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同居人の救出 (マリウスサイド)

 昼間に出かけると言っていたアグノラが、夕方になっても帰って来なかった。


 ワイアットは平静な顔をしていても明らかに動揺しているし、女というか人間に無関心なオスカーも、見てわかるほどに何度も時計を横目で確認している。


 アグノラは16歳。もう成人しているのだから、少し遅くなるくらいで騒ぐほどではない。

 そうわかっていながら落ち着かないのは、アグノラが通っている場所が娼館だと知っているからだ。

 娼館の中だけでなく、その周辺も、安全とはとてもいえない連中が屯っている地域。


「、、、さすがに遅いんじゃないのか?」


 リビングのテーブルでコーヒーを飲んでいた俺が呟くと、そこにいた皆も同意だったようで沈黙が流れた。


 俺は立ち上がり、座っていた椅子をガタリと鳴らした。立つ勢いが良すぎたようだ。


「ーーー迎えに行ってくる」

「いや、でも、アグノラがあんなに俺達に秘密にしてまで頑張っているんだから、ここで水を差すのもどうかと思うんだ」


 止めてくるのはついこの間まで魔瘴に侵されて命を失う寸前だったワイアット兄だ。

 アグノラの、というかアグノラの師匠という人のおかげで、今は見違えるように元気になっている。


 そのせいか、ワイアットはアグノラを甘やかすようになった。元々優しい性格ではあるけれど、目にいれても痛くないというほどに。

 

 本当だったらアグノラを溺愛しているワイアットが率先して探しに行っているだろう。だが、アグノラの向かう場所がわかっていて、そこに通う理由もわかっているだけに、思うように動けないようだった。


 一緒に住む友達を誘ってくると言い出したアグノラが行った先が城下町の娼館だと知った日から、どれだけの日にちが経っただろうか。

 

 その友達が娼館出身というのを隠すためか、俺達にバレないように姿を消してその店に夜な夜な通っているけれど、一向に連れてこないということは、誘いをずっと断られているのだろう。


 あの日、娼館に入ろうとするアグノラを制止しようとした俺の肩を、ワイアットが掴んで首を振った。

「アグノラがあそこまで慕っているんだ。彼女のやりたいようにさせるのが、男としての優しさなんじゃないか?」


 男としての優しさって何だ。

 ワイアットの言っている意味がよくわからなかったが、俺はその場の雰囲気に流されて、アグノラを止めることができなかった。

 

 一度見逃したのにまた止めるのもどうなのかと諭され、以降、ずっと見て見ぬふりをすることになっている。


 アグノラが親友と呼ぶ女性。

 緑色の長い髪が綺麗な、極上の美女。

 アグノラ曰く、広い知識と教養と、そして海のように大きな優しさを持っているというその人。


 海のような優しさかどうかはわからないが、城下町最大の娼館『スマラグトス』の、緑色の髪の極上の美女といえば、国でも有名な娼婦、ベリルだと推測される。


 場所と目的の人物がわかれば心配することもないさと兄は言うけれど、今回は違う。

 店の営業している夜ではなく、店が閉まっている昼に出掛けて、まだ帰ってこないのだ。


 俺を止めようとするワイアットを俺は睨み付けた。

「そもそも、王族でも手に入れられないという噂の高級娼婦を、ただの一般人が一緒に住もうと言って、のこのこ来るはずないのはわかっているんだ。親友か何か知らないが、変な妄想は捨てて諦めればいいだけだろう」

 ワイアットは俺を呆れ混じりに諭す。

「それはアグノラが決めることだ。どうしたマリウス。お前はそんな心の狭い男じゃなかっただろ」


 心が狭い?

