心は浮き沈み
マリウスが畑仕事を終えて戻ってきたので、一緒に食事をしておなかいっぱいになった後、私は部屋に戻った。
ボフンと柔らかいベッドに飛び乗って寝転び、大きなフワフワの枕を抱き締める。
魔王を倒すことはできなくても、あの『世界を滅亡させた魔王』は封印できるかもしれないという希望が生まれたことで、私はじわじわと喜びが沸き上がってきていた。
悪は決してこの世からなくならないことは理解できる。でも、だからといって滅びるのをただ待っているのは嫌だった。
あの時挑んだ魔王は、マリウス達がどんなに訓練を重ねて強くなっても、全く手が出せなかったけれど。
もしかしたら、私達は生き残れるのかもしれない。
マリウスと。仲間である皆と。
この先もずっと、幸せに暮らしていけるのかもしれない。
ワイアットは牧場で働きながら、大好きな動物達に囲まれて。
ベリルは夜の世界で、この国のNo.1として確固たる地位を得るだろう。
オスカーは、そもそも過去に戻る前から、大賢者というだけでなく、発明家として巨額の富を手に入れていた。妖精王の知識を得ている今、あの頃とは比較にもならないほどの発明をしていくのだろう。
戦いマニアのケイレブは、争いなんて常に絶えないから、どこでも楽しく生きていくに決まってる。
そして私は、愛するマリウスと共に、農業をしながらのんびり緩やかに生きていく。
マリウスの無尽蔵な肉体パワーと、私の聖魔法があれば、大抵の苦労は乗り越えられるはず。
私はそんな未来が現実味を帯びているということだけで、幸せが溢れて止まらなくなっていた。
魔王を封印できるかどうか。
それによって生か死かが決まる。
こんなわかりやすいことはない。
エイダン王子は言っていた。
魔王が必ず世界を滅ぼすと。何回過去に戻っても、魔王が世界を滅ぼさなかったことはないと。
だからこのままだと多分、世界は滅ぶ。
でも、1%以下でも可能性が残った。
今、ここにいる私達はエイダン王子と違って過去に戻ることはできない。
エイダン王子だけがまた過去に戻ったとしても、そこにいるのは『今の私達』ではないのだから。
特に私は、エイダン王子が何度過去に戻っても出会わなかったと言っていた。
こうして未来の記憶を持って、今ここにいるのは奇跡のようなものなのかもしれない。
この機会を逃したら、もう起こらないかもしれないわずかな可能性。
それはとても嬉しいことだった。
でも、ふと、不安が心を過った。
その不安は、じわじわと私の胸の中で広がっていく。
「ーーーー私が封印しないといけないんだわ」
ぎゅうと枕を更に抱き締めて、自分の身体を丸めた。
過去に戻る前。
私はマリウスのためだけに生きていた。マリウスが魔王と戦うというから、私も魔王と戦っていた。
マリウスの『魔王を倒す』という決意は強く、それを応援してフォローするのが私の役目だと思っていた。
ーーー思えば、どこか他人事だったような気がする。
必死で聖魔法を覚えたけど、私はなりたくて聖女になったわけではなかった。
勇者マリウスも、大賢者オスカーも、大魔法使いベリルも、大戦士ケイレブも、皆が強すぎて、私の力なんてただのフォロー要員でしかない気がして。
強くなる努力はしたけれど、どこかで自分の限界を決めつけていたような。
ーーーそんな気がする。
過去に戻って、自分の力に驚いた。
何故、過去に戻っただけでそんなに強い力を持てたのかはわからないけれど、私にはまだまだ強くなる可能性があったのだ。それを、あの頃の私は信じることができなかった。
私は未熟だけど、強すぎるマリウス達がきっと魔王を倒してくれると思っていた。
でもダメだった。
だから、過去に戻ってきて、魔王を倒すという可能性を諦めていたのは確かだ。
あんなに強かったマリウス達が倒せなかったのだからマリウス達では倒せない。それなら、もう魔王と戦うことは止めて、魔王が世界を滅ぼすまでは幸せに暮らせばいいとーーー。そんな逃げ腰の考え方で。
その道が開けた。
奇跡が作り上げた、ほんの僅かな可能性。
それは、全てが私の力にかかっている。
