問題編 11,ペルセポネのいない季節
「犯行時刻も分からないんだよね。アリバイなんて、みんな無いようなものだし……」
綾乃がぽつりと呟いた。
犯行時刻か。何かが安東の胸の奥で引っ掛かっているが、すぐに取り出すことが出来ず苛立ちが募る。
「では、遺体を見た僕から、犯行時刻について話し合えそうな議題を提供しましょう」
有馬が声を上げた。
「僕達は山小屋で、三人同時に遠山先輩の遺体を発見しました。部長さんと阿曇さんは、遺体に無残にも突き立てられた矢と槍の位置を記憶してはいませんか? 僕のような一回生如きに正確な検死が出来るのかと問われれば、口を紡ぐしかありませんが――、胴を刺されたことが死因だと、僕は判断をしました。しかし発見時には、その槍は顔に移っていましたね」
「何も不思議なことはないだろう。あの山小屋は物がほとんど無かった。勿論、弓もだ。矢の鏃だけで各部位に突き立てることは出来なくはないが、九本分は難儀する。別の凶器……つまり槍で先に穴を空けた方が、見立てるには容易かったのだろう。あるいは、よほど顔を損壊したい理由があったのか……」
安東は反論しながら、山小屋の凄惨な状況を思い出すことに鈍痛を感じていた。
「確かにその通りです。九本の矢が穿たれた刺し傷には、鏃とは異なる形状の傷跡が見られましたからね。おっと、この話はしていませんでしたか。失礼しました。……部長さんの言う顔の損壊説ですが、こちらは意味を見出せません。入れ替わりは顔ではなく、首のない死体がミステリでは一般的です。頭部がないなら未だしも、髪型や輪郭は僕達の知る遠山先輩でしたからね。身元不明にするなら損壊が不十分です。やるなら、もっと、徹底的に……。話を戻しましょう。詰まるところ、見立ての理由なんですよ。犯人は死因となった部位を誤魔化す為に、大仰な見立てをしたのでしょうか?」
答える者は誰もいなかった。肯定しようにも否定しようにも、材料が足りなく思えた。しかし有馬は、しつこく同じ話を続ける。
「次に、星座にも知見が深い貴島さんにお伺いしましょう。オリオン座において、もっとも明るい星である一等星は、どの位置にありますか?」
貴島は思案深げな顔で考え込んだ後、張り詰めた声で言う。
「オリオンの右肩、もしくは左足ですかねぇ……。夜空を見上げたときに、並んだ三つの星を目印とすると、その左上に位置するベテルギウスか、右下のリゲルだと記憶してます」
「そうです、オリオン座の一等星はオリオンの右肩に燦然と輝くベテルギウス。あるいは左足に位置するリゲル。オリオンの頭に該当する星は、せいぜい三等星です」
ようやく、有馬の言いたいことが見えた。
「どうも僕には、見立てとしては不完全に思えるんですよね。仰向けの状態なら、槍で貫くべきは顔ではありません。オリオンの右肩か左足が貫かれているべきなんですよ」
顔を貫くなら徹底的に損壊させなければ意味のないことは、先ほど有馬が述べていた。
「それにオリオン座は小学生でも知っている天体の中でも群を抜いて有名な星座です。仮に等級を忘れてしまったとしても……ほら、答えは見上げた先にあるではないですか」
と言って、部屋の天井を指差す。話の趣旨としては天上を。日本に住む人間なら、あれほど分かり易い三つ星を見逃すまいと。
ふと、雪乃が厳かに抗議の声を上げる。
「悠士君、わざと迂遠な言い回しをしているんだよね……? それとも、私達を試しているつもり……?」
鋭い口調だった。細めた双眸で有馬を射貫くように返答を待っている。
有馬は途端に相好を崩し、「バレちゃいました?」と悪びれない様子で答えた。
綾乃が気付いたように、
「あ、そっか。深夜は台風で雲がかかってたはずよね。スマホで調べることも、この島では出来ないし。それなら……んー、どうなるの?」
