SOS
「だあああれえええええかあああああああああああ!」
そう言いながら目の前を走り去る女の子。あまりの勢いにアオイはそれを見送ることしかできなかった。……走り去っちゃったよ。助けに来たのに。
「んー……追われてる、のかな。と言うか、声が聞こえてから結構走り続けてるけど……あの子、すごいな。全速力であんだけ走り続けられるの、そういうスキルでも持ってるのかなー」
つぶやきながら、アオイは警戒しながら少女が来た方角へと曲がる。……居ない。あれ?
「追われてない? ……あの子、何から逃げてたんだろう」
透明なMOBとか? でも、そういう気配はなかったし……MOBが追うのをあきらめた? その可能性は薄い。MOBにはスタミナという概念がない。一度追いかけたら階層が変わるまでずっと追いかけてくるものだ。
それ以外に追いかけるのをやめる可能性があるとすれば――
「……他のターゲットが、現れたとき」
そう思い至った瞬間、アオイは地を蹴って走り出した。
あの少女は必死な様子だった。あれだけの大声を上げて脇目も振らずに走っている。自分にも気付いていないようだった。
ならば――同じように、他の探索者が彼女を助けに入ったとしても、気付いていない可能性がある。
「だとしたら、あの子、めちゃくちゃタチ悪いな」
死の危険があるのだ。仕方ないことではあるけれど――なすりつけられた側からすればたまったもんじゃない。完全にMPKだ。
相手はいったいどういうMOBなのか。あれほどの慌てよう。通常ポップするようなものではないだろう。ということはイレギュラー。その種類によっては、自分は何もすることができない。救助要請するしかない。
「……配信を始める準備だけはしておくかな」
前回のホブゴブリンのように人型のMOBならいいのだが――そうなるとは限らない。
救えるものなら救いたいが、救えないものなら救えない。
「あんまり期待しないで待っててね、誰かさん。ちょっと見て、勝てそうになかったら逃げるから」
そう口にしながら、アオイは走る。
交戦しているような音は聞こえない。
もう手遅れかもしれない。
だが、まだわからない。
救えなかったら救えなかったで仕方ないが――寝覚めが悪くなることは確かだ。
自分の夢見を少しでも悪くしないために、今だけは頑張ることにしよう。
*
「近い」
自分以外の足音が遠くに聞こえる。前方。道は間違っていなかったらしい。少し安心する。
「この足音は……走ってるな」
逃げている。さすがにあの少女のように大声で助けを呼びながら――ではないが。
「ごめんね。ボクも我が身がかわいいから……最初は様子見させてもらうよ」
ふっ、と気配を殺す。アオイの存在が薄くなる。呼吸を薄く、音を殺す。えーっと、ここはどのあたりかな。配信くん――『ダンジョン配信くん』と呼ばれる、自分にしか見えない羽の生えたカメラを呼び出し、位置情報を確認。ダンジョン用スマホに搭載されたマップと照らし合わせて……ここか。ここか。なら、ここを曲がって、こう行けば……。
(来た)
金属音はしない。ふたつの走る音。ひとつは小刻みに小さく。もうひとつは……遅く、しかし、大きく。
(人間の足音と、もうひとつはMOBのか。そこそこ大型のMOB。それも足音の数からしておそらくは二足歩行。これは……人型かな?)
なら、自分でも助けられるかもしれない。ゆるんだ口元から呼気が漏れる。
「くっ、そっ、がぁあああああ!」
声。人間の男の。だいぶ若いな。ごめんね。もうちょっと待って。かっこよく助けに入るから。
相手か人型のMOBだろうということもあって、アオイは油断していた。余裕を持っていたと言ってもいい。前のホブゴブリンのようなものだろう、と。これなら外部に助けを呼ぶ必要なんてないだろうと考えていた。
あまりにも気が抜けて、助けるのが美少女じゃなくてちょっと残念とすら考えていた。
その姿を目にするまでは。
(さーって、それではお顔を御拝見――)
そうして、物陰から手鏡だけを覗かせてその姿を見ようとして――
「配信開始」
その姿を捉えた瞬間、アオイは外部への救助要請を決めた。
(オーガ!? なんでこんなところに……イレギュラーにしても、イレギュラー過ぎでしょ!)
