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暗雲

 暗い夜道を歩く青年は、足音に追われていた。

 その足音は紛れもなく彼を狙っている。だが、当人には心当たりに思えることが全くなかった。あるとすれば、家で待っている妻くらいだろうか。「最近は物騒なんだから」と、今朝も言われたばかりだった。なのにこんな時間まで飲み歩いた自分を、妻はひどく怒っているだろうと思う。

 足音は、みるみるうちに彼のすぐ後ろまでやってきた。気づけば足音の主に引っ張られ、青年はあっという間に路地裏の地面に叩きつけられる。理不尽な拳と靴の裏に耐えながら、彼は深く後悔した。

 妻の愛ある言葉を、何でもないように流してしまった罰のように思えた。



 □



「昨日もまた、二件の被害が確認されました。切りつけと、暴行です」

「まだ捕まらねぇのか」


 エドガーの報告に、アルヴァルドがそう強く言った。彼自身は強く言ったつもりがなくとも、その声には明らかに怒りが込められている。エドガーはその怒りを受け取ることなく続けた。


「見回りは継続していますが、深夜から明け方にかけて、まるでルートを知っているかのように行われています」

「こうなってくると城内に犯人がいるってことになりません?」

「ルイス、軽率よ」

「失礼しました。で、被害を受けた方はまた人間ですか」

「はい。26歳の男性です。路地裏に連れ込まれ、何度も殴打されたと」

「うわぁ、深夜にそれされたらもう出歩けませんね」


 ここ一ヶ月、ラティカでは通り魔的な事件が何件も確認されていた。

 初めは小さな被害からだった。服や露店のカーテンへの切りつけ、ドアや雨樋の人為的損傷。非行の一部かと思えるような、どこにでもある軽犯罪が頻発したのが始まりだった。

 もちろんそれだけであれば、城主会議で取り上げるような事件ではない。けれど、その事件たちは徐々に形を変えた。

 対象がモノではなくヒトへと変わったのだ。そして、狙われるのは当然のように『人間』だった。

 その偏りに気づいたヒトから、波紋のように不安が伝播していく。まるで、得体の知れない魔物について話すかのように人間たちは囁く。

「これは獣人による犯行ではないか」と。


「その方のお怪我は、大丈夫なのかしら」

「ええ。治療を受け、すでに自宅に帰っております」

「そう……」

「明らかにエスカレートしてやがるな」

「はい。住民たちも怯えています」

「昨夜は俺も街に出ていたんですがね、雰囲気は最悪でしたよ。『獣人お断り』なんて看板立てる酒場もあるくらいで」

「主人の前で堂々とした懺悔だな」

「執事でも夜遊びくらいしますよ。うちのお嬢様はそんなことでは怒らないので」

「ルイスが何をしようとルイスの自由だもの」

「ま、お察しの通り貴族様方からの心象はよろしくありませんが」

「お姉様方以外は、ね」


(……なるほどな)


 エリィゼのさらっとした付け加えに、アルヴァルドは妙に納得をした。

 いつもへらへらとはしているが、ルイスは男から見ても整った顔をしているのだ。独特な余裕とマメさは、そういった夜遊びからも学んできたものだろう。そしてその余裕とマメさが、また女を惹きつける。

 祖国で妻を多く持つ男たちが思い出された。妻同士のいざこざ、夫の逡巡。最終的には刺されるか、毒を盛られるか、搾り取られるか。なんにせよ男が幸せになった例はほとんどない。だからアルヴァルドはやはり思うのだ。一夫多妻のメリットは皆無だ、と。