 危険な場所に女の子をたった1人で行かせたこと。その理由が、実現不可能に近いことであるというのに。


 それを止めることが心の狭いことなのか。

 

 いや、ワイアットにしたら、そうなのだろう。

 ワイアットは昔から、とにかく人に優しかった。

 その人の全てを受け止めようとする姿勢。それに俺も憧れて、そういう大人になりたいと思っていた。

 ーーーだけど。


「俺はワイアット兄さんとは違う」

 俺はそう言葉を吐き捨てて、家を飛び出した。

 

 ワイアット兄さんが驚いた顔をしていたのは見えた。

 俺がワイアット兄さんに逆らうなんてことは、殆どないことだから。


 でも、それ以上にアグノラが心配だった。


 アグノラは、初めて会った時、とても胡散臭い女だった。泣きながら俺に抱きつくし、死にかけたワイアット兄さんの命を救いに来たと言うし。


 どんな方法を試してもワイアット兄さんの魔瘴を取り除くことはできなかった。だからワイアット兄さんを助けに来たと言われても、冗談だと思ったんだ。冗談にしてはたちが悪すぎると。


 でもワイアット兄さんは救われた。

 そしてアグノラは、俺をーーー『俺によく似た人』をいつも見ている。

 あんなに恋する瞳で見つめられたら、他人である俺でさえ、本気に受け止めそうになる。


 他人を見ているのだと理解しているのに、うっかり自分だと誤解しそうになる。


 そして、そのアグノラが『親友』と呼んだ人。

 それが、あの噂のベリルだなんて、とても信じがたいことだった。

 難攻不落のベリル。

 そう呼ばれている娼婦は、人の心を巧みに掌握しながらも、誰にも媚びず、誰のものにもならない。

 そんな彼女がアグノラの『親友』のはずがない。

 

 でも。

 それでもアグノラなら、あり得る気がした。

 ワイアットを救うといって救うアグノラ。

 俺に似た男を想って泣くのもアグノラ。


 俺はアグノラを信じ始めているのだとは思う。


 あの人の心の奥まで照らすようなまっすぐな瞳を受けていると、彼女を信じたいと思うようになった。


 アグノラはまっすぐだ。

 彼女はあのままでいなければならない。

 まだアグノラのことをよく知らない俺を何かが突き動かす。


 なぜかよくわからない。


 少し前に、夢に出てきた顔の思い出せない女と、アグノラの雰囲気がよく似ているからだろうか。

 俺が夢の中で想っていた人。

 夢を見たのはアグノラと出会う前のことだ。それがアグノラであるはずもない。予知夢というならともかく、俺はいまだかつて、予知夢など見たこともない。

 たまたま夢を見て、それがアグノラと重なっただけなのだとは思う。

 

 でもアグノラが危険な目に遭うかもと考えるだけで、自分の身体が侵食されているように不安になる。

 それはなぜなのだろう。


 俺はそんなことを考えながら、転移の魔方陣の上に乗った。

 そして、魔方陣を起動させるには魔力を流す必要があることを思い出す。


 アグノラは俺には魔力があると言ったが、まだ上手に魔法を使うことはできなかった。

 試しに魔方陣に魔力を流してみようとするけど、全く起動する様子もない。


「、、、くそ」

 歯軋りしたところで、魔方陣がブゥンと音を立てた。

 後ろに気配を感じて振り返ると、そこにはオッドアイの、長い黒髪を1つに束ねた幼馴染みが立っていた。


「魔方陣を動かすくらいなら、俺が手伝ってやる」

 

 男の俺でも一瞬見惚れそうになる美貌の口元を歪ませる仕草は、昔から変わらない。


「オスカー」

 

 オスカーは片目を瘴気に侵されている。それの影響もあるのか人間離れをした魔力を持っている。

「アグノラを迎えに行くんだろ」

「手伝ってくれるのか?珍しいこともあるもんだ」

「マリウスがいるのに俺の手なんか必要ないだろう。移動の足にだけなってやるって言っているんだ」

「、、、ははっ。相変わらずだな」


 オスカーは変わらない。

 無愛想でクール。

 実力はあるくせに、いつも裏方に回ろうとする。


 人間に興味がなさそうなオスカーが、アグノラを助けようとすることが珍しい。どうやらオスカーもアグノラを多少は気に入っているようだ。

 