アオイの目に入ったのはオーガ。この階層で目にするにはあまりにも強大なMOBだ。
人型ではある。だが、あまりにも強すぎる。携行できる小型の銃火器程度であれば通用しないとも言われる正真正銘の怪物だ。
(勝てるか? 人の形をしている。なら『投げられる』? いや、でも、この身体だと……)
難しい。まだこの身体を十全に使いこなせているとは言えない。幼少の頃より積み重ねられた鍛錬は身体に染み付いているが、その身体が違うんだ。
(助けを呼ぶしかない。……配信タイトルの設定? 今そんな場合じゃ――って、何が何だかわからないと救助要請も何もないか。なんでもいい。『SOS 渋谷第九層 オーガ イレギュラー』ってところかな。位置情報も付けて……更新! これで、後は祈るしかないか)
配信くんが自分を映す。視界を遮られると面倒なので透明に戻す。『ダンジョン配信くん』はダンジョンの付属物だ。
誰であってもダンジョンに入った者なら『配信』をすることができる。いつの間にか、インターネット上に『ダンジョン配信』専門の動画配信サイトができていた。
あまりにゲームらしいシステムと言い、どこまでヒューマンの文化を取り入れているのかと思うところだが、これがあるからダンジョン内でも一定の規律が失われずにいることを思えば必要なものだったのかもしれない。
そして何より――こういったときに、外部に助けを呼ぶことができる。
:初見
:第九層でオーガって釣り?
:めちゃくちゃ美少女じゃん
……視聴者のチャットか。視界の端に見えたそれに、アオイは少し安心する。でもちょっと邪魔かな。
配信くんを操作して、カメラをオーガに向ける。チャット欄に『は?』『オーガ!?』『なんでこんなところに……位置情報は偽装できないから、ホントに第九層か』なんてコメントが書かれたことだけ確認して、アオイはチャット欄を意識から閉じる。アオイから視聴者のコメントは見えなくなる。
(さて、どうするかな。これで最低限の務めは果たした、と思うけど……何もしなければ、もしオーガが不幸な探索者くんを殺しても、ボクには向かってこないはず)
それが最善。自分が助けに入ったところで倒せるとは限らない。探索業では自分の身の安全を第一に考えるべきだ。
だが。
(……若いんだよねぇ)
追われている探索者が、若い。おそらくは高校生くらいの少年だ。初心者装備に身を包み、必死に走っている。……ここは開けた場所だけど、放っておくとまた道に入ってしまいそうだ。それをさらに追う? いや、その前に。
「っ……!」
少年の、足がもつれる。彼の装備に付着した血と、それにしては外傷がないことから――彼はヒールかポーションを使用済みだ。それを使いながら持久力を無理やり伸ばして走り続けていたのだろう。
しかし、それにも限界はある。足がもつれて――そうして、転びそうになってしまい。
そんな隙を、敵が見逃すはずがない。
「【ヒール】」
オーガの拳が少年に重なった瞬間、アオイはヒールを放った。しかし少年も無防備に拳を受けたわけではなく、折れた剣を掲げて防ごうとしていた。ただ、それで衝撃を殺し切ることはできずに大きく吹っ飛び、地面にぶつかる――その直前で、アオイは彼を抱き止めた。
「っと」
衝撃と同時に後ろに跳んだものの、勢いのままにいっしょになって地面を転がる。
「大丈夫?」
「え? ……今の、君が?」
今の――【ヒール】のことか。そうだよとうなずく。ただ、ゆっくり問答している時間はない。
「助けに来た。ボクがアレの相手をする。キミは逃げて」
「なっ……! そんなこと、できるわけっ」
少年は目を瞠った。だが、納得できないとばかりに声を上げ――
「来る」
そんな事情は、オーガには関係ない。
その赤黒い身体に筋肉を浮き上がらせ、尋常ではない膂力で放たれた拳は目で捉えることすらできず。
しかし、アオイはそれを流そうとして、いつものように拳の横から力を加える。
ただ――目の前を走り去る電車に、進行方向とは垂直だからと言って手で触れようとすればどうなるだろうか?
