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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

悪厄霊嬢の呪い方

作者: ナツノセイ
掲載日:2025/08/27

ホラー表現、残酷な描写にお気を付けください。




「……私の人生は、一体何のためにあったの?」


 冷たく暗い檻の中で膝を抱え、黒髪の少女、ユリは誰にも届かない独り言を呟く。


 ユリの人生は常に不幸の花で黒く彩られ、歩く道はいつも耐え難い苦痛で舗装されていた。


 ユリの母であるキョウカ・マシロは、この西方大陸から遠く離れた地にある極東の小さな国で生まれ育った。

 この極東の国にはとある言い伝えがあった。それは〝オガミ様〟という神の存在である。

 かつてオガミ様は国に降り立ち、その国に住まうとある人間に自身の力の一部を与え、国に蔓延っていた悪しき妖たちをその人間と共に打ち倒したと言われている。そのオガミ様に力を与えられた人間というのが、ユリの先祖にあたるマシロ家の者だとも。


 けれど国に平和が訪れ、時が経つにつれて、オガミ様に関する伝承は徐々に歪んでいった。人々はオガミ様に救われたことを忘れ、畏敬の心を失くし、そしてマシロ家の人間を恐れ憎むようになったのだ。

 自分たちにはない強大な力を持つマシロ家の一族が恐ろしかった。

 その力の矛先がいつ我らに向くものかと怯え、そして羨んでもいた。

 だから国の領主や地主はマシロ家を迫害し、排斥した。マシロ家の存在が自分たちの不利益になることを危惧し、国から追い出したというわけだ。


 こうして国を追われたマシロ一族は、海を渡って遠く離れた西方大陸へと逃げ込んだ。その一人がユリの母であるキョウカ・マシロである。

 キョウカは美しい濡れ羽色の髪と、吸い込まれるような黒瞳を持つ、絵にも描き表せないような美女だった。そのように大層美しい女性だったものだから、逃げ延びた先、西方大陸に位置するアルべリアという国で、彼女は一人の男性に見初められたのだ。


「美しいひと。どうか、私の妻になっていただけませんか」


 それがアルマン公爵家の当主、ロバート・アルマンだった。

 ロバートは使用人として働いていたキョウカを見て一目で恋に落ち、彼女に求婚した。キョウカもまた、素性の知れない自分を身分を問わず愛してくれたロバートに恋をして、彼女は公爵夫人となった。

 彼女たちは生まれた娘にユリと名付け、娘を慈しみ、育んだ。


 ……ユリにとって、そのほのかに滲んだ思い出は、ユリの人生における数少ない幸福の記憶だ。

 美しく気高い母と、身体が弱く病弱ではあるが優しい父。

 広い庭で母と遊んでもらった夕暮れ時。

 父から贈られたぬいぐるみ。

 皆で囲んだ温かい食事。

 夜寝る前に母が歌ってくれた子守歌。

 幸せだった。

 その幸せは当然のもので、これからも永遠にそれが続くと信じていた。



 ユリの人生が音を立てて崩れ始めたのは、ちょうど七歳になったばかりの頃だった。



 ユリの母であるキョウカが亡くなったのだ。

 街に出かけた際に、不運にも物盗りに襲われたのだそうだ。彼女はひとけのない路地裏に連れ込まれ、衣服を剥がれて殺されたらしい。

 その美しかった顔は見る影もないほどに潰され、身体は切り刻まれていたそうだ。

 物盗りは姿をくらまし、結局母を殺した犯人は捕まらなかった。

 あまりに惨い死に姿であったために、ユリはついぞ母の亡骸に会わせてすらもらえなかった。


 母が亡くなってから、元々身体の弱かった父は殊更に体調を崩すようになった。床に伏せった病弱な父と、年端もゆかぬ娘が一人。それでは家が立ち行かないということで、ロバートは当主として新たな妻を娶ることになった。

 それがアマンダという女性だった。

 彼女は元々バイロン家という地方の伯爵家に嫁いでいたが、数年前に夫であるバイロン当主を不幸な事故により失っている。

 ユリの後ろ盾を作るため、父は身分の高い熟練した女性を妻に迎え入れたのだった。

 しかし。


「……邪魔よ。薄汚い小娘が、わたくしの前を歩かないでいただける?」

「っ、ゔ」


 血の繋がらない娘であるユリは、アマンダから目の敵にされたのだ。

 父が病床に伏せっているのを良いことに、彼女はまだ幼いユリに暴行を加え、蔑み、壮絶な虐めを行った。

 更にはアマンダの連れてきた娘──義理の姉となったレイラもまた、ユリを見下し甚振った。


「ほら見て? ユリ。あたしがあんたのために心を込めて用意したシチューよ?」

「あ……や……やめて……」

「あんたブサイクで汚いからさ。あんたにお似合いの、腐ったネズミの死骸を特別に入れてあげたの。感謝して食べて? ほら、食べなさいよ!」

「む、むぐ、おぇッ……!」

「あ~! 吐いた! さいッて~。きッたないの!」


 ユリは日常的に虫や動物の死骸を食事に入れられて、それを吐き戻せば笑われて頬をぶたれた。何もしていなくとも殴られ、蹴られ、衣服を切り刻まれて、寒い夜に素っ裸のまま外へ放り出されることもあった。

 レイラはその実、美しいユリを妬んでいた。

 自分よりも美しいユリのことが許せなかった。だからユリを虐め、見下すことで鬱憤を晴らしていたのだ。


 そうこうしている内にも父は見る見るうちに弱っていき、ユリの歳が十になる頃には病を拗らせて亡くなってしまった。

 父が亡くなったことで益々アマンダとレイラは増長し、アルマン公爵家を我が物としてしまったのだった。

 ユリは完全に家での居場所を失い、一層酷く虐げられるようになった。

 それまで親身に接してくれていた使用人たちは皆アマンダに辞めさせられ、新しく入ったメイドたちはアマンダに気に入られるため、わざとらしくユリを虐めて見せるような者たちばかり。

 ユリは奴隷のような扱いを受け、家中の者たちに嘲笑われた。


 学園に入ってからもその日々は変わらない。

 ユリはレイラの身の回りの世話をするため、貴族が通う学園へと連れて行かれたのだ。そうしてレイラに奴隷同然に働かされている内に、他の生徒たちからも虐められるようになってしまった。

 おおっぴらに見下されている人間が居れば、そのうち他の者も「あの人間は手荒く扱っても許されるんだ」と思い始める。奴隷のような扱いをされて当然の人間、という認識になる。

 ……それに、美しい者を虐げる行為にはある種の快感が含まれている。

 普通ならば手の届かないような、宝石のように美しい少女をどう扱っても許されるのだ。自分よりうんと綺麗な人間を好きなだけ汚しても構わないのだ。その行為には中毒性があって、ユリを虐げると自分が特別な何かになれたような気がした。

 だから皆こぞってユリを虐めた。手を差し伸べようとする者は居なかった。ユリは皆の心を満たすための道具として扱われたのだ。


 別に、幸せになりたいわけじゃなかった。

 むしろ過度に幸福になどなりたくない。恵まれてしまっては、きっといつか揺り戻しがやってくる。幸せになった分だけ不幸が来る。幼少期、誰よりも幸せな子どもだったために、きっと今こうしてその幸せの払い戻しに追われているのだから。

 だから幸福にはなりたくない。

 ただこれ以上不幸になりたくないだけだった。

 ゼロになりたい。これ以上のマイナスに追いかけられたくない。いつか失うかもしれない幸せなんて要らない。何も得られなくていいから、苦しいことから解放されたい。

 ユリの望みはただそれだけだった。


 だから義理の姉であるレイラが、このアルべリアという国の第一王子であるギルバートと婚約したと聞いた時も、ユリは特に羨ましいとも思わなかった。

 ただ一言、「そうか」と思っただけだ。

 まるで自分には一切関係のない新聞の記事を読んでいるかのような気持ちになって、「おめでとうございます」と言って手を叩くことすら出来た。

 聞く所によると、先日国中の貴族の令嬢が王城に集められ、ギルバートの婚約者を決めるためのパーティが盛大に行われたのだそうだ。そのパーティでレイラは見事ギルバート王子の心を射止めたらしい。ユリにはそんなパーティがあることすら知らされなかったが、そんなことは別にどうでも良かった。