 幼馴染みが人間に興味を持つのは、素直に嬉しい。


 魔方陣で城下町の近くの門まで転移し、俺達は城下町の中に入っていく。

 城下町の夕方は、昼とはまた違う雰囲気で、忙しなく足早に帰路に着く人が多く見られた。


 城下町の裏通りを抜けた奥に、『スマラグトス』の店はある。

 むしろここ以外に店はない。

 昼間は閉店しているため、この付近に人は通らないはずなのに、店の近くまで近づく人間がいた。


 派手なドレスではなく軽装をしているが、それでも華やかさを失わない。

 鮮やかな緑色の髪は、暮れ始めた日の光に当たって妙に綺麗で、そして毒々しく見えた。

 

 ベリルだと、すぐにわかった。

 開いていない店の周りを、ここで働く人間が不審に彷徨くなど、理由は限られる。

 俺はその女の左肩を軽く叩いた。

「ーーー君、店の人だろう?」


 ベリルが振り返ると、造りもののような大きな瞳が俺を捉えた。確かにこれだけの造形は、国宝級に違いない。そしてその美女は艶やかに微笑む。

「そうよ。今は時間外で誰もいないけど、何か用かしら」 

 普通の男なら、一瞬にして恋に落ちただろう。身動き取れずに、固まってしまうかもしれない。

 だが、俺は美形にはオスカーで慣れている。多少の差はあれど、免疫はつけられている。


「女の子を探しているんだけど」

 俺がそう言うと、ベリルはやんわりと愛想笑いで返してきた。 

「それなら、夜にまた改めて来た方がいいわね。今は誰も入れないし。お兄さんは素敵だから、もしその女の子がいなくても、私達が沢山サービスしてあげるわよ」


 軽くあしらわれているのがわかった。

 だがサービスすると言われて浮かれるほど、俺の今の精神状態は穏やかではない。

 この女と一緒におらず、むしろ誰かを探している気配がある。ということは、やはりアグノラが危機的状況に陥った可能性は高いのかもしれない。

 

 アグノラの、ひまわりような屈託ない笑顔が頭をよぎり、その笑顔が消えるかもしれないと思うと、どうしようもなく落ち着かなくなる。胸がヒリつく。


「そんなのどうでもいいんだよ」

 

 思わず脅すような低い声がでてしまった。 

 そこらのチンピラなら驚いて飛び上がる程度には威圧してしまったはずだが、動じなかったこのベリルという女は流石だと思う。

 伊達に夜の世界のナンバーワンに君臨していないというわけか。


 俺は口調を穏やかに戻して、ベリルに一歩近寄った。

「知らないならいい。それなら、店の中に入れてくれないか。この店の中にいるはずなんだ」


「、、、店の中に?それは無理ね。昼の店には、ここで働いている人でさえ入れないようになっているの。どこの誰かもわからないような人は、店主の許可がないと入れないわ」

「じゃあ何であんたはここに来たんだ?昼間はあんたも入れないってことだろ?」

 俺が言うと、ベリルは複雑そうな顔をする。否定しないところから、すでに答えはでているようなものだが。


「その顔は、入る方法を知っているんだな」

「!?」

「教えてくれないか、店に入る方法を。もし教えてくれないなら、力ずくで入らせてもらう」

 これは脅しではない。

 元々、そうやって入るつもりだった。この程度の建物なら、力ずくで入ると店が半壊してしまうだろうから、鍵があるならそれに越したことはないと思っただけだ。

「そんなことしても無理よ。強い魔法結界が張られているし、警備の人間が集まって、あなた、すぐ捕まるわ」

「無理?そんなこと、やってみないとわからないだろう?」

 俺の住む山ではついこの間、この屋敷より大きなモンスターを倒したばかりだ。動かず攻撃もしてこない屋敷など、怖くも何ともない。

 多少強力な結界なら、力業で破ることもできる。


 俺が腰から剣を抜こうとすると、ベリルが少し動揺した後、冷静になったのが見えた。

「ーーーじゃあ、やってみれば。言っておくけど、私は関係ないわよ。もし捕まえられても私を巻き添えにしないでね」

 

