水のない川
夏のホラー2010参加作品です。
その地は、病んでいた。
水は澱み、風が嫌な匂いを運んで来る。
一体いつになれば、解放されるのか。
睨んだ空は、いつものように重くたれ込めていた。
瞼を開けると、優香は顔にはりついた髪の毛を払いのけた。嫌な夢を見たような気がする。よどんだ空気が、今も身体にまとわりついているような感じだ。
冷たい水で顔を洗い、窓を開けて朝の空気を全身で吸い込む。あいにく外は雨降りだったが、それでも少しほっとした。
「もう出かけるの?」
キッチンで軽い食事を取っていると、武司が顔を出した。
大学の後輩だった武司は、ルームシェア。たまに相談相手にもなってもらっている。年の割には博学なので、話をする分には面白い相手だが、優香のポリシーとして年下は恋愛対象外だ。
「おばあちゃんが待ってるから、今日は早めに病院に行くつもり」
「そっか、大変だね」
自らもコーヒーを入れながら告げる武司に、優香は首を振った。
「別に。私は、着替を持って行ってるだけだから」
認知症でずっと入院していた祖母が、回復の兆しをみせはじめた。それは、本当に喜ばしい事なのだから。
寂れた山村に一人で暮らしていた祖母は、家で転んだ拍子に足を折り、近所の人が気づいた時には丸二日間飲まず食わずで脱水症状を起こしていた。
毎日電話していれば。いやこちらに呼び寄せていたらと、祖母が運び込まれた病院で両親は悔やしそうに言った。
長引く入院の間に認知症を発症し、今では家族の顔を見ても笑うこともなくなった、祖母。彼女をひとりきりにしていた負い目から、両親の足はどんどんと遠ざかり、病院の近くに部屋を借りていた優香が毎日着替えを持って行くようになっていた。
「おばあちゃん」と話しかけても、ガラスのような目が向けられるだけ。昔のように「よく来てくれたねぇ」と言ってくれない。そんな寂しさにも、いつか慣れて。ただ、機械的に病室に着替えを届け「今日の天気」を報告する。そんな毎日。
そんな祖母が優香を「見た」のは、半月ほど前だ。「今日は、何日だったかねぇ」。そう言って、祖母は優香を見た。
驚きながらも「七月の二日」だと告げると今度は大きく頷き、「だったら、もうすぐお祭りだねぇ」と笑った。
慌てて両親に電話をした。両親は喜んで飛んで来たが、「家に帰る。帰しておくれ」という祖母の言葉に何と返答して良いか解らず――結局お茶を濁すようにして家に戻ってしまった。
あれから、もう十日あまり。
そろそろお婆ちゃんの相手、代わってくれたら良いのにと優香は思う。
「まぁ、言えないよなぁ。家がないなんて」
祖母が生まれ育った山村は、とっくに無人となっている。地震と大雨による土砂崩れで、人が住める状態ではなくなったと言うが、元々人口が少ない臨界集落。そうなるのも時間の問題だったと言われていた。
そんなことを知らない祖母は、顔を合わすたびに「いつになったら家に帰れるのか」とせっつく。
先祖代々守って来た祖母の家は、もう無いのに。祖母が楽しみにしている「お祭り」だって、もう何年も行われていないのに。
梅雨時の日本は、今日も雨。じめじめと湿った空気を身に纏わせて病院に向かう。
「おばあちゃんおはよう。今日も雨だね」
「ああ、おはよう。優ちゃん」
病院に着くと、祖母がにこにこ笑いながら迎えてくれた。
「頼んだやつ、買って来てくれた?」
「う、うん」
そうら、来た。そう思いながら優香は、着替えの入ったエコバックの中から紙袋を取り出す。
祖母に頼まれていた端切れだ。そんなものをどうするのかと聞けば、「祭の為の飾りを作る」という答えが返って来た。毎日これでは、正直うんざりする。
元気になったのは嬉しいけど……。
端切れを使って、器用に人形を作りはじめる祖母を後目に「そろそろ、いかなくちゃ」と立ち上がる。
「帰りに、また寄るからね」
「じゃあ、今度は凧糸持って来てくれる?」
「はいはい、解りました。じゃあ行くね」
「行ってらっしゃい」
お婆ちゃんに、「行ってらっしゃい」と言ってもらえるなんて、ちょっと前までは考えられない事だったのに……そう思うと、やっと優香のおもてに笑顔が浮かんだ。
少し、晴れやかな気分で会社に向かう優香の頭上には、やはり梅雨時の雲が重くのしかかっていた。
玄関先に飾られた、人形?
