佐古歳三
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佐古歳三は、今年で四十七の齢に届こうとしていた。
ダンジョン探索者としての勘は、すでに四半世紀に及ぶ。紛れもなく枯れ木のような、ロートルの部類に属する男である。
白髪の交じり始めた短髪、五尺余りという低身長、ずんぐりむっくりとした無骨な体躯は、お世辞にも見目よいとは言い難い。外面を窺う限り、どこにでもいるただのしがない中年の親父に過ぎない。
深い森の木立の間──その冴えない中年男と、銀色の体毛に覆われた巨獣——銀熊と呼ばれる羆の成れの果てとが、静かに睨み合っていた。
体長六メートルに迫るその怪獣は、かつて日本の大地に生息した最大の羆と称される二メートル七〇の個体をも凌駕する。その悍ましさは、見る者の魂を凍らせるに十分だろう。
先に血の匂いを纏って仕掛けたのは、歳三であった。
踏み込みと同時に加速、そして推進。宙空で微塵の隙もない攻撃の構えを取った歳三は、斜め上方より膝を袈裟に落とした。
「しゃあッ」
──半月落とし。
これは歳三が独り勝手に名付けた我流の技である。分かりやすく言えば、胴捻りを伴う飛び膝蹴りといったところか。両脚に蓄えた力を爆発させ、前方へと跳躍。腰と胴の捻りから繰り出される変則的な一撃である。
歳三の言によれば、この技は己の半月板をもって敵の頭蓋を砕かんとする威勢の良い技なのだという。もっとも、彼が想像する箇所は半月板ではなく膝蓋骨なのだが、学のない歳三はその辺りの道理を知る由もない。
かなりでたらめな技ではある。
しかし、歳三の異常なまでの身体能力から繰り出されるでたらめな一撃は、銀熊の側頭部に容赦なく叩きつけられ、結果として紅い花が咲き乱れる事となった。
そう、佐古歳三は強い。
恐ろしく強い。
先ほど見せた剛脚すら、その本気の十分の一ほども出さずしてあの破壊力である。
種はある──筋肉だ。
仕掛けもある──筋肉だ!
実戦という血と泥の中で鍛え抜かれた筋肉は、制式銃の至近距離からの銃撃すら弾き返し、格闘漫画を読んで覚えた理屈のよく分からない拳は、軽く撃ち放つだけで犀の五倍もの皮膚の硬さを誇る怪物の腹に大穴を穿つほどである。ちなみに犀の皮膚の厚さは一・五から五・〇センチほど、その硬さたるや乾燥した餅の如しと言われている。
ダンジョン探索者とは、誰も彼もが異常とも言える身体能力を有する者たちの総称である。だが、歳三のそれは、同類の中でも頭一つ、いや三つ四つ、あるいはいくつも抜きん出ていた。二十五年という月日をストイックに潛り抜け、地道に肉体を苛め抜けば、人間とて熊の化け物を素手で蹴り殺せるようになるのである。
そんな彼だが長年、とある哀しい悩みを胸の奥に抱き続けていた。
自身の社会性に対する、渇望にも似た改善の欲求である。
要するに、まともな対人関係を築きたかったのだ。彼が目指す場所——社会の中に己の居場所を作るなどという、漠然とした夢の果てには、社会性の改善が何よりも急務であった。しかし一方で、彼はそんなものは見果てぬ夢に過ぎないと、冷めた目で理解してもいた。
なぜなら歳三は中学を中退した中卒であり、多汗症であり、低身長で、体毛が濃く、容姿の諸々に劣っている。これ自体は中身で勝負できるならば些細なことだが、彼はその中身すらも怪しいのだ。
というのも、彼には前科がある。
それは二十七年前のこと。
まだ大変異前の、旧時代と呼ばれる頃のことである。当時、バイト通勤のために埼京線に揺られていた彼は、出来心から、つい目の前に立つOLのむっちりとした臀部を揉みしだいてしまったのだ。
少なくとも、被害者であるOLは揉まれた、と言っている。
全く欠片も言い訳にはならないが、当時の歳三は、率直に言って「不細工」という概念を人間に落とし込んだような容姿であった。べしゃりが上手いわけでもない。趣味といえばサボテンの飼育くらい。