 ベリルは俺に背を向けて歩き始めた。

 ベリルがアグノラを探しにきたのは間違いないはずだ。それでも中に入らない。

 本当に入れないのか。

 強力な結界というのは、それほど強いものか。

 オスカーに一緒に来て貰った方が良かっただろうか。


 離れていくベリルを俺は振り返った。

 絶対にベリルは店への入り方を知っているはずだ。

 

「ベリル」


 俺がベリルの名を呼ぶと、ベリルの足が止まった。顔の向きは変えない。


「あんた、ベリルって名前じゃないのか?綺麗な緑の髪の美女。そしてすごく優しいって」

 そう言ったアグノラの顔を思い出した。

 憧れというのだろうか。恋にも近そうな瞳でベリルのことを語るアグノラは、ベリルを敬愛していた。


 そのベリルは今、名を呼んだのに俺に背を向けて、振り向きもしない。

 ふ、と鼻で笑ってしまった。

「ーーーすごく優しいというのは、あいつの勘違いだな」


 ベリルは振り返り、俺を睨みつけた。

「何よあんた。私の何をーーー」

 俺は長い剣を振り上げて、店に向かって剣を放った。

 ギイン、と音を立てて剣が当たる。

 

 結界はわずかに揺らいだ。何が強固。

 これなら破れそうだ。

 破るには時間は多少かかるだろうが。


 俺がそんなことを考えている様子を見てか、結界が破られそうなのを感じてか、ベリルは唖然として俺を遠くから見つめた。

 

「、、、何、あんた、、、」


 美人が驚く顔は、見ていて悪いものではないな。

 グリグリとした瞳の内側が細かく揺らぐのが面白い。

 俺は軽く笑う。

「俺が言ったんじゃない。アグノラがそう言ってただけだ。ーーー最後のは、俺の意見だけどな」

 

 アグノラ。その名前で僅かにベリルの表情が緩む。

 それだけで、少なくともアグノラへの好意は感じ取れた。

 良かったなアグノラ。片想いじゃなくて。

 

「まさか」

とベリルはまだ驚いた顔で呟いた。

「、、、マリウス」


 俺の名前をベリルから呼ばれたことは、素直に嬉しかった。

 国内でも有名なベリルを俺が知っているのとは違う。ベリルが、無名の俺の名を知っているのだ。

 それは、俺にベリルのことを話したように、アグノラが俺のことをベリルに話してくれていた証拠だ。


 俺は少し口元が緩んでしまったらしい。

 それを引き締めて、もう一度結界を攻撃する。

 結界が波のように揺れて振動した。


 ベリルは頭を軽く手で支えて、ため息を漏らす。 

「、、、やめなさい。案内するから」

「そうか。助かる」

 感謝の気持ちを込めて微笑むと、またベリルに呆れた顔をされた。

「こっちよ、ついてきて」


 そしてベリルは店の裏手にある井戸まで俺を連れていき、井戸の底を指差した。


 井戸の底に地下室の裏口があり、そこから入れるという。それには暗証番号が必要で、ベリルもその扉は開けたことがないという。


 この井戸に落ちたら、多分這い上がってくるのは難しいだろう。確実にその扉から入らなければいけない。


 多少、申し訳ないと思いながらも、俺はベリルの驚くほど細い腰を掴んで、井戸の中に勢いよく飛び降りた。


「ーーーっ!????」

 ベリルの悲鳴にならない悲鳴を耳で聞く。

 ベリルの身体はとても軽かった。多分、全身用の甲冑の方がよっぽど重いだろうに、ベリルは俺がベリルを抱えて井戸の底まで飛び降りたのが信じられないという顔をしていた。ベリル程度の重さなら、あとこの倍の深さの井戸でも傷一つなく着地できるだろう。


