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力の源

 過去に戻って、マリウスの故郷を魔物の大群が襲い壊滅するのを事前に防いでから、まだ1ヶ月程度しか経っていない。


 あの時、まだマリウスの強さは、そこらの強い戦士に毛が生えた程度だったはずだ。


 器官が青い蛍光色で発光するドラゴンタイプの魔物は、あれからどんなにマリウスが修行をしたとしても、たった1ヶ月くらいで倒せるようなものではない。


 朝食ができたとマリウスに伝え、家までの帰り道、3歩下がったつもりで私はいつでもマリウスの後ろを歩く。今日はその後ろからずっと、マリウスの身体を隅々まで観察していた。


 マリウスは、たった1ヶ月前と比べて、確かにものすごく身体の筋肉量が増え、引き締まった感じはある。

 ガチムチの筋肉男になったわけではないけれど、無駄な贅肉が減り、肩周りの筋肉が集中してボリュームアップした。


 後ろから見ると、綺麗な逆三角形の背中は、思わず抱きついてしまいそうな程に美しい。


 マリウスの強さの秘密は、1つにこの筋肉の質が最高に良いところだと私は常々、考えている。

 筋肉のはずなのにとても柔軟に富んでいる。

 動物ではないけれど、肢体がとてもしなやかで綺麗だ。


 惚れ惚れしてしまうマリウスの身体を、観察といいつつ満足するまで眺めたところで、家に辿り着いた。


「冷めちゃっただろうから、朝食、温めるね」

 私がにこりと笑ってマリウスに声をかけて、家の玄関の扉のノブに手を置くと、マリウスから呼び止められた。


「アグノラ」

 

 マリウスの声は、とても聞きやすい。空気の抵抗を受けていないように私の耳に流れて入ってくるものだから、たまにゾッと鳥肌が立つほど心地好く聞こえる時がある。


 今回はまさにそれで、私は表面が痺れてしまった腕をもう片方の腕で押さえた。


「何?どうかした?」

 振り返ると、マリウスが真剣な表情で私を見ていた。思わずドキリと心臓が鳴る。

 まさかーーー。


「ーーー俺な。まだ魔法は使えないけど、毎日魔力を流す訓練をしていると、自分の魔力というのが感じやすくなってきたんだ」

 

 魔法の話か。それならそんな畏まって言う話でもないのに。

 無駄に緊張してしまった自分が恥ずかしかった。

 まぁ、まさかマリウスがこんな短期間で私を好きになって、告白するなんてこと思っていませんよ。いや、ほんとに。


「そう。良かったじゃない。じゃあ、もう少しで魔法も使えるようになるかもね」


 マリウスはそもそも、過去に戻る前の私が初めて出会った時には、すでに強い魔法が使えていた。


 マリウスが魔法を使えるというのはわかっていたのだから、肩に魔力の詰まりがあるのを通す手伝いをして身体に魔力が流れるのを早めた程度では、何の功績にもならない。


 何もしなくても、いつか使えるようになっていたはず。ただ私のお節介で、何か少しでもマリウスの力になりたかっただけだ。


「魔力を身体に流すようにから、身体が自分のものでないくらい軽いし、力が入りやすくなったんだ」


 なるほど。それでマリウスの強さがたった1ヶ月で急激にあがったのかもしれない。それだけでは理由として足りないけど。

 それこそ、勇者の頃のマリウスは魔法が使えていたのに、知り合った頃はこんなに強くなかった。

「それは、すでに魔法の一種で、魔力を身体にバランス良く流すことで、身体全体を強化するという補助魔法が発生している可能性が高いわね」


「そうなのか」

 ほのかにマリウスが嬉しそうだ。

 魔法を使えないというのが悩みだっただけに、今、自分で『魔法らしい魔法』は使えなくても、魔法を使えているかもしれないという自分が嬉しいのだろう。


「魔法に関しては、オスカーやベリルに聞いた方がいいだろうけど、身体の内部については多少勉強したから、そこそこ相談に乗れると思うの。また気になることがあったら遠慮なく言ってね」


