No.7 チキンは性差を超える……か?
最初に記しておきますが、本編とサブタイはほぼマッチしていません。感覚でつけていると稀にこういうことがあるため、過度な期待は禁物です。
「バスケットボール……ですね」
穗村も俺の足元に転がる物体を見て、そう呼んだ。
「ああ……」
緊張を含んだ声が出た。事実だけ見れば、何処かからバスケットボールが転がってきただけだ。しかし、このタイミングが気にかかる。これは何かろくでもないことの予兆なのではないか、呆然と思ってしまう。
ボールを手に取って改めて見たちょうどその時、
「すみませーん。ボール取ってくださーーい!」
女性の声がした。その声は体育館のほうからしたため、そちらを向く。体育館の入り口から、体操着姿の女子(体操服のカラーから、俺より一つ下)が顔を覗かせているのが見えた。最初は俺を呼んでいるのか半信半疑だったが、視線は俺のほうを向いているため、疑う余地はないだろう。
「あ、これのことー?」
ボールを両手で持ち上げ、その少女に確認を取る。
「はい、それですー!」
彼女も、俺のほうを見て頷いた。やはりこれで間違いないようだ。ボールを渡そうと彼女のほうへ足を踏み出した―――踏み出そうとしたところで、
「ちょっと待ったーー!」
「へ?」
待ったをかけられ、足を止める。
「な、何?」
「何、じゃないでしょう! 貴方今ボールを持ってこようとしませんでした? 私言いましたよね、『ボールを取って』と。普通こういう流れでは投げて寄越すというのが一般的であり礼儀であるという固定観念から、私は今の貴方の行いを慇懃無礼とみなしたいと思いますがそのあたりどうお考えですか?」
「え、ええと……ごめんなさい」
彼女の、濁流の如き責め文句に気圧され、俺は無意識的に謝ってしまった。
というか、何故自分はボールを持っていこうとしただけで、非難の雨を浴びせられなければならないのだろう。己の窺い知れないところで過失があったのか、彼女自身に極めて特殊なトラウマがあるのか、それとも俺が今抱えているものが、実はボールではなくこれ以上ないほどに卑猥で下劣なゴム球体なのか……少なくとも、3つ目ではないことを強く祈りたい。何故ならもう触ってしまっているから。
「いいえ、謝る必要はありません」
しかし、彼女は、予想に反して首を横に振り、そう言った。
「投げて寄越すより直接の手渡しのほうが、確実性と安全性では遥かに勝っていますし、またその行為は親しい関係以外が相手の場合は明確な拒絶行動ととられてしまう場合があるため、人間の感性の面から追求すると手渡しのほうがずっと勝っています。これは各個人が持つ固定観念の相違によって生じた問題であり回避不可能とも言えますし、何より私が気にしていないので、むしろ無駄に謝らせてしまって申し訳ありませんでした」
ビシーッと、腰を折る見知らぬ後輩。
「へ? あ……うん」
何やら酷く難しいかつ無駄なことを凄い勢いでまくし立てていた気がしたが、とりあえず気にしていないことだけは分かったので、頷いておく。
これで一段落―――というわけにはいかず、少女はさらに続けてきた。
「それより、固定観念といえば知ってますか? 固定観念を直接英訳するとステレオタイプになるんです」
「…………」
これはなんというか、アレな予感。
「何故よりにもよってタイプの頭にステレオがつくんでしょう、語源が音楽的分野と密接な関係を持っていたという可能性もさることながら、そもそもステレオモノラルの概念が生まれたのは音楽に信号という用語が適用されてからのはずだからどうしても私たちの生まれるはるか前に生まれた言葉だとは到底思えないんです。そして何より最も気になるのはステレオタイプを受けてモノラルタイプという英単語の存在を匂わせていることです。しかしその片割れはどれだけの辞書を引いても出てこない、これはステレオという言葉が実はモノラルと本質的に対を成していないのか、あるいはモノラルタイプという言葉が何らかの厄際を招いた結果表歴史から抹消されたのか、いずれにしてもモノラルタイプとは一体どういう意味なんでしょう『固定観念』とどのような関連性があるんでしょうか!?」
「ごめん、信号のあたりで頭がついていかなくなった」
「ああ、何てことでしょう!」
嘆かれても困る。
予感はあったのだ。この子が、どこか穗村と同じ匂いを持っていることに。おそらく、これ以上彼女を野晒しにしたら、今度はステレオとかモノラルとかでは済まないことになるだろう。
「もっとも、それも仕方の無いことです。ステレオやモノラルといえば一般的な私たちの年代にとってはスピーカーくらいしかピンときません。そういえば音楽はお好きですか? 音楽はいいものです。読書が目で教養を得るものなら音楽鑑賞は耳で教養を得る手段と言えます」
ほらやっぱり。
「さらに、人によっては歌詞が存在しなくても、音楽を聞いただけで言葉を作り出してしまう人もいるそうです。そういった人達が、将来の文学、あるいは芸術の道を切り開いていく偉人となり得るのでしょうね。そもそも偉人とは―――」
「ねぇ君」
「――――はい?」
失礼ながら、ここいらで話をぶっつりと切らせてもらう。
「このボール、結局は投げて渡せばいいってことだよね?」
