ワイアットの回復
予想外のことが起きた。
あの優しくて、他人を救うために自分を犠牲にするようなマリウスが。
私が村を出て、まだ『太陽の代わり』の魔法しか使えず、役立たずとして誰も見向きもしてくれなかった中、唯一、見返りもなしに私に手を差しのべてくれたマリウスが。
ワイアットの病を治すことができると言った私を不審者として、家にいれてくれなかったのだ。
マリウスはワイアットのためなら何でもするはずでしょ?
ワイアットの病気を治すためなら、どんなことでも手を尽くすはずでしょう?
そしてその希望を与えるのが、この私。
貴方が将来、愛するのが確定しているこの私。
追い払うなんてあり得ない。
「ちょ、ちょっと。何でですか?折角、貴方の兄の病を治すって言ってるのに」
「黙れ。今思えば、泣きついてきたところから演技だったんだろう?いくらこの町にとって兄さんが邪魔だからって、始末のために人を送り込むような手の込んだことをするなんて酷すぎる」
誤解もいいところ。
私はマリウス達を嫌悪する町の人の刺客のようなものと思われているようだ。
マリウス達の町の住人は、私達が降りた港まで出ていき働く人が多かったという。
瘴気に侵された人間がいると、その近くの人間や環境も影響を受けるという馬鹿げた噂がある。その噂を真に受けて、港に人が立ち寄らなくなるのを恐れた人もいるのだろう。
ワイアットを町の奥に追いやって隔離しても瘴気の影響の不安は消えず、いっそこの町からいなくなって貰った方が良い。そんな人から様々な嫌がらせを受けているのかもしれない。
嫌がらせの度を越えた行為でさえ、正義の名のもとに施行されることもある。
それを警戒しているのだろうけれど、私はマリウスにこんな目で見られたことがなくて、狼狽えてしまった。
「私はそんな人じゃありません。私は、、、」
マリウス、貴方のためを想って。
心でそう叫ぶ。
だが、マリウスは親の仇のような瞳のまま、形の良い口を歪めた。
「うるさい。俺は絶対騙されないからな」
あのマリウスからきつく睨まれて、私は茫然としてしまう。
マリウスは明るく強く優しくて、でもいざとなると凛々しくて、誰よりも頼りになる人だった。
こんな刺々しいマリウスは、見たことがなかった。
オスカーが笑う姿にも驚いたけれど、あのマリウスが私を睨むなんて、想像もしたことなかった。
これは一体、誰なの?
「ーーーで、でも」
ワイアットは今年の初夏に命を落とす。
もう季節は徐々に暑さを増し、夏に近づいている。
今日、明日にでもその刻が来てもおかしくないのだ。
「帰れ!ワイアットには絶対に手を出させないからな」
「話を聞いてください。私はっ」
「帰れっ!!!」
激しく怒鳴られて、私は言葉を失った。
今のマリウスに私の声は届かない。
これ以上粘るのが逆効果なのは、マリウスの性格をよく知る私には嫌というほどわかる。
マリウスは一度言い出すとそこらの職人肌の親父より頑固で、これ以上は時間の無駄だろう。
私は断腸の思いでマリウスの家を去り、とぼとぼと来た道を辿る。
どうしよう。どうすれば。
追い払われるなんて、予定外だった。
とりあえず家に入れて貰ってワイアットが回復さえすれば、マリウスは私を快く受け入れてくれると思い込んでいた。
マリウスの勇者への道を阻止するために、その先駆けとなるワイアットの死を回避するのはマスト事項。
ワイアットの死と町の滅亡から、マリウスは魔物の大元である魔王を倒そうと心に決めるのだから。
すでに初夏。瘴気はワイアットの身体を酷く蝕んでいるはず。内臓まで入り込んだ瘴気を除去する聖魔法を使うには、私が直接ワイアットを触らないといけない。
触るには家の中に入れてもらわなければならない。
家に入れてももらえなければ、どうすることもできない。
私は道の途中でがくりと膝を折り、頭を垂れた。
「、、、どうしよう、、、、家の中に入らないと、ワイアットが助からないのに」
「もっとうまくやる方法はなかったのか?」
ザリ、と靴が砂を噛む音が聞こえ、私にその男の影が重なった。
振り返ると、さっき別れたはずの男が立っている。
「ーーーオスカー。なんで、、、」
「見知らぬはずの町にたどり着いて早々、お前が迷うことなく真っ直ぐに家の方に向かわれたら、嫌でも気になるだろう。だからお前のあとをついていったら、いきなりマリウスに抱き付くし」
私の頬がかあっと赤くなる。
「み、見てたの?」