 むしろ安堵すら覚えたほどだ。

 彼女が王家に嫁いでくれれば、これ以上同じ家で暮らさなくとも良くなるかもしれない。やっと解放されるかもしれない。この地獄以下の人生を、やっと手放せるかもしれない。



 けれどユリの人生は、いつも悪い方へ、暗い方へとばかり転がり落ちていくのだ。


「……君」

「え?」


 それはユリが、いつものように這いつくばって家の廊下を掃除していた時のことだった。

 突然誰かに声を掛けられた。

 聞き覚えのない声色に驚き、ユリは身を強張らせながら振り向く。

 するとそこには夕焼けのような橙色の髪を持った、凛々しく端正な顔立ちの男が立っていた。

 この国の第一王子、ギルバートだ。


「……美しい」


 振り返ったユリを見て、彼は呆然とした調子で呟いた。

 ユリはみすぼらしい服装に身を包み、その身体は碌な食事を与えられていないために痩せ細っていた。しかしそれでも尚ユリには人の目を惹き付けてやまないような、猛毒のごとき魅力があった。人の心を狂わせるような何かがあった。

 本当に、花のように美しい女だった。



「……君のことは調べた。どうやら随分と酷い扱いを受けているようだな」


 婚約者であるレイラとの交流のため、ギルバートはアルマン公爵家を訪れていた。

 そんな時にユリを見かけ、一目見ただけで心を奪われたのだ。

 何が何でもユリを自身のものにしたいと思った。

 だからユリの身辺情報について調べた。そうしてユリがアルマン公爵の前妻の娘であることを知り、そして使用人含む家中の者から酷い虐めを受けていることを知ったのだ。


 ギルバートは彼女を哀れんだ。

 しかし彼は先日レイラと婚約したばかりだ。すぐさまそれを破棄しては自身の体面も傷つくだろう。その上ユリの母は令嬢ですらない、身元の分からない平民の女だという。そんな素性の知れない女の娘を王妃として迎え入れるわけにはいかない。

 だが捨て置くにも惜しかった。


「あ、あの。ギルバート、さま?」

「ユリ。君は俺の寵妃になれ」


 アルマン家の中にある、王子のために用意された広い個室。その部屋にユリは連れ込まれ、壁に押し付けられ、顎を指で抓まれながら言われた。

 つまりギルバートは、ユリに「自分の妾になれ」と押し迫ったのだ。正室として妃に迎え入れることはできないが、愛人にしたいと申し出たのだった。


「ユリ。君は美しい。俺は一目見た瞬間に、君に心を奪われた。俺のものになれば、君は今よりも幸せに暮らすことができる」

「ぎ、ギルバート、様? 一体、何を」

「ユリ……君を愛している」


 そう言って彼はユリをベッドへ押し倒し、そしてユリの衣服の内側へと手を差し込んだ。

 肌の上を生温い手がなめくじのように這う。ユリの全身に寒気が走る。

 彼の目が気持ち悪かった。瞳孔が巨大に開いていて、まるで目が落ちくぼんでいるように見えた。粘ついた視線が気持ち悪くて、湿った手のひらが気持ち悪くて、首筋に当たる生臭い息が気持ち悪くて、何もかもが気持ち悪かった。

 覆い被さってくる彼が、真っ黒な影に見えた。


「ユリ……ユリ……」

「っ、ぁ……」


 ユリの心は際限のない恐怖に支配された。

 ギルバートが得体の知れない化け物のように思えて、大量の虫に身体を覆われているような気分に襲われた。

 在りし日の父と母の姿が脳裏に過った。仲睦まじく並び歩く二人の姿が。幼いながらに、いつか自分もこうして誰かと手を繋ぎたいと思った記憶が。

 いつか自分も、誰かに恋をしてみたいと思った。

 ……これが、あの時夢見たことなのだろうか?


「や……やめてッ!」


 だからユリは悲鳴を上げた。

 そして彼を突き飛ばした。両手で彼の身体を強く押した。

 所詮は痩せた少女の細腕だ。ギルバートにそこまで大きな衝撃を与えられるわけもない。

 けれど彼は、まさかユリに抵抗されると思っていなかったのだろう。意表を突かれたらしく、彼は思っていたよりも大仰によろめいて、そうして頭の後ろを軽く壁にぶつけたのだった。


「っ、この……クソ女!」


 ギルバートは豹変し、ユリを口汚く罵った。

 自分を拒絶したユリが許せなかったからだ。ギルバートは親に甘やかされて育ち、そのために何事も自分を中心において考える悪癖を持っていた。だから自身を拒んだユリへの怒りが抑えられず、衝動的にユリの頬を拳で殴り飛ばした。


「この俺が! お前のようなみすぼらしい女に折角優しくしてやったというのに!」

「っ、ぶ」

「生意気なんだよ! 阿婆擦れ! クソアマ!」

「や、やめ……」

「俺の誘いを断りやがってッ……!」


 ユリに拒絶されたことで、ギルバートは酷くプライドを傷つけられた。

 だからユリを憎んだし、自分を傷つけた女など罰を受けて然るべきだと考えた。


「お前、俺に手を上げたな。俺を突き飛ばした。王子であるこの俺を」

「ぁ」

「王族の身体を傷つけるなど万死に値する。分かってるんだろうな? お前は既に大罪人だ」

「ぁ……」

「俺を拒んだんだ。お前のような女は、報いを受けてしかるべきだ」


 ギルバートはいやらしく笑った。

 どうすることも出来なかった。彼に襲われかけて、抵抗するために突き飛ばしたなどと言っても、誰も信じてくれるわけがない。

 気づいた時にはもう遅かった。ユリは王子の近衛に捕らえられ、冷たい牢屋へ入れられてしまった。


 いつの間にかユリは、「義姉の婚約者であるギルバートに言い寄った挙句、それを拒絶した王子に危害を加えた」ということになっていた。

 恐らくはギルバートが事実とは違う話を吹聴したのだろう。自分の名誉を守るために、いわれのない罪をユリへ着せたのだ。


「そんな……。わ、私は……」


 そんなユリに待っていたのは、逃れることのできない死罪という結末だった。

 公衆の面前での絞首刑。死体には火を付けられ、跡形もなくなるまで燃やされる。

 その刑が取り決められたのは、ユリが十六になった年のことだった。

 十六年。たった十六年だ。

 十六年の大半を苦しみながら生きて、最期は王族に手を上げた淫らな悪女と罵られながら死ぬ。


 一体、何を間違えたのだろうか。

 あの時何の抵抗もせずに、ギルバート王子に従っていれば良かったのだろうか。

 あるいはそれ以前に、あの家から逃げ出していれば良かったのだろうか。

 分からない。考えても意味がないのかもしれない。

 だって自分は、もうすぐ死ぬ。


 ……本当に、何のために生きていたのか分からない人生だった。

 考えてみれば、父が亡くなったあの日に、既に自分は生きる理由を失くしていたのかもしれない。今までは、ただ死ぬ理由がないから生きていただけだ。

 死ぬのは怖い。でも生きていたって苦しいだけだ。

 自分の名誉になんて興味がない。今更どう思われようが、元より最底辺にいるのだから関係ない。

 なら、いいのかもしれない。

 だってこれで、父と母に会える。

 同じ場所へ行けるのだから。


「……ぉ、がみさま、おがみさま」


 空は灰色の分厚い雲に覆われていた。

 冷たい石造りの壁にもたれかかり、光のない部屋を眺めながらユリは歌った。


「ましろのみこよ、てを、あわせ……」


 それは昔母が寝る前によく歌ってくれた子守歌だった。

 母の故郷である極東の国に伝わる、古い童謡なのだそうだ。


「あかい、はなを、ちぎりましょ……」


 歌っていると気が紛れた。懐かしい気分になる。まるで母の腕に抱かれているような。

 けれどその時、不意に扉が開く音が聞こえた。


「うーわっ。くっさ! きったなぁ~い! なぁに? ここぉ」

「……」


 ユリは静かに顔を上げた。

 鉄格子の向こうには顔を顰めたレイラが立っている。

 彼女は華美に巻いた金髪を靡かせ、そして膝を抱えて蹲るユリを見つけた途端に目を輝かせた。


「アハハハハ! ホントに捕まってるじゃん!」

「……」

「あんたってどこまで落ちぶれれば気が済むの? ウチに居た時からウザくて辛気臭くてヤな女だと思ってたけど、まさかあたしの王子に手を出して死刑とか! ゴミすぎてほんっと笑える!」