偶々彼女の視線と合わさったので安東は口を開いた。それに他の人よりは詳細に話せる自信もある。
「雨が降っている間は星座を見ることは出来ない。つまり犯行時刻は、雨が降り出したそれ以降になるんだろう。正確に言えば、雲が天を覆ってからだな。午前一時以降だ」
「随分と正確な時刻を知っているんですね」
有馬が訝しげに問う。安東は同じ表情をしてみせた。
「……お前には話したはずだろう。昨日寝付けず、貴島さんと屋上で星空を見ながら、ヘラクレス座に纏わる話を聞かせてもらっていたんだ。そのときに雨が降り出してね。風も急速に強まって雲が覆い始めたんだよ」
「ふーん、何かロマンチックなことしてる」
やや不満げな顔は、自分もそういう体験を合宿でしたいという意味だろうか。
「何だがしっくり来ねぇな。銀の矢はちゃっかり十時半までに盗んでおいて、犯行時刻は遠山がぐっすり寝てるだろう一時以降なんてよ。上手く呼び出したにしても遅すぎやしないか?」
「でもでも、一時前の犯行なら、さっきの話はどうなるのよ。星座が見える時間帯に殺しを行なったはずの犯人が、見立ての現物を見なかったなんて」
綾乃の意見には賛成だ。アテナの槍に意味があるとすれば、なぜ顔だったのか。これには納得のいく理由が欲しいと、個人的に安東は思う。鬱積した怒りによるトドメの一撃と解釈も出来るが、もう少し考えてみたかった。しかし寺田の意見も分かる。本当に犯行時刻や見立てを行なった時間は、そんなに遅かったのだろうか。遅かったとするなら、なぜ。
「何か、別の可能性は考えられないだろうか」
安東は沈思黙考する。……例えば目が悪い人物はいないだろうか? ミス研メンバーは恵まれたことに視力は良い。一人だけ眼鏡を掛けている人物を挙げるなら、遠山だ。彼は極度の近視で、眼鏡が無いと目の前の人物が見えないほどだった。だが、彼は被害者なのだから当然省かれる。そしてミス研メンバーの視力は、それなりの付き合いの中で1.0以上はあることを知っていた。十分に夜空の星々を窺える数値と言える。
だから……。安東の視線は必然的に貴島や阿曇に向かう。
その視線に気付いたのか分からないが、阿曇が反応を示した。
「オレから少し、意見いいかい?」
聞き役に回っていた阿曇が、ひょいと手を上げて言う。
「今まで黙って聞いてたけどさ、ミス研の人達は星座のことを忘れすぎているよね。貴島さんもどうしたんだ。オリオン座だぞ? あれは『冬の星座』なんだよ。つまり九月下旬の今頃に見ることが出来るオリオン座は、ごく短時間の間だけで、しかもそれは、明け方付近のまだ暗い時間だってことを」
「あ……」
と、一同がその意味を飲み込むまで、沈黙の帳が下りた。
そうだった……すっかり失念していた。阿曇が言う通り冬によく見えるオリオン座は、安東の知識が間違っていなければ、三月頃になると南西の空に拝める。そして二月、一月と時期を遡るごとに東の空へと移ろっていき、秋頃には……つまり今の季節には、夜明けの時間帯のみ、それを見つけられる。つまり、夜更かしをするか早起きでもしないと見ることが出来ないわけだ。
「じゃあ、じゃあさ、犯人はどの時刻に空を仰いでも、オリオン座を確かめることは出来なかったってことなの?」
「そうだよ」
阿曇は端的に肯定の言葉を返した。
冬の星座だということを忘れてしまうなんて、議論の疲れが出ているからと言い訳出来ない失態だ。それも九月にオリオン座を拝めるのは、宵の口ではなく、明け方だ。誰も否定しないことから、安東が勘違いしてるわけでも、阿曇が嘘を付いているわけでもないようだ。
自分の愚かさにあきれ果て、言葉を失いつつあった。
思考が鈍化していく。
もう、これ以上議論しても無意味なのではないか。
弱気な考えが心に芽生える。
どんなに回想しても、ちぐはぐな手掛かりは綺麗に並んではくれない。