「抱き付いて号泣した上で、マリウスを大激怒させて追い返されるところしか見てない」
「全て見てるじゃない!」
オスカーは肩を竦める。
「見られるようなところで抱き付くのが悪い。しかも、マリウスが誰よりも大切にしてるワイアットを助けてやるなどと、そんな嘘を白々しくつくなんて、追い出されて当然だ」
呆れた顔をするオスカーに、私は首を振る。
「嘘なんかじゃないわ。本当に助けることができるの」
「どうやって?俺達が必死に治療方法を探しても一向に見つからないというのに、ポッと出てきたお前に何ができるって言うんだ」
オスカーは腕を組んで私を見下ろした。
数年後と同じく、オスカーが凄むと迫力があってとても怖い。優しいマリウスの側ばかりいた私はオスカーの耐性があまりないから、震えそうになる。
「く、薬があるの。瘴気によってできた病を治す薬よ。これがあれば死んでいない人の命は助けられる」
私がエリクサーに似せた液体の容器を見せると、オスカーは鼻で笑った。
「馬鹿馬鹿しい。エリクサーのことを言いたいのだろうが、そんな高価なものを一般の人間が手に入れられるはずがない。もし手に入ったとして、なぜワイアットに使うんだ。お前にとってワイアットは他人だろう?」
他人だなんて。
ワイアットは私の未来の義兄よ。
ーーーなんて言ったら、オスカーからも追い払われるだろう。
私は元々計画していた話をオスカーに話した。
「私の魔法の師匠が預言者なの。その師匠が言ったのよ、ハタカンの町のワイアットという男の命を救わないと、世界は滅びるって」
これは嘘ではない。
ワイアットの死とハタカンの町の滅亡からマリウスは勇者になった。
その勇者が魔王と、最期は仲間の裏切りによって殺された。
私はその後を知らないけど、勇者のいない世界は崩壊の一途を辿るだろう。
勇者は1人しか認定されない。
一度勇者に選ばれると、勇者が倒れてから次の勇者を選ぶまでに時間がかかる。その間に魔王は世界を地獄に変えるだろう。
今回、マリウスが勇者にならないことで、マリウスではできなかった魔王討伐を、新しい勇者はしてくれるかもしれない。
少なくとも、マリウスが勇者になるとマリウスは魔王に倒され、世界は滅びるのだ。
マリウスは勇者になってはいけない。
マリウスの勇者の始まりはワイアットの死。それを阻止することでマリウスは勇者にはならず、世界の崩壊を防ぐことに繋がるーーーかもしれない。
「世界を助けるために、師匠は私に託したの。ハタカンの町の奥で病に苦しむ男を助けなさいって。そしてこれを渡してくれたわ。これが唯一、その人を助けられる薬なの」
私がその赤い薬をオスカーの前に出すと、オスカーはそれを私から黙って静かに奪い取った。
「あっ」
「瘴気による病を治す薬、、、か」
それを覗き込むオスカーの目はオッドアイ。
私は胸がざわついた。
瘴気によって瞳を蝕まれ、町中から忌み嫌われているオスカー。
確かにエリクサーなら、その瞳は元に戻せる。
でもその薬は偽物であって、飲んでも何の効果もない。
オスカーが飲んだら、それが偽物だとバレてしまう。飲むのと同時に私がオスカーに魔法をかけたらオスカーの瞳は元に戻るだろうが、偽物の薬がなくなってしまう。
稀少なエリクサーを、一般人が2つも持っているはずがないからだ。
私が聖女だとバレるわけにはいかない。
聖女とバレたら私は、次に選ばれる誰かもわからない勇者のパーティーに派遣されて、マリウスと一緒に居れなくなる。
それは困る。
だから回復はこの薬のせいにしなきゃいけない。
偽物とはいえ、この薬を失うわけにはいかない。
それだけでなく、オスカーがワイアットの命を奪ってでも自分の瞳を治そうとする姿なんて見たくもなかった。
「返してっ。本当に大切なものなの、、、っ!!」
失敗できない不安に声が震え、涙が滲む。
マリウスが。私が。世界が。
全てがその偽物の薬にかかっているような気がしてくる。
「お願いよ。私を信じて。本当に、本当に命を助けたいだけなの」
オスカーは必死に懇願する私をじっと見つめた。
本当に、オスカーは何を考えているのか表情からは理解できない男だ。
怖かった。
「、、、信じてやったら、1つ、約束をしてくれるか」
「約束?」
私は首を傾げる。
「その師匠とやらに会わせて欲しい。これが本物であるなら、入手した経路を知っているはずだ。どんな些細なことでもいい。話が聞きたい」