「……」

「……今から死刑になるあんたの惨めな顔を、このレイラ様がわざわざ見に来てやってんのよ? 何とか言いなさいよ、ブス」

「……ぁ」


 ユリは唇を震わせた。

 そしてその隙間からか細い声を紡ぎ、長く黒い睫毛を伏せる。


「あかいはなを、ちぎりましょ……」

「……は?」

「ひー、とつ、かぞえて、かなえましょー……」


 もうどうでも良かった。

 彼女が何を言おうと耳に入らなかった。

 だから子守歌を歌い続けた。これを口ずさんでいる限り、自分だけの世界に閉じこもっていられる。死ぬまでの時間を耐え凌げる。そんな気がしたのだ。

 しかしそれが癪に障ったようで、レイラは舌打ちして眉を寄せた。そして「頭おかしくなってんじゃん」と当てが外れたように呟き、鉄格子に手を添える。


「……ねえ? ユリ」

「おー、がみさま、おがみさまー……」

「どうせあんた、今から死ぬんだし。最期に良い事、教えてあげよっか」

「ましろのみこよ、てをあわせー……」

「あんたの母親、何で死んだか知ってる?」

「あーか、い……」


 歌が止まる。

 レイラはそれに気を良くしたように笑い、とてつもなく面白い喜劇を見た時のような様子で鉄格子を数度叩いた。


「──あんたの母親殺したの、あたしのお母様」


 ユリは身を強張らせた。

 レイラは鉄格子から顔を離し、そして腹を抱えて甲高い笑い声を盛大に上げる。


「知らなかったでしょぉ! 知ってたら悔しくてウチになんて暮らせないもんねぇ~?」

「……ぁ、ぇ?」

「あんたの母親、邪魔だったのよ。身分低い癖して、公爵家に嫁いじゃって。あんたの母親が死ねば、公爵夫人の席が空くじゃない? 当主は身体が弱いって聞いたし、結婚したあとに当主が死ねば家も財産もお母様と私のものでしょ?」

「え、ぁ?」

「だから貧民に金を渡して、あんたの母親を襲わせたの。〝物盗りに襲われたように見せかけて殺せ〟ってね」

「……。ぁ」

「あんたの母親、顔だけは良かったんだもんねえ? 汚されて、苦しんで死んだのよ。きれーな顔をグチャグチャにされてね。最初に死体見つけた人なんか、その場で吐いちゃったらしいわよ! あたしだったら耐えられな~い!」

「ぁ、あ……!」


 ユリは頭を掻き毟り、鉄格子に掴みかかった。

「ああああああ!!」と血を吐くように叫び、ガシャンガシャン! と音を立てて鉄格子を揺らす。

 するとレイラは「きゃああっ!」とわざとらしい悲鳴を上げて、「看守を! 看守を呼んでぇっ!」と扉の外へ向けて叫んだ。すると牢の見張りをしていた看守がやってきて、「大丈夫ですか!?」と言って駆け寄ってくる。

 レイラは怯えたような顔をして鉄格子を指さし、「この人が! この人が急に暴れ出して!」と言った。


「あたし、義理の姉のよしみでっ、最後に挨拶しようと思っただけなのにっ……! あたし、あたし怖くて……!」

「あああああああ!! ああああああああ!!」


 看守は「このっ、頭のおかしい罪人が……!」と言って、泣き叫ぶユリを押さえて縄で縛った。顔を覆って泣く素振りをしつつ、手のひらの向こうでレイラがほくそ笑む。


「あああああ! なんでっ! なんでぇええっ!!」


 ユリは頭を振り乱して叫んだ。

 そんなユリから看守はレイラを庇い、彼女は「早く! 早くこの人を死刑にして!」と言って口元を覆った。

 看守に「立て! この薄汚い悪女め……!」と罵られ、ユリは無理やり牢から連れ出される。床の上を縄で縛られたまま引きずられ、笑うレイラの横を通り過ぎ、処刑場まで連れて行かれた。


「あああっ! あああああ……!」


 涙が溢れる。近頃は泣き方すら忘れていたのに、突然ふとそれを思い出したかのように涙が止まらなかった。

 母は殺された。苦しんで死んだ。母の死による心労が祟って、父も身体を壊して亡くなった。全てを奪われた。

 そして次は自分の番だ。自分もこれから、首に縄をかけられて死ぬ。身に覚えのない罪を着せられて、殺される。

 助けてほしい。本当はずっとそう願っている。誰か助けて。私をこの人生から連れ出して。絶え間なく降り注ぐ不幸から私を隠して。苦しい。苦しい。どうして私ばかりが。


「おとうさまっ! おかあさまあぁぁ……!」


 肌が焼けるような日差しの降り注ぐ真昼に、ユリは絞首台へと立たされた。

 絞首台のある広場には大勢の観衆が集まっている。遊興事の少ないこの時代にとって、罪人の処刑は一種の娯楽である。それも王族に手を上げた悪女の処刑となれば猶の事だ。

 観衆は泣き叫ぶユリに野次を飛ばし、腐った卵や石を投げつけた。


「このクソ女! 早くくたばれ!」

「王族を侮辱するなんて、この恥知らず!」

「腐った根性の阿婆擦れめ……!」

「おい、見せしめだ! 早く殺せ!」

「ざまあみやがれ、バカ女め!」

「悪女!」

「地獄に落ちろ!」


 首に縄がかけられる。

 白い服を着せられて、木で出来た台の上に立たされる。

 涙が頬を伝う。罵声が土砂降りのように降り注ぐ。皆が手を叩いて眩しく笑っている。

 怖い。死にたくない。嫌だ。苦しいのは嫌だ。痛いのも嫌だ。死ぬのが怖い。助けて。誰か。誰か。だれ、


「ぁ」


 バタン、と音がした。

 踏板が外され、足が浮く。両足が空気を掻くように暴れる。縄が軋んだ音を立てる。目が見開かれ、口から唾液が漏れる。

 息が出来ない。苦しい。助けて。

 縄の結び目が首の後ろに食い込み、ゴキン、という音が鳴った。

 息が出来ない。目の前が白くなっていく。意識が遠ざかっていく。



 ──死の間際、ユリは知らない誰かの記憶を見た。


 その誰かは遠く離れた古い地で神に仕えていて、〝マシロの巫女様〟と呼ばれ皆に慕われていた。

 恐らく、これはユリのご先祖様なのだろう。

 ご先祖様はオガミ様と呼ばれる神と契りを結び、神の力の一部を譲り受け、その地に蔓延る悪しき妖を滅ぼしたのだ。そんな古い記憶を、まるで走馬灯のように見た。

 それから長い時が経った今でも、オガミ様の力はマシロの血を継ぐものに受け継がれており……。



『かぁーいー、そぉー、にねぇー』

『……?』


 気づけばユリの前には、巨大な白い〝何か〟が立っていた。

 その何かの頭部には真っ白な──瞳孔や、唇や、舌までもが真っ白な──巨大な人間の顔があって、その顔が穏やかな笑みを浮かべてじっとこちらを見つめていた。

 見覚えがある。古い先祖の記憶で見た、オガミ様だ。


『かぁーいー、そぉー、にぃー』


 オガミ様はそう言って頭を傾け、白い手をユリの頬へと伸ばした。温度も湿度もない、不思議な質感の手が顔に触れる。


『なぁー、にー、しー、たぁーい?』

『……え?』


 ユリは目を丸くした。

 もしやこれは、『何がしたいのか』と聞かれているのだろうか。

 ……確かに思い返してみれば、母の歌っていた子守歌にも〝願いを叶える〟といった歌詞があった。もしかするとオガミ様は、困った人の元に現れて、願い事を叶えてくれる神様なのかもしれない。


 何がしたい。

 しかしそう尋ねられても、上手く答えられない。

 だってもう、何もしたくない。生きるのに疲れた。

 二度目の人生も要らない。昔に戻って人生をやり直す気力もない。自分を虐げた者たちと真正面から関わりたくなんてない。

 だからとにかく、もう放っておいてほしい。ただ目を閉じて、眠るように消えてしまいたい。

 ……本当に?