「ッ――無理かぁ!」
拳の方向を逸らすこと自体は成功した。オーガが前につんのめり、そのまま振り下ろした拳が地に当たり――地が、割れた。
轟音とともに地面が揺れる。せっかくオーガが体勢を崩してくれたと言うのに、それに足をとられて『投げる』ことができなかった。……もっとも、そうでなかったとしても今は投げられるような状態じゃなかったが。
「すごい――って、君、指が!」
「知ってるよ! っ~~~~~~! この状態で【ヒール】とか難しすぎない!?」
魔法を使うには精神の集中が必要だ。少年が驚いたように、現在アオイの指には異変がある。
右手の人差し指と中指が大きく折れ曲がり、その肉が弾けて潰れている。アオイの瞳には涙が浮かび、その表情が大きく歪む。
「でもっ――【ヒール】!」
【ヒール】。回復魔法。たったそれだけでぐちゃぐちゃに折れ曲がり潰れた指が元通りに修復される。初期に獲得できる魔法としては破格の性能――しかし、裏返せば『それを使わなければならない環境』であるとも言える。
「あー……っ、これで打ち止め! 精神的にもう無理!」
精神力が残っていない。気分が上がらない。しかし気分を落ち込ませているような状態ではなく、叫ぶように大声を出すことで強引に心を奮い立たせる。
「君、名前は!」
「えっ――ゆ、勇斗。星勇斗だ」
「そう! ボクはアオイ! ポーションか【ヒール】は残ってる!?」
「【ヒール】なら集中すれば後一回は――っ、オーガが!」
「そのまま拳を埋めとけよ!」
オーガが地面に突き刺さった拳を抜いてこちらを見る。今のやりとりの間にオーガから少しは距離を取ったが、こんな距離、詰めようと思えば一瞬で詰められるだろう。
……いや、警戒してる? 自分よりも絶対的に弱い個体が自分の拳を逸らしたことに動揺しているような気配が見えた。
これなら……このまま、時間稼ぎができたなら。
「ユートくん。一応、今は配信してる。視聴者も居た。だから、待っていれば助けが来る……と思う」
「そんな時間、あるか?」
「ない! から……稼ぐしかない。できる?」
「できなくてもやるしかない、だろ」
「あはっ! 正解! ユートくん、もしかして天才?」
「だったらここらでユニークスキルでも覚醒してほしいところだな!」
「同感! ――来るよ」
「わかってる!」
警戒しても仕方ないとわかったのだろう。オーガがこちらに向かってくる。
速度はない。先程のような勢い任せではなく、ゆっくりと、しかし着実にこちらに向かう。
当たればその時点で終わり。掠りでもすればそれだけでゲームオーバー。なんてクソゲー。
勇斗の息は乱れている。だが、先程まで走って逃げていた頃のほどではない。表情にも色が戻る。やけくそのようにも見えるが、その瞳には意志の炎が宿っている。
対するアオイは。
(……もしかして、だけど)
冷めきった瞳でオーガを観察しながら、グーパーと自分の拳を開閉する。
(いや、どちらにせよ……今の技の冴えじゃ、まだまだかな)
まだこの身体に慣れきっていない。
経験が薄い。技は鈍ら。流すことすらできていない。
(なら、ここで慣らすしかない)
SOSが届いているにしても、どれだけ急いだとしても救援が来るまでに数十分はかかるだろう。
そんな長時間、自分よりも速い敵の攻撃を掠りもせずに避け続けることが叶うか――もちろん、そんなことはできるはずがない。まずスタミナが持たないだろう。
(失敗したかな)
助けに入るんじゃなかったか。でも……アオイは勇斗を見て、首を振る。
(無理だな。子どもは、見捨てられない)
きっと、大人の探索者であれば見捨てていた。男ならもちろん、女でも――それが絶世の美女であればわからないが、見捨てることができていた。
だが、勇斗は子どもだ。高校生くらいの男の子。自分の妹よりもさらに幼い。……ちょうど、最後に妹の顔を直に見たときと同じくらいの年齢だ。
(……さて、ボクが死ねばこの子も死ぬ。なら、ボクが死ぬわけにはいかない。強引にでも逃がすべきだったかな。今からじゃ……遅いよねぇ)
そもそも、まともに聞いてくれるとも思えない。今のアオイは美少女だ。それも、見た目だけなら勇斗と同年代。そんな少女に――それも、先程あんな醜態をさらした少女を、見捨てて逃げることができるだろうか。
(言うだけ言ってみてもいいけど――まずは、ここを凌いでからかな)
アオイは前後に脚を開け、半身になって構えた。合気における養神館派のものに似た構えだ。
向かい来るオーガに対して、されど心は凪。
冷静に敵を見据えて、一度、鋭く息を吸った。