人を病人みたいに
「あら」
ルイスが置いた紅茶を見つめ、エリィゼは驚いたように呟いた。明らかに、いつもと違う。ルイスがこんなことをするなんて、と不思議にも思った。
「ねぇ、ルイス」
「何でしょう?」
「お砂糖が一つしかないわ」
「はい、ないです」
「どうしてかしら」
「昨日ご自身で仰られていたじゃないですか。良くない習慣だって」
「まあ」
突然の反乱。エリィゼにとってはそれほどの驚きだった。
何だかんだと今まで制限をされたことがなかったのだ。だと言うのに、なんと急な話だろうか。
ルイスらしくない行動に戸惑いながらも、エリィゼはなけなしの砂糖を紅茶に落として言う。
「それにしても、少し極端じゃないかしら」
「本当は一気に断つ方が望ましいんですがね。発狂されたら困るので、折衷案です」
「人を病人みたいに」
「似たようなもんでしょう」
「まあ酷い」
紅茶を少しだけ口に含むと、懐かしさすら感じる渋みがすぐに口内を襲ってきた。
まぁ、悪くはない。悪くはないけれど、胃がきゅうと萎み、わずかばかりに唾液がこみ上げてくる。長らく忘れていた刺激のように思えた。
「こんなに苦いものだったかしら」
「完全に麻痺してますよ、アンタ。やっぱりリハビリからですね」
「まさか本気にされるなんて思ってもみなかったわ」
「俺も、まさか健康を気にしておられるなんて思ってもみませんでしたよ」
「それは……」
別に、自暴自棄でやっていたわけではない。
短命を望んでいたわけでもない。けれど、どうしてもやめられなかった。エリィゼにとっては、そうする以外の方法が思い浮かばなかったのだ。
(じゃあ、本当はやめたかったのかしら)
そう自問する。砂糖でコーティングされていない紅茶が、胃の中でぞぞぞと蠢いている気がした。拒否反応のようなそれに、じんわりと額に汗が滲む。
(アルヴァルド様に、言い訳したみたいだったわ)
昨日の自分を思い出して嫌な気分になった。
いつものように堂々と「原動力ですから」と言ってしまえば良かったのに、罪悪感に似た感情でそれが叶わなかった。彼といると、知らない自分が顔を出す。時々、それがすごく苦しい。
(蟻だったら良かったのに)
蟻だったら、こんな感情に苦しむこともない。ただ、砂糖をめがけて生きているだけで良いはずだ。
それでも自分は人間なのだ。人間の感情というのは、どうしてこんなにも制御不能なんだろう。
「くるしい……」
視界の端で、何かが光っている。
「お嬢様?」
ルイスの声が随分遠くに聞こえた。
チカチカと瞬く光が、視界の隅から中心へと移動していく。胃そのものが蠢いている。頭が重い。呼吸がしづらい。身体の軸が揺れ、保っていられなかった。
「お嬢様!」
ルイスの手が自分の身体に触れた気がしたが、どこを触れられたかは分からなかった。視界がどんどん暗くなる。苦しい。苦しい。
アルヴァルド様。
□
ドンドンドン!
血相を変えたエドガーが、アルヴァルドの自室のドアを叩く。自分でも驚くほど指先が冷えていた。
「アルヴァルド様、緊急事態です」
「入れ」
エドガーの切羽詰まった声にアルヴァルドはすぐに応える。部屋に足を踏み入れるや否や、エドガーは声を上げた。
「エリィゼ様が倒れられました」
「は?」
エドガーの滅多に見せない表情に、事態の重さが垣間見えた。
普段のアルヴァルドであれば、まずはエドガーの報告を黙って聞くだろう。戦場においては全体像を知ることが何より先だ。その癖は、退役した今でも当然のように残っていた。
「医者は? 何があった? 生きてるのか?」
だというのに口から出てきたのは、冷静さの欠片も無い言葉だった。自身の混乱にも混乱してしまい、アルヴァルドは眉間に皺を寄せる。
逆に、主人の混乱を目の当たりにしたエドガーは、少しだけ冷静さを取り戻していた。
「命に別状はないそうです。いま、医師に看てもらっています。症状からして、毒の可能性があると」
「毒……?」
「アルヴァルド様のお身体には何も?」
「問題ない。そもそも厨房が違う」
「ええ、本日エリィゼ様はホワイトガーデンの厨房で作られたものしか口にしていないそうです」
「夕食に毒が?」
「分かりません。ですが、エリィゼ様だけに症状があるところを見ると、何者かに盛られた可能性もあります」
少しずつ冷静を取り戻したアルヴァルドは、ジッと思考を巡らせる。
通り魔事件は恐らく収束した。あれだけの件数がありながら城内には一つも被害がなかったことを考えると、権力者への不満からくる犯行ではなかったのだろう。故に、エリィゼの件とは関係がないように思えた。
しかしながら、そうであるなら不可解すぎる。
エリィゼを殺す理由が誰にもどこにもないのだ。グラティアナもステラフォードも、戦争の再開だけは避けたいだろう。
もちろん個人的な恨みという線もある。だが、一部性格に難はあるものの、基本的にエリィゼは温厚で温和な人間だ。城内において彼女を悪く言う使用人はほとんどいないと言える。
「……」
一人だけ、エリィゼに敵意を向ける男はアルヴァルドの頭の中にもいた。
けれど、殺して何になると言うのだろうか。個人的な恨みだけで国のパワーバランスを崩すようなクソ野郎なのか。そんな度胸もなさそうに思えたが、そこまでの馬鹿である可能性も捨てきれはしない。
「アルヴァルド様」
「……ホワイトガーデンの調査を。今日以降、食事はブルーガーデン側が提供するように調整しておけ」
「承知いたしました」
「今のところ怪しいやつはいるのか?」
厨房が分かれていることを考えると、必然的にホワイトガーデン側に犯人がいる可能性が高い。城内といえど、中央執務室以外はお互い不可侵の領域だ。アルヴァルドの知らないところで、何かしらの芽があってもおかしくはなかった。
「ルイスさんに後ほど伺ってはみますが、私が知る限りではここ数ヶ月新しい使用人は雇っていません」
「そうか」
頭がまとまらなかった。自分がやるべきことなど限られているというのに、そうと分かっていても様々な思考が浮かんでは、消えていく。
考え込むように黙ってしまったアルヴァルドに、エドガーは笑った。
つい数分前まで冷たかった指は、いつのまにか体温を取り戻していた。確証はない。けれど「大丈夫だ」と思った。
(お二人が、前に進まないわけがない)
アルヴァルドの混乱をよそに、エドガーはそう確信する。ゆっくりでいい。二人は、きっと。