それに気づいた。
前の聖女はもういない。
今、生きている聖女は私だけ。
3人分の聖女の力が必要であり、前の聖女と私の力を増幅して、3人分にする。
それって、世界の生存が私の力にかかっているということじゃない。
ゾッとした。
さっきまで浮かれていた自分がバカみたいだ。
かつて最高の聖女だと評されたデイジー聖女の力に不備はない。あるとしたら私の力だ。
私の力が足りなかったら、魔王は封印できない。
私の力は、今、どのくらいなのだろう。
不安が私の血に混じって全身を駆け巡る。
手足が冷たくなり、身体が震えた。
ーーーー怖い。
そう思った時に、コンコンと私の部屋のドアを叩く音がした。
私は慌てて飛び起きて、何事もなかったかのようにベッドの上で座ってから返事をした。
「はい」
「アグノラ。俺だ。ーー今、少し大丈夫か?」
マリウスの声だった。
「マリウス?え、えぇ。勿論、大丈夫よ」
マリウスを断るという選択肢はない。
私がドアを開けようと立ち上がったが、それより先にドアが開いた。
黒いシャツに白いズボンというスッキリとした軽装のマリウスと視線が合う。
マリウスの手には、温かい湯気を立てた紅茶の入ったカップ、そして茶菓子が乗ったお盆を持っていた。
マリウスが私の部屋に入るなんて珍しい。いや、初めてなのではないかしら。
お茶の時間になって声をかけてくるのは、大抵、ワイアットだから。
マリウスは慣れない様子で、あまり部屋を見渡さないように意識してるようで、どことなくぎこちなさを醸し出しながら、口を僅かに歪ませた。
「ワイアット兄の入れたお茶だ。冷める前に持ってきたんだが」
「ーーーありがとう」
私はそれを受け取る。そのままマリウスは部屋から出ようとしていたが、よく見ると、受け取ったお盆にはカップが2つ乗っていた。
これが意図するものは1つしかない。
私は部屋から出ようとするマリウスの裾をぎゅっと摘まんで引っ張った。
「あ、あのーーー。一緒に飲んでもーーーー私は構わないわよ」
何と言っていいかわからなくて、変な口調になってしまった。それをマリウスは、ふっと笑って「ツンデレかよ」と小さく呟いた。
ーーーーーーーーーーーーー
私の部屋は広くない。
寝る場所さえあればいいのだけど、花が好きなので部屋には花を欠かせるとこはなかった。だから、部屋にあるのは、ベッドとテーブルと、小さな鏡台と花の活けられた花瓶がいくつかだけ。
マリウスはベッドから少し離れたところにある鏡台の椅子に座った。
熊のように大きなケイレブと比べると、マリウスはすっきりとした身体をしている。オスカーよりも背は低いが、それでも勇者として選ばれるだけの肢体はある。
小さな部屋では特にその身体の存在感は強く、大きく感じる。
ベッドからマリウスまで1メートル以上離れているのに、すぐ近くにいる圧迫感があった。
マリウスはカップの端に口をつけて、温かい紅茶を静かに1口啜る。それを真似するように、私も1口紅茶を飲んだ。
しばらく沈黙が続いたところで、マリウスがようやく口を開いた。
「ーーーオスカーから聞いた。魔王を封印するんだってな」
「そう、、、なの」
聞いたのか。魔王の封印の話を。
私が複雑そうに微笑むと、マリウスは私をじっと見つめてきた。何か言いたそうなわけでもなく。
私が何かを言うのを待っているのだろうか。
でもこんな私の不安な気持ちをマリウスに話しても、困らせるだけだろう。
私は微笑んだまま、また1口、紅茶を飲んだ。
何も言わない私にマリウスはまた黙ったままで鏡台の椅子に座り続けた。マリウスは無言で部屋の外を眺めたり、私から目を離してぼんやりしたりしている。
沈黙がーーー気にならなくなったのは、どのくらい時間が経ったあとだろうか。
マリウスが傍にいてくれる安心感からか、私の中にあった不安は意外にも薄れて、少し離れているはずなのにマリウスから感じる体温のようなものに眠気さえ感じてしまっていた。
「眠たいなら寝るか?」
マリウスからまた声をかけられて、私ははっとする。ヨダレが口の端から垂れかけていた。いや、少し垂れた気がする。