『ぁ』


 心の内から、もう一人の自分が話しかけてくる。

 これは一体何だろう。腹の底が焼け付くような、手足が痺れるようなこの感情は。

「本当にそれでいいのか」と、心の隅に住む自分が問いかけてくる。

 母を殺された。

 理不尽に陥れられた。

 それに抗うこともできず、最後まで笑われながら殺された。

 不幸なまま人生を終えた。

 それなのに、ユリを不幸の穴に突き落として殺した者たちは、今も何食わぬ顔で幸福を享受し生きている。

 本当に、それでいいのか?


『……いい、わけが』


 良いわけがないだろう。

 今更幸福になりたいわけじゃない。でも、自分を不幸にした人間が、のうのうと幸福になることだけは許せない。

 幸せになるための気力などない。

 でも、人を不幸にするための怨念ならある。


 ──殺す。

 絶対に、殺す。無残に命を奪われた母親の分も、家を乗っ取られた父の分も、虐められ、無実の罪で殺された自分の分も、まとめて奴らの苦痛に代えて取り立てる。

 絶対に、地獄へ落とす。生まれてきたことを後悔させる。


『まとめて、全員、呪い殺す』


 ユリが願ったのは、ただそれだけだった。

 自分を苦しめた者を、徹底的に呪い殺すこと。

 それだけを、心の底から祈った。

 するとオガミ様は『ちー、ぎりぃー、ましょ』と言って、ユリへと小指を差し出したのだった。







 ふと意識が浮かび上がる。

 気がつくとユリは、生前に暮らしていた公爵家の一室に立っていた。

 自分が死んでからどれくらいの時が経ったのだろうか。周囲を見回して部屋の中を眺める。辺りを見た限りでは、それほど月日は流れていないように思う。

 足を一歩前に踏み出す。けれど足の裏に床が触れている感触はない。


『……あ』


 鏡の前に立った時、ユリは口を押さえて固まった。

 そこに映っていたのは、白いワンピースを着た、髪の長い女だった。

 しかしその首は斜めに折れ曲がっていて、普通の人間よりも少し長い。多分死んだときに首の骨が折れてしまって、それでこんな姿になってしまったのだろう。

 艶やかだった髪は荒れてボサボサで、目は充血して白目部分までもが赤黒く染まっていた。

 けれど自分の姿なので、特段恐ろしいとは思わない。母親譲りの顔が生前の面影を失くしてしまったことは残念に思うが、しかし同時に胸がすくような気分にもなった。

 綺麗。美しい。褒め言葉のような呪いから、やっと解放されたのだと。


『……おー、がみさまー。おーがみさまぁー』


 ユリはその場で飛び跳ねてしまいたいような気持ちになって、大好きな子守歌を口ずさんだ。


『ましろのみこよ、てをあわせ』


 不思議と身体の底から力が湧いてくる。

 体力や精神力とも違う何かが。

 これが〝オガミ様〟の力というものなのだろうか。奇妙な万能感に身体全体が包まれて、今なら何だって出来る気がした。

 これほどまでに身体が軽いのはいつぶりだろう。


『あーかい、はなをぉー』


 部屋を出て、廊下を歩く。

 すると見覚えのあるメイドを見つけた。

 日頃からユリの食事に虫の死骸や雑巾を入れて虐めていた使用人の一人だ。鼻の上にそばかすがあって、髪を二つに分けて結んだその姿はよく記憶に残っている。



 彼女は立ち止まり、振り返った。

 どこからか歌が聞こえてきたからだ。

 少女らしき声が何かを歌っている。けれど振り返った場所には誰も居ない。彼女は首を傾げた。一体今の声は何だったのだろうか、と思いながら前を向く。


「ぁ」


 そこには首が折れて捻じ曲がった女が立っていた。


『ちぃーぎりぃーましょぉー』


 女が白い手を伸ばしてくる。

 女の目は底が見えないほど真っ黒で、唇は不気味なほど綺麗な弧を描いていた。







 この家はおかしくなってしまった。

 その異変がいつから始まったのか。思い返してみれば、この家にかつて暮らしていたユリという少女が亡くなってからのような気がする。

 ユリは公爵家の前妻の娘で、けれどいつも皆から虐げられていた。気弱そうな顔をした美しい少女で、だからその美しさを妬まれて酷く扱われていたのだ。


 かくいうメイド長のカミラも、冷遇される彼女を助けようとは思わなかった。

 そもそもこの屋敷で働く使用人たちは皆、後妻であるアマンダの意のままに動く者たちばかりなのだ。彼女の息のかかった者たちばかりが集められているので、当然ユリへ救いの手を差し伸べる者など居ない。

 屋敷の中でユリは最底辺の存在だった。何をしても許されるし、気が立った時には殴ったって良い。自分よりも美しい少女を痛めつけるのは、随分と心地よい気晴らしになったものだ。


 そんな彼女は王子に手を上げた罪で捕まり、少し前に絞首刑となって死んだ。

 正直に言えば、あの内気な少女にそんな大それたことが出来るとは思えない。つまりは何かの行き違いがあったか、無実の罪を着せられたのだろうが、そんな真実はカミラの知る所ではない。

 死んだ所で何も思わなかった。



 けれどその内、屋敷の中でおかしなことが起きるようになったのだ。


『ぉーがぁーみさぁーまぁー』


 夜、どこからともなく少女の歌声が聞こえてくるようになった。

 そしてその声と共に、ペタペタと、まるで素足で床を踏んでいるような足音が鳴り響く。


『まぁーしろぉーのぉーみーこぉーよぉー……』


 怪奇現象はそれだけに留まらない。

 夜中に突然屋敷中の明かりが消えたり、誰も触っていないのに花瓶が床に落ちて割れたりするのだ。

 夜の廊下に白い服を着た長い黒髪の女が歩いている後姿を見た、という使用人も居た。

 ここまで立て続けに妙なことが起こると、当然屋敷中にささくれ立った恐怖が蔓延する。


「ね、ねえ……あのさ」


 トドメとなったのは一人のメイドの言葉だった。

 彼女は気づいてはいけなかった事実を直視してしまったような顔をして、真っ青になって震えながらこう言った。


「あ、あの、歌。き、聞き覚え、ない?」

「……聞き覚え?」

「そ、その。……な、亡くなった。ユリ、お嬢様が、よく、口ずさんでらした、歌じゃない?」


 それに気づいた瞬間、その場に居た者たちの背筋にゾッ……と寒気が走った。

 言われてみれば確かにそうだ。夜中に聞こえてくる歌声は途切れ途切れで、所々に雑音が混じったようになっていたから今まで分からなかったが、あれは確かにユリがよく口ずさんでいた歌だ。