「……まぁ、ほどほどにしろよ」

「勤め先に恵まれましたよ、俺は。……と、脱線はこのくらいにしておいて」


 へらへらと答えるルイスはそう仕切り直すと、城下の地図を広げた。被害があった場所には赤のインクで印がつけられている。


「地元のおっちゃん曰くですが、『地元民の犯行じゃねぇだろ』らしくてですね」

「根拠は?」

「地図から分かるように、被害場所はバラバラです」

「まぁ、通り魔としては定石ですな」

「はい。ですが、おっちゃんとしては『何故ここを使わないのか』っつー場所が、ことごとく使われてないと」

「……貧民街、廃墟、入り組んだ住宅街」


 アルヴァルドは呟きながらそれらを目でなぞった。

 ラティカの歴史は古い。改築や工事を重ね、結果的に複雑になってしまった道も少なかった。にも関わらず、その地の利が全くと言っていいほど活かされていないのだ。

 アルヴァルドの言葉に釣られるように、エリィゼも呟く。


「その通りだわ。この道も地図上では広いけれど、実際はほとんど人が住んでいない地区なのに」

「地元民だと思わせないようにしてるだけってのも考えられますが、そうなるとなかなかの知能犯ですからね」

「知能犯なら、こんなみみっちい犯罪はまずしねぇだろうな」

「同感です。つまり、おっちゃんの言ってること、結構いい線行ってると思うんですよね」

「では、ここ数ヶ月の来訪者を確認いたしましょうか」

「途方もない人数でしょうけどね。商人も旅人も、両国から大勢やってきますから」


 自分から推論をしておきながら、ルイスはあからさまに「めんどくせえ~」という顔を露わにした。けれどもエドガーは笑う。笑わずにはいられなかった。


「お優しいですね」

「はい?」

「犯人が獣人でない可能性も、当たり前に考えてくださっているので」

「……捻くれてるだけですよ。こうもあからさまだと、逆に人間だって怪しいでしょう」

「あら、珍しい顔」

「お嬢様」


 ルイスの照れた顔を見て、エリィゼがクスクス笑う。ルイスはたまらず話を変えた。


「見回りルートを都度変えてるのに避けられていることを考えると、二人以上の徒党である可能性があります。その線で名簿から拾っていって調査するのも一つとは思うんですが、いかがでしょうかね」

「ああ、任せる。見回り班の方は、少人数にして班の数自体を増やす。それでも被害が広がるようなら、本格的に対策をしねぇとな」

「徒党の人数が多いか、城内に犯人がいるか、はたまたとんでもない知能犯か。徐々に絞ることはできそうですな。さて、では私から、別路線の提案もよろしいですかな?」

「別路線?」

「はい。デートです」

「……」


 アルヴァルドの険しかった顔は、一層険しくなった。ただし、彼の脳内ではあらゆる計算が行われている。

 雰囲気の悪い街、期待できる城主たち、獣人と人間の関係性、エリィゼの合理的判断。

 と来れば、この後の展開は寸分の狂いもなく予想ができるのだった。鈴のような声が跳ねる。


「ええ、賛成です。城主は民があってこそ、民は城主があってこそ。街のためなら、デートなんて何度したって損がないもの」


 爽やかな笑顔を絶やさないエリィゼは、アルヴァルドを向く。


「でしょう? アルヴァルド様」


 圧などないのに、結果的に圧だった。

 ここで「却下だ」だと切り捨てれば、アルヴァルド自身が『民を安心させることもできない無能な城主』に成り下がってしまう。

 故にアルヴァルドはこう言うしかなかった。例え、自身の執事にニヤニヤとした顔を向けられようとも。


「ああ。当然だ」


 死んでも『この女に流されている』ような素振りは見せてやるかと思った。



 □



 そうやって決まったデートの前日、エリィゼは何故か居場所がないような気持ちで広い自室をウロウロとしていた。

 明日、お昼前にはアルヴァルドと共に街を歩くことになる。

 それを想像すると、どうしても椅子に座っていられない。ベッドに潜ろうにも落ち着かないし、すぐに抜け出してしまうほどだった。

 緊張とも違う、急いているのとも違う。まるで心臓が足踏みをしているような、表現しがたい感情で埋め尽くされている。


(クッキーでも食べようかしら)


