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バーリトゥード

 一週間前、エドワード・カーターはサンフランシスコに居た。



「エド。今日君を呼んだのは頼みたいことがあったからだ。単刀直入に言えば――君には日本に発ってほしい」


「いきなりなんです? ボスの命令であれば従いますが……その間、お嬢さんの警護はどうするつもりで?」



 エドワードの雇い主は肩を震わせてくつくつと笑った。

 隣に立つボスの秘書――ボスの妻でもある女性が小さくため息をつく。



「私が請け負います」


「そう。そして、今回のことはそのカレンに関することなんだ」



 お嬢さんの? エドワードの眉が上がる。「確かに、お嬢さんは日本文化――Animeがお好みの様子ですが、旅行のご予定なんて耳にした記憶はありませんね」


 そもそも、お嬢さんだって自分の立場はわかっているはずだ。

 いくら日本の治安が優れているとは言っても、安易に他国に渡していい人材ではない。



「ああ。そんなことはぼくも耳にしていないよ。君に日本に発ってもらいたいのは、とある探索者と会ってほしいからだ」


「とある探索者? ……オワリですか? それとも、ミカミ?」


「どちらでもないさ。ニュービーだよ。セレーネの化身かな」


月の女神(セレーネ)の? ……神のギフトを授かった探索者が現れたと」


「ああ、違う違う」ボスは鷹揚に首を振った。「単に容姿がそうだという話だよ」


「……雷神(トール)のようなギフテッドがまた現れたのかと思いましたよ」


「それはそれで面白いけれどね」



 まったく面白いことではない。

 アスガルド人が現実に顔を出すなんてことはもうこりごりだ。



「とにかく、エド、君にはその子に会ってほしいんだ。そして――」



 続くボスの言葉にエドワードは肩をすくめた。

 容易に納得できることではない。納得できることではない、が。



「ええ、しかし――Yes, My Lord.」



 エドワードの知る限り、最も優れた男がそう言っているのだ。否はない。

 彼は恭しく頭を下げた。

 まるで騎士が王に対するように。




      *




 そして現在、エドワードはセレーネの化身と見紛う少女――アオイと相対していた。



(事前情報なく接触してほしい、とのことだったが……見るからに只者じゃあないな)



 エドワードも基礎的な格闘術は修めているが、本格的に武術を学んだことはない。

 格闘術を学んでいたとき、一度だけ『達人』と呼ばれている者が招聘された。

 年老いた男だった。ダンジョン発生以前だったから、彼には見た目通りの力しか備わっていなかっただろう。枯れ木のようなその肉体から出せる力など限られている。

 体格差だけでも圧倒できる。当時のエドワードはそう思った。老人はエドワードに格闘術を教えている教官と模擬戦をするようだったが、相手になるわけがないと思った。自分でも教官には歯が立たないのだ。いわんやこんな老いぼれがどうして教官と戦えると言うのか。


 だが、老人と立ち合った教官は――なぜか、なかなか動こうとはしなかった。老人を前に構えている。教官の額から一筋の汗が頬に流れた。なぜ、どうして――エドワードも他の生徒たちも痺れを切らしそうになった、そのとき。



「Oorah!」



 教官が雄叫びとともに前に出た。老人の目がすっと細められたことにエドワードが気付いたのは偶然だった。教官が前に出るのと同時に、老人も前に出る。



「あっ」



 呆然と、声が出た。教官の攻撃のタイミングに完全に合わせたカウンター。教官はその攻撃をまともに顔面で受け――次の瞬間、老人は教官の襟元を掴んでいた。



「ほいっ」



 ふわりと教官の身体が宙に浮き、転がされる。その首を躊躇なく老人は踏み台にして、ふ、と少しだけ身を浮かす。

 そして胸の中心に向かって全体重を乗せた蹴りを放った。それは心臓を強打し、教官の意識を飛ばした。


 誰も動けなかった。一瞬のうちに何が起こったのか理解することができなかった。

 動けたのはただひとり、達人と呼ばれる老人だけ。


 彼は身動きひとつしないエドワードたちを見て嘆息した。



「テメェら、それでも男か? 師がやられて呆然と突っ立っているだけとは……男なら仇討ちに挑んでみせろ。オイラがいっちょ揉んでやろう」



 その呆れた煽りにエドワードたちはようやく身体の制御を取り戻した。ひとりずつ老人――達人に立ち向かい、とうとうエドワードの番が来た。


 そして彼は理解した。教官が動けずにいた理由。立ち合ってみて初めて理解することができた。


 隙がない。どこに打ち込んでも返されるイメージしか湧かない。


 勝てないと悟った。だが、ここまで来て挑まないという選択肢はない。エドワードは達人に挑み、散った。



(ずいぶんと昔のことを思い出した。が……この子は、あるいは、あの人よりも)