 考えてみれば、この家で不可思議な現象が起こるようになったのも、ユリが死んでからすぐ後のことだった。


「ひッ、ひっ……!」

「だ、大丈夫よ……! わ、私たちが殺したわけじゃないもの……!」

「でっ、でもっ、わたしたちっ。あ、あのひとをっ、い、いつもっ!」

「違うわよ! だ、だってあれはあの子が……!」


 もしかすると、ユリは自分たちを恨んでいるのではないか。

 だからこうして亡くなった後に化けて出ているのではないか。

 そんな予感が誰しもの胸に過った。恐怖に押し潰され、泣き出す使用人も居た。

 けれど皆が気丈に振舞って、心を立て直そうとした。

 大丈夫だ。あんな内気で気弱な女に怯える必要がどこにあろうか。使用人にすら虐められて、一人蹲って泣いていたようなか弱い少女に、一体何が出来ると言うのか。



「──っ、キャああああああッ!!」


 けれど、ある日のこと。

 一人のメイドの絹を裂くような悲鳴が聞こえてきたのだ。それは屋敷中に響くような、凄まじい絶叫だった。

 その悲鳴を聞きつけた他の使用人たちが、一体何があったのかと慌ててメイドの元へ駆け寄る。


 開けっ放しになった部屋の扉の前で、そのメイドは腰を抜かして震えていた。

 彼女の視線を追いかけて、そして皆が言葉を失う。


「……ぁ」


 そこには首を吊った女の死体があった。

 天井から縄が吊り下げられていて、そこに女の首が引っかかっている。足がぶらぶらと揺れていて、首は斜めに折れ曲がっていた。

 その目は何か恐ろしいものを見てしまったかのように見開かれていて、抵抗したのか首には縄を外そうと藻掻いた痕跡が残っていた。


「ひッ、あぁ……!」

「いやァあぁああああッ!!」


 その女は鼻にそばかすのあるメイドで、日頃からユリを虐めていた使用人の一人だった。

 彼女の死に姿はユリの死体によく似ていた。

 ユリもこうして、縄で首を括られて宙に揺れていたのだ。処刑姿を見物しに行ったものだから、よく覚えている。いや、違う。今になって鮮明に思い出した。脳裏に思い浮かぶ、この世の全てを呪うようなあの死に顔が。


「……ぁ、ぁ」


 カミラは口を覆って震えた。

 首吊り死体の背後に、黒髪の女が見えたからだ。女は首を曲げて、口をパクパクと動かしていた。


『あぁかいはなをぉー、ちぎりましょぉー』

「ッ、あ、ひィぃぃッ!」


 間違いない。あれはユリだ。

 ユリがじっとこちらを見つめている。歌いながら笑っている。いや、泣いている? 分からない。一つだけ分かることは、〝アレ〟は見てはいけないものだということだけだ。

 見てはいけない。関わってはいけない。口に出してはいけない。認識してはいけない。

 でももう遅い。だって私たちはもう、とうの昔にユリを。


「や、ぁ、やだッ。嫌っ。いや、いや、いやッ!」

「め、メイド長?」

「みっ、見ないでッ! いや! ごめんなさい! ごめんなさい! 来ないで! 来ないで来ないで来ないで来ないで来ないでッ!!」


 カミラは髪を振り乱して発狂した。


「ごめんなさいごぇんあさいそんらつもししゃなあぁらのごまえいりのあしあさいごあんらさいおがみさまおがみさまおがみさまおがみさまおがみさまおがみさまがみてるみてるみてるみてるみてる」


 見られている。見られている。見られている。見られている。逃げなければ。逃げなければ。逃げなければ。逃げなければ。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。あ。


「きゃぁああああ! 誰か! 誰かぁッ!」

「めいッ。メイド長がッ! メイド長が窓から飛び降りてッ!」

「もうイヤあぁぁぁっ! あたし辞めるっ! こんなところッ!」


 高所から地面に叩きつけられ、手足が歪な方向へと曲がる。肺が潰れ、折れた骨が身体から突き出た。

 痛みと恐怖の中、カミラが最期に耳にしたのは。


『ひぃとつかぞえて、かなえましょぉー』


 クスクスとこちらを笑うような、少女の真っ白な歌声だった。







 ……ユリが死んでからというもの、公爵家に仕えていた使用人たちは立て続けに屋敷を去って行った。

 それどころか、次々に不審な死を遂げたのである。

 首を吊る者も居たし、自ら飛び降りる者も居た。

 そして使用人は皆口を揃えてこう言うのだ。


「ユリが来る」


 と。

 レイラはそれに怯えていた。

 まさか死んだあの女が悪霊になっていて、こちらを呪い殺すつもりなのではあるまいか、と。

 けれどその不安を口に出すことは憚られた。そんなことをしては、ユリに恐れをなしていることがバレてしまうからだ。

 レイラは彼女を見下していたし、馬鹿にしていた。そんな取るに足らない存在に心の安寧を脅かされているとなれば、レイラの高いプライドはいたく傷ついてしまう。

 だから屋敷を離れられなかったし、歯を食いしばって恐怖に慄くことしか出来なかった。


「……このことは、王子には内密に」

「は、はい、お母様」


 ユリが亡くなってから屋敷は怪奇現象に襲われ、使用人は次々と不可解な死を遂げている。そんな事実が王子の耳に入りでもすれば、レイラとの婚約は破棄されてしまうかもしれない。

 だからアマンダとレイラは、アルマン公爵家で起こった連続怪死事件を決して公にしなかった。自分たちの評判が損なわれることが許せなかったのだ。


「……時期に、あなたとギルバート王子との正式な婚約を発表する夜会がありますもの」


 アマンダは頬を強張らせて言った。

 王家に嫁いでしまえば、もう公爵家に用はない。かつて嫁いでいた伯爵家も同じように捨てて、このアルマン公爵家を乗っ取った。次は王家を手中に収める番だ。そうなれば、この不気味な屋敷などすぐに売り払ってしまえる。


「かわいいレイラ。大丈夫よ。わたくしたちは、いつだって幸せになる定めにあるのよ」

「はい、お母様……!」


 アマンダに抱きしめられ、レイラは目を瞑って頷いた。

 そうだ。母の言う通りだ。これまでだって、自分たちは常に上手くやってきた。神様はいつだって自分たちに味方してくれている。

 今度だってきっと大丈夫だ。

 自分たちは必ず幸せになれる。

 そう信じていた。







「レイラ……今日の君は一段と美しいな」

「ありがとうございます、ギルバートさま……」


 黄金のドレスで美しく着飾ったレイラが、ギルバートの逞しい腕にそっと寄り掛かる。

 その姿は誰が見てもお似合いで、皆が二人の門出を祝福していた。

 レイラは彼を見上げ、頬を薔薇のように赤く染めて言う。


「あたし、ギルバート様と結婚出来るなんて、ホントに夢みたいです……!」

「ハハ、レイラは愛らしいな。素直で、愛嬌があって、純粋で」

「そんなぁ。もう、ギルバート様ったらぁ」


 パーティには両家の親族の他にも、各地の有力貴族や、学園の級友たちも招待されていた。彼らの顔は皆一様に暖かく輝いていて、まるで春の訪れを祝福しているような有様だ。

 それはユリが無実の罪で処刑されてから、まだ半年も経たない内に行われた夜会だった。

 ユリの死を悼む者は誰も居なかった。そんな女が居たことすら忘れていて、今はただ目の前に広がる夢のような景色に耽溺している。


 広い王城の端で、ユリはそんな光景をじっと見つめていた。

 自分を虐めたクラスメイトたち。義理の姉のレイラ。母を殺したアマンダ。ユリを犯そうとした挙句、無実の罪を着せて殺したギルバート。王子の訴えを鵜呑みにした王族。そんな不幸がありながらも、その真実に目を向けようともせずに享楽に耽る者たち。