「ね、眠たくなんてないヨ?」
声がひっくり返った。
そんな私に、マリウスは吹き出して笑った。
「そんな眠そうな顔して言われても、説得力ないな」
「ほんとに眠くなんてないってば」
ふん、と私が顔を背けると、私が顔を背けた方の私の隣にマリウスが座った。
「眠いなら一緒に寝てやろうか?」
私が今、座っている場所は自分のベッドの上だ。そんな場所で冗談でもそんなことを言われると、つい意識してしまう。
「ちょ、な、なんてことを。冗談でもーーー」
「冗談じゃないと言ったら?」
言われてマリウスと目が合い、その瞳はあまりに私をまっすぐに見ていたから、私の顔は一瞬にして火照ってしまった。
マリウスったら、私がマリウスのことを好きって知ってるくせに。
そんなことーーー。
マリウスは赤い顔で目を白黒とさせている私を真面目な顔で見ながら、ゆっくりと口を開いた。
「考えてたんだ。夢の中と、自分の記憶が曖昧になりながら、アグノラと自分のことを」
「夢の中って、、、勇者マリウスの?」
「そうだ」
マリウスは、少しずつ勇者だった頃の事を夢の中で見ながら思い出していた。まだ一部思い出せないこともあるらしいけれど、大部分を思い出せたと言っていた。
確かにマリウスは、少しずつ大人びた態度をするようになったし、その様子は勇者の頃のマリウスを彷彿とさせる。
でもやはりマリウスはこの世界でのマリウスで、私の知っているマリウスとは似て異なる。マリウスはマリウスだから、どちらが好きとかではないけれど。
マリウスは少しだけ目を細めて、優しい瞳で私を見つめる。
「俺は昔から頑固だったなと、改めて思っていたんだ」
ーーーそれは、知ってる。
魔王を倒すという信念を絶対に揺るがすことはなかった。どんな甘い誘惑にも乗らず、ただ真っ直ぐに強くなることと魔王を倒すことだけを考えていた。
何度告白しても、私を受け入れてくれることはなかったマリウス。
そんな真面目さも、頑固さも、すごく好きだった。
「魔王を倒さなければ、自分の未来はないと思っていた。魔王を倒さなければ、幸せになってはいけないと思っていたんだ。ーーーだから」
マリウスは、音も立てずにスッと立ち上がり、私の横に座った。ベッドはマリウスの重みでギシリと軋む。
マリウスが更に近寄って、私の心臓は早鐘のように鳴り続けていた。
こんな雰囲気のマリウスは、かつて見たことなかった。一体、どうしたというのだろう。
「アグノラのことを手放せないくせに、アグノラの気持ちにも応えないズルい男だった。夢の中で客観的に見ることで、それに気付けたんだがな」
自嘲するように笑って、マリウスは横に並ぶ私の肩に自分の肩を触れさせた。
ひぇゃ。
声がでそうになって、私は自分の口を手で塞ぐ。
驚きと恥ずかしさで内臓も一緒に口から飛び出るかと思った。
「小さい男だったよな。ーーーだから今更、アグノラの気持ちを確かめるなんて男らしくないとか、そんな悩みも、アグノラに打ち明けたら間抜けすぎるし」
それはすでに打ち明けているのと同義なのでは、と思わなくもないけど。
そんなことを一瞬考えた私の肩に、マリウスの重みがずっしりと乗ってきた。あまりに重くて、さっきまでドキドキしていた甘い雰囲気が一気に消しとんでしまった。
「ーーーちょっとーーー」
私が顔をしかめると、マリウスは、白い歯をニカッとさせて破顔した。
「アグノラが、かつて俺にしていたように。俺も諦めないことにしたんだ。アグノラのことを。だから魔王を封印できずにこの世が滅亡しようがどうなろうが。俺はもう、アグノラと共に有るって」
「ーーーー?」
私の肩に体重を乗せ続けるマリウスのせいで、私は身体が屈強してマリウスの顔がちゃんと見れない。
でも、間違いなくマリウスは笑っている。
真面目に。頑固な顔をして。
「ーーーアグノラが望むなら逃げてもいいんだ。俺はアグノラの決断に付き合うから」
「マリウス、、、」
逃げてもいい。
そう言われて、一気に心が落ち着いた。
私がどんな選択をしてもーーー傍にいてくれるの?