 しかし驚かせてしまった。それも含め、急いでいるので簡単に謝らせてもらう。 

「悪いな。付き合わせて」

 俺がニカリと笑うと、俺がたいして悪いと思っていないことを悟られたようで、だいぶ怒り寄りギリギリの苦笑いをされた。

 

 俺が暗証番号を教えてもらおうとすると、鍵は魔力を通さないと開かないという。

 転移の魔方陣といい、鍵といい、魔法が使えないとできないことが多い。

 早く魔法を使えるようにならないといけないなと心から思う。

 それと同時に、ベリルを連れてきた自分の機転に自画自賛したくなった。

「それなら連れてきて大正解だったな。解除、宜しく頼む」

「、、、、、」

 ベリルは何かを言いたそうにしたが、諦めて肩を竦めてから、結界前に手を置いて、結界解除の暗証番号を唱えた。唱えると、手を中心として放射線状に結界が解けていく。


「この暗証番号は完全に結界を消したわけじゃなくて、一時的に機能を停止するだけのものみたい。入るなら早く中に入って」


 ベリルに促されて、扉のノブを容赦なく掴む。回すと扉はガチャリと音を立てて、奧側に開いた。


 扉を開けると急に牛のような姿が奇声をあげながら俺にぶつかってきた。

「っ、あああああ悪魔、、、、赤い悪魔が、、、うがあ、がぁああ」 

 しかし俺にぶつかった男の方が弾かれて床に激しく倒れこんだ。

「店主、、、?」

 ベリルがその男を店主と呼んだ。こんなブクブク、太るだけ太った男が店主なのか。


 店主の男は気が触れたようだった。よだれは垂れ、奇声をあげ、とても正常な状態とは言えない。

 起き上がることもできずにバタバタと足を動かしながら転がり回り、同じ言葉を繰り返す。

「、、あぁあ、あ、あか、赤い悪魔、、、」

「赤い悪魔?なんのことだ」

 俺は店主に近づいては襟元を掴み、ぐいっと店主の上体を起こした。

「おい」

「、、あ、赤い、、、赤、、、」

 店主の目に俺は映っていないようだった。手足は震え、異常な汗をかいている。激しい恐怖の末の症状だろうか。


 店の地下は、かなり広いフロアになっていた。その部屋の中央あたりに黒い服を着た男が3人倒れていた。

 その奥に長く緩いカーブをしたオレンジの髪の女と、アフロヘアのボリューミーな髪をした妙齢の女の姿があった。

 

「アグノラ!、、、と、マダム!?なぜここに」


 ベリルが呼ぶと、床に膝をついていたアグノラはこれ以上ないほどの満面の笑みを浮かべて立ち上がった。

「ベリル!!」

 アグノラはベリルに駆け寄って抱きつき、幸せそうな顔をしてみせる。その体勢で、近くにいる俺と目が合い、アグノラの顔から、スーッと血の気が引くのが見てとれた。


「、、、マリウス。なぜここに?」

 

 まるで来たらいけなかったような言い方。

 見るとアグノラの横にいたマダムと呼ばれた妙齢の女は顔も身体もあちこちボロボロになっている。

 何もなかったという状況ではないのは確かだった。


 何か怖いことがあったに違いない。

 そして助けにきた俺を、そんな扱いか。


「ーーー出かけると言って出たのに、帰ってくるのが遅いからな。迎えにきたんだが?」


 できるだけ冷静に言ったつもりなのに、アグノラはそれがかえって恐ろしかったようだ。

 真っ青な顔をして顔が強張っていた。

 

 そんな俺の後ろから顔を出したベリルが声を上げた。

「アグノラもマダムも。二人とも、どうしたの。昼間にこんなところで」

 ベリルの質問に、アグノラは更に慌てた様子をみせた。

「えっと。えっとね。店主に、ベリルの首輪を外してもらえないか交渉にきたの。そしたら、なんか店主とこの男達が粉を沢山吸ってたのよ。それで頭がおかしくなってしまったみたいで」