 聖女であるということがわかってから、私は様々なことの勉強をすることになった。

 その1つが医学だ。

 聖魔法には治癒の力があるけど、ただ治癒魔法を使うより、医療の知識を身につけてから医学の観点から治療した方が予後が良い時もある。

 特に当時、私の魔力は少なかったから、医学に頼ったことは多かった。


 ちゃんと修行をした医者に比べると、知識を多少噛った程度だけど、一般人よりは知識があると堂々と言える。それだけの勉強はしてきた。


 私がマリウスに背を向け、扉のドアノブを捻ってカチャリと音を鳴らすと、その手をマリウスの大きな手のひらに覆い被された。


 心臓が鼻から飛び出るくらい跳ねて、死ぬかと思った。

「、、、な、な、な、ナに?」

 声さえひっくり返った私の瞳は、目の前まで来て見上げるしかなかったマリウスの顔を捉える。


 マリウスは極上の美形というわけではない。

 だけど、その少し垂れ気味の目も、形の良い鼻も、薄くも太くもない唇も全部。誰よりも私の好みであるわけで。


 その顔が目の前にあって、ドアを開くのを止めただけにしろ、こうやって手を握られようものなら、うっかり世界全人類に向けて幸せお裾分けの祈りでも捧げたくなるくらいに、私は浮かれてしまうのであり。


「マ、マリウス、、、?」

「あのさ」


 マリウスが頬を僅かに紅潮させて、言いにくそうに言葉を選んでいる。

 こんなはにかむようなマリウスの表情を初めてみた私は、改めて「まさか」と思う。


 まさか。


 ゆっくりとマリウスが形の良い口を開く。

「、、、あのさ、こういうこと人に言ったことなくて、すごく言いにくいんだけど」


「え、あ、、、う、うん」

 ドキドキが止まらない。

 これはやはり?

 私まで顔が真っ赤になっていると思う。

 何これ。こんな青春物語。私、期待しちゃってもいいのかな。


 心拍数130越え。

 ちなみに成人女性正常心拍数は60~100なのでだいぶ速い。全力ダッシュしてるときくらい速い。


 マリウスは意を決して、私に言った。

「ーーーまた、俺の修行につきあってくれないか。俺の魔力の流し方を、評価してもらいたいんだが」


 ーーーーですよねーーー。


 肩の力が抜けていく。

「もちろんいいけど、オスカーやベリルじゃなくてもいいの?」

「当たり前だ。よくわからない女とは修行なんかできないし、オスカーには借りを作りたくない」

 

 確かに今朝の、マリウスのベッドに寝ていたベリルの様子を見ると、よくわからない女扱いも否定できない。


 オスカーに対しては、幼馴染みだからこそ対等でいたいという男の子(?)独特の対抗意識なのだろう。


 過去のマリウスって、勇者の時と違って少年らしい可愛さを感じてしまう。今でも当時の私よりも年上のはずなのに。


 新しいマリウスの姿が見れて、私はとても上機嫌になり、マリウスににっこりと笑って頷いた。


「じゃあ、朝御飯食べてから、さっそく修行しちゃう?」

 私の言葉に、マリウスの顔が明るくなる。

 オスカーが魔法研究のオタクなら、マリウスは修行オタクといったところだろうか。

 魔王を倒すためにあんなに鍛練しているものだと思っていたけど、そうでなくてもマリウスはマリウスなんだなぁと思う。

「いいのか?」

「もちろん!」


 私達はそうして、家の中に入ってキッチンのテーブルに向かい合って朝食を取ると、私は動きやすい格好に、マリウスは汗をかいたというので身体を流してから別の訓練服に着替えた。


 リビングで待ち合わせたら、私の格好を見て、マリウスが少し目を見開いた。

「アグノラ、そんな服、もっていたか?」


 私が着替えたのは、騎士の訓練服に似た、伸縮性のある生地で作られた服だった。身体に密着はしているから身体のラインは出ているけど、露出は全くない。

 乗馬服にも近い。

 白を基調としたその服は、聖女の時の服装の色合いに似ていて、あの頃を彷彿としてしまうけれど。


「ワイアットが作ってくれたの。ワイアットって多才ね。こんなに上手に服を作るなんて」

 ワイアットを誉めたのに、マリウスが得意気な顔をしてみせる。

「魔瘴のせいで騎士を辞めたワイアット兄さんが家に入ってからは、身体の調子がいい時は内職してたからな。元々器用だから、裁縫系はワイアット兄さんに任せていた。でも服をそんなに上手に作れるとは知らなかったな。その服、アグノラの夕陽の色の髪によく似合っている」