綺麗な柄の衣装を纏った、虚ろな顔の人形とお供え物の野菜、動物。
ああ、そうだ。祭が近いのだ。
どんよりと空を覆う雲を、恨みを込めて見上げる。
もう少しだ。もう少しでこの雲も切れる。そうすれば……。
エアコンの効いた電車の中で、うつらうつらとしてしまったらしい。
危うく乗り過ごしかけた事に気づいて、優香は慌てて列車を降りた。駅の近くの手芸洋品店で凧糸を買い、祖母が待つ病室に向かう。
最近、よく解らない夢を見る事が多いような気がする。
夢など、目が覚めるとたいてい覚えていないものだが――夢の中に出て来た人形があまりにリアルだったので、印象に残っていた。
そうだ、あの柄は今朝、祖母に渡した端切れと同じ。
そして、病室で優香を迎えてくれたのも、夢で見たのとよく似た飾りだった。祖母の手がそれらを凧糸に繋ぎ、飾りを作り上げる。
何だか、気持ち悪くなってきた。
いや、きっと祖母の事や祭りの事を考えすぎて、あんな夢を見てしまったのだろう。そう思って、自分を納得させる。
「お婆ちゃんの村のお祭りって、どんなお祭り?」
尋ねると、祖母は懐かしそうに目を閉じる。
「神様に感謝してね。二年に一度大きなお祭りを開くんだ。みんな玄関にこんな飾りを飾って、豊穣と家内の安全を祈る」
懐かしそうに告げる、祖母。昔に行われた祭の様子を、反芻しているようだ。
「初日は『神送り』。笛や太鼓の音色の中を、村人はみんなお面をつけて、神様を送りに行くんだ」
「お面?」
「そうだ、うっかり忘れる所だった。お面、どこに閉まったかねぇ。家に戻ったら、すぐに探さなくちゃ……」
なんだか、それは優香が想像したのとは少し違っていた。お祭りなのに、神様がどこかに行くのが不思議な気がした。
「神様、何処に行くの?」
優香の言葉に、祖母は小さく首を振る。
「さあ、どこかねぇ。神様は三日間のお祭りの間、お出かけになる。そして三日後にまた帰って来なさる。そうして豊穣が約束されるんだ」
祖母に聞いた話を、優香は家に帰ってから武司に話してみた。
武司は大学で民俗学を囓っていたから、そういう話にも多少は詳しいかと思ったからだ。
「ああ、よくあるよ。そういうの」
想像どおりと言うべきか、当たり前のように武司が言うので、少しだけむっとする。
「と、言っても俺はフィールドワークは苦手だったから、資料を読んだだけだけど」
無意識に不機嫌な顔を作る優香に気づいたのだろう。武司が慌てて付け足した。
「面を被るのは、境界線を曖昧にする為。祭の時には、神様側にいるっていう意味だと思う。人形は、つるし雛の一種かな? ま、家内安全を願ってるんだったら、女の子の祭りに飾るのが一般的だと思うけど……。もっと別の――怖い意味があると推測するけど、聞きたい?」
「どうしようっかなぁ」
わざと、返事をはぐらかす。聞きたいような、聞くのが怖いような。
優香の心に浮かぶのは、夢で見た人形の虚ろな顔。
願いを込めるなら、もっと可愛い顔にしないだろうか? 玄関先に下げられた飾りは、つるし雛のように華やかなものではなく、何か儀式めいたものだった。いや、人形とは本来そういうものではないか?