 皆、皆、地獄に落ちてしまえばいい。

 いや、違う。〝落ちてしまえば〟なんて甘い。

 地獄に、落とす。


「? 何か……」

「どうしたんだい?」

「何か、音がしませんか?」

「音?」

「何かを、引きずるような……?」


 レイラは眉間に皺を寄せ、周囲を見回した。

 するとその時、突然辺りから光が失われる。

 城内の明かりが一斉に消えたためだ。

 城の中に動揺とざわめきが広がる。周りが見えず机にぶつかる音や、そのせいでグラスが床に落ちて割れる音などが響く。

 そして、次の瞬間。


「ッ、きゃあああっ!」

「何だ!?」


 天井からシャンデリアが落下した。鼓膜を裂くような破裂音と衝撃が広がり、どこからともなく悲鳴が上がる。

 ユリは微笑んで、手に持っていた硬い鉄のバールを床に引きずりながら……徐に目の前に居た男の頭を殴りつけた。

 男は「ガッ」とだけ言って、目玉をぐるっと真上に向けてから、バタンとうつ伏せに倒れて動かなくなった。


「……え?」

「あっ、あッ、アっ?」

「い、いやッ、きゃあああああああ!!」


 ふっと明かりが点く。

 そして血を流して床に倒れた男と、その傍に立つ首の曲がった女を見て、皆が不揃いに血の混じった悲鳴を上げた。


『おーがぁみさまぁー、おがみさまぁー』

「えっ? えッ? うそっ、うそうそうそッ」

『ましろのみーこよ、てをあわせー』

「何だよ、なんなんだよコレッ! おい、誰か! 誰か助けろ! たすけ、たすッ、アがッ」

『あーかいはなをー、ちぎりましょー』

「あああああああああああああ!! 助けたすけたすけたすけたすけたすけてッ」

「やだ! やだっ、来るな、来るなッ!」

「あばれいあえがらあがごめるがごめごめごめ」


 ユリは子守歌を口ずさみながら、血の付いたバールで辺りの人々を襲った。

 逃げようとした女子生徒が躓いてその場に倒れ込む。ユリは彼女の頭髪を掴み、自分の方へと無理やり振り向かせた。


「あ……ぁ……ご、ごべんな、ざ、」

『ひーとつかぞえて、かなえましょー』


 ユリはバールを振り上げ、勢いよく彼女の横顔目がけて振り抜いた。ガコン、と変な音が鳴って、彼女の顔は潰した缶のようにひしゃげた。

 彼女はユリの美しさを妬み、よくユリの顔に汚水を浴びせて笑っていた女だった。

 悲鳴も上げぬまま彼女の顔は歪み、そしてそのまま動かなくなった。


 夏の空のように爽やかな風が城内へと吹き込む。

 窓ガラスから白い月の光が差し込んで、血と死体で彩られた城の中を美しく照らしていた。

 床には小石のように丸い眼球が転がっていて、生臭い肉の臭いが広い部屋中を煙のように満たしている。

 ユリの私物をゴミ箱に捨てて燃やした生徒たち。淫売の娘だと言って蔑んできた貴族。ユリに着せられた罪の真偽を知ろうともしなかった王。


「ま、待て……やめろ……やめてぐれ……」

『……』

「わ、わたしは……わたしはこの国の王だぞ……!」

『……』

「そ、それなのに、この、わたしに……!」


 ユリはゆっくりと、数十秒の時間をかけて首を横に傾けた。

 そして腰を抜かして後ずさる国王の脳天目がけて、一切の迷いなくバールを振り下ろす。

 国王は「ヘブっ」という妙な声を上げて、そして糸の切れた人形のように手足を投げ出した。

 割れた頭の隙間から中身が零れていく。そんな光景を、ユリは晴れやかな気持ちで眺めていた。


「あっ、あ、あああっ……!」

「はやくっ! はやく、に、逃げッ……!」


 振り返る。

 するとそこには、血相を変えて部屋から飛び出そうとするレイラとアマンダの姿があった。視線を左に向けると、レイラに目もくれず逃げていく王子の姿が見える。

 ユリは背を伸ばして立ち上がり、少し首を傾げて、それからレイラの方へと足を進めた。理由は特にない。どちらも結局殺すことになるのだから、どちらから殺しても同じことだと思ったためだ。


「あっ、ああッ、嫌、嫌……!」


 アマンダとレイラが長い廊下を走って逃げていく。廊下にはユリの歌が絶え間なく響き続けていた。

 するとアマンダは長いドレスの裾を踏み、足をもつれさせて転倒する。レイラは振り返って、「お母様ッ!」と悲痛な声で叫んだ。けれど彼女は視線を上げて、そして「ひッ」と掠れた声を漏らす。


『あーかいはなをーちぎりましょー』

「あ、ぁぁ、レイラ、レイラ、たす、助けて……」

「ひ、ひぃぃっ」


 ユリはうつ伏せになって倒れたアマンダの背を跨ぐようにして立った。アマンダは涙と涎で顔を汚し、娘であるレイラに助けを求めて右手を伸ばす。

 それをユリは感情のない瞳で見下ろしていた。

 この女が、母を殺した元凶だ。

 この女が、ユリの幸せな人生を壊した。

 自分から何もかもを奪った。


『……さようなら』


 どうか、苦しんで死んでくださいね。

 そう呟いて、ユリは躊躇いなく彼女の頭にバールを振り下ろした。

 何度も、何度も何度も振り下ろす。初めは血が出て、次に骨が砕ける音がして、砕けた骨と頭の中身が混ざった。


 原型が分からなくなるまで殴りつけた所で、ユリは『ふう』と言って息を吐いた。

 そしてアマンダだったものの髪を掴み、持ち上げる。しかし頭を崩しすぎたために、掴んでいた部分の髪が頭皮ごと剥げて、彼女の身体を床に叩きつけてしまうことになった。

 仕方がないので胴体の下に手を差し込んで、身を起こしてやる。そしてそのアマンダだったものをレイラに見せようとしたのだが、彼女は絶叫してどこかへ逃げてしまった。


『あら……』


 ユリは頬に手を当てて、困ったように眉を寄せた。


『薄情な人。折角、母の死に目に会わせてやろうと言うのに』


 アマンダの身体から手を離し、適当に床に転がす。ベチャ、と、肉の塊が地面に落っこちたような音が鳴った。

 ユリは頬に手を当てて、それから『ふ、ア、アハハハハ!』と弾かれたように顔を上げて笑う。

 踊るように飛び跳ねて、逃げたレイラを追いかけた。


 レイラは城内の一室に逃げ込んで、扉に鍵をかけていた。

 ユリはその部屋の扉の前に立ち、コンコン、と二度ほどノックする。耳を澄ませば、扉の奥から「は、はあ、はあ」という嗚咽交じりの呼吸音が聞こえてきた。

 そこでユリはバールを振り上げて、そして勢いよく扉へと打ち付けた。


「ッ、きゃあアッ」


 ガァン! と激しい音が鳴って扉が窪む。

 ユリは夏風のように爽快に笑いながら、何度も扉をバールで殴りつけた。

 何て清々しいのだろう。こんなにも心が晴れるなら、生きている時にもやっておけば良かった。


 やがて扉はひしゃげて壊れ、その木の破片を蹴り飛ばして、ユリは部屋の中を見回した。

 レイラは恐怖で全身を震わせ、血塗れになったユリを見上げていた。そして彼女は噛み合わない上下の歯をガタガタと鳴らしながら、涙を流してユリに助けを請う。


「あ、あ、ご、ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい」

『……』

「あ、あたし、あなたが羨ましくて。あ、あなたが、きれいだったから。だから、いじわるしちゃったの。ゆ、許して。お願い。あ、あやまるから。何でもするから」

『……』

「あ、あたし、ホントは仲良くしたかったのよ? で、でもお母様に、あなたをいじめるように、い、言われてたの」

『……』

「だ、だから、許して? ね? ユリ」

『……』

「あ、あたし、あなたの姉でしょ?」


 ユリはしばらく彼女をじっと見つめて、それから前触れなく彼女の右足にバールを振り下ろした。

 パキ、と枝を踏んだ時のような音がなった。

 レイラは何が起きたのか分からず、一瞬呆けた顔で自分の折れ曲がった足を見て、それから目を血走らせて絶叫した。


「い、や、ああああああ!! いだいッ! 痛い痛い痛いぃぃぃぃッ!!」


 レイラは足を千切られた虫のようにのたうち回った。そんな彼女を、ユリは頬に手を当てて眺める。

 痛みと恐怖のあまり失禁する彼女を、光のない目でじっと見つめた。そして大口を開けて、屈託のない笑い声を上げる。


『ふ、フフ、アハハハハハ!』

「ぁ、ぁぁ、あ、あ……」


 レイラは今になってやっと理解した。

 この少女に手を出してはいけなかったのだ。この女は、呪われた女だった。だって今も、ユリの後ろには真っ白な顔をした何かが立っている。人知の及ばない、人ではない何かが。