 夕陽の色。

 聞いて、私はうっかり口元が緩みそうになった。


 勇者の旅の途中、マリウスは夕陽を見るのが好きだった。

 遠くに伸びた茜色の雲と、紅に染まった空を見ながらマリウスは足を立ち止まらせる。


 夕陽の色が好きなのだと。

 そう言ったのはマリウス自身。

 その夕陽の色を私の髪の色に重ねてくれるなんて。 


「嬉しい。今度、ワイアットに改めてお礼を言わなくちゃだね」

「何度も礼を言ったら、調子に乗って沢山作るぞ。ワイアット兄さんが勝手にしたことなんだろ?」

「私が服を殆ど持っていなかったからだわ」

「これ以上、ワイアット兄さんにアグノラ贔屓になられても困るんだよ。最近じゃ何をするにもアグノラを優先して。目なんか元々垂れ目寄りなのに、更に下がってデレデレしているのは、弟として見てられないな」


「あら。大好きなお兄ちゃんに構ってもらえなくて拗ねてるの?」

 私がくすりと笑うと、マリウスは耳を赤くして否定してきた。

「俺は子供じゃねぇ」


 そうやって反応するのが子供なんですよ、とは言わない。マリウスのプライドの程度は私がよく知っている。

 

 折角、修行という名のデートに誘われたのだ。

 わざわざ雰囲気を悪くさせる必要はない。


 マリウスは勇者である時は、常に笑顔を絶やさない人だったけど、よーく観察をしていると、機嫌の良し悪しは微妙に顔に出ていた。


 マリウスはあまり突っ込まれすぎると少し機嫌を悪くする人だった。あの頃とは違う、今の子供の心を残すマリウスを追い込むと、良くない気がする。

 藪をつついて蛇を出す必要はないのである。


「ワイアットも新しい同居人ができて珍しいから、ちょっと浮かれちゃってるだけでしょ。すぐ元に戻るわ。それより、どこで修行する?」


 フォローした後すぐに話題を変える。

 私はマリウスに妖精の村の西の端に位置する山の麓にある、小さな洞窟の手前で修行をすることを勧めた。


 近くには滝のある川が流れ、暑い夏の日差しを涼しくさせてくれている。渓流では小さな小石の並んだ、そこそこ広い空間がある。


 高い木々がその周囲を囲んではいるが、魔力を流す訓練をするくらいなら、問題はないだろう。

 マリウスの得意とする魔法は火だから、山火事だけは気を付けなければならない。まぁいざとなったら、焼け野原になろうと私が森を再生させるけれども。


 西の方角の川に沿って進むと、段々と道が狭くなり、木々が鬱蒼としてきた。

 川も細く、下流よりも勢いが増してきている。


 山の斜面を登り続けると、遠くに一筋の滝が見えた。


 直径50メートルはあろう、大きな滝だ。水の量こそ少ないが、滝壺には水が並々と溢れ、水面に叩きつけられた水が激しく水飛沫をあげていた。


「わぁ、涼しい」


 冷たい水は霧状になって、熱を帯びた肌を冷やしてくれる。汗を拭くために持ってきていたタオルを透明に澄んだ川の水に浸して、それを一枚、マリウスに渡した。


「サンキュ」

 マリウスは素直にタオルを受け取り、それを自分の顔に押し付けた。

「すげぇ気持ちいいな」

 しばらく冷たさを楽しんでから、タオルを顔から離したマリウスの笑顔は、最高に愛らしかった。

 

 どれだけ私の胸をときめかせたら気がすむのだろうと文句を言いたくなるほどに。

 

