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18/24

10秒未満

 午前中に比べると随分と軽くなった身体で、エリィゼは意気揚々と読書に勤しんでいた。

 夕食を食べる気にはなれなかったが、それでも変な汗や吐き気に悩まされないのは快適である。健康のありがたみを、改めて思い知る。


「?」


 そうやって本の続きに没頭しているだった。ドアの向こうで使用人たちがざわついている気配にふと気づき、耳を澄ませる。

 メイドたちの慌てたような足音と、メイド長であるクレアの上擦った声がよく聞こえた。


「エリィゼ様」


 ノックと共にクレアが声を掛ける。「ええ、起きてるわ」とエリィゼが答えると、クレアは寝室のドアを開けた。そして戸惑いの表情と共に「あ、あの」と言うのだった。


「?」


 常に快活であるあのクレアが、驚くほど戸惑いを露わにしていた。彼女は、雇用主であるエリィゼの父にさえ「そのような酩酊をする当主がどこにおりますか!」と叱責できるほどの気の強さを持ってる。だと言うのに、なんと珍しい姿だろうか。

 驚いたエリィゼは栞も挟まずに本を閉じ、クレアに問いかける。


「どうかした?」

「だ、旦那様が」

「? アルヴァルド様が?」

「お、お見舞いに」

「お見舞いに?」

「い、いらっしゃって、こちらに」

「こちらに……」

「今……」

「……え? 私の?」

「他に誰がいるんだよ」


 なかなか進まない二人の会話に呆れたアルヴァルドはそう言った。続けざまに「入るぞ」と告げると、エリィゼの返事も聞かずにずかずかと寝室へ入っていく。

 その姿にクレアは一瞬「不躾なっ」と声を上げかけた。だが、すぐに口を閉じる。エリィゼの表情が目に入ったのだ。


(まあまあ! まあまあまあまあ!)


 正直に言ってしまえば、クレアは気も我も強いエリィゼが獣人と結婚なぞ、絶ッ対上手くいくわけがないと思っていた。「メイド長として私が守らねば」と気合を入れてラティカにやってきたほどで、最初の方はアルヴァルドに対して敵意さえ持っていたのだ。

 それが蓋を開けてみれば、どうであろうか。少なくとも、これだけは今確かである。

 二人の邪魔をしてはいけない。

 空気のごとく気配を消して、クレアは寝室から出ていった。ババアの勘も、また当たるものであった。


「まあ……」


 クレアの退室に気づかないエリィゼは、クレアが浮かべた戸惑いの表情に人知らず納得していた。もっと言えば、エリィゼ自身もクレア同様に戸惑っている。言葉が出てこずに、口がぽかんと開くばかりだった。


「体調は?」


 挨拶もなしにそう聞いてくるアルヴァルドに、エリィゼはハッといつもの態度を取り戻した。すぐに「ありがとうございます」と返事をする。


「こんな姿で申し訳ありません。もう、随分楽になりましたわ」

「そうか」


 昨日は湯浴みをしていない。寝てばかりだったから髪の毛はボサボサで、パジャマだってお気に入りのものではなかった。朝から口紅だって引いていないのだ。彼の瞳に映る自分はきっと、陰気で覇気のない姿をしていることだろう。


(ああ、なんてこと)


 アルヴァルドと目が合うだけで、自分の全てが嫌になった。また変な汗をかいてしまう。

 今朝、クレアが湯浴みを提案してくれた声が反芻された。自分は何故、それを断ってしまったのだろうか。そんな疑問が思い浮かんだが、ひとえに『こんなことが起きるなんて全くもって想像していなかった』でしかないだろう。不測の事態としか言いようがなかった。


(……悔いても意味はないのに)


 どこか冷静にそう思いながらも、エリィゼはたまらず目を逸らす。一方でアルヴァルドは、一貫していつもの調子だった。エリィゼの返事を聞くや否や、低い声で短く返す。


「ならいい」


 そして身を翻し、ドアへと向かっていくのだった。


「えっ……」


 どうやらこのまま、帰ってしまうらしい。あまりの呆気なさに、エリィゼは未だ働かない頭のまま再度口をぽかんとさせた。そうこうしているうちに、アルヴァルドは寝室から出ていってしまう。


「だ、旦那様? もうお帰りに?」


 アルヴァルドが出ていったドアの向こうから、クレアの声が聞こえた。再び戸惑いの色を隠せずにいるクレアは「お紅茶、間に合いませんでしたわね……」と呟きながらエリィゼの元へとやってくる。


「いただいたプリン、いかがしましょうか?」


 クレアの問いかけに、エリィゼは思わず聞き返した。


「プリン?」

「旦那様が持ってきてくださったんです。一緒にお食べになるのかと思って、お茶の用意をしてたんですが」

「……」


 10秒もあったか分からない。

 そんな短い会話のために、彼はブルーガーデンから歩いてきたのだ。きっと手作りであろうプリン持って、ラティカ城の端から端まで、脇目も振らずに、一人で。

 私のために。そう思うことには、恥ずかしさを感じた。でも彼が、あの彼がそんなことをしてくれるなんて。

 不意に、婆やが作ってくれたプリンのことを思い出す。彼女はいつも、固めのプリンをあえて作ってくれていた。

 あのプリンやマフィンがなければ、私はいま、ここに存在していない。


「召し上がりますか?」

「……いいえ」


 涙が溢れそうだった。どうしてかは分からない。まだ、毒が悪さをしているのだろうか。きっとそのプリンを食べてしまったら、涙が止まらなくなる。そんな気がした。

 エリィゼの返事を聞いたクレアは「まあまあまあ。まだ体調が優れませんのね」と納得したように言った。慌てて「後でいただくわ」と付け加えると、クレアは笑う。


「誰も奪いやしませんよ」


 誰も私を傷つけない。

 そう思ってしまうと、やっぱり涙が出そうになった。

 紛れもなく、大切に育てられたと思う。

 けれど、ラティカに来てからは、それ以上のものを貰っているような気がしてならない。


 その夜エリィゼは、たかだか10秒の逢瀬を何度も何度も思い返した。それだけで、何もいらないように思えた。

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