「はい、何の話でしょうか?」
ここに来て、まさか本題を忘れられていた。
「だから、俺ボールの渡し方について咎められてたんでしょ?」
「咎める? そんなこと一体誰が?」
「あんただよっ」
とことんまで忘れている。どうやら一度熱くなると、それ以外のものを切り捨てるタイプのようだ。相手する側はなんとも疲れる。
暫し思案顔を浮かべていた少女だったが、「ああ」と両手を打った。
「そうでした。何かと理由をつけて近づいてくる男は、例外なく下心を持っているから、一回くらい殺しても罪は問われない。そう言って聞かせたところでしたよね」
「嘘付け」
「違いましたっけ?」
「今分かった。君、これテキトーに言ってるだけだろっ」
「失礼ですね。適当ではありません。ただ、私が過去にそう言ったであろう可能性が高いと、感覚で判断したものを列挙しただけです」
「うん、『テキトー』のメカニズム、説明ありがとう。そしてやっぱりテキトーじゃん!」
「聞き捨てなりませんが、その辺りの信憑性についてはひとまず先送りするとして、先輩さんにはその位置から私に投げて寄越していただくのが私にとって元も望ましい形であることは確かです」
「……なぜ『うん』の一言で済むことを、ここまで拡張できるのか……」
言ってやりたいことは山ほどあったが、そこはグッと堪え、「分かったよ」と一言返し、少女に向かってボールを投げた。上手投げではなく下手投げ。山なりの軌跡を描いて、やがてそれは少女の腕の中にすっぽりと収まった。
「ふむ……」
少女は、そのボールを見て思考に浸かっていたような顔をしていた。そして顔を上げると、
「先輩さん、一つ貴方に提案があります」
わりと真剣な顔つきをして俺にそう言った。
「え、何?」
「先輩さん、よければうちに入部してみませんか?」
「藪から棒にとはこのことだ! 話が不可視状態もいいとこだよ!」
「あ、忘れていました。私は女子バスケ部です」
「余計駄目じゃん」
「いえいえ、そこまで謙遜するものでもありませんよ。さっきのボールの投げ方だけでも、先輩さんには球技の素質があることが分かります。これなら、ほんの数週間の練習でもあっという間に達人クラスの腕前になるでしょう」
「実力とか才能とか以前にもっとでかい壁があるだろ!」
性別という名の鉄壁が。
「ならばその壁、打ち砕いて見せましょう」
「砕くな! 出来ても絶対に砕くんじゃないぞ、この世の秩序を維持するためにも!」
仮に砕けたとして、それで喜ぶのはせいぜい慶介くらいのものだろう。だって、想像の中でのあいつは、あんなに幸せそうな顔をしているのだから。
というか、もう駄目だ。これ以上彼女に付き合っていたら、冗談抜きで体力が底を尽きる。これから(俺にとって)大きな仕事を控えているのに、休憩明け直後で体力がマイナス状態では笑うに笑えない。
「じゃ、じゃあ俺はこれで―――」
「先輩、何やってるんです」
ボールも渡したことだし、さっさと退散しようという俺のささやかな試みは、穗村に肩をつかまれることによって打ち砕かれた。
「放せ、放せー!」
割と本気で混乱した。
「先輩、疲れてるのは分かりますけどもうちょっと落ち着いて下さい」
「仮に落ち着いた頭で、何を模索しろと言うんだー」
あれか、後輩の相手が出来てこその先輩だとでも言う気かっ。
「先輩、私たちの目的忘れてません? あの人、さっき何部だって言いました?」
「目的? 何部? そんなの…………あ」
思い出した。
「あのさ、君さっき女バスだって言ったよね?」
「はい、言いましたけど……もしかして入部する決心がつきましたか?」
「そこは一旦離れよう」
右手をバッと突き出し、少女の暴走を止める。いい加減性別の垣根を越えさせようとするのは止めてほしい。だって、それで被害を被るのは100%俺だから。部員から袋叩きはまだマシなほうだ。
そんなことを頭の隅で考えつつも、俺は続けた。
「俺達新聞部なんだけど、顧問今いるかな? いないなら部長でもいいんだけど」
女バスへ向かう、ということで男である俺が直接体育館に入るのは、少し躊躇われたのだ。誰か部員の一人に声をかけて、それから通してもらうという形が望ましかったのだが……これは渡りに船だ。穗村に言われなければ、俺は彼女という最大のチャンスを逃し、改めて別の女バス部員が外に出てくるのを、変態でも見るかのような視線の中待ち続けなければならないところだった。
「はい。部長ならいますよ」
そして、少女の返事は期待通りのものだった。が、何故か彼女はいきなり踵を返して言った。
「今すぐ呼んできましょう」
「いや、そこまでしなくても俺達が直接行けば―――」
「ちょっと待ってて下さい」
「あ、ちょっと!」
聞く耳持たず、少女は体育館の中へと戻っていった。
「…………」
「…………」
2人取り残された俺と穗村が思ったことは、同じだった。
「……変な奴だったな」
「……変な人でしたね」
書き終わって気づきました。この新キャラ、恐ろしく難産です。彼女のセリフ部分、何回デリートしたことか……。個人的には好きな部類なんですけどね。こんな子が実際にいたら日常に飽きるなんてことは絶対ないでしょう……ごめんなさい、多分実際にいたら普通に迷惑です。