 そして、今。


 眼前に立つ少女、アオイ。


 彼女の前に立って、エドワードは達人と立ち合ったときのことを思い出した。



「さて、それじゃあ『非探索者でもできる! かんたん護身術!』をやっていこうと思います! 今日は実際に探索者を相手にしてみるよ! まずはエドワードさん。見るからに強そうな雰囲気だよね~。でも、ボクの教える護身術ならこんな屈強な男の人でも安心! よく見ててね~」



 アオイはそんなことを話している。見くびられたとは思わない。彼女にそれだけの力が備わっていることはエドワードにもわかる。

 位階は高くないだろう。探索において位階を上げることは大前提だ。戦闘技術を磨くよりも先に位階を上げなければ話は始まらない。その点においては格闘技などと同じだ。何よりも先に基礎となる筋肉量が備わっていなければ技術を磨いても強くはならない。

 だが、エドワードは位階だけがすべてを左右するとは思っていない。持っているスキルや魔法、あるいはそれらの使い方、そして戦術や戦略によって結果は大きく変わっていく。


 ダンジョン探索はしばしばゲームで例えられるが、それと同じだ。位階を上げれば勝てるようにはなる。だが、位階だけがすべてを左右するわけではない。『低レベルクリア』だって、理論上は不可能ではない。


 そしてエドワードの眼前に立つ少女は『低レベルクリアができるプレイヤー』だ。


 たらり、とエドワードの額から汗が流れる。ここは階層主の間だ。殺す心配はない。全力で戦ったとしても、問題はない。

 もちろん、それは相手にとっても同じことだが。


 アオイは配信くんに向かって話し続けている。



「こうして探索者の人に襲われるー、なんてシチュエーションになったら……まず第一に逃げることを考えよう! でも探索者は身体能力が高いからね。簡単には逃げられない。じゃあどうする? 一般的な護身術で教えられるのは……たぶん、フィンガージャブとかスタンプとかかな。練習量に対して期待できる効果が高いからね。フィンガージャブを練習して拳速を上げれば牽制にはなるし」



 フィンガージャブ。要するに『目打ち』だ。ボクシングのジャブの要領で相手の目に向かって素早く拳を振るう。違いは指を広げること。目に当たればラッキーくらいの気持ちで拳を打つ。指の一本でも入れば相手の気勢を削ぐことが期待できる。が、言うまでもなく逆上される危険性もある。……もっとも、それはすべての護身術に関して共通して言えることだが。



「逃げるのが無理ならやっぱり制圧するしかないよね。ってことで、ボクの配信では力なんてなくても相手を制圧できるようにするためにはどうすればいいのかを教えています。ご照覧あれ~」



 そう言って、アオイはエドワードを見る。「お待たせっ、エドワードさん。今日はよろしく~」



「ああ、よろしく」


「合図は?」


「いつでも」


「……まあ、護身術だったら『合図』なんて言ってられないかー」



 そういう意味ではないのだが――その言葉で理解した。もう始まっている。エドワードが構える。それを見たアオイの唇が三日月を描く。



「『わかってる人』かぁ」



 位階の差は身体能力の差だ。アオイから向かってくることはない。狙ってくるとすればカウンター。あちらから仕掛けてこないとわかっているならば取れる手は無数にある。


 エドワードは観察する。アオイの一挙手一投足を見逃すまいと観察をやめない。アオイは嘆息する。「護身術って観点から言うと、そこまで警戒するのは間違っていると思うんだけど……油断を突くのも手だからなぁ」


 確かにそうかもしれない。が、なんと言われようとアオイは油断できるような相手ではない。少なくともエドワードにとってはそうだ。



「こんなにかわいい美少女を前に警戒しすぎじゃない?」


「見惚れてるのさ」


「言うねぇ。でもエドワードさんの構えもなかなかだよね。ブラジリアン柔術を基盤に打撃系の武術を取り入れてい」



 言葉の途中でアオイの身体が前に沈み込んだ。不意を突く気か。しかし位階差による身体能力の差は大きい。反応が遅れたとしても先に行動できる。エドワードはアオイを見ながら前進し、



「はい、釣れた」



 カウンターを繰り出そうと拳を前に出した瞬間、誘われたことに気付いた。アオイの身体は前に沈み込んだだけ。体重移動で前に出るように見せかけただけだ。片目でもないのに距離感を騙されていた。二重のミスディレクション。

