私は
お嬢様専用の茶葉にテテザを混ぜた時、口の中に何も入れていないというのに、じくりと苦みが広がった気がした。
一瞬でなくなったそれは、一瞬で忘れてしまう。落ち着いて、いつものように仕事をしているフリを続けた。
少しだけ辛い思いをさせてしまうけれど、これも、お嬢様のためだ。
ずっと言い聞かせてきた言葉をまた頭の中で繰り返す。お嬢様のため。お嬢様のため。お嬢様のため。
「お嬢様!」
ルイスさんの声は、聞いたことがないほど大きかった。ルイスさんもあんなに大きな声が出るんだと思った。
お嬢様の部屋から聞こえたその声に、使用人たちが慌てて駆けつける。私もその中の一人として紛れた。お嬢様を囲んで、皆が膝を折る。目の前の同僚が膝を折った瞬間、お嬢様の吐瀉物が見えた。
痙攣する指、嗚咽、ルイスさんの感情的な指示。
口の中いっぱいに、苦い何かが広がった。
死ぬわけがない。テテザについては、私もきちんと調べたのだ。この症状は、文献に書いてあった通りのものだ。私はこれを望んで、この少しだけ辛い思いが彼女のためになると思って、
「お嬢様! お嬢様!」
ルイスさんが叫んでいる。お嬢様、お嬢様。
私は、何のために、何をしてしまったのでしょうか。
□
「エリィゼ様、お加減はいかがですか」
メイドのシンシアは、エリィゼが倒れてからいうもの、毎日のようにそう尋ねた。尋ねてくるのはシンシアに限ったことではないが、その表情にエリィゼは毎日笑みを返す。今にも、不安で押しつぶされそうな顔をするのだ。
「とてもいいわ。ありがとう、シンシア」
元々、シンシアはラティカに来ること自体を迷っていた。それをエリィゼは知っている。日頃の言動から、獣人に対して忌避感があるということも認識していた。
今回の件で、その思いがより強固になってしまったのだろう。そう思うと、エリィゼは笑顔を見せるしかなかった。
シンシアの気持ちを、否定する気にはなれない。けれど、肯定することもできなかった。
エリィゼは、窓に向かいながら呟く。
「そろそろ外に出たいけれど、やっぱり怒られるかしら。散歩くらいはしたいものだけど」
文句のような言葉と共にカーテンを開け、庭園を見下ろす。そこで目に入った人物に、エリィゼは動きを止めた。
「……」
アルヴァルドが歩いていたのだ。
彼は、たまに護衛隊の演習に参加をしている。今日もそうなのだろうと思った。
とてもラフな格好をしている。知らない人が見れば、彼が王子だなんてきっと誰も思わないであろう。
(でも、所作はとても優雅だわ)
「エリィゼ様……?」
アルヴァルドを黙って見つめていたエリィゼに、シンシアが心配そうに声を掛ける。
「ああ、ごめんなさい。アルヴァルド様がいらっしゃったから」
「……お声を掛けられますか?」
「声を……」
声を掛ける。容易い行為だ。なのに、エリィゼははたと考え込んでしまった。
掛けるとしたら、どんな言葉を投げかければいいのかしら。
「ごきげんよう」? でも、挨拶をしたところでコレと言った所用はない。そしてそれは、二人で交わした『よろしくしない宣言』と相反するものでもある。
見かけたから、声を掛けただけ。
少なくとも、この契約のもとでは合理的ではない。
(そんなこともできないのね)
『よろしくしない』はエリィゼ自身が取り決めたようなものだ。ラティカの統治という共通の務めのため、最適解だと思って提示をした。
自分の愚かさが情けなくなった。こんな気持ちをくなんて予定はさらさらなかった。けれど、このがんじがらめは自身が起因なのだ。
声を掛けるという容易い行為さえ、縛ってしまう。
「いいえ。よろしくしないもの」
自分で決めた。ブレてはいけない。
後悔に似た重さを飲み込んで笑えば、シンシアは目を伏せた。胸の前で白い手をギュッと握る。そしてその震える手を戒めながら、シンシアはエリィゼに目を向けた。その潤みきった目に、エリィゼは思わずぎょっとする。
「申し訳ありませんでした……!」
そう言ってシンシアは膝から崩れ落ちて泣き出してしまった。
驚きが続き、エリィゼは目を丸くしながらもシンシアに近付いた。
クレアに叱られ泣いてしまう彼女を何度か見たことがあるが、こんなにも取り乱すような泣き方は初めて見たのだ。
「シンシア?」
「私がっ、私が入れたんです、紅茶に」
泣きじゃくりながら発した短い言葉に、エリィゼは頭を殴られたような気持ちになった。
シンシアが、毒を。
「どうして……」
「お、お嬢様は、こんなところにいて良い方ではありません! 富も名誉も十分に受けるべき御方です、こんな、こんなとこで、獣人と……!」
異様な雰囲気に気づいたのか、エリィゼの部屋に使用人たちがやってきた。泣きじゃくるシンシアを囲みながら「何があったんですか?」とエリィゼに問う。
「……」
何も答えられなかった。
獣人に対する差別があることは、よく知っている。シンシアがそういった思想であることも、承知の上だった。王都ではそれが当たり前であり、エリィゼの両親だって「こんなことになるなんて」と泣き濡れ、結局晩餐会にも来なかったのだ。
獣人と人間が交流をすることなど、先の晩餐会のような機会でもなければ存在しない。そしてそれは、どこまでも表層的だ。心からお互いを尊重して交流を深めようとする貴族は、全くいないと言っても過言ではない。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
シンシアの謝罪を見下ろして、エリィゼは一つの問いに襲われていた。
(私は、その差別意識を持っていなかったとはっきり言える?)
当たり前の空気を、当たり前としていた。
だから「よろしくしませんので」などと気軽に言えたのではないだろうか。
だから彼に対しての気持ちを自覚しても、一歩も歩み寄ることができない。彼が私のためにお菓子を作ってくれたことに泣きたくなるほど嬉しかったくせに、一つも伝えることができない。
シンシアが「お嬢様のため」にしたことは、本当に「お嬢様のため」なのだろうか。いや、彼女にとってはそうなのだ。彼女の当たり前が、自分の当たり前と重ならないのは当たり前だ。
(私の当たり前は、彼を、)
「エリィゼ様?」
「……大丈夫よ。シンシアを、どこか落ち着く場所で休ませてあげて」
「ごめんなさいお嬢様……! ごめんなさい……!」
シンシアを責める気持ちは全くなかった。ただ、彼女のしたことを思うと、何故か自分の言動全てがすくい上げられて、検査されているような気持ちになってしまう。
自分の当たり前が、誰かを傷つけてはいないだろうか。
ゆっくり考えたいようで、考えたくないような問いだった。
「ごめんなさい。少し、一人にさせてもらうわね」
その笑顔に、シンシアは再び泣き崩れた。アルヴァルドに声を掛けないと決めた瞬間と似た笑みだ。見ていられなかった。
そんな顔を見たいわけではなかったのだ。エリィゼの幸せを思っていたはずなのに、自分はエリィゼの幸せを、明確に履き違えていた。それがはっきりと分かってしまった。
そうやって分かってしまうほどエリィゼの幸せを考えていたはずなのに、どうしてこんなことをしてしまったのだろうか。
シンシアは謝り続けた。謝って済むことではないと知っている。それでも、他にできることがなかった。
シンシアの枯れない涙と謝罪に使用人たちはオロオロとするばかりだった。その気配を感じるたび、シンシアは涙を止めるきっかけを失ってしまう。そして何度も、謝罪の言葉を口にするのだった。