当時の運動神経は並み以下、物覚えも悪い。ゆえに彼の周囲には、女の気配など欠片も存在しなかった。職場でのロマンスなど起きようはずもない。それでも若き雄の性は疼く。当時の歳三は多感な年頃であり、女体への関心が殊のほか強かったのだ。
我慢に我慢を重ねた暗い生活。手淫の回数が一日に七度を超えた頃、歳三の理性はついに限界を迎えた。痴漢という所業に手を染めてしまったのである。少なくとも周囲はそう判断した。
自分はそんな事はしていない。していないが、もししてしまったとしても意識的に揉んだわけではなく、無意識のうちに手が動いてしまった……という様なことを歳三は弁明した。意識的に動かしたかどうか、歳三の記憶の中でも定かではない。しかし、状況からしてそう判断されても致し方あるまい。
激昂する女、恐縮する歳三。その修羅場をスマートフォンで撮影した者によりSNSに拡散され、彼はたちまち大炎上の渦中へと引きずり出された。
もし本当に歳三が卑劣なる痴漢行為を行ったのだとしたら、これはもう完全なる自業自得であり、同情の余地は微塵もない。だがともかくも、彼はその事件以降、自分がまるで二足歩行の生ごみであるかのような錯覚に苛まれ、ありとあらゆる自信を喪失してしまったのだ。
今でも彼の対人関係能力──いわゆるコミュ力は、壊滅的である。まともに言葉を交わすことすらできぬまま、暗闇を歩むような日々を送っている。
しかし、相手が怪物となれば話は別である。
怪物は至極全うな論理——正論の棒でガンガンに殴りつけてきたりはしない。何よりも、中卒で多汗症で低身長で体毛が濃く、更に前科もあるという己に人権があるのかないのかなどと悩む必要がない。
真っ直ぐに、本気で、一切の裏表もなく自分を殺そうと純粋な殺意を向けてくる怪物たちの群れは、歳三にとってはまるで旧友のような、家族のような、そんな温かい存在であった。
もっとも、それほど親しく思っている相手であろうとも、戦いの最中であるからには殺すには殺すのだが。
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ここは、東京都豊島区池袋にある探索者協会の本部ビルである。
大変異前はサンシャイン六十ビルと呼ばれていた場所だ。しかし、世界規模のダンジョン発生を期とした大変異の後、様々な紆余曲折を経て、政府が所有者である株式会社サンシャインシティから買い取り、大改修を施したのである。
例えば、旧サンシャインにあった専門店街サンシャインALTAは、今はダンジョン素材の買取センターとして生まれ変わっている。
普段は探索の旅から戻った多くの男女で賑わうセンターだが、この時ばかりは普段の喧騒とは異なる、ひんやりとした空気が漂っていた。
原因は歳三である。
彼がセンターに足を踏み入れた途端、場にいた全員が一斉に距離を取り、ひそひそと互いの口元を寄せ合って囁き始めたのだ。
──おい、奴だ。
──手に持っているのは……銀熊の毛皮か? 頭が潰れてる……惨いことをするぜ。
──心底殺しを楽しんでいるんだな、嗤ってやがる。
──目を合わせるな。因縁をつけられても助けてやれないぞ。
その囁き声は歳三の耳には届かない。
いや、歳三が努めて聴覚を失調させているのだ。彼ほどの強者ともなると、視覚や聴覚といった感覚器官を己の意思で自在に拡張し、あるいは縮小することができる。
ガチッと奥歯を食いしばり、歳三は羞恥のあまり赤銅色に染まった顔を俯かせた。
よくよく耳を澄ませば、この場の誰も彼も歳三を蔑んだり馬鹿にしたりしているわけではないことが分かるだろう。
しかし歳三は聴こうとはしない。
嫌悪の言葉が直接耳に届くのと、そうでないのとでは、魂へのダメージの大きさが天と地ほども変わるからだ。