 アオイに手首を掴まれる。だがまだだ。強引に振り払える。膂力の差とはそれほどに大きく――それを彼女がわかっていないはずもない。



「前回の復習!」



 強引に振り払おうとしたその手が振り払う前に離される。振り払おうとした手は空振り、意図していたよりも大きく動いてしまう。

 アオイの前進。入身投げ――警戒したエドワードは、しかし、身体の勢いを殺さずにそのまま活かそうとする。胴回し回転蹴りを狙う。が。



:それも読んでいる



 胴回しが空振る。アオイから視線を切ったその瞬間、彼女の姿を見失った。一瞬の動揺。それは隙になる。



「んおっ」



 耳を掴まれる。そっちか。エドワードは耳を掴まれた方向に反射的に裏拳を放つ。


『反射』での行動は読まれている。



「耳を掴んだ手をなんとかするべきだったとは思わない?」



 耳を引っ張られたからと言ってびくともしない。それだけの差がある。だが、『触れられている』ということに意味がある。

 達人に触れられているということが何を意味するか。



「強靭な身体だとわかっているからこそ取れる手段もある。……ボク程度の力じゃ、耳、千切れないでしょ? でも『体重は人間並み』だ」



 高位の探索者の身体能力は桁外れだ。物理法則を捻じ曲げているとしか思えないような膂力を発揮するが――物理法則が捻じ曲がっているが故に、その体重は『見かけ通り』のものでしかない。

 身体強度がいくら規格外のものであっても、質量が規格外ではないのであれば。



「投げることに支障はない」



 投げられる。アオイの『投げ』は相手の力が作用する方向を見切った投げ。膂力に逆らうものではなく『利用する』もの。相手の力がどれだけ強くとも関係なく投げることができる。

 受け身を――エドワードは常識的な行動を取る。地面にそのまま身体をぶつけないように咄嗟に手を地面に向けてしまう。

 探索者の肉体であればただ地面に転んだ程度は無視できるにも関わらず。



「しまっ」



 判断が遅い。エドワードは遅れて自分の判断が間違っていたことに気付いた。マウントを取られる。警戒するべきは――エドワードは地面に身体をぶつけた瞬間、腕を交差し顔のガードを固めた。位階によって身体強度が上がってもまともに攻撃を喰らえば厳しい場所は目だ。目突きを狙ってくるだろうという予想。それは的外れなものではない。

 エドワードにとっては目。アオイにとっては目と――もうひとつ。



「男の弱点なんか決まってるよね」



 アオイが笑った。彼女の手には握られているものがあった。可憐な少女が握るようなものではないものが。


 理解したエドワードが制止の声を上げる。 



「待っ」



 一切の躊躇なく握りしめる。高位の探索者の身体強度は規格外だ。たとえ急所に対するものであったとしても耐久力は上がっている。

 だが、痛みは。



「屈曲反射の優先度は知っているかな?」



 全身が硬直する。防衛本能には逆らえない。痛みに耐えようと意識する前に身体が先に反応する。くぐもった叫び声が漏れる。悶絶するエドワードが判断能力を取り戻す、その前に。


 アオイが言った。



「潰すね」



 アオイの体勢が変わった。握力だけではない。睾丸を地面に押し当てて、腕を地面に垂直に伸ばし――全体重を、乗せられる体勢。



「――降参する!」



 取り戻した一握の判断力で発せられた言葉に、アオイはぴたりと動きを止めた。


 彼女はうーんと考え込むようにして……エドワードの様子を窺い、一言。



「ま、模擬戦だしこんなものかな。本当に襲われたときはこんな言葉に惑わされないできちんと制圧しちゃいましょう。単に騙してるだけって可能性もあるからね。睾丸が潰れたら痛みで走ったりすることは難しくなるから潰せるものなら潰しておこうね!」



 配信くんにそう言って、エドワードからパッと離れた。


 ……本気で潰すつもりだったな。エドワードは九死に一生を得たことを悟り安堵の息を吐いた。


 階層主戦で死ぬのがこわくなくても睾丸を潰されるのはこわい。


 男だもの。



:こわすぎ

:コラボしてくれた探索者に向かってすることじゃない

:そこまでやれとは言ってない

:いくら治せるからって護身術の演習で睾丸潰そうとするヤツおりゅ?

:居るんだよなぁ……

:友 達 ゼ ロ 人



「えっ!? な、なんでぇ~!?」



 チャット欄の反応を見たアオイが涙目になって叫んだ。


『なんで』じゃない。


 まったくもって自然な反応である。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 睾丸潰す系美少女 [一言] いつの間にか喧嘩稼業が始まったw
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