 そう思って侍女を呼びかけたが、すぐにやめた。


「……」


 どうして今、自分はお菓子に逃げようとしたのか。

 彼は、私を取って食おうなんてことをしないのに。



 □



「どうして君は不出来なんだ?」


 以前、ゼオに言われたことをふと思い出す。あれは、10歳くらいだっただろうか。その頃のエリィゼには、時間も余裕もなかった。

 終わらない課題、新しい図書、ピアノとバイオリンの練習、食事中だって注意されることばかりで、いつだって息が苦しかった。

 明日が怖い。

 そう泣いて、当時思春期真っ只中だったルイスを狼狽させたことだってある。狼狽するルイスは珍しかったので、泣きながらも驚いたのをよく覚えていた。

 だから、婆やが作ってきてくれたマフィンに酷く、深く、無惨なほど感銘を受けたのだろう。

 婆やはそんなエリィゼを見て笑った。


「明日は、マドレーヌを作ってきましょうね」


 たったそれだけの一言で明日が楽しみになった。

 今思えば、単純極まりない。子どもなのだから当たり前だが、その単純さはルイスから見れば可哀想なほど無垢で、故に彼の同情を孕んだ目はずっとエリィゼに向けられてきたのだった。

 エリィゼは、そんな毎日を積み重ねた。

 明日はクッキー、その次はタルト、その次はプリン、マドレーヌ、ドーナツ。


「いよいよ蟻みたいになってきましたね」


 数年後、執事の見習いとしてエリィゼについていたルイスはそう言った。

 甘い物のためにせっせと毎日をこなす彼女を、働き蟻に見立てたのだ。もちろん執事として褒められるような物言いではないが、二人にとってはそんな応酬が当たり前だった。


「女王蟻になりたいんですか?」

「あらルイス、残念ながら働き蟻は一生働き蟻なのよ。生まれた時点で女王蟻とは格が違うんだもの」

「……失言でした」

「そうかしら? そこそこに言い得てると思うけれど。意志もなく、野望もなく」

「……」

「でもその方がきっと効率的なのよ。蟻も私も」


 健やかに言い切るエリィゼに、ルイスは少しだけ言葉に迷った。

 けれど、この会話をここで終わらせるわけにはいかない。迷った上で「知ってました?」と続ける。


「働き蟻の一部って、働いてるフリしてるだけらしいですよ」

「そうなの?」

「ええ。俺はソイツがいいです」

「ふふ。そうね」

「お嬢様も、どうせならソイツになりましょう。貴方は蟻よりよっぽど賢いんですから。もっと、上手くできるはずですよ」


 思い返せば、ルイスの口の上手さには感心する。

「それもそうだわ」と思ったエリィゼは、どんどんと要領が良くなっていった。

 比例するようにゼオは攻撃性を増したが、それも要領の良さでいなすことができた。ルイスとゼオもまた相性が悪い方に良いのである。



 □



 カーテンを開けて、大きな窓から空を見上げる。

 ラティカの夜空に、無数の星が瞬いていた。ここに来たばかりの頃、夜空を見上げる度に「両親にも見せてあげたい」と思っていたことを思い出す。

 今や当たり前になってしまった星空だが、それでも、美しいものは美しい。共有できる人は今この場に誰一人いないけれど。

 エリィゼは思う。

 彼も、同じように星を見るのかしら。

 彼の国では、どんな星空が見えるのかしら。

 彼はこの星を、どう感じるのかしら。


 そう思うと、クッキーの一つも喉を通る気がしなかった。

 私は働き蟻だ。砂糖さえあればそれでいい。そう思っていたはずなのに。


(よくよく考えれば、私は蟻ではなく人間なのよね)


 一人でそんな当たり前のことを思って笑う。雲の少なさを見ると、明日はきっと晴れるだろう。

 クローゼットのドレスたちを思い返しながら、エリィゼはラティカの夜空をゆっくりとカーテンで覆った。


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