 けれど、後悔してももう遅い。

 ユリはきっと、逃がしてはくれない。


 ユリは折れ曲がった首を上に向けて笑って、それから『あー……』と低い声を出して、カクン、と首を下に折った。

 重たい前髪の隙間から全くの無表情でレイラを見つめ、そして両手でバールを持ち上げる。


「あ、たすけ」

『えい』


 思い切り彼女の顔目がけて振り抜いた。

 これまでで一番小気味のいい音が鳴って、レイラの身体は壁に叩きつけられた。彼女の顔の上半分は潰れ、目玉がころころと床の上を転がっていった。


 ユリは顔に飛び散った血を拭うこともせず、ただ『ふう』と短く息を吐くだけだった。そして天井を見上げ、一言『お母様』とだけ呟く。

 優しい母のことだ。きっとこの光景を見たって喜びやしないだろう。そんなことは分かっている。

 だからこれはただの自己満足だ。

 ユリは祈るように目を閉じて、それから瞼を開いた。


『……あとは』


 母の仇は取った。

 けれど、ユリの復讐はまだ終われない。

 ユリを苦しめた人間がまだ生きているからだ。ユリにいわれのない罪を着せ、殺したあの男が。







「クソッ。クソッ! どうなってやがんだ……!」


 ギルバートは拳を握りしめて悪態をついていた。

 城の二階、自室の窓は固く閉ざされている。城の正門も同じように、鍵もかかっていないのに何故だか開かなかった。だから外へ逃げ出せる道はないかと確かめて回っていたのだが、やはりここも駄目だった。

 窓ガラスを割るために椅子を叩きつけたがビクともしない。どうやら何かの力で、この城全体が封鎖されているようだった。


「は、早く、逃げないと、あの女が……」


 頭を掻き毟りながら、ギルバートは震えた声で呟いた。

 そして不意に振り返る。


「ッ、ひぃッ!」


 そこにはユリが首を傾げて立っていた。

 ユリは両手の指を開き、握っていたものを床に落とす。グチャ、と熟れた果物が潰れたような音が響いた。それを見たギルバートが、声を裏返して涙を流す。


「あ、あああ。そ、そんな」


 ユリが手に持っていたのは、第二王子と第三王子の頭部だった。

 ギルバートの弟たち。ルーカスとブルーノという男だ。

 彼らはユリが無実の罪で捕らえられた時に、ギルバートに有利になるような虚偽の証言をした王子たちだった。ユリが日頃からギルバートに付き纏い、言い寄っていたと嘘をついた男たちだ。


「……ま、待ってくれ。ユリ」


 ギルバートは壁に背中を隙間なく押し付けて、ユリに向けて両手を伸ばした。


「す、好きだったんだ。君のことが」

『……』

「君があんまり綺麗だったから。お、俺は。どうしても君を手に入れたくなったんだ。君の美しさを前にして、あの時はどうにかしてしまっていたんだ」

『……』

「許してくれ、ユリ。俺は君を愛していたんだ。愛していたから傷つけてしまった。本当に、本当に悔やんでいる」

『……ギルバートさま』


 ユリは呟いた。

 その声は本当に可憐で、聞いているだけで胸の一等奥が優しく締め付けられるような響きを持っていた。

 一言その声を耳にしただけで、声の主はいかほどに美しい乙女なのかと想像してしまうような声色だった。


 ギルバートは頬を引き攣らせて、無理やり笑みの形を口に貼り付けて、「ああ、ユリ」と言う。

 恐怖を噛み殺しながら、彼は両腕を広げてみせた。まるでユリを抱きしめんとばかりに。

 ユリはそれに、恋する乙女のように無垢に微笑んでから。


「ッ、ア」


 汚らわしい物を見る目をして、彼の股間目がけて満身の力でバールを振り下ろしたのだった。

 ブチ、と何かが潰れる音がして、それからギルバートは喉の皮が千切れそうなほどに激しく叫んだ。


「ぎゃ、あああああッ!!」

『……』

「いだい! いだいいだいいだいッ!! あああああッ! ああああああッ!!」


 足を捥がれた虫のように彼が床を転げ回る。耳障りな悲鳴が爽やかに部屋を満たす。血塗れの絶叫が、ユリのひび割れた心に優しく染み込んでいった。


「やめ、やべで、ごべんなざいっ。ごべんなざいッ」

『……』

「あ、あ。やべで、ごろざないで、ごろざないで……」


 身体の穴という穴から濁った液体を漏らしながら、彼はうつ伏せのまま顔だけを上げてユリに命乞いをした。

 そこには王族の威厳も尊厳もない。根源的な恐怖の前では、権力など無力なものだった。

 色褪せた助命嘆願を前に、ユリは頬を押さえて首を傾げた。無実の罪でユリの命を潰しておきながら、この男は何を言っているのだろう。まさか自分にはそのバチが当たらないとでも信じていたのだろうか。何の根拠もなく自分が明日も幸せに生きていられると思うだなんて、馬鹿なことだ。


「あ、あ、やへ、やえへッ」

『……おーがみさま、おがみさま。ましろのみこよ、てをあわせ』


 彼の口に無理やりバールを咥え込ませる。首を横に振って藻掻く彼を押さえつけ、長いバールを口の中へと押し込んだ。


「んぶぅぅーッ! ゔぅーッ、ゔ、ぅ、んぶ、ごッ」

『あーかいはなを、ちぎりましょ』

「ごッ、ゴッ。ごっ、ひゴッ」

『ひーとつかぞえて、かなえま、しょっ』


 ユリはバールの先端を足で蹴りつけた。ブツン、と何かを突き破るような感触があって、バールの反対側が彼の下半身から飛び出た。

 ギルバートはしばらく手足を痙攣させていたが、やがて石になったように動かなくなった。


 城内には大量の人間の死骸が転がっている。

 清潔で真っ白だった城は、たった一夜で変わり果てていた。

 見渡す限り、一面の死体。生き残っている者はいない。皆、殺した。

 大仕事だったが、疲労はなかった。きっともう死んでいるからだろう。ユリの身体の中には、自分の人生にずっと巻き付いていた鎖をようやく滅茶苦茶に壊してやれたという、そんな眩い達成感だけが渦巻いていた。


『……?』


 けれどその時、ふと何かの声が聞こえた。

 海の底のように静かだった城の中に、かすかに響き渡る。これは、子供の声だろうか。

 ユリは「まだ生きている人間が居るのか」と思って、声の聞こえる方へと身体を向けた。

 真っ赤になった廊下を歩き、扉に手を掛ける。


『……ぁ』


 ユリは微かに口を開いた。

 城の一室にしては少し手狭な部屋の中、ベッドの上に小さな男の子が座っている。

 歳は七歳頃だろうか。雲のない空のように綺麗な青い瞳をしていて、淡い金色の癖毛が綿のように揺れている。

 城の部屋に寝かされているということは、この子供も王族の一人だろうか。


 それならば生かしてはおけない。

 この子供にも、自分を苦しめた人間と同じ血が流れているのだ。たとえこの子供には何の罪もないとしても、憎い。殺さなければ、ユリの心はいつまでも晴れぬままだ。


「……だぁれ?」


 すると子供はキョトンとした様子で目を丸くして、首を傾げた。

 その顔に怯えの色は見えない。きっと何が起きているのか理解できていないのだろう。普通、こんなに血塗れの女が立っていたら恐れるはずなのに、危機感すら抱けないほど幼いらしい。

