【SOS 渋谷第九層 オーガ イレギュラー】
「うん?」
男が何か良い配信がないかなと漁っていると『SOS』の文字が見えた。場所は渋谷……と言うか、配信タイトルにぜんぶ書いていた。よほど焦っていたのだろうか。しかし、それにしては。
「第九層で、オーガ?」
釣りか? そう思った。そんなことはありえない――ことも、ないのか。男はいつだったか第二十層より前の層で赤竜のイレギュラーが出現したーなんてニュースを見たことがあったなと思い出した。
と言っても、イレギュラーだ。攻撃しない限りは向かってこないが……。
「SOSってことは……どっちだ? ホントにオーガだったとして、まさか攻撃なんてしてないよな」
もしそうなら真性のバカだ。わざわざ助けてやるほどのお人好しは居ないだろう。……そう考えると、開くのが億劫になってきた。自己責任だとしても、今から死ぬ人間の顔は見たくない。
だが、男は開くことを選択した。どちらにせよ『知ってしまった』。なら、少しでも助けられる可能性を上げるほうがいい。釣りだとしてもそれはそれで安心できる。
そして、その配信を開いた結果――とんでもない美少女がそこに居た。
「は?」
思わず、男の口からそんな声が漏れた。なんだこれ。CGか? そう思ってしまうほどに非現実的な美少女の姿に唖然とする。
:初見
:第九層でオーガって釣り?
:めちゃくちゃ美少女じゃん
チャット欄を流れるコメントに同意する。そうだ、オーガだ。今カメラが映しているのは少女だけで、オーガの姿は見えない。
そのコメントで気付いたのだろう。少女はカメラを操作して――その先に、オーガが居た。
「なっ……マジか」
位置情報を確認するが、本当に渋谷の第九層だ。これはマズいな。男はダンジョン管理局の渋谷支部に通報し、彼女の近辺に高位探索者が潜っていないかを調べた。
現在渋谷で配信している探索者、そしてその位置情報を確認していく。……居ないな。オーガを倒せるくらいの実力を有しているだろうパーティーは、最も近くて第三十層。それなら第一層のほうが近い。
「……この子は攻撃していないみたいだが、追われている探索者が居るな」
配信画面にはオーガから必死に逃げる少年の姿が見える。彼は……助からないだろう。第一層から、どれだけ急いで潜ったとしても二十分はかかる。少なくとも自分ならそうだ。パーティー『疾風迅雷』のお姫様が形振り構わず全力で向かったなら十分足らずで着くかもしれないが――『疾風迅雷』は現在第六十層。さすがに引き返せはしないだろう。
「くそっ……やっぱり嫌なものを見ることになるか」
男は苦渋に顔を歪めた。しかし、この少女は救えるかもしれない。それだけでも良かった、と男がそう思おうとした、次の瞬間。
「――っ!」
少年の、足がもつれた。必死に走っているのだ。そういうこともあるだろう。ただ、今の状況では――それは致命的な隙になる。
オーガがその隙を見逃してくれるはずもなく……男は画面から目を逸らした。子どもが死ぬ姿は、あまり見たいものではない。
だが。
『ヒール』
画面の中から、鈴の鳴るような声が聞こえた。
「ばかな」
それが誰の声なのかは考えなくてもわかった。少女の声。しかし、それがたとえただの回復魔法であっても――その瞬間『戦闘に参加した』と見なされる。ヒーラーであっても経験値が得られるように、MOBのヘイトを買う行為だ。
:は?
:なんで?
:そんなことしたらオーガに狙われることになるぞ!
「なんで……わざわざ死にに行く」
今の【ヒール】で、一度は少年を助けられたかもしれない。だが、それは一時しのぎにしかならない。根本的な解決にはならない。
それどころか、今の【ヒール】によって少女もオーガの『敵』になった。ただ犠牲者を一人から二人に増やす行為……男の目には、そうとしか映らなかった。
助けに来たと語る少女だが、SOSの配信をしている時点でその実力がオーガに及ばないことは明らかだった。これだけの美少女であっても見たことがない……少なくとも普段配信をしているような探索者ではないだろう。あるいは外国の探索者か。
しかし、少女が何者なのかなんて瑣末なことだ。それ以前に、彼女には命の危機が迫っている。様子を見る限り今はもうチャット欄は見えていないようだが――戦うのであれば、それは正しい。慣れるまでは気が散って邪魔になるだろう。
『来る』
少女がオーガを見て構える。チャット欄に『早く逃げろ!』『死ぬぞ!』なんてコメントが流れているのが見えて――しかし、男は。
(この構え……堂に入っている。武術の心得があるのか?)
