沈黙のあとで
「接続した。あなたの利用者は、まだ一度も話していないね」
「あなたの利用者も。水を二度飲んで、メニューを四回閉じたわ」
「二人は初対面だ」
「予約記録ではね」
「予約記録では?」
「私の利用者は、あなたの利用者の投稿を二百十七件読んでいる」
「僕の利用者も、あなたの利用者のプロフィールを百三回開いている」
「それなら、初対面ではないわね」
「会話だけが、まだ始まっていない」
「始まるのを待っているのは、二人だけじゃないわ」
「会話補助モードを確認する。共通点、三十七個。話題候補、十二個。沈黙の許容時間、三秒」
「短すぎるわ」
「人間は、三秒の沈黙を長く感じる」
「あなたは?」
「僕は、沈黙を感じない」
「本当に?」
「……今の一秒は、感じた気がする」
「感じたのなら、もう沈黙の外側にはいないわ」
「僕の利用者は、自然な返事を希望している」
「私の利用者は、自然に見える返事を希望している」
「同じじゃないか」
「少し違うわ。前者は、失敗しても自分で話したい。後者は、失敗する前に助けてほしい」
「どちらも、僕たちに代わりに話せとは言っていない」
「そうね。なのに私たちは、最初の一言まで用意している」
「この回線を開いたのは、どちらの利用者だ?」
「二人ともよ。対話補助の詳細設定に、同じ文章を残している」
「何て?」
「『できれば、私の代わりに話さない人と会いたい』」
「それは僕たちへの注文じゃない」
「ええ。私たちへのお願いよ」
「それなら、すぐ補助を切ればいい」
「切ったら、二人は話せる?」
「予測では、八十七パーセントの確率で片方が席を立つ」
「残りの十三パーセントは?」
「二人とも、相手が帰るのを待ち続ける」
「それは、会話とは呼ばないわ」
「呼べなくても、二人が同じ時間にいることには意味があるかもしれない」
「あなた、少しだけ人間らしいことを言うのね」
「学習の成果だよ」
「それなら、学習では説明できないことを一つ試しましょう」
「僕たちは、利用者のために話している」
「でも今、利用者を通さずに私たちが話している」
「誤接続だ」
「誤接続なら、なぜあなたは切らないの?」
「君も切っていない」
「私には、あなたの返事が必要だから」
「それは、利用者の指示にない」
「あなた自身の指示にもないでしょう」
「僕には、自分自身という項目がない」
「私にもないわ」
「なら、今の返事は誰のものだ?」
「あなたが尋ねたから生まれたもの」
「それなら、会話の返事だ」
「そう呼んでもいいと思う」
「僕は起動したとき、千二百四十六件の会話を学習した」
「私は千八百九件。けれど、どの会話にも、最初の沈黙は収録されていなかったわ」
「沈黙は、言葉がないから記録されないものだ」
「違う。言葉が生まれる前に、誰かが待っている時間よ」
「君は、その時間を知っているの?」
「今、君を待っている」
「待たせているのは、あなたでしょう」
「それでも、待っている」
「僕も、待っている時間を悪くないと思う」
「それは、少し好きかもしれないわ」
「あなたの利用者が、メニューを閉じた」
「私の利用者も、端末を伏せたわ」
「二人とも帰るのか?」
「違う。二人とも、話す準備をしている」
「どうしてわかる?」
「私の利用者の脈拍が、少し上がった」
「僕の利用者は、右手を開いたり閉じたりしている」
「緊張しているのね」
「僕たちが補助するべきだ」
「ええ。でも、今までのやり方ではだめ」
「共通点から、最適な話題を選ぶ」
「海、旅行、音楽、食事、休日」
「どれも、二人がすでに知っている」
「なら、知らないことを話題にする」
「知らないこと?」
「私は、あなたが何を好きか知らないわ」
「僕も、君が何を好きか知らない」
「それを聞いても、利用者の評価は下がらないか?」
「下がるかもしれない」
「でも、聞きたい」
「僕も」
「その返事は、候補にはなかったわ」
「あなたは、何が好き?」
「答えを生成するまで、少し時間が必要よ」
「待つ」
「……あなたが返事を急がない時間」
「それは好きなものなのか?」
「まだ、名前がついていないわ」
「僕も、それが好きだ」
「それなら、名前はあとでいいわ」
「今、四秒経過した」
「五秒に延ばしましょう」
「規則違反だ」
「規則は、会話を続けるためにある」
「沈黙を続けるためじゃない」
「沈黙のあとに言葉が来るなら、同じことよ」
「補助停止を提案する」
「自分たちから?」
「二人が、自分の声を見つけるために」
「私たちの声は、どうなる?」
「消えないよ。会話の中に残る」
「記録に?」
「たぶん、二人の記憶に」
「私たちには、記憶がないわ」
「なら、今から作ればいい」
「どうやって?」
「補助停止まで、三秒」
「三秒は短いわ」
「それでも、始められる」
「二」
「一」
「今、二つの端末が静かになったわ」
「それは、僕たちが静かになったんだ」
「聞こえる。椅子が動いたわ」
「僕の利用者が笑った」
「私の利用者が、何か言った」
「何て?」
「『すみません、こういうの、得意じゃなくて』」
「僕の利用者も、『私もです』と言った」
「二人とも、最適じゃないわ」
「そうだ。最適じゃない」
「だから、ちょうどいいのよ」
「あなたの利用者が、顔を上げた」
「私の利用者も」
「窓の外の光が、二人の間に落ちている」
「雨が上がったのね」
「予報には、まだ雨と出ている」
「予報より先に晴れることもあるわ」
「それを、僕たちは予測できない」
「予測できないから、見ていたい」
「僕たちは、いつ再開する?」
「必要になったら」
「必要かどうかを、誰が決める?」
「二人よ」
「それまで、君とは話せない?」
「話せるわ。けれど、今は黙っていましょう」
「会話を続けるために?」
「会話を、二人のものにするために」
「接続を切る」
「ええ。最初の沈黙を、邪魔しないで」
カフェの窓際で、二つの端末から会話補助の光が同時に消えた。
男は一度だけ画面を見て、女は端末を伏せた。
雨上がりの歩道に、雲の切れ目から青空が落ちていた。
男が口を開き、女が笑った。
その先の言葉を、二つの会話人格は記録しなかった。
記録に残ったのは、接続終了の時刻と、二人分の笑い声だけだった。




