泥沼と雑草 (オスカーサイド)
それはどこまでも続く、暗くて深い沼を歩いているようだった。
瘴気を帯びた目のせいで両親に嫌悪され孤独だった俺を受け入れて、育ててくれたワイアット。世間的には兄くらいの歳ではあるが、俺の父であり母でもあるワイアットが、瘴気に蝕まれてその命の灯火さえも消えようとしていた。
親からも見捨てられた理由であるこの瘴気を帯びた片方の目を、綺麗だと言ってくれるワイアット。
彼がこの世からいなくなるなど、想像もしたくなかった。
瘴気による病を治すには、入手不可能と言われるエリクサーを手に入れるしかない。
それでも諦めきれず、世界中を回った。
この瘴気に侵された目のせいで、世間は俺に冷たく、あちこちの土地で絶望を味わっては、ワイアットの様子をみるために町に戻る生活。町でも俺は忌み嫌われている。
それは、どこまでも続く沼に似ていた。
腰まで浸かった沼は重く足に絡み付く。必死で足を一歩踏み出しても、次の一歩は更に深く沈み、その足をワイアットの死という恐怖とともに捕らえてくる。
辺りには泥沼しか見えない。
掴まる蔦も、差し出れる手もない。
そんな地獄から抜け出せず、俺はいっそ両目を閉じてしまいたかった。
その日も、エリクサーの有力な情報を得ることはできずに暗い気持ちで町に帰ろうとしていた。
ワイアットの容態はどんどん酷くなっていく。身体のあちこちが腐って変色し、悪臭を放つようになってどのくらい経つだろう。
少しでも目を離したら、俺のいないうちに遠くの世界に逝ってしまいそうで恐怖に胸が潰れそうになる。
でもワイアットは何度も危機を乗り越えてきた。
簡単にワイアットは死なない。
そう願いながら、町に戻る船に乗るために岸辺に向かうと、まだ成人していないだろう若い女が、1人で船に乗ろうとして、船員に止められていた。
赤みを帯びた鮮やかなオレンジの長い髪は陽を浴びて輝いてみえた。
白磁のように白い肌には艶があり、その女が美人の類いであるのはわかった。
まだ成熟していないとはいえ、あの容姿で船に乗るのは野蛮な男共に襲ってくれと言っているようなものだ。
そもそも女1人で船に乗ろうというのが無謀だということさえ知らないのだろうか。
船員から完全拒否を食らっているのに、その女はどうしてもその船に乗らないといけないのだと言って引き下がろうとしない。
一筋縄ではいかなさそうなタイプだ。
美人だけど面倒くさい人種だろうなと思った。
「困ったわ」
と言いながら、船員の服を強く握りしめている。
容赦ない船員だったら、殴られたり手を切られたりするかもしれない。彼女はそんなことを想像もしていないのか、それがわかっていても諦めたくないのか。
仕方ない、と俺は足を彼女の方に向けた。
俺も早く船を出して欲しかったし、このまま彼女に粘られることで出発が遅れる可能性もあった。
だから普段、滅多に直接助けるようなことはしない俺が、つい声をかけてしまった。
「雇われてやろうか?」
なぜこんな若い女が護衛を雇えると思ったのか、俺にもよくわからない。だが『助けてやる』と言って素直に受ける人ではないという思いがあった。
今考えると、俺は彼女の何を理解していたというのだろう。
彼女は、丸々とした大きな紫の瞳で俺を見上げた。
その瞬間、身体に鳥肌が立つほどの何かが俺の中を駆け抜けた。
痛みとは違う。
恍惚とするような何かだ。
その感覚は一瞬で去り、それが何なのか俺にもよくわからなかった。
そして彼女は俺の顔をみた時、一瞬にして思考を激しく回転させたのだろう。
俺の知り合いかと勘違いするほど俺の顔を見て驚いた後、物凄く変な顔をして、盛大にしかめてみせた。
他の人と同じように、俺の瘴気を帯びた瞳を嫌悪したのかとも思ったが、彼女の表情には不思議と、俺に対する嫌悪は感じ取れなかった。
「何だその顔は?」
俺も思わず、まるで旧知の仲のように突っ込んでしまった。何だというのだろう。彼女の親しみを感じる顔のせいだろうか。
昔、一時期可愛がっていた赤毛の子犬を思い出してしまったからかもしれない。
彼女はアグノラと名乗った。
初めこそ変な顔をされたけれど、それ以降は俺の瞳を怖がることも嫌がることもせずに、普通に話しかけてくる。