 けれどユリには関係ない。幼い子であろうと、ユリの人生を壊した者たちの血縁だ。

 徹底的にやらなければ。

 最後まで殺し尽くさなければ、ユリの魂は報われない。

 だってユリはもう、この世全てを呪ってしまっているのだ。


「おねえさん?」

『……』


 ユリは彼の首に手を掛けた。

 彼の白い頬に赤い水滴が落ちる。これは血、だろうか。それにしたって一体誰の。

 いや、そんなことはどうでもいい。早く、この子供を殺さなければ。

 殺さなければ……。


『……なに』


 ふと、頬に何かが触れる。

 それは彼の、真っ白な手のひらだった。

 一滴の汚れもないその手が、撫でるようにユリの頬に触れた。

 歯を食いしばる。何故か目元が熱い。瞼が焼け付くように痛い。

 血が目から流れ出て行く。

 ……いや、違う。

 これは、涙だ。


「きれいだねえ、おねえさん」

『……なに、よぉ、』


 目を輝かせて彼が言う。

 その子供の瞳には、ただの泣いている女が映り込んでいた。

 瞳の中に映る女は、親とはぐれて迷子になったようにただずっと泣いていた。その涙を拭って、彼は無邪気に微笑んで言う。


「きれいなおねえさん、なかないで」


 綺麗? 綺麗だと言うのか。

 憎悪に歪んだこの顔が。血に汚れたこの身体が。首の折れ曲がった歪な姿が。

 ……〝綺麗〟という言葉が、嫌いだった。

 自分を物として扱うための言い訳にしか聞こえなかったから。

 綺麗だから仕方なかった。綺麗だから憎かった。それだけ綺麗に生まれたんだから、不幸な目にあってもしょうがない。まるで褒め言葉のように、そんな呪いを吐かれた。

 言われても嬉しくなかった。その言葉にはいつも下心と嫉妬が混じっていたから。

 けれど。


『……わたし、きれい?』

「うん。すごく」


 その純粋な、まるで野に咲いた白い花を指さすような声だけは、不思議と優しい贈り物のように受け取ることが出来た。

 ──きれいな髪だ。お母さんにそっくり。

 頭を撫でながらそう言ってくれた、父の顔が浮かぶ。それを優しく見つめる、美しい母の顔も。


『……、ずび』

「……かなしいこと、あったの?」

『……うん』

「つらいの?」

『……辛かったの。ずっと』

「たいへんだったねえ」

『たい、へん、だったの。ずっと。ずっと』

「て、つないであげるね。そしたら、こわくないよ」

『……うん。うん』


 ユリはずっと、彼に手を繋いでもらった。

 悪夢に魘された時のように。


「……おねえさん?」


 次に彼が目を開けた時には、ユリはどこにも居なくなっていた。

 ユリは溶けるようにして消えていた。

 まるで蜃気楼のように。







「──これが、僕の辿り着いた真相です。ユリさん」


 青年は目を閉じ、持っていた本を閉じ、そして白い石へと語りかけた。

 青年の名は、ヨハン・アルべリアという。旧アルべリア王国の第四王子、ヨハンその人である。


 旧アルべリア王国はある晩、一夜にして滅びを迎えた。

 とある夜に王城内で起きた集団殺害事件。その日城に集まっていた国の有力貴族や王族は、語るも無残に惨殺されたと言う。王家も幼いヨハン一人を残して皆亡くなり、栄華を誇っていた大国は唐突な終末を迎えたのだった。

 国力の低下したアルべリア王国は隣国に吸収され、権力に興味のなかったヨハンは王族の地位を返上した。そうしてヨハンは今、ただの小説家として自由に生きている。


 王城内での酸鼻な事件。その犯人は今だ明らかになっておらず、事件の全容は謎に包まれている。

 しかしその事件の裏には、まことしやかに囁かれる噂があった。


 アルマン公爵家の令嬢、ユリ。

 事件が起きるしばらく前に、当時の第一王子に危害を加えたとして絞首刑になった少女が、その逆恨みで悪霊と化して王家を祟ったのではないか。

 そんな黒い噂が市井に広がったのだ。

 皆がユリという女を恐れ、悍ましい悪霊として崇め奉った。

 ユリは〝悪女〟の代名詞となったのである。


「……でも、本当はそうじゃないですよね」


 けれどヨハンは知っていた。

 彼女は皆が思うような悪女でないことを。

 だってヨハンが彼女を見た時、彼女は泣いていたのだ。

 まるで迷子になった子どものような顔をして、帰り道を見失ったように静かに涙を流していた。

 幼いヨハンが見ても分かるほど彼女は綺麗で、優しげな顔をしていた。彼女を泣かせるものがあるなら、どうにかしてその何かから彼女を覆い隠したいと思ったのだ。


「ユリさん。実は僕、あの時あなたに救われていたんですよ」


 ヨハンは彼女に家族を皆殺しにされた。

 けれど彼女を恨んでなどいなかった。むしろ救われてすらいた。


「……僕の母は、僕を産んだ時に身体を壊して亡くなってしまいました」


 元々身体の弱い人だった。

 四度目の出産、そこに相当な難産という条件が加わって、王妃であった母はヨハンを産むと共に亡くなってしまった。

 そのため王はヨハンを〝王妃を殺した子〟として憎み、他の王子たちとは隔離して城に閉じ込めていたのだった。

 兄弟たちからも見下され、話しかけてもらえたことすらなかった。最低限の食事は与えられていたが、家族として愛情を注がれた覚えはない。


 ヨハンはあの窓のない小さな部屋の中で、幼いながらに人生を諦めていた。

 きっともう自分の生涯に光が差すことなどない。自分は死ぬまでこの城の中で一人きりだ。助けてくれる人なんていない。誰も自分を見てはくれない。

 そう思っていた。

 けれどあの日、ヨハンの人生に突然少女が舞い込んだ。

 綺麗で優しい女の子が、人生を壊しにやってきてくれたのだ。


「一目惚れだったんです」


 恋をしてしまった。

 一目見た瞬間に恋に落ちた。初めて自分を救い上げてくれた少女に。


「だから僕は……あなたの死の真相を調べた」


 ユリは不幸な少女だった。

 幼い頃に母を亡くし、父を亡くし、継母と義姉には虐められ、最期には無実の罪を着せられ殺された。

 調べていくうちに、彼女の実の母は継母によって殺され、王子には逆恨みにより濡れ衣を着せられたことが分かった。彼女の人生は、彼女に全く責任のない場所で狂わされていた。

 この世の全てを呪っても仕方がない。悪霊となって当然の末路だ。

 だからヨハンは自身の家族にも、殺された者たちにも一切同情を覚えなかった。むしろあの夜、彼女の心が少しでも晴れていたなら良いのにと願うばかりだ。


「……僕は、あなたが〝悪女〟という誹りを受けたままだなんて、許せなかったんです」


 だから突き止めた真相を本に書き起こした。

 ユリという少女が、悍ましい悪女などではなく、本当は心優しき少女であることを知らしめるために。

 王家の闇と悪辣さを暴くその真実は、瞬く間に広く市井に知れ渡った。かつて悪女として恐れられた彼女は今、悲劇の乙女としてその死を悼まれている。


「あなたはそんなこと、望んでいなかったかもしれないけど。でも、僕に出来ることなんてこれくらいしかなかったから」


 余計なことを、と思われたかもしれない。

 だからこれはただの自己満足だ。これ以上彼女に石を投げる者が居ないように。彼女への誤解が解けるように。彼女がその実、どこにでも居るようなただの少女だったことを伝えたかった。


 かつて処刑場だったこの場所には、今沢山の花が添えられている。

 数年前に処刑場は取り壊された。更地になった大地は今や瑞々しい緑で覆われていて、美しい植物が植えられている。

 ヨハンは持ってきた花束を供えて、少し困った顔をして言った。


「花は、見飽きてしまいましたかね」


 頬を掻いて、それから僅かに顔を赤くして、口を押さえる。


「……あ、あなたに。何を渡せば、喜んでもらえるのか。分からなかった、もので」


 彼女の好きな物さえ知らないもので、ありきたりな贈り物しか用意できなかったのだ。

 何せ初恋である。勝手など分からないし、どうすれば彼女の笑顔を見られるのか見当もつかなかった。情けないことではあるが、これがヨハンの精一杯だったのだ。

 ヨハンは恥じるように口元を隠して、それから僅かに瞼を上げた。


 そこには黒髪の、美しい少女が立っている。

 彼女は花束を抱きしめて、やっと春が訪れたように微笑んでいた。

 ヨハンは「ユリさん」と言って、彼女の頬に手を伸ばした。そうして花のように笑う彼女に向け、目を細めて呟くのだった。


「また、来ますね」


 と。







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