そういうオスカーも真剣な表情だった。
喉から手が出るほどに欲しているのは、エリクサー。
瘴気に侵されたオッドアイの瞳を治したいのだろうか。
でも、本当は私に師匠などいない。
薬も偽物だし、エリクサーなんて見たことない。
オスカーの切な願いを叶えることはできないだろう。
でも。
私がオスカーと一緒に探すことはできる。
私には勇者とともに世界を旅した記憶がある。
本当にこの世にエリクサーという薬があるのなら、世界樹という植物があるのなら、オスカーのために探してもいい。ここで見逃してくれるなら。マリウスのためにワイアットを助けさせてくれるなら。
私は大きく頷いた。
「、、、わかったわ。約束する。だからオスカーも力を貸して。あの家の中にいる人を助けたいの」
私が約束をすると、オスカーは少し安堵したように小さく息を吐いた。
そんなにエリクサーが欲しいのか。
「いいだろう。ワイアットを助けるのは俺達の願いでもある。マリウスはあれで頑固者だからな。俺が説得しよう」
オスカーは地面に膝をついた私に手を伸ばした。
オスカーが一緒にいてくれれば、マリウスも信じてくれるだろう。
私ったら、オスカーのことを誤解していたみたい。
賢者としての実力と類い稀なる美貌だけの男で、クールぶった理解不能のいけ好かない意地悪キザ男とばかり思っていた。
意外と話がわかる人なのかもしれない。
私はオスカーの手を握り、立ち上がる。
「ありがとう。信じてくれるなんて本当に嬉しい」
私が満面の笑みで喜ぶと、オスカーはまた鼻で笑った。
「お前を悪い人間とは思っていなかった。悪いやつは馬車の中の人全員にピザをやったりしないからな」
ピザ。
そんなささやかなことで。
でも嬉しい。野菜たっぷりピザよ、ありがとう。今度会ったらもっと沢山買ってあげるからね、とピザに誓う。
「あと、焼き玉ねぎも旨かった。ただ野菜を焼いただけのものだからわざわざ屋台で買う気にならなかったが、意外と美味しいものなんだな」
そういえば、と私は思い返す。
オスカーは野菜好きのくせに、どこか潔癖症で屋台で買ったものに手をつけてなかった気がする。
今日、屋台のものを食べたということは、まだ潔癖症は進行していない頃なのだろう。
私はぱぁと目を輝かせてオスカーを見上げた。
「そうなのよ!美味しいでしょ?屋台で買ったという雰囲気がまた美味しくさせる調味料になるのよね。今度は焼きたての買いたてをその場で食べましょう。その方が何倍も美味しいんだから」
私の顔を見て、オスカーも口の端をあげていた。
「えらく饒舌になるな。食い意地はってるのがバレるぞ」
私は口を歪める。
「食い意地はってるんじゃなくて、美味しい食べ物が好きなだけよ。美味しいものを美味しい時に食べる。当たり前の常識でしょ」
「そんなこと、考えたこともなかったな。それが常識だとは」
「知れて良かったわね。まだまだ知らないこと多いんじゃないの?オスカーったら賢いくせに、そういうところは欠けてたのね。仕方ないから、私がこれからしっかり叩き込んであげる。感謝してね」
わざとらしく私が笑みを作ると、オスカーは優しく目を細めた。
「ーーーそうだな。俺はまだまだ知らないことばかりのようだ」
「、、、、、、」
オスカーがあまりに素直過ぎて、私は驚きを隠せず言葉を失う。
私から冗談でいった話なのに、オスカーの態度に動揺して黙ってしまうなんて、ほんと、どうかしている。
過去から戻る前、オスカーを好意的に思ったことなど一度もなかったというのに。
それが不思議だった。
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「オスカー!?」
家のチャイムを鳴らし、不機嫌そうに出てきたマリウスは、私の横に並ぶオスカーを見て驚いた。
オスカーはマリウスの親友であり、共に育った家族のようなもの。
共に喜び、共に苦しみ。誰よりも信頼している友。
そのオスカーが、さっき激しく追い出した怪しい女とともにやってきたら、それは驚くだろう。
「お前、、、帰ってきていたのか」
マリウスはオスカーの肩を叩き、オスカーもマリウスの肩を叩く。
「さっき戻ったんだ。その途中でこのアグノラに会った。女一人で船に乗れなかったのを俺が助けたんだ。マリウス、彼女は信用していい」
オスカーの後ろからおずおずと私は顔を出す。
「、、、だけどオスカー。こいつはワイアットに変な薬を飲ませるつもりだったんだぞ」