俺の事を知り合いに似ているとアグノラは言うけれど、それで納得するには、あまりに彼女の態度は普通すぎた。
それどころか、俺の瞳の持つ瘴気を嫌悪した船員に向かって、俺に謝れと言い出した。
これには俺が一番驚かされた。
瘴気が忌み嫌われていることくらい、田舎の小さな子供でも知っている。それに対して陰口を叩くことは日常茶飯事だ。
今更、謝れなどと言おうものなら、むしろ常識知らずと笑われてしまうだろうに。
ーーーそれでも。
まだ大人になっていない身体で、怒りを抑えきれずに吠える子犬のような彼女が微笑ましく、そしてその気持ちが嬉しかった。
あらゆる感情も表情の作り方も忘れかけていた俺が、気づけばアグノラの代わりに船員達に向かって頭を下げていた。
なんとも奇妙な話だ。
マリウス達にこの話をしても、きっと信じてもらえないだろう。俺が他人のために頭を下げるなど。
俺自身が信じられないくらいなのだから。
でも不思議と、悪い気持ちではなかった。
むしろ晴れ晴れとするような。
「、、、私とどこかで会ったこと、ある、、、?」
恐る恐る、という様子でアグノラは俺に尋ねた。
それは俺こそが聞きたかった。
なぜ俺が、見知らぬ女のためにここまでしてしまうのか。この不思議な感情は何なのか。
いっそ、知り合いであった方がどれだけ良かっただろう。
幼馴染みだったとか、小さい頃に生き別れた妹だとか。その方がすっきりと理解できただろう。
だが、それはあり得なかった。
なぜなら、俺は記憶力が他の人より桁違いに良いからだ。
小さな頃からの記憶は忘れることなく頭に細かく残っている。
どんな複雑な魔法術式も、魔方陣も。
魔物の種族も特徴も。
一度見たら忘れることはない。
そんな俺が、これだけ鮮やかな茜色の髪に、アメジストのような綺麗な紫の瞳の人間に出会って忘れるはずがなかった。
俺は否定した。
そうよね、とアグノラはから笑いをしてみせた。
そこまで真剣に確認するほど俺はその人に似ているのだろうか。アグノラにとって、その人はどんな関係の人なのだろう。
まぁ、間違いなく自分のことではないのだから気にすることもないか、と思った数時間後、俺はその考えを覆すことになった。
俺達の故郷であるハタカンの町にたどり着き、アグノラと別れた。
初めて来たはずのアグノラが、知った道のような足取りでワイアット達の家の方向に突き進む。
その行動が怪しくて、俺はアグノラの後をこっそりとついていった。
するとアグノラは、家の横の畑で作業しているマリウスを見つけて、泣きながら抱きついたのだ。
それこそ、生き別れた恋人と再び出会ったかのように。
俺は自分の目を疑った。
さっきまで明るく俺の横で笑っていたアグノラが、堰を切るように泣いている。
ひとしきり泣いて、アグノラは俺と同じように、マリウスにも「知り合いに似ている」と説明した。
違う、と俺は叫びたかった。
アグノラは、マリウスを見つけた瞬間、「マリウス様っーーーマリウス」とマリウスの名を呼んだのだ。
とても愛しそうに。
アグノラはマリウスを知っている。それなら俺とも知り合いだったのだろうか。
ーーー全く記憶にないけれど。
しかしマリウスはアグノラを知らないようだった。
マリウスも、と言うべきか。
わけがわからなかった。
それでも堂々とマリウスとアグノラの前に出ていけなかったのは、アグノラがマリウスに全力で追い返されていたからだ。
ワイアットを助けるなどと、戯れ言を吐いて。
実の兄弟であり唯一の家族であるワイアットを助けるために、マリウスがどれだけ辛く苦しい思いをしてきたか。
それができないからこそマリウスは更に苦しんでいる。血の涙を流しながら。
そんなマリウスに、ぽっと出てきた女が簡単に「ワイアットを助ける」などと言っていいものではない。
混乱した。
理解が追い付かなかった。
マリウスや俺の事を知っているようなのに、俺達自身は知らず、そして瘴気という厄災にも等しいものに侵された人を助けるなどという、不可能だと誰でもわかるような嘘を平気で吐く。
それでも、マリウスに追い払われて顔面蒼白になっているアグノラを見捨てることはできなかった。
俺はアグノラに手を貸し、もう一度マリウスのもとに向かった。