「ひっ」
喉の奥から絞り出すような、小さな悲鳴。
歳三がちらりと声の方を見やると、黒髪の二十代前半とおぼしき女性が、恐怖に身を震わせながら後ずさりをしていた。
買取センターの職員、青葉日美子である。
センター内には複数の受付があり、日美子はその内の一つを任されていた。彼女はつい先日まで新米扱いだったが、最近になってようやく一人前と見なされ、一人で受付を担当するようになったのだが……。
見目も良く、快活で真面目な彼女は、可哀そうに、歳三の赤面した顔を真正面から拝する羽目となってしまった。激怒した歳三など、ダンジョンのモスターよりも余程恐ろしい──と、そう考えているのかもしれない。
ちなみにこれは歳三自身は気づいていないことだが、探索者の間でも職員の間でも、佐古歳三という男は、彼自身が思うほどみっともない男としては見られていない。
ではどう見られているのか? それは武器も使わずにモンスターを嬲り殺しにする非常に危険な男として受け止められているのだ。まぁ、この辺は間違ってはいないかもしれない。私人としての歳三はともかく、探索者としての彼は極めて有能な戦闘系探索者である。
ともかくも、歳三がむやみやたらに無口なのも事態を悪化させている。何を考えているのか分からないのだ。極一部の職員とのみ交友を持つとはいえ、普段の寡黙な態度が、彼から人を遠ざけてしまっていた。
歳三は内心、「そこまで避けないでもいいじゃないか、いや、俺のような罪人は避けられて当然か」などと思いつつ、別の受付窓口へと無言で向かった。
「これを……」
無言で素材の数々をカウンターに乗せていく。
銀熊の牙、眼球、肝。全長八メートルで猛毒を持つ大蛇の皮。厚さ二センチの鉄板をも食い千切る巨大な狼の毛皮……これらは皆、元は動物園であったダンジョンのモンスター素材である。
探索者の多くが得物を手にしてモンスターを狩る中、歳三は徒手空拳でモンスターをぶち殺している。確かにダンジョン探索者という存在は、ダンジョンに潛る内に生物としての強度が上昇していき、ハンドガンで乱射するよりも素手で殴ったほうが強いという者も頻繁に現れる。だが、それでも歳三のように、何もかもを己の肉体一つで殺してしまおうとする者は稀であった。
買取センターの職員、金城権太は、悪党面を緩ませ不気味な笑顔を浮かべ、電卓をバチバチと弾いた。
権太はこのセンターの古株職員で、年の頃は五十路の手前。身長百六十五センチ、体重百三キロ。頭髪はなく、髭剃り跡の青々しい中年男である。風俗通いの果てに女房に逃げられたという、ある意味で輝かしい経歴を持つ。ねっとりとした喋り口調とねっとりとした視線は女性探索者からは大不評だ。探索者たちも権太の受付窓口は極力避けていた──歳三以外は。
「えへへぇ、これはこれは……。ふむ、損傷が大きすぎますが……まあよござんしょ、買取額はこれで如何です?」
歳三は頷き、「振込で」と一言だけ述べた。
権太は再び「えへへぇ」と、返事なのか笑い声なのか分からぬ音を漏らし、手元の用紙に何やらメモを書き記した。
「そうだ佐古さん。今晩どうです?」
権太は、くいっと何かをしゃくる仕草を見せる。
歳三は頷き、「北口で」と言い残して、その場を去っていった。
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JR池袋駅の北口は、仄暗い色の灯りを燈すラブホテルが林立し、風俗店と飲み屋が立ち並ぶ、いわゆる大人向けの歓楽街である。
権太という男は不細工で色キチではあるが、歳三は彼のことが嫌いではない。権太は歳三にとって、数少ない友人──あるいは知人のような存在であった。しょうもない大人同士、しょうもない話をしながら安酒を飲むのが、歳三の数少ない人生の慰めであった。