「でしょ。こういう、色んな自然が溢れているところが一番、魔法の修行にはいいんだって」

 そう言って、過去に戻る前のマリウスが私に教えてくれた。


 不思議なものだ。

 マリウスから教わったことを、今度は私がマリウスに教えるなんて。


「川魚も帰りに捕って帰りましょう。これだけ綺麗な水の中にいる川魚は、岩塩をつけて炭火で焼いたらとても美味しいわ」

「いいな、それ。是非そうしよう」


 釣り好きにはたまらない釣りポイント。

 味を占めてしまったが最後、マリウスが毎日ここに来ることも覚悟しなければいけない。 

遠い山の麓まで開墾したマリウスの体力なら、この滝までの距離なんて朝飯前だろうから。


「じゃあ、この前みたいに、そこに座って」

 大きな岩の転がる河原の、座りやすそうな大きさの石を見つけて私が指を差すと、マリウスは素直に従った。


 私はマリウスに向かい合う形で近くの石に腰を降ろした。

 マリウスには以前教えたように、自分の身体に魔力を流すイメージをしてもらう。

 感じるマリウスの魔力は、ちゃんと全身を回るようになっていた。

 そうなると魔法が不安定な理由は、魔力の調整ができていないからだろう。魔法技術と魔力のバランスが合っていないのだ。

 太い糸を細い針に通そうとしても、糸は通らずに布を縫うこともできないのと一緒だ。

 太い糸なら、針の穴も大きくしなくてはならない。


「マリウス。ちゃんと魔力は身体を流れているわ。でも魔力回路が細いみたい。次のステップは魔力回路を開くことね」


 私はマリウスの手に触れて、わずかな光魔法を流した。

 以前は私が光魔法をマリウスの身体に流すと、鋭い痛みが全身に走っていたようだけど、今は苦痛様の表情は見せていなかった。

「、、、私が魔力を流しても、もう痛まない?無理したら危険だから、痛かったらすぐに言ってね」

 心配で聞いてみると、マリウスは小さく笑う。

「痛くないといえば嘘になるが、あの時よりは随分とマシになった気がする」

 やっぱり痛むようだ。

 私が魔法を弱めようとすると、マリウスから止められた。

「このままで大丈夫だ」

 マリウスにとって、大切なのは痛みよりも魔法が使えること。魔法を使えるようになるのであれば、多少の痛みなど気にしている場合ではないということか。


「右肩の下の、魔力の栓があったところはどう?」

「、、、少しつかえを感じるな。まだ完全に栓が抜けていないということか」

「そうなんでしょうね」

 私が頷くと、マリウスは少し拗ねたように口を歪める。

「アグノラに言われたようにして、ちゃんと毎日そこを撫でているのに。悔しいものだな」

 

 拗ねたマリウスも愛らしい。つい、私の口元が緩んでしまう。

「毎日やっていたら必ず効果はでるわ。諦めないで続けてね」

「わかった」


 素直に頷くマリウスに目を細めながら、私は引き続き光魔法をマリウスの手を通して流し始める。


 少しずつ、少しずつ、細い管を広げるように。

「、、、っく」

 マリウスが身体を強張らせて動いたのに反射して、私は慌ててマリウスを見上げた。流した魔力を止める。

「ごめんっ!無理させたのね?」

「いや、大丈夫だ。このくらい、全然」

 見ると、マリウスは手のひらにじっとりと汗をかいている。確かに夏ではあるが、ここは滝の傍ででかなり涼しい。

 暑さのための汗でないということは、苦痛によるものだろう。マリウスはやせ我慢をしていたのだ。


 私が少し怒りを込めてマリウスを見上げると、マリウスは普段つり上がった眉を僅かに下げて私を見た。


「こんなにきついなら、すぐに言ってよ。無理したら危険だって言ったでしょう?」


「自分のことは自分がよくわかっている。まだ大丈夫だと判断したから、言わなかっただけだ」 

 つんとして言うマリウス。素直なんだか頑固なんだか。


「身体はそうは思っていないみたいよ?そういうの、やせ我慢っていうの。危険だって言ったでしょ。やせ我慢はしていい時と悪い時があるのよ。これはしたらいけない時なの。今日の訓練はもうここでおしまい。これ以上は無理させられないわ」

 

 私がマリウスの手に触れた部分から離れると、それを追うようにマリウスが私の手を掴んだ。


「大丈夫だと言ってる。止めるな」


 マリウスの真剣な顔が、目の前にあった。

 真っ直ぐに私を見ている。

 私はそのマリウスの瞳に吸い込まれそうなくらい魅入ってしまって、つい「わかった」と言ってしまいそうだった。


 ダメだ。魔力経路に負荷をかけすぎると、マリウスの命に関わる。流している魔力が微量とはいえ、それでマリウスに苦痛が生じるなら、今は止めるべきだ。


 傷ついた魔力経路が回復してから、改めて、もう少し弱い魔力でチャレンジするのが正しい。


「だ、ダメよ。こういうのは、焦ってやるものじゃないわ。焦る必要もないでしょう?()()マリウスには」

 マリウスの身体がピクリと揺れる。

()()()には?」


 しまった。失言してしまった。些細な言動でも、たまにマリウスは敏感に察することがある。

 私は慌てて思考をフル回転させた。


「この先、未来のマリウスが必要になることはあるかもしれないけど、今は慌てて魔法を覚える必要はないでしょ?って話よ。魔法を覚えて、したいことでもあるの?」


 マリウスは黙る。黙ることで、肯定を知ることとある。

 私は目を見開いた。

「え?あるの?したいことが?」

 

 マリウスがしたかったのは、こういう穏やかな場所でのんびり過ごしたいことじゃなかったのか。

 