「粉?」

 ベリルと俺が辺りを見渡しても、それらしいものはどこにもない。

 アグノラは平然とした顔で、その理由を口にする。

「あれは麻薬だったから全部燃やしたわ。あんな危ないもの、この世にあってはいけないものだもの」

 

 アグノラは自分達は結界を張ったから大丈夫というが、部屋の中央に倒れている黒尽くめの男達の傷だらけの姿といい、店主の精神の壊れ方といい、『なんでもない』で片付るにはあまりに無理がある。俺は倒れた男達に近づいて確認すると、なぜ生きているのか不思議に思うほどの傷がついていた。


「麻薬のせいで頭がおかしくなりだして、自分達で争い始めたのよ。とても強い人達がお互いに戦うと、こんな風になっちゃうのね。すごく怖かったわ」

 沈黙を保っているマダムが、アグノラの話を聞いて顔を背けた。アグノラの言うことを否定しているようにも見える。

 

 俺はもう一度、男達の無惨な傷を見た。

 なるほど、自分達で戦ったのであれば、その力量を知っているから、ここまで生死の境目までの傷が付けられたのかもしれない。

 しかし頭がおかしくなっていたらここまでの絶妙な加減にするのは不可能であるし、正常な思考であればお互いに傷をつけあう理由がわからない。

 これだけ鍛えられた男達が意識を失うまで戦うということ自体、信じがたいことだが。

 俺が男達の傷をまじまじと見ていると、それを邪魔するように、アグノラがベリルに話し始めた。


「そ、そういえばベリル。あの店主がね。麻薬で頭がグルグルしてる時に、私に言ってくれたの。アグノラの()()。取る権利を私にくれるって」


 耳を疑うベリル。

 当たり前だ、聞いた俺でさえ驚いた。

 そんなこと、あり得るのだろうか。

 隷属の首輪の主人を譲る?

 ()()ベリルという女を、経営者が簡単に手放すはずがない。隷属の首輪があるだけで、本人の意思とは関係なくこれから先も容赦なく稼げるというのに。


 しかし、事実、アグノラがベリルの隷属の首輪に触れて契約の文を詠唱すると、首輪は簡単に外れて床に落ちた。


 本来の契約者が自分の意思で譲渡しないと契約者は変更できない。ベリルにつけられた隷属の首輪の契約者は、間違いなく店主の意思によってアグノラに変更になったということだ。


 俺はベリルと喜びを分かち合っているアグノラに視線を移した。

  

 今更ながら、アグノラについて疑問を抱いてしまう。

 

 アグノラは悪い人間ではない。

 それはわかる。

 ただ、胡散臭い人間という認識から良い方へ変化しつつあったというのに、アグノラへの違和感がまた浮上する。


 普通なら起こせるはずがないことが起きる。

 起こることが良い方向であるからこそ突き詰めるつもりもないけれど、これは本当にそれで良いのだろうか。自分の判断に自信がなくなってくる。 


 俺は小さくため息をつくと、浮かんでは消える疑問を無理やり消すように、店主と黒尽くめの服を着た男達を縛り上げた。

 そろそろ夜の店を開くために人が集まってくる。

 騒ぎになる前に、ここを片付けた方がいいだろう。


 まだベリルと何かを話しているアグノラに声をかけた。

「用が終わったなら、そろそろ帰るぞ」

 アグノラは弾かれるように振り返ると、待って、と俺を留まらせた。

「ちょっと待って。ベリルも一緒に行くから」


 アグノラがまた、おかしなことを言い出した。


 それには当のベリルもマダムと呼ばれた妙齢の女も驚いている。驚いている様子にアグノラは驚いて、きょとんと首を傾げた。

 

