オーガ
「はっ……はっ……はっ……はっ……!」
渋谷ダンジョン、第九層。
息を切らせて必死に走る少年がひとり。
「こなっ……くそぉ……!」
初心者装備に身を包み、滝のような汗を流しながら走る彼の名は星勇斗。十六歳の男子高校生である。
彼が必死になって走っているのには理由があった。
それは――
「なんでッ、オーガがッ……こんなッ、ところにッ、居るんッ、だよ……ッ!」
彼の背後に、鬼が居た。
その体躯は人の限界を越えた長身。
赤みがかった肉体は鋼。鍛え抜かれた隆々とした筋肉の鎧。
額からは角が伸び、その瞳はただ正面の敵を見据える。
オーガ。
渋谷ダンジョンでは第五十層以降に出現するMOBであり、京都は福知山のダンジョンにおいては第三十層の階層主として出現するモンスター。
それが、今、渋谷の第九層に居る。
イレギュラーの徘徊者。前例がないことではないが、非常に稀なことでもある。
勇斗は知る由もないが――三年前のサンパウロでも同様のイレギュラーが発生していた。
サンパウロの第十七層に発生したイレギュラー、赤竜。
ウェールズの第五十層に出現する階層主でもあるそれが出現したときの騒ぎは、しかし、それほど大きなものにはならなかった。そのときは適切な対処がなされたのだ。徘徊者は攻撃されるまでは無抵抗だ。サンパウロをホームとする高位探索者が協力した『一撃』により無事討滅することが叶った。
赤竜に比べれば――オーガはそれほど脅威とは言えないかもしれない。
本来であれば、サンパウロのときと同様、報告を受けた高位探索者によって討滅されたことだろう。
問題は、今回は『そうならなかった』ということである。
「くそっ……こんな厄物を『なすりつけ』やがってッ……!」
勇斗は第十層も突破していない新規の探索者ではあるが――それでも、ソロで第九層を潜っても問題ないだけの実力は有していた。
ソロで探索しているのだ。慎重に行動するようにはしている。それだから、徘徊者に誤って攻撃するなんて真似をするわけがない。
そう、だからこのオーガは勇斗が自ら攻撃したものではなく――
「あのッ……クソ女ァアアアアアアアアーッ!」
見も知らぬ探索者の少女が『たすけてぇえええええええええ!』と言いながら走っていた。勇斗はわけもわからず反射的に助けようとして、剣を握って前に出て――
瞬間、咄嗟に前に構えた剣に自動車が衝突してきたときのような衝撃が走り、勇斗は思い切り吹っ飛ばされた。床にぶつかり、跳ね上がって地に落ちる。肺がすべての空気を吐き出し、口の中に血の味が混じる。頭がおかしくなりそうな激痛と真っ赤に染まった視界の中、手探りでポケットからポーションを取り出し、唯一動いた右手の親指と中指だけを使って蓋を開けて中身をあおった。
そして取り戻した世界の中心――目の前に、夢だと疑うものがあった。
夢であってくれと願うような災厄が。
それからは必死に逃げ惑うことしかできない。さっきの少女がどこに行ったのかは知らない。自分が吹っ飛ばされているうちにそのまま走り去ったのだろう。あるいは、先程の少女も同じように『なすりつけ』られただけなのかもしれないが――ただひとつ確かなことがあるとすれば。
先程の接触で、このオーガのターゲットは自分に移った、ということだろう。
「ああッ! くそッ……! こんなところで、死んでたまるかァ!」
息を切らせて、勇斗は走る。
人間の体力は無尽蔵ではない。
いくら命の危機だとしても――全速力で走り続けていられる時間は長くない。
MOBに持久力の概念は存在しない。まだ勇斗は追いつかれていないものの、それはあくまで『今は』という話でしかない。
遠からず、自分はオーガに追いつかれる。
オーガに追いつかれてしまったならばどうなるかは明白だ。
だから、つまり――遠からず、勇斗は。
「~~~~ッ! 【ヒール】ぅうううううううう!」
