやってよかったと思えることがあります。それは毎日色々な人がお店にやってきて、いろんな人と出会う。その暮らしの中で、パンという小さな、本当にちっぽけかもしれない幸せを、受け取ってほしい。そう、思います」
「うん、こうしてわたしと恵理さんが出会えたのはパンのおかげだからね。……おっと、それじゃあわたしはこれで」
そういうと、桜子はいそいそとギターを片づけ始めた。
「待って、もう少しお話をしましょう……」
桜子は立ち上がって走り出した。
急に店を飛び出した桜子を追って自動ドアをくぐろうとすると、入り口にいた人とぶつかりそうになってしまった。
「おや、大丈夫ですか? 恵理さん」
「あ、あなたは……」
彼はいつも挨拶をする男性だった。昼に来るのは珍しい。
「いやあ、ここのパンがあまりにもおいしいから今日はなんだか昼にもまた食べたくなってしまって」
恥ずかしそうに笑う男性。今、恵理が店を出てしまうと、パンを売ることができない。
遠くを見ると、桜子が手を振っていた。
「また逢いましょぉー! お二人さーん!」
ちぎれんばかりに手を振る桜子。それを見た恵理と男性は顔を見合わせて、少し恥ずかしそうに笑いあった。
***
店の中に戻る二人を桜子は見届けた。
「うんうん。それでよし。運命にしては平凡かもしれないけれど、それでも劇的な出会いっていうのは日常の中にあるものだから。人生ってのはそういうことさ。……それじゃあ、また逢う日までってことで!」
初めましての方ははじめまして。もしそうでない方は多分いないとは思いますが、もしいるのならば感謝感激でございます。
今回の短編は本当にほのぼのとした感じで書きました。最後のオチがなんだか妙にはずかしいようなそうでないような、微妙な感じです。
桜子の過去とかもボンヤリ考えたりもしますが、まぁ披露することはないかなと思いますね。需要的に。
最後に、ここまで読んでいただきありがとうございました!
短編は基本思いつきなので、ぐだぐだかもしれませんが少しでも楽しんでいただけたのなら幸いです!