心にどっと流れ込んでくる安堵感は、身体が崩れ落ちそうなほどに強烈で。
また、救われたのだと思った。
あの日、飢餓と衰弱で死にそうになっていた私を救ってくれたように。
マリウスはいつも、ギリギリなところにいる私を助けてくれる。
嬉しくて。涙が溢れてしまいそうだった。
それを誤魔化すように、私はマリウスの方を向かずに微笑む。
「、、、逃げて、どうするの?世界が滅びるまで、何をするの」
私の口調に合わせて、マリウスはうーんと考えるふりをして唸った。
「ーーー魚でも釣ろうか」
そうだ名案だと、マリウスは自画自賛した。
「釣った魚と、俺が作った野菜がある。山にいけば沢山の肉も狩れる。食には困らないな」
そう言ったマリウスに、私は口を尖らせてみせた。
「私はパンも食べたい」
ちょっとしたワガママ。それをマリウスはクスリと笑う。
「それなら小麦を作ろう。新しい土地を耕して、その土地に小麦の苗を植える。自分で作った小麦のパンは絶対に美味しいだろう」
腕が鳴る、とマリウスは言った。
「竈を造って、最高の温度で焼いたパンに、ワイアット兄の育てた鶏の卵で作った目玉焼きを乗せる」
目玉焼きを乗せたパンを齧るために大きな口を開けるマリウスの姿が想像できた。
「半分にして、アグノラと一緒に食べような」
明るく笑ったマリウスに、私はまた惚れてしまう。
この人は本当に、何度、私に惚れさせたら気が済むのだろう。
なんて幸せな未来。
愛する人と、のんびりスローライフ。
世界が滅ぶその時まで。
私達は穏やかに生きる未来だってあるんだ。
ーーーいえ。
わかっている。
そんな選択肢をもう選べないことは。
でもーーーーどんな結末でも、マリウスが傍にいてくれることが、私の幸せなのだから。
マリウスは傍にいてくれると、言ってくれているのだから。
「ありがとう」
私が心からお礼を言うと、マリウスは「礼を言われることじゃない」と静かに首を振った。
マリウスは私の肩に乗せた自分の頭を起こして立ち上がり、私の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「本当は、逃げて欲しかったんだ」
「ーーーマリウス?」
マリウスを顔を見上げると、マリウスはどこか遠くを見るようにして私を見ていた。
「死なないで欲しいって言ったじゃないか。アグノラ。お前だけは、生きて欲しいって」
マリウスが何のことを言っているのかわからず首を傾げると、マリウスは少しだけ悲しそうな顔をして、私に一言呟いた。
その言葉で一瞬にして記憶が蘇った私は、顔が赤く染まってしまう。
それは遠い未来の、そして過去のような記憶。
真っ赤な顔をした私に、マリウスはもう一度「ちゃんと自分の心で道を選べよ」と声にしてドアから出ていく。そんなマリウスを、私は追いかけることはできなかった。
顔が火照って、とてもマリウスに見せられそうになかったから。
最後にマリウスが言った言葉を頭の中で反芻される。
「『アグノラ。ーーー愛している』」
ーーーそれは魔王にマリウスが殺される前に私に告げた言葉、だった。