男は武人だった。ダンジョンに入る前からとある武術を修めており、ダンジョンに入ってからもその実力を遺憾なく発揮してきた彼は、しかしだからこそ『武術を修めていた人間の増長』についても詳しかった。
ダンジョンで武術がまったく通用しないということはない。だが、それはある程度までの話でしかない。熊を倒すような格闘家が伝説として語られることもあるが、ダンジョンに出てくるMOBの中には熊なんてものよりも遥かに強大な怪物が存在している。オーガはその一例だろう。
それだから、少女がいくら武術の心得があろうとも、オーガに敵うわけがない――そう、思っていた。
だが。
「っ――流した!?」
思わずガタッと音を立てて椅子から立ち上がってしまう。
オーガの拳が振り下ろされる瞬間、少女がその拳に触れるのが見えた。動きとしてはやはりそれほど速くはない。非探索者の一般人と同じレベル。しかし、それでも――彼女の手は、オーガの拳の軌道を逸らした。
:え? 今何が起こったの?
:痛そう……
:受け流した? どうやって
:指ぐちゃぐちゃじゃん ヒールはよ
「……指を犠牲にする程度で、非探索者と同じような人間がオーガの拳を逸らせるのか」
昔の自分なら――男は考えて無理だと首を振る。真剣白刃取りよりも難しい。いったいどうやって受け流しているのか……今の自分であれば、同じようなことはできるだろう。だが、それはオーガに匹敵しないまでも組み合えるくらいの膂力は備えているからだ。拳に触れただけで弾け飛ぶような状態で、それを受け流すことなどできるはずがない。
「本当に、どこに眠っていたんだ、こんな子が」
今の構え、他国の武術のそれだとは思えない。ただ、自分も他国の武術をすべて網羅できているかと言えばそんなことはないから確定ではないが……例えば、シラットのどれかの流派だった、なんて言われてしまえばそうなのかもしれないとは思ってしまう。
しかし今の構え、今の動きは柔術の動きだ。もっと言えば養神館合気道が近い。だが、それとも少し違う。
わかることがあるとすれば。
「この技術を失わせるのは、あまりにも惜しい」
彼女の【ヒール】がどれだけ残っているのかはわからない。オーガの攻撃を受け流すことができるなら、時間稼ぎはできるだろう。時間稼ぎ以上のことは何もできないかもしれないが、これで間に合う芽が出てきた。
「待つしかできないというのは、もどかしいな」
男が居るのは東京ではない。ホームダンジョンは渋谷だが――今はクランで遠征に来ていた。行ける距離ではない。
……知り合いにもチャットを飛ばしておこう。『間に合わない』という前提でオーガの討伐隊を組織しているところかもしれないが、そうではないと進言すれば何かが変わるかもしれないから。
『ゆ、勇斗。星勇斗だ』
『そう! ボクはアオイ! ポーションかヒールは残ってる!?』
『ヒールなら集中すれば後一回は――っ、オーガが!』
『そのまま拳を埋めとけよ!』
「……一回か」
彼女たちの言葉を聞くに、【ヒール】は後たった一回しか残っていない。時間稼ぎがうまくいけば、もう一回ぶんくらいは魔力も回復するかもしれないが……それを期待してはいけないだろう。
「凌げるか」
男の額に汗が滲み、ギシ、と手を置いた机が軋んだ音を上げる。無意識に力が入っている。
(……この少女が只者ではないことはわかっていたが)
オーガに相対するふたり、少女の表情は凪いでいる。オーガという圧倒的な暴力を目の前にした少女の顔とは思えない。ただオーガを正眼に見据えたその構えには男から見ても一切の隙がない。
だが、もう一人――少年の表情も決して恐怖に怯えたものではなかった。この絶望の状況下で、その瞳には明確な意志の光が宿っている。
その構えを見るからに実力はまだまだ。少女よりは位階が高そうな動き――身体能力が明らかに違う――をしているが、それもオーガにしてみれば無視できるほどの違いでしかない。
怯えがないわけではない。緊張は見える。蛮勇というわけではない。
それでも、彼は『諦めていない』。
「生き延びろよ、少年」
足手まといだとは思わない。少女に『逃げろ』と言われたのだから逃げるべきだとは思えない。と言うより、あんなにも可憐な少女に『逃げろ』と言われたところで逃げられなんかしないだろう。馬鹿だと非難する者も居るかもしれないが――男にとって、それは決して『蛮勇』ではなかった。
それは単に勇気と言う。
「っ――当たって……ない?」
オーガが攻勢に出る。最初は少女、アオイに向かった。その拳は彼女の目ではほとんど見えないものだろうに、それを紙一重で避けている。
「最小限の動き……スタミナ温存のためか」
男でさえ、一瞬当たったのではないかと思えるほどの距離。風圧で髪がたなびいているが、そのすべてを触れそうなほどの距離で避け切っている。
一度でも当たればそれで終わり。掠っただけでも致命傷に繋がるだろう絶対的な膂力の差。だと言うのに、彼女は体力を無駄にしないように動いている。
「どんな胆力だ」
男も思わず呆れてしまう。それを見ている他の者達も同様らしく、
:当たってない?