MP残量は心もとない。MPは精神、心の力だ。使うたびに気力が削がれる。だが、それを無理やり奮い立たせて心を絞って【ヒール】を使う。ポーションの残量はあと一つ。ヒールは……この感覚だと、振り絞ってもあと二回。
すべて使ったとしても生き残れるとは限らない。今でこそ追いつかれていないが、相手はオーガ。あのオーガだ。もし『走る』というアクションを取られたならば、今すぐにでも追いつかれてもおかしくはない。
それがなくても、稼げる時間なんて雀の涙だ。救助が来るには……ああ、そう言えば。あまりに焦って、配信をONにすることすら忘れていた。今からでも。いや、無理だ。今、そっちに意識を向けたらその瞬間に死ねる自信がある。
詰んでいる。
死は遠からず。
どれだけ懸命に足掻こうとも、自分の運命は決まっている。
だが、それでも。
「諦めて、たまるかッ!」
諦めずに、勇斗は走る。
逃げて、逃げて――その先には。
変わらず、現実が横たわっている。
*
渋谷ダンジョン、第九層。
「うーん……」
この身体になって最初にダンジョンに潜ってから一週間が経過した。
未だアオイの金欠は解消されなかった。なぜか稼いでも稼いでも消えていく。え? 新しく買った服はどうかって? めちゃくちゃかわいい。さすがボク。
そんな彼女がダンジョンの真っ只中で何を難しい顔をしているのかと言えば――もうちょっと稼ぎの効率を良くしたい、と思っていた。
今でも生活はできるのだが、自分を着飾ることを思えばもっと稼ぎたいというのは本音だ。それならもっと深く潜ればいい話なのだが、これ以上深くなると自分の手には余る。そもそも第十層の階層主を突破できる自信がない。乙ってダンジョンから排出されるのが関の山だろう。
「前のホブゴブリンみたく都合よく徘徊者が……って、こんな短い期間にそう何度も徘徊者と遭遇するわけないもんなぁ」
そもそも徘徊者を見つけられたとしても相手が人型でなければ意味がない。赤竜なんてものに出られても自分では絶対に勝てないだろう。現状では時間稼ぎすらままならないことは明らかだ。
「これだけの美少女だし、どっかのパーティーに頼んでキャリーしてもらうとか……いや、でもそれをしたらそれをしたで面倒くさそうなんだよなぁ。今の容姿で人に借りをつくるとダルそう」
そもそも、アオイはあまり人と関わることがうまくない。男の頃だってソロで探索者をやっていたのだ。はっきり言って探索業において『ソロ』なんてものは選ぶべきではない。あまりにも危険だ。人間の目は前にしか付いていないのだから。
普段はパーティーで探索している、熟練した探索者が浅い層を――ということであれば理解できるが、そうでないならば……。よほど強力なユニークスキルを持っているでもなければ、そんなことはまずしない。
アオイもそんなことは知っているが、パーティーを組むのは面倒くさかった。他人の都合に自分を合わせるということが非常に面倒くさかったのだ。
好きなときに潜りたいし、できればそんなに潜りたくない。お金も生活できるぶんだけあればそれでいい。そう思っていたからだ。
刹那的、享楽的な生き方をしてきたアオイにとって、ダンジョンは本気で潜るものではなかった。
ただ、今は欲しいものがある。欲しいものができてしまった。
「うぅーん……どうするかなぁ」
迷う。もし組むならやっぱり女の子かな。今の身体が身体だし、男はちょっとね。
となると、やっぱりピンチの女の子を助けるとか? そういう展開ありがちだよね。
そしてその美少女に好かれちゃって――実はその子にもすごい才能があったりして。
それでボクが楽をすることができるようになる。
養ってくれる。
そうならないかなぁ。
なってほしいなぁ。
「って、さすがにこれは都合良すぎ――」
そうやってアオイが自分の妄想に苦笑した、そのとき。
「たすけてぇえええええええええええええええ!」
と大声で叫ぶ少女の声が耳に入った。
「……マジ?」
ぱちくりと目を瞬かせ、むにぃーっと自身の頬を引っ張って。
そんなことをしている場合じゃないと早足で声のほうへと向かった。