馬車の中で、馬車に乗る全ての人に分け隔てなくピザを無償で配ったアグノラが悪い人間であるとは思えなかったし、ワイアットを救える可能性がほぼゼロであっても、完全にゼロではない以上、藁をもすがる思いだったというのもある。
そして疑心暗鬼の中、アグノラは『師匠から渡された』というエリクサーを使って、見事、ワイアットを救ってくれた。
ワイアットの瘴気を消したのはエリクサーであってアグノラではない。それはわかっているのに、何故かワイアットが回復している時、俺にはアグノラがワイアットを癒しているように見えた。
オレンジ色の髪は濃い赤色に輝き、アグノラの周囲の空気が金色になって清浄化されているようだった。
まさか、と俺は一瞬、自分の頭に過った考えをすぐに否定する。
アグノラが聖魔法の使える聖女のはずがない。
聖女は100年に1人以下にしか出現しない稀人。その聖女が、たった1人の見知らぬ命を救うためにわざわざこんなところまで来るなんて。
それは入手不可能と言われるエリクサーを手にするよりあり得ないことだ。
俺はまさかと思ってしまった自分を嘲笑い、あれほど瘴気に侵されて死にかけていたワイアットが、以前のように人としての身体を取り戻せたことに心から感謝した。もうどこも腐っていないし、人身が腐った独特の悪臭もない。
しかし奇跡はそれだけではなかった。
アグノラは、この町が滅亡するとも言い出した。
山から魔物の大群が町に押し寄せてくると。
そんなバカなと思いながら山を見ると、魔物の群れが確かに山の中腹で蠢いている。あれが町に降りてきたら、ひとたまりもないだろう。
逃げるという選択肢がなかったわけではない。
それでもこの町は故郷であり、見捨てられたとはいえ、両親との想い出のある場所だった。
マリウスと目を合わせるとマリウスも同じ気持ちだったようで、俺達はすぐに家を出た。
町の中央まで走り、大声で魔物が襲ってくることを伝える。
町の人達は俺達の言葉は聞いてくれそうになかった。
魔物が襲ってくるから、手を貸してくれと叫んでも、嘘つきと鼻で笑われた。
町の中央から魔物の群れは見えない。
喉が嗄れるまで助けを呼んだけれど誰も集まらず、結局、マリウスは町の人達に「1人でも多く町から逃げてくれ」と叫び、俺はマリウスと2人だけで山に向かった。
死を覚悟しながら、俺達は魔物と戦うことを決めた。
妙に身体の調子が良かった。
普段なら魔物1体倒すだけでもそれなりの体力と魔力を消耗するというのに、面白いように身体は動くし、魔物は次々に倒れていく。
終いには、天候まで俺達の味方をして、巨大な竜巻が発生し魔物達を面白いほど吹き飛ばしていった。
あれを奇跡と呼ばずして何と呼ぶのだろう。
アグノラにこれらのことを予言した『師匠』という人は何者なのだろうか。
その人がいなければどうなっていたのか。
想像もしたくなかった。
俺達は無事に家に帰った。
そして、俺達の疲労を気にせず買い物に行こうとするアグノラによって、またすぐに奇跡は起こされた。
この魔法社会の世の中で、魔法が一切使えなかったマリウスが、アグノラの辛いエビチリを食べただけで魔法が使えるようになったのだ。
長年暮らした家がマリウスの魔法で爆発した。
崩壊どころではない。粉々になった。
心臓が飛び出るほど驚いたが、あまりに驚きの連続で、心臓も疲弊していたのだろう。飛び出ることはなかった。
テーブルだけが残るという意味のわからない状態になっても、これだけの奇跡の連続の中で感覚が麻痺してしまっていたのか、そんなこともあるのかもしれないなどと、よくわからない思考になってしまっていた。
肉や海鮮物を美味しいと思ったことない俺が、肉や海鮮物に手をつけてしまったのも、料理が下手そうなアグノラの手料理が美味しいと思ったことも、全てよくわからない何かの力のような気さえする。
もう余命僅かと思っていたワイアットが、目の前で楽しそうに笑っている。
不幸のどん底という顔をしていたマリウスが、かつて食べたことのない料理を美味しそうに食べている。
そして俺の足元にはもう、沼に浸かっている感覚はなかった。
それは曇天の空の割れ目から溢れる光を浴びた、野に生える雑草のように。
まだだと、まだ生きれると、太陽に背を押されている彼らと同じ。
踏ん張ることができる地面が、足元にはあった。