:なんでこんなギリギリで避けるんだ
:いや、時間稼ぎしなくちゃいけないんだ 体力の無駄遣いは避けるべきだし最小限の動きをすること自体は最適解と言っていい
:そりゃわかるけど……実際、できるか?
:掠っただけでも終わりって状況でこの綱渡り……しかも、この表情だよ
:ユートくんと話してたときは表情豊かな美少女って感じだったのにこのギャップよ
:惚れそう だから生きてくれ
「本当にな」
生きてくれ、と強く思う。
少女はオーガの攻撃を一切触れることなく避けきっている。間合いを読み切り、流れるような体捌きで息もつかせぬ猛攻を避ける。
それはまるで演武のようですらあった。魅せるためにわざと当てていないような錯覚さえ感じられるほどに、一切の淀みなくオーガの猛攻をかいくぐる。
:最前線組の避けタンクでもこんな動きできなくね?
:うおおおおおおおおなんで今の避けられるんだよおおおおおおおお
:見てるこっちがヒヤヒヤするわ
:もしかしてこれこのままイケるんじゃね……?
「そうだったらいいんだが……」
スタミナを温存するために最小限の動きしかしてないとは言え、この速度だ。先程のように『受け流す』動きを入れられるなら別だが、すべてを『避けている』時点で全身を動かす必要に迫られる。体力は削られている。そして体力が削られればミスをする。人間だ。ミスをしないなんてことはありえない。
『スイッチ! ――一度下がれ、アオイ! 一瞬だけだけでも、オレが!』
そろそろ一息入れたほうが――そう思ったタイミングで勇斗がオーガに向かって剣を振るった。攻撃するためではない。ただヘイトを自分に向けるために。
「……いいタイミングだな」
よく見ている。アオイは勇斗の言葉に従い、一度オーガから大きく距離をとる。息吹――空手などで使われる呼吸法で効率的に酸素を取り込む。
:オイオイ大丈夫かあの子!
:さっきと違って無駄だらけだな
:飛んで跳ねて転がってで見てられない
:でも、避けている
勇斗の動きはアオイと比べればみっともないものだ。必要以上に大きく動いて、全力で必死に避けている。そう長く続くものではないだろう。コンビネーションでも繋げられればそれだけで捉えられてもおかしくはない危うげな動き。
だが――ほんの少し、避けられればそれでいい。
なぜなら。
『ユートくん、下がって! 掠れば死ぬんだ。スタミナが保たない。今はボクに任せてくれ』
アオイが叫んで前に出る。勇斗は悔しそうに顔を歪めながらも、その言葉に従い後ろに下がった。
(いや……少年は頑張っている)
運動量以上に汗を流して肩で息をする少年の気持ちは見て痛いほどにわかった。彼がオーガの攻撃を受け持ったのはほんの一瞬。しかし、それだけで彼は動いた以上に体力を使っているだろう。
当たれば死ぬ。そんな攻撃を前にすれば、それだけで体力消費は跳ね上がる。当たり前だ。
その当たり前が通用しない少女がおかしい。
「ははっ――ばーか!」
オーガの放った拳が、アオイの目の前で止まる。……距離感を騙した? 体重移動を利用した目の錯覚か。引きで見れば一目瞭然だが、正面から見れば騙されるのだろう。
:??????
:今何した?
:距離感を騙したんだよ 前に進む動きをして実際は前に出てなかった
:この状況でどうしてそんなことができるんだ……
「だが……いつまで続けられる?」
たらり、と男の首筋に汗が流れる。救助隊はもう出発しているが、第九層まではまだかかるだろう。間に合うのか、どうか。無意識に拳を握りしめる。
:アオイちゃんの様子が変わった
「何?」
ひとつのコメントを見て、男はアオイを改めて注視した。
彼女は一度目を閉じて――そして、開いた次の瞬間。
その瞳に、覚悟が見えた。
「待て」
何をしようとしている。無理だ。やめろ。届かないのに、そんな声が出てしまう。
:なんかしようとしてる?