そこまで考えて、おかしくなった。
馬鹿みたい。夢で見たものとお婆ちゃんの話がごっちゃになって、変な想像をしてしまっている。本当は早く、お婆ちゃんに事実を告げるべきだって解っているのに。
「ま、どうせお祭りは行われないんだし」
優香の言葉に、武司は驚いたようだ。
「そうなんだ? てっきり、おばあさんの具合が悪いから、お祭りがあるのに連れて行ってあげられないんだと思ってたよ。だから、せめて写真でも撮って来てあげればって……」
武司は基本、優しい。特に年寄りには親切だ。多分、お婆ちゃんっ子だったのだろうなと優香は勝手に想像していた。
「臨界集落だって言われていたしね、お婆ちゃんが入院する前からお祭りなんか行われてなかったんじゃないかな」
「臨界集落ね」と、武司がいつになく憎々しげに呟いたので、優香は驚いてそちらを見る。
「そうやって、忘れて行くんだな。昔から守り伝えて来た、大切なものを」
「なによ、むきになっちゃって」
毎日、新しいものが生み出される。それに伴い古いものが忘れ去られて行くのは、当然の事だ。だがあらためて指摘されると、それはとても罪深い事のように思われた。
「ね、優香さん。今度の土日あいてる?」
何かに思いついたように、武司が言う。
「え? まぁ、お婆ちゃんが入院中だし」
若い女が休日に何の予定も入っていないことを、とりあえず祖母のせいにしておいた。
「その村に行ってみない? 俺、すごい興味が湧いてきた」
目を輝かせる、武司。羨ましいなと、優香は思う。
若い女が休日に予定が入っていないのもゆゆしきことだが、今の武司のようにわくわくとした目をしていた頃が、ひどく遠い日だったような気がして。
「でも、道だって通ってるかどうか……」
「その時はその時。行くだけでも価値があるのが、フィールドワークというものなのだ」
と、数分前にその「フィールドワーク」が苦手だったと言った口がよく言えるものだ。
苦笑しながら、それでも優香は頷いていた。武司を見ていると、心のどこかでわくわくとしている自分を自覚しながら。
まだ、雨は降り続いている。
だが、この雨がやがて止むことは解っていた。
雨が止めば、川に魚が戻って来る。
そうしたら……。
武司の運転で訪れた場所は、優香の想像よりも酷いことにはなっていなかった。
少なくとも、道はある。陥没した場所に車輪を取られたり、倒木をどけたりとなかなかスリリングな旅ではあったが、とりあえず道は続いている。
それでも、最後の難関には車を降りずには居られなかった。新たな地滑りがあったのだろう。道が完全にふさがっており、迂回路――いわゆる「けもの道」――には車で入る事は不可能だった。
「こういう山村に伝わる信仰ってのは、基本的にシャーマニズムだよね。古い土地は負の力をため込みやすいから、それを鎮めるために祭を行う」
慣れない山道を足を引きずりながら歩く優香に、武司が饒舌に語る。
なるほどと、優香は思った。だから神様にも、リフレッシュが必要なのかもしれない。ずっと同じ場所に留まっていたら、良くない考えに陥ったりするものだ。昨日までの優香がそれだったように。
「例の人形なんだけど。実は最初にピンと来たのは『生け贄』だった。最初は人間を捧げていて、それが形骸化して「人形」になった。面を被るのも、顔を隠す=別人になるという風習じゃないかな」
「よく、想像だけでそこまで言えるね」
怖い話になってきたので、軽く武司を睨む。
どうやら武司は今日までにこの辺りの風習についてかなり、文献を読みあさっていたらしい。無駄な事に費やされる武司のエネルギーに、正直感心する。
「想像だけじゃないよ。実はこの辺りにもあるんだよ。子供を攫う鬼の伝説」
優香の心臓が、不意に早鐘を打った。
「あ、別にその村じゃないから」
振り返ってにやっと笑う武司に、とりあえず一発お見舞いしておく。
嫌な感じがした。
最近になって見る、夢。目が覚めるとよく覚えていない夢が断片的に脳裏に浮かび、警笛を鳴らしている。
「川」
「川?」
「川があった。村に行くまでに。祠に神様をお迎えに行った後で、そこに行くの」
もしかしたら優香は昔、その祭を見たことがあるのかも知れない。だから祭が気になるのか。だから、あんな夢を見るのか。
「待ってて。見てくる」
先に行く武司を、慌てて追いかける。ひとりになるのが、とても怖かった。
「川って、これ?」
先日までの雨水の、小さな流れ。よく見れば橋の残骸のようなものが、本来は道であった場所に続いている。
「すっかり枯れてるね。地形が変わったせいだろうな」
川に、水がない。優香には、それはとても危ういことのように思えた。何故か。
「ここを渡ったら、村?」
硬い表情で頷く優香に、
「ついたね」
笑顔を見せる、武司。それでようやっと、優香は気持ち落ち着かせる事に成功した。
優香達を迎えたのは、荒れ果てた集落だった。
皆が村を捨てた理由が解る。壊れた家、うち捨てられた、かつては家具であったものたち。
「おかしいな」
と、武司が告げる。
「さっき、祠があっただろう? 綺麗にしてあると思ったんだけど」
言われればその通りだ。途中で見かけた祠は、別段壊れた様子もなく、周りの雑草も刈り取られていた。
「誰かがお祀りしに来てるんじゃないの?」
道だって、悪路だったがちゃんと残っていた。かつての村民がたまに、お世話をしに来ているのだろう。
そんなことを考えながら、壊れた集会場の裏手に回る。
「うわ、なんだこりや」
武司が、素っ頓狂な声を上げた。駆け寄った優香もまた、その場にしゃがみ込む。
それは、白骨化した動物の死骸だった。ひとつやふたつではない、そこいらに骨が転がっている。
「何、これ?」
「解らないけど、もしかして何か住み着いてるのかも」
「怖い」
武司の腕を、握りしめる。
「もう良いよ。帰ろう」
「でも、優香さん」
「帰ろうよ。帰りたいの!」
心がざわつく。ここは、嫌だ。ここは――自分たちが居る場所じゃない!