動画も、銀の矢も、アテナの槍も、現場に転がった酔い止めの瓶も、ベルトに挟まれていたというアネモネの花びらも……。
ふと、安東は遺体発見前の出来事を思い出していた。議論の間から探し求めていた回想シーンが、一筋の光明となって差し込んだように思えた。胸中で燻っていたその手掛かりにようやく火が付き、言語化を試みる。
「……犯行時刻を特定する為に、三つ、皆と確認したいことがある」
安東は全員を見廻して話し始めた。
「まずはアテナの槍だ。あの槍が雨が降り出す三十分以上も前に無くなっていたことは、俺と貴島さんで証言出来る。つまり、犯行時刻は槍が盗まれたよりも前の時刻……雨が降る前だと言えないか?」
「そいつはどうっすかね。犯人の行動さえ俺たちはトレース出来てないんですから、事前に犯人が盗んでおいた可能性は全然あると思いますぜ。銀の矢と同じく」
寺田が苦言を呈した。槍に関する説は安東も素直に通るとは思っていない。気持ちを切り替えて次にいく。
「だったら、遠山の服が濡れていなかった件はどうだろうか。昨日、彼はシャワー後に脱いだ服をビニールに入れてバックパックの中に仕舞っていた。つまり、夕食時に着ていた服のまま殺されたということは、犯行時刻は彼が就寝しようと再びバスルームを使う前、ということにならないか?」
今度は有馬が腑に落ちない顔つきをする。
「確かに、被害者が雨に濡れてなかったから、犯行時刻は雨が降り出す前……という考えは合理的に思えますが、犯人の偽装の線も追わなくては真の手掛かりとはなり得ません。遠山先輩はシャワー後に脱いだ服はビニールに入れて、バックパックの中に仕舞っていました。細かな手順は分かりませんが、犯人は遠山先輩が夕食時に着ていた服を濡れないように山小屋へ運んで、着替えさせればいいわけです」
安東はヘファイストスの間で見た遠山の荷物の中身を思い出す。ビニールに入っていた衣服一式は、邸宅に辿り着いて部屋割りが決まった直後のものだろう。あのときの彼は、汗だくで船酔いで疲労困憊だった。早くシャワーを浴びてベッド休みたいと訴えるほどに。そして夕食時にも着ていた服を、再度、就寝前に着替えたのか、その前に犯人に殺されたのか……。どちらにせよ、服の回収は容易で、破れ目や血痕も如何様にもなるはずだ。
「それに、山小屋は電球の明かりが付いたとおり、電気が通っていました。コンセントも見掛けましたから、ドライヤーがあれば乾かす方法も採れますね」
安東の見落としに、有馬の的確な助言を追い風として話し続ける。
「次が最後だ。荷車から降ろされていた壺はどうだろう」
「壺……ですか?」
と、雪乃が首を傾げる。
花々を生けた壺が荷車から降ろされていたことは話したが、有馬が壺の底を確認したことは話していない。安東は四阿での出来事を手短に説明した。
「――台風が誰にも予測出来なかったことは、何度も話したよな。雨脚は急速に強まり出したから、犯人が偽装を施すタイミングは一切なかったと言える。それに加えて、雨で形成された円はグラデーションが掛かっていて、自然現象によるもので間違いない。つまりだ。壺が荷車から降ろされたのは台風が迫り来る前であり、犯行時刻は更に遡って、午前一時よりもずっと前だと考えられないだろうか」
パチ、パチ、パチと手を叩く音が聞こえた。
「素晴らしいですよ! 部長さん。偽の手掛かりを疑う隙の無い完璧な推理じゃないですか」
有馬の一挙一動がわざとらしく思えた。犯人に直結する推理でもない上に、実際に壺の痕跡に着目したのは彼であり、この話を覚えていないはずがないと言うのに。
そのことを追求してやろうかと口を開いた途端、一変して、彼は眉尻を下げた。さも申し訳なさそうな顔付きをする。
そして言うには、
「ただ……僕も呻吟して考えたんですけどね。非常に残念なことに、犯行時刻の推理から真相に辿り着くことは到底無理なんですよ」