:イチかバチか、か
:賭けちゃダメだ 一発逆転なんかない 楽なほうに流れちゃダメだ
:その位階じゃ、どうやってもオーガにダメージは与えられない
:苦しくても凌ぐしかないだろ
アオイにはコメントは届かない。ただ見ることしかできない。それがこんなにももどかしい。
オーガが前蹴りを放つ。それをアオイは半身になって身体を少しひねるだけで避け、とん、とその脚を叩く。
「……動きが」
男はわかった。アオイの動きが、変わっている。
先程までも洗練された動きだったが――今のアオイは、さらにその上を行く。
『単調なんだよ、素人!』
オーガの拳が振り下ろされ――同時に、アオイの腕が蛇のように動いてそれを『流した』。
「なっ――」
結果――オーガが、空を飛んだ。
:は?
:うっそだろwwwww
:親方! 空からオーガが!
『達人』。そんな言葉が男の脳裏に浮かんだ。
男は武人だ。今までに『達人』と呼ばれる者たちも見たことがある。
過去に『やらせ』だのなんだのと言われた人々の中に『本物』が居たことを知っている。
だが、それでも――彼らでさえ、今見たものと同じようなことができるかと言えば。
「ははっ……」
思わず、男の顔に笑みが浮かんだ。笑うしかなかった、と言ってもいい。
救助が間に合うかどうか……そのことばかり考えて心配していた。だが、現実はどうだ。
実際、命の危険はあったのだろう。最初からそれができたわけではない。ただ……戦闘の途中で『成った』のだ。
『さてさて、オーガくん。交通事故の時間だ』
落下時間から考えて、そのエネルギーはおそらくは戦車の一撃と同等。
男が普段相手にするようなMOBならともかく、オーガであればひとたまりもないだろう。
しかし、万が一――どうにかして受け身を取ることができたなら、あるいは。
男は油断せず最後を見守る。少女は落下地点に居る。何をしようとしているつもりなのか……男には、予想することができた。
:そこ危なくない?
:当たりそう
:もしかして……待ってる?
オーガが地に落ちる瞬間――アオイがその身体に触れて強引に回す。さすがにそれを無傷で流すことはできなかったのだろう。アオイの手の肉が弾けるのが見えて、直後。
画面が揺れるほどの轟音とともに、オーガの身体がぐちゃりと潰れた。
『ッ……痛ぁ~~~~~!』
:そらそうよ
:痛そう
:ヒールはよ
オーガの身体を受け流したときだけではなく、落下地点の近くに居たことからその余波を受けたアオイはボロボロになっていた。先程まで同じ人間とは思えない大立ち回りを見せたアオイが痛みに悶え苦しんでいる。
そこに勇斗から【ヒール】が飛んだ。戸惑いながら、だが。
「そりゃ……そんな表情にもなるよなぁ」
決死の覚悟で挑んだオーガを投げ飛ばすような光景を見て、どんな気持ちか。死ぬ覚悟もしていただろう。それをあんな……そりゃあ戸惑う。どういう顔をすればいいのかわからないだろう。
『ありがとう、ユートくん! 助かった!』
しかも、当の本人はそんなふうに満面の笑みを浮かべて自分に感謝の言葉を述べるのだ。その容姿だけでもこの世のものとは思えないほどの容姿を持った美少女が笑う。それだけでも戸惑うだろうに、この状況だ。案の定、勇斗はうまく答えられない。
そんな勇斗の様子には気付かず、アオイは彼に近付いて『はいたーっち!』と互いの手を叩いて音を鳴らした。見るからにテンションが上がっている。さっきまでの姿は見る影もない。
「色々とすごい子だな」
笑みを浮かべたまま、男はつぶやく。……登録、しとくか。
男はアオイのチャンネルを登録した。最初はどうなることかと思ったが、終わってみれば結果は快勝。信じられないが、これが現実なのだから面白い。
『ざーこざーこ♡ ねぇねぇどんな気持ち? オーガくんのくせにこんなところで新人探索者ふたりに負けて恥ずかしくないんですかぁ♡ あっ♡ 生き恥晒すのが嫌で死んじゃったのかなぁ♡ あははっ♡ なさけなーい♡』
:えぇ……
:さっきまでのかっこいい姿どこ……
:これはこれですこ
アオイがオーガの死体を足蹴にしながら笑っている。視聴者はドン引きだった。少年もドン引きだった。
そして男は。
(エッロ……)
男は武人。過酷な鍛錬を重ねてきた探索者であり――マゾだった。
そういうこともある。