武司の腕が、優香の肩に回された。
太陽の光に反射する男物の大きな腕時計の重みを肩に感じ、それで優香は自分が子供のように泣いている事に、初めて気がついた。
暗闇に、一条の光明が差し込んだ。
村人達が面をつけて私を招いている。そうだ、今日は祭なのだ。皆が面をつけている。ならば、私が何かも解るまい。
村人に混ざる。なんと楽しい事か。
空が明るい。これなら、川に泳ぐ魚だって見えるだろう。
これなら――きっと越えられる。
「駄目だ」
耳元で、声が告げた。
「やつらは、飢えている。もう手遅れだ」
電話の音に、目が覚めた。
村を出て、どうやって帰ったのか。いつ眠りについたのかすらも覚えていない。前を歩く武司の左腕に捕まって、歩いた。彼の左腕の、銀色の腕時計が時刻を刻むのを、ずっと見つめていた筈だ。
電話が鳴っている。
何コールか目に受話器を取った。病院。祖母が原因不明の昏睡状態に陥った。
何故? いきなり?
パニックを起こし、それでも支度を整える。何事かと起き出して来た武司に、何と説明したのかも覚えていない。
「送って行くよ」
いつの間にか、武司の車の助手席に座っていた。運転席では、武司が厳しい顔で前を見ている。
時計の音。武司の腕時計は、既に0時を回っていた。そうだ。確か今日はお祭りの日。
優香は祈っていた。
神様、お願いします。お婆ちゃんを助けて下さい。お祭りに連れていってあげたいのです。だから、神様。
――承知した。
はっと目を開ける。
病室の前に座っていた。両親が到着し、やがて様態が安定したと告げられる。
優香は大きな息を吐き、立ち上がった。
「行かなきゃ」
「優香さん?」
「神様に、お願いしたの。お祭り、やらなきゃ」
異質なものを見るような目で、武司は優香を見ていた。しばらくして小さく首を振り、頷く。
「解った。じゃあ、急いで準備をしよう」
家に戻り、優香もペットボトルの飲み物や軽食などを用意する。やがて大きなリュックを背負った武司が迎えに来た。
「お待たせ。じゃあ、すぐに出発しよう」
夜の山道は、とても気味が悪かった。それでも歩き続ける事が出来たのは、武司と一緒だからだろうか。「軽いから」と持たされたリュックを背負い、武司の手を取って夜道を急ぐ。
「今、何時?」
「四時前。今日は徹夜だな」
川に着くと、武司は背負ったリュックの中からロープを取りだした。手近な木にローブをくくりつけ、何かごそごそとやっている。
「準備完了。じゃあ向こうに渡ろうか」
水のない川を渡り、武司がロープを引く。ロープには、小さな何かが沢山、ぶら下がっていた。よく見れば、おもちゃのように小さな鯉のぼりだと解る。
「車の中で、優香さんが言ってただろ? 神様は魚の背を渡るって。形式だけだけど、これで道は通ったと思うよ」
そんなこと、言っただろうか? では夢を見ていたのは、帰りの車の中でのことだったのか。
「とりあえず、朝までここで待とう。優香さん、これ」
優香が背負ったリュックから綿毛布を出して身体に巻き付けていると、武司が女の面を取りだした。武司自身は、狐の面をつける。
「もしも、もしもだよ。他の人をみかけても、絶対に声をかけても、ついて行ってもいけないよ」
真剣な武司の口調に、どきんとする。もしかして、踏み込んではならない場所に踏み込んでしまったのではないかと、危ぶまれた。
「何故?」
「古い古い言い伝えで、この辺りには鬼が居たらしい」
「それは、聞いた」
「この祭さ、調べれば調べるほど、その鬼を鎮めるもののような気がするんだ」