マリウスからの『こいつ』扱い。
がっかりしてしまう。
「ーーーちゃんとした、瘴気による病を治す薬です。言ったじゃないですか。変な薬とかじゃないって」
「瘴気を治す薬は『エリクサー』だぞ?手に入るはずがない。それをなぜワイアットに、、、」
それ、さっきオスカーに詳しく説明したやつ。
大好きなマリウスに説明するのだから、面倒くさいけどその手間など全く問題ないし、マリウスが納得するまで私は何度でも説明する気持ちはある。ーーー面倒くさいけど(2回目)。
「詳しくは後で説明する。まずはワイアットを助けよう」
オスカーが促すが、まだ納得できていないマリウスは私を睨み付けながら呟いた。
「オスカーがここまで言うから信じるが、万が一、ワイアット兄に何かあれば、覚悟してもらうぞ」
マリウスの『覚悟』とは。マリウスが人を睨み付けるなんて。
オスカーの変化にも驚くけど、私の知るマリウスと違うマリウスには、違和感しか感じなかった。
それだけマリウスがワイアットを大切にしているということなのだろうけれど。
私はマリウスに案内されて、ワイアットのいる部屋までやってきた。
家の中は今にも崩れそうな外見よりももっと酷く、通気性が悪くてカビは生え、床はいつ抜けてもおかしくないほどに軋む。明かりはわずかに差し込むだけ。暗くて湿っていて、そして空気が淀んでいた。
穢れのある人を閉じ込めるために作られたのか、人が住むための家ではないことはわかった。
こんな家に住んでいたら、健康な人でも病気なる。
すでに廃墟になった家と、実際住んでいるのに廃墟のような家ではイメージが全然違う。こんな場所で何年もマリウス達が住んでいたのかと思うと泣きそうになってしまった。
マリウスが一番奥の部屋の扉を開けると、ベッドの上に横たわっている人間が見えた。
マリウスの兄であるワイアット。
私がマリウスと出会う頃にはもう、ワイアットは生きていなかった。
話には何度も聞いたけれど、実際会うのは初めてだ。
マリウスと同じ明るい茶色の髪。
そして、もう顔もわからないほど瘴気に蝕まれて青く斑な姿になったワイアットは、殆ど生気というものがなくなっている。身体の端々はもう腐っているのか、異臭を放っていた。むしろ、よくまだ生きていると称賛したいくらいだ。
この環境で。瘴気によってここまで全身を患って。
これでは内臓まで間違いなく病んでいる。
もって2、3日かもしれない。
「、、、本当に助けられるのか?」
私は返事ができなかった。
ここまで悪くなっているなんて。
私が持っている薬は、エリクサーではない。
辞書に載るエリクサーの色と似た栄養剤をピンに詰めただけ。
あとは私の聖魔法が効くかどうかだ。
過去に戻る前の私なら、ここまでの状態は回復できなかっただろう。でも、過去に戻ってからは聖魔法のレベルが格段にあがっている。
ただエリクサーは完全回復できる薬。
そこまで回復させられるのかわからない。
それほどに酷い病状だった。
でもワイアットを死なせるわけにはいかない。やるしかないと自分に言い聞かせた。
私はベッドに横になったワイアットの側で、床に膝をつき、意識のないワイアットの口に薬を流し入れた。
本来、回復薬は飲み込まなくても口の粘膜から吸収して効果を表す。
私はワイアットに薬を右手で飲ませて、左手をそっとワイアットの胸に置いた。
心の中で聖魔法の呪文を唱える。
『パーフェクトヒーリング』
唱えた途端、指先から温かいものがワイアットに向かって流れていった。ワイアットの息が、心臓の音が、私の手から溢れるものによって変化していく。
青く斑な皮膚が細やかな金色の光を伴って輝きだし、白銀の泡がワイアットの毛穴という毛穴から溢れだす。
マリウスはその異様な状態にギョッとして、ワイアットに手を伸ばそうとする。それをオスカーに止められた。
「待て、マリウス」
「しかしっ、ワイアット兄が」
血の気が引いて真っ青な顔色になっているマリウスに、オスカーはワイアットの足を指差した。
「ーーー見ろ、あんなに腐りかけていた足の指先が、元の色に戻ってきている」
ワイアットは白銀の泡に包まれている。
キラキラと金色の光を受けて、治癒したところから泡が消えてなくなっていく。
足の先、手の指先。
膝、肘。手足。
首もと。
胸元。
そして顔が青く爛れた姿から元に戻った後、ワイアットの息は静かに整っていた。