 私は驚きとともに、少し言いにくそうにしながらも、その瞳に未来への光を宿すマリウスから目が離せなかった。


 マリウスはポツリと言葉を漏らす。

「、、、まだ誰にも言っていないから、誰にも言ってくれるなよ?ワイアット兄さんにも」


「も、もちろん」


 私が了解するのを確認して、マリウスは、その続きを口にした。


「ーーー騎士に、なりたいと思ってる」


 聞いた瞬間、ヒュ、と私の喉が鳴った。

「騎士?勇者ではなくて?」

 思わず声に出してしまったことに、マリウスは訝しそうに私を見た。

「勇者?何で俺が勇者を目指さないといけないんだ。あれは魔王を倒すための人を国王が選定するものだろう?そんな大袈裟なものじゃなくていいんだよ。そんな夢物語を見るほど俺は子供じゃない」

「あ、う、うん。そうよね」

 私は苦笑いを漏らすしかない。


 その大袈裟な夢物語を実現したのが、マリウスなんだけどね。


「じゃあ、なんで騎士なの?もしかしてワイアットの影響?」

 

 マリウスは、自分でもよくわからないと言いながら、滝の水落ちる滝壺を見た。


「そうーーーなのかもしれないな。昔から、俺の前にはワイアット兄さんがいて、ずっと憧れてきた。ワイアット兄さんが騎士になって、でも瘴気の病で騎士を辞めてーーー。だけど、この前、城下町に行った時に、騎士達が兄さんを尊敬した様子で話しかけていただろう?やっぱり兄さんは俺の憧れだと思ったのは間違いない」


 滝壺を見るマリウスの瞳は優しい。

 今、滝壺の中に映るのは、溢れる水ではなく、ワイアットの姿なのだろう。


 薄々、感じてはいた。

 過去に戻る前の、マリウスの姿。

 誰にでも優しく、決して怒らず、笑顔を絶やさないのは、ワイアットを真似していたのだろうと。

 マリウスの個性を殺してまで、マリウスはワイアットであろうとしていた。


 マリウスにとって、ワイアットはそれほどに影響力がある。

 魔王という目的がない今、敬愛するワイアットの姿を追おうとしても、おかしくはない。


 でも。


 私はすでに、胸がキリキリと痛みだしている。

「、、、騎士になったら、マリウスはこの家ーーーこの場所から出ていっちゃうね」

 私が悲しそうに言うと、マリウスは、少しきょとんとした後、やんわりと微笑んだ。

「俺がいなくなることを悲しんでくれるのか?」

 その言い方がからかうようで、私は眉を寄せる。

「当たり前よ」

 私の言葉を聞いて、マリウスは眉を下げた。

「大丈夫。転移の魔方陣があるんだ。毎日でも帰ってくる。ワイアット兄さんも、オスカーも、小さな妖精達も沢山いるんだ。俺の居場所はここだ」


 その中に私の名前がない。

 どうせ、マリウスにとって、私は小さな妖精以下なんでしょうけど。 

 悲しさが増してきた私の手に、さっきまで触れていたマリウスの手が戻ってくる。

「魔法の修行をしてくれるやつも、ここにいるしな」


 真っ直ぐに私を見つめる優しいマリウスの目。

 マリウスの大きな手の温かさが私に伝わる。涼しくも冷たい空気の中で、その手の温かさは、何倍にも増幅されて、私の心に押し寄せた。


 手。

 マリウスの手が、私に触れている。

 うひぃ、と恥ずかしさで悲鳴のような声をあげそうになるのを喉の奥で飲み込み、爆発しそうな動揺を隠した。


「そ、そうね。マリウスの魔法の練習は、ゆっくりとしないといけないから、まだまだ時間はかかりそうだものね」

 

 停止しそうな思考を、どうにか動かして出した言葉は、よくわからない言葉だった。


「そうだな」

 くすりとマリウスは、静かに笑った。


 私はそこで何故マリウスが笑ったのかを、もっと考えるべきだったのに。


 本来は、なぜ魔法を使えるようになるのを急ぐのか、という話だったはずだ。

 騎士になりたいというマリウスの気持ちはわかったとしても、何故急ぐのかはわからないまま。


 それに騎士になられたら、マリウスの強さが世間に知られてしまう。

 勇者の選別の条件は『国で一番強い男』であり、騎士であっても勇者に選ばれる。


 私は本当は、マリウスが騎士になるのを止めなければならないのだ。


 でも。


 今、マリウスに手を触れられているこの時に、そんなことは考える余裕もなく。


 私は恋という魔法によって、完全に腑抜けの状態になってしまっていたのだと、後で後悔するのだった。


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