人々のざわめきに、目が醒めた。
村はずれに居た筈なのに、いつの間にか祠の側に立っていた。
また、夢なのだろか。
武司を捜して周りを見回すと、無表情な人々が笑っていた。いや、あれは面を被っているだけ。
躍起になって、狐の面を探す。――いた。
少し離れた場所から、優香を伺う狐の面の男。それに少しほっとして、周りを観察する。
どこから湧いたのだろう。大勢の人々が祠の周りで浮かれ、騒いでいる。
(待ちに待った祭だ)
(やれ、めでたや)
(楽しや、これならきっと飛べようぞ)
皆が、天を仰ぐ。そこに広がっているのは、雲ひとつない蒼天。
(これならば、川の魚も見えようぞ)
笑い、踊りながら人々の列が川に向かう。優香も狐の面からはぐれないようにそれに続いた。
枯れた川には、鯉のぼりがぶら下がっている。
(おお)
(川に鯉が戻って来た)
風が吹いた。
鯉のぼりが舞う。
(いざ、参ろうぞ)
面をつけたものたちの中から、小さな何かが飛び出した。それは、軽やかな足取りで鯉のぼりを渡って行く。向こう岸へ。
拍手。
(神は去った)
(しばし、我らが時間ぞ)
残った人影が、ぱらぱらと村に戻り始めた。
「ほら、あんたも」
狐の面のものが、優香の手を掴んだ。逞しい左腕を見て、はっとする。時計がない。武司じゃない。
「何をしている? 早う」
武司は、他のものにはついて行ってはいけないと言わなかったか? 声をかけてもいけないと。
でも、逃げられない。
村では、宴会が開かれていた。
人々は面をつけたまま大鍋を囲み、酒を飲に交わしている。
「あんたのおかげで、久し振りのご馳走にありつけた」
狐の面のものが、優香に器を差し出した。何かの肉と野菜を煮込んだもののようだ。
首を振って、断る。ひどく、嫌な感じがした。
誰もが、久し振りのご馳走とやらに舌鼓を打っている。優香の事を気にするものはいない。
優香はゆっくりと数歩後じさり、十分に距離を取ると、脇目も振らずその場から駆けだした。
夢だ、これは夢なんだ。走りながら、自分に言い聞かせる。
昨日まで、無人だった村。そこで、眠ってしまって。そう、ひどく記憶が曖昧で……。
(もう、手遅れだ)
(奴は飢えている)
だから、その神を外に放ったのではないのか? この村を守るために。
やがて川が見えた。それで、安堵する。
ここを越えると、村から出られる。ここで武司を待とう。
そう思った時に、気がつく。昨日、武司が川に渡した鯉のぼり。
「綱が、切れている」
誰が? 何の為に?
神はここから飛び去った。これでは、帰ってこれない。
愕然と、その光景を見つめながら、優香は考えていた。
荒れた村、動物の死骸。「奴」は飢えていた
自分達は、何をしてしまったのだろう。何を立ち去らせ、何を残してしまったのだろう。
重みを感じて、優香は左手を見た。
いつから握りしめていたのだろう。金属の輝きを放つ――それは、時計の文字盤……。
お読みいただき、ありがとうございました。
実は怖いのは大の苦手なのです。この話をして、ホラー? と聞かれましたら。
「はい、ホラーです」とは……その、臨場感が溢れるホラーを期待された方には、「ごめんなさい」です。
別の何かに負けている気は自分でもしていますが、言い訳はしません。規定以内に治まったので、とりあえず満足しています。(それの、どこが言い訳ではないと?)
色々書いてしまいましたが、せっかくの「夏のホラー」。
怖気のちょこっとぐらい、感じていただければと思います。
ありがとうございました。