完全に泡はワイアットの身体から消えていた。
驚愕でマリウスが息を飲む音が聞こえる。マリウスとオスカーが見つめた先のワイアットが、ゆっくりと目を開いた。
「ワイアット兄!!」
もう二度と見ることはできないと思っていた兄の元の姿にマリウスは駆け寄る。
ワイアットが寝たままの姿で頭を横に動かし、マリウスと視線を合わせた。
「、、、マリウス?どうしたんだ、そんな顔をして」
ワイアットはこの世にいる誰よりも優しかったのだと、マリウスは亡くなった兄を何度も褒めていた。常に兄のようにありたいと言っていたその人物に相応しく、ワイアットはベッドに横になったまま淡い茶色の瞳を柔らかく緩ませて微笑む。
「、、、すごく面白い顔をしているぞ?マリウス」
ワイアットから冗談を言われたが、マリウスはそれどころではなかった。唇を震わせ、目に思いきり涙を溜めている。
「ーーーワイアット兄さんが目をまた開けてくれるなんて。ーーー声がまた聞けるなんてーーーっ」
込み上げる想いに、マリウスは、しゃくりあげそうになる喉を堪えていた。
もう何日もワイアットは意識がなかったという。
今、なぜマリウスがそんな顔をしているのかもわからないワイアットは、しかし、可愛い弟が泣きそうになっている姿からマリウスにゆっくりと手を伸ばした。
マリウスの頭に手を起き、優しく撫でる。
「姿ばかり大きくなっても相変わらず泣き虫なんだな、マリウス」
「泣いてなんかっ、、、ねぇよっ」
マリウスはぐいっと自分の目を拳の裏で擦り、口を歪める。でも耳まで真っ赤になっているマリウスは、明らかに涙腺の限界は近かった。
「ーーーでも、回復してくれて、本当に良かった」
マリウスの言葉で、ワイアットは自分の動く手を改めて眺めた。痩せ細ってしまって筋張った腕は、ちゃんと元の皮膚の色をしている。
「、、、これはどういうことなんだ?僕は瘴気によって死の病を患っていたはず、、、。手足は腐り、もう動くこともできない身体だったのに」
ワイアットの言葉でマリウスは私を振り返った。
「こいつが、アグノラが助けてくれたんだ。エリクサーを、ワイアット兄のために持ってきてくれたんだ」
さっきまで私のことを激しく疑っていたマリウスは、ワイアットが助かったことであっさりと態度を変えてしまった。もうマリウスの私を見る目は、感謝の気持ちでキラキラと輝いている。
「アグノラ?この子の名前か?」
ワイアットに尋ねられて、私はゆっくりとワイアットに手を伸ばした。
「初めまして。アグノラといいます。この度は、私の師匠による依頼で貴方を助けさせていただきました。体調はいかがですか?まだ治ったばかりですから、安静にされて下さいね」
私の手をワイアットは両手で挟むようにしてしっかりと握りしめた。
「心配ありがとう。でも、これ以上ないほどに身体に力がみなぎっているんだ。こんなこと、瘴気を浴びる前でもなかったことだよ。貴女の師匠にも心から感謝している」
「無事に回復されたなら幸いです」
私が微笑むと、マリウスはまだ目に涙を溜めながら、一気に憑き物が落ちたように優しい顔になって私に頭を下げた。
「、、、疑ってすまなかった。まさか本当に貴重なエリクサーをワイアット兄に使ってくれるとは」
言いながら、マリウスはボロボロと大粒の涙を流し始めた。
「もう、、、っもう駄目だと思っていた、、、、。兄を助けてくれて本当にありがとうっ、、、っ」
マリウスのこんな姿。
過去に戻る前でも見たことがなかった。
マリウスの喜ぶ顔が見れて、私はほんわりと胸が温かくなる。
「いいえ。お役に立てればそれでいいのです。でも」
でも。
私は容赦なく話を続けることにした。
愛しい家族の死の病からの回復をもっと喜びたいだろうけど、彼らにそんな時間は残されていない。
私の言葉に、マリウスは首を傾げた。
「でも?」
「私の師匠は言いました。世界の崩壊はワイアットという人物の死と、ハタカンの町の消滅にあると」
あの日、マリウスは私に教えてくれた。
兄であるワイアットの命が尽きたその日に、ハタカンの町は悲劇に見舞われた、と。
魔物の大群の襲撃によって、町は一夜にして滅亡したのだ。
「まもなく、この町に魔物の大群が押し寄せます。その準備を、、、」
その時、大きな地鳴りの後、ゆらゆらと地面が揺れる地震が起こった。
顔色が真っ青になっているだろう私は、窓から見える巨大な山を覗く。
山の中腹に、色様々な魔物達が怪しく蠢いていた。