「あら。ベリルったら忘れたの?その首輪が外せたら、一緒に暮らしてくれるって言ったじゃない」


「確かに一緒に住むとは言ったけど、それは今日の話じゃないでしょ?いきなり行くって言われても、私には今日の予定がもう埋まってるのよ」


「そんなこと言ったら、ベリルはずっと予定が埋まってるじゃない」

 アグノラは頬を膨らませて、分かりやすく拗ねてみせた。


 確かにそれは夜の店の事情を知らない俺でもわかる。

 『スマラグトスのベリル』といえば、予約の取れない人の代名詞だ。


 はぁ、とベリルは大きく息を吐いて、面倒くさそうに腕を組んだ。地の性格を隠すつもりはなさそうだ。

「五月蝿いわね。約束しても私は私でしょ。あんたに感謝はしてるけど、それとこれとは別よ。私の行動は自分で選ぶわ」

「一緒に暮らすって約束したのに」

 

 俺は話が長くなりそうな2人を少し離れた場所から眺めていた。

 そもそも俺はアグノラが危険な目に遭っていないか確認しにきたのに、すでにその危険は過ぎ去ってしまっていて、役に立ちそうにない。


 何のためにここに来たのか。


 俺はそんなことを考えながら、2人のやり取りを見ていた。

 気の強そうなベリルと、マイペースで頑固なアグノラ。どちらが先に折れるだろうか。

 

「そうね。約束通り、あんた達の家に住んでもいいわ。その代わり、私はこれからもこの店で働くからね」

 両腕を組み、堂々とした態度でベリルは宣言した。

 

「え?」

 アグノラは目を丸くしている。

「私は別に、この仕事が嫌いなわけじゃないのよ。あの店主の言いなりになっているのが嫌だっただけ」

 

 笑うベリルは妖艶。

 滑らかな長くて細い指先を、アグノラの頬に当てて、ベリルの形の良いふっくらとした赤い唇を尖らせた。


「私の人生は、ようやくここから新しく始まるの。今からが私が稼いで稼いで、儲ける時がきたのよ。あんたがそれを邪魔をするの?」

 

 ベリルの艶やかさは突出している。目の前の相手が男だったら、まずイチコロだろう。

 見ると、女であるアグノラの瞳も、ベリルに魅了されてしまっていた。

 あんなに『連れて帰る』と意気込んでいたのに、二の句が継げないでいた。少し涙目になっているアグノラは、心は負けているのにまだ諦められずにいる。それでも、ベリルの言葉にアグノラは逆らえそうにない。

 

 この戦い。

 どうやらベリルに軍配が上がりそうだ。


 ようやく俺は自分のここにきた役目を悟る。


「アグノラ」

 俺はアグノラに近寄った。

 アグノラの真ん丸とした目が俺を見上げる。泣きそうな顔が少し可愛い。


 俺は極上の美女であるベリルより、こっちの愛嬌のある顔の方が好ましくはあるんだけどな。ーーーなんてことを俺が本人に対して口にできるはずもなく、俺はアグノラの肩を軽く叩いた。


「ワイアットもオスカーも心配している。今日のところは帰るぞ」

「でも、、、」


 デモも糞もない。

 本当にアグノラは諦めが悪い。

 俺がそれのせいでどれだけ苦悩したか、アグノラは知らないだろう。


 そう思った後、俺は僅かに混乱する。


 俺は、アグノラの諦めの悪さにそんなに苦悩したことがあっただろうか?何でそんなことを思ったんだろう。


 よくわからない自分の思考にも疑問を抱きながら、俺は粘るアグノラにしびれを切らし、抵抗するアグノラを肩に乗せて、スマトラグスの店を出て家に連れて帰った。


 アグノラの無事の帰宅に、ワイアットもオスカーも安堵した様子だった。


 アグノラだけが、不満そうに自分の部屋に籠った。ベリルを家に連れてくるという目的を達成できなかったことが悔しいらしい。


 どうせ明日もスマラグトスの店に行って、ベリルに会うつもりだろうに。

 時間はたっぷりある。

 気が済むまで頑張ればいい。いつかきっと、アグノラならベリルの心も動かすだろう。


 アグノラは決して諦めない女なのだから。


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