借金返済のために
「――ほう。ワシからの申し出を断るとな?」
「お、お義父さん。あ、いや、シュタイン侯爵様。あの、はい。有難いお申し出ですが、娘を犠牲にすることはできません」
「犠牲とはな……。だが、昨日の荷馬車が最後の財産だったのだろう? 襲撃されるとはなんとも不幸な話だが、返済どころか明日の生活にも事欠く事態ではないのか?」
「――う」
ピスチェは廊下の扉に体をピタリとくっつけて、右耳をぎゅうっと扉に押し当てていた。
母親のマルグリットにこんな姿を見られたら夕食抜きかもしれないと、小言を言う前の、氷で出来た彫刻のような彼女の顔が一瞬だけ頭をよぎったが仕方がない。部屋の中の会話を一言も漏らさず聞き取るためなのだ。
それに両親は部屋の中だ。ヤモリのようにへばりついている姿を見ることはない。
「この家を売ったくらいでは返済できぬ額だと聞いておるがな。まあ、農園ごと売却すれば数年は生活できるかもしれん。だがそうなれば結局――お前がワシと縁を切ってまでやりたいと息巻いていた農園そのものがなくなるという皮肉な結果になるがの」
「そ、それは――」
聞いたことのない弱気なマルグリットの言葉がかろうじて聞き取れる。
(それにしても、今、あのクソジジイ、何て言った!)
二年続けて凶作だったことは確かだが、そこまで借金が膨らんでいるとは知らなかった。
大貴族だという祖父のマーロー・シュタイン侯爵に言われっぱなしの父親のロベールも、何とも歯痒い。
ピスチェはほんの五分前にマーローに対して貴族風の挨拶をさせられたが、あの男は、「お祖父様」と呼ばれるのも虫唾が走ると言わんばかりに顔を歪ませて、無言でピスチェを見下ろしていた。
この国に生存する唯一のSランク魔術師。その証とされる、金色の髪と瞳を持つ者。
髪の毛も瞳の色も茶色という平民の血が色濃く出ている時点で、ピスチェを自分の孫とは思っていないのだろう。
そんな男に大好きな両親がやり込められている――。
ピスチェの鼻息は荒さを増し、マーローを八つ裂きにするための鉤爪が、今にも両手から伸びてきそうだった。
「お父様。一度手放したくらいで全て終わると決まった訳ではありませんわ。やり直すチャンスなら、この先、何度だってあるはずです」
「ほう? チャンスとは、そんなに簡単に訪れるものなのかな?」
(なんて嫌味な奴!)
ピスチェは気が付けば、体中から沸々と湧き上がってきたものに押されて、ドアを突き破る勢いで開けていた。
「行ってやろうじゃないの! たかが三年。大人しく学園に通って卒業すりゃあいいんでしょう!」
突然乱入してきたピスチェを、マーローは蔑んだ表情で、ロベールは純粋に驚いた顔で、マルグリットは怒りを押し殺した形相で見た。
ローテーブルを挟んで向かい合って座っている三人は、ピスチェに視線を向けるだけで、押し黙っている。
ピスチェがローテーブルの横で、「ふんっ」とふんぞり帰って腰に手を当てて立つと、マーローが沈黙を破った。
「いやはや。呆れてものが言えぬわ。平民とはこれほど行儀が悪いものなのか?」
「私一人を見て平民がみんなそうだなんて決めつけないでよね!」
マルグリットがあからさまにギロリとピスチェを睨みつけたので、彼女はハッと我に返った。
母親の機嫌を取るため、慌てて両手を胸の前に持っていき、小首を傾げてしおらしいふりをしてみたが、もはや滑稽以外のなにものでもない。
「わ、わたくしが王立魔術学園に通えば、お祖父様が借金を肩代わりしてくださるのでしょう。もちろん、学費もお祖父様持ちですわよね? 何の問題もございませんわ。ちょうど身の振り方について悩んでおりましたの。今日決まってようございましたわ。おっほっほっほ」
ピスチェは「おほほほ」と微笑んだつもりだったが、音階が上下に触れてつっかえてしまった。
幼馴染のキャメロンがこの場にいたら、腹を抱えて笑い転げていただろう。
「いつから聞いておったのだ? まあ、こちらの条件はその通りだがな。何も優秀な成績で卒業しろとまでは要求せぬ。人並みの社交と学業ができればよい」
(なあんだ。そんな簡単なことなの?)
「じゃあ決まりね――ですわね」
「お待ちなさい」
マルグリットは立ち上がると、ピスチェの肘を掴んで下がらせ、マーローの前に立ち塞がった。
「何も知らぬ娘に決めさせる訳には参りません。それに、私と縁を切ると仰ったのはお父様ではありませんか。クロヴィスという名で平民として生きていけと仰いましたよね。ピスチェは平民として、この国の義務教育を履修し終えました。春からは畑を任せることになっているのです」
「その畑もお前らのものではなくなると言っておるのだぞ」
「お母さん! 三年だよ。三年我慢すればいいだけじゃない。作物のことも家畜のことも、卒業してからゆっくり覚えていけばいいでしょう? それに休みの日は手伝うからさあ」
「……ふう。まあ、まずはその言葉遣いから改める必要がありそうだがな。幸い入学まであと一月ある。お前ならば最低限のマナーと知識くらいは平民の娘にも叩き込めるだろう。必要なものは送り届けてやる。せいぜい頑張るのだな」
マーローは立ち上がると、マルグリットの鋭い眼光を真正面から受け止めた。
「……その指。いまだに血が通っておらぬようだな。そなたに無理でもワシなら治せるはずだ。いつでも来るがよい」
「お母さんの二本の指の分は、私が二割り増しで働くから心配しないでください」
「ふ。量で質を補えると思っておるのか。愚かな娘だな」
「ふんぬー!」
ピスチェが膨らませた鼻の穴を見たマーローは、まるで穢れが感染するのを防ぐかのように、袖口で鼻と口を覆って顔をしかめた。
影のようにマーローの後ろに控えていた従者が、ドアを開けるために足早に先回りをする。
「分かっているだろうが、シュタイン侯爵家がその娘の後見となるのだ。たとえシュタインの名を持たぬとも、その名を汚すようなことは断じて許さぬから、そのつもりでな」
マーローは振り返ることなく捨て台詞を残して部屋を出ていった。