No.30 明かされなかったこと
俺達が部室を後にする頃には、もう8時を回っていた。空はとっくに真っ暗で、5月とは思えないほどに空気が冷え込んできている。
当然、廊下を歩く俺達が他の生徒とすれ違うことは無かった。他者の気配どころか、聞えてくるのは両者の靴音と、微かな息遣い、それだけである。
「それにしても、意外だったなぁ」
そんな空間の中で、俺はポツリと呟いた。
「何が意外だって?」
しかし、それが予想以上に反響したのだろう、矢伊原にはっきりと聞えてしまったようだ。
若干うろたえつつ、
「いや、だってさ、俺達がこうして長く話したのって、多分今日が初めてだろ」
「そう言われると……確かにそうね。ここのところ、息つく暇も無かったから」
「…………」
これまた意外な反応だった。いつもの彼女なら「そう」とか言うだけで終わるはずである。口が軽い、というと聞こえが悪いが、今はとても話しやすい状況であるということは確かである。
「…………」
従って、俺は意を決し尋ねてみた。
「なぁ矢伊原。夏休みにはまた転校するって本当?」
「え……?」
矢伊原が言葉を詰まらせた。これは、俺からすれば非常に珍しい反応である。
「何だよ、その“え、そんな事言ったっけ?”みたいな呆気にとられた顔は?」
「そういうあんたこそ何よ、その“本当は行ってほしくない”とでも言いたそうな寂しそうな顔は?」
「そんな顔してない」
「じゃあ私だってそんな顔してない」
何だ、その破綻した論法は? お互いに、意地の張り合いも甚だしい。
「それで、実際本当に転校するの?」
今一度尋ねる。
「それは事実よ」
短く答えた後、彼女は顔を伏せて続けた。
「事実だけど……そんなこと聞いてどうするの?」
「どうするって……」
どう答えていいのか、言葉を詰まらせてしまう。彼女の纏う空気が、あまりに深刻そうなものに見えたからだ。
別に冗談半分で聞いたわけではない。何故? と聞かれると上手く答えられないが、聞かずにいられなかった。本当に“行ってほしくない”のか、それは無きにしも非ずといった自己認識でしかないが、このまま、何も知らないまま別離するのは惜しいと、それだけは思った。
「……何でもない。今のは忘れて」
妙に細い声で呟く。
そこで俺は気付いたことがあった。
彼女はこう見えて、あらゆる才能に恵まれている。それは遠藤さんや美崎さんも同じだが、彼女らと唯一違うのは、彼女が他者に対して攻撃的なことだろう。そういった人間はえてして集団から弾かれるものだ。性質こそ違えど、俺も似たような境遇におかれたことがあるから、よく分かる。おそらく迫神君にも、そういう影がある。
それに加えて、ひとつ所にまともに落ち着けない人間が、一体どうなるのか……ただで済むはずもない。
これ以上口を出すのは、懸命ではないだろう。
それから間を置かず、顔を俺に向ける。
いつもの、何にも物怖じしない顔だった。
「とにかく。救済活動だけは最後までやり通すから、その心配は無用よ」
「あ、ああ」
別にその辺はちっとも考えていない。いないのだが……彼女のこの頼りがいのある口調を聞いて、何故か安心してしまうのだった。
1年4組の教室を過ぎた。そろそろ分岐点に差し掛かる。
2年の昇降口はここでまっすぐ。3年の昇降口はここで左折となる。それぞれの距離が異なるため、ここで別れれば再び合流することは無いだろう。
それを自覚したときに俺に絡みついたのは、焦燥感だったり、何故か喪失感だったり……。
でも、何か彼女を引き止める理由があるわけでもない。
「それじゃ、また来週」
諦めて、そう告げ彼女に背を向けようと―――したところで。
「上月」
矢伊原に呼び止められた。
「え、な、何?」
あまりに予想外の出来事に、反射的に振り向いてしまう。狼狽を露わにしてしまう。ここにきて心音も跳ね上がっているようである。
「折角だし、あんたに聞いておきたいことがあるわ」
「あ、ああ」
……何を聞かれるのだろうか?
「あんたは……私をはじめて見たとき、どう思った?」
「へ、どうって……?」
言われて、必死に思い出そうとする。俺が最初に彼女と会った……というと、転校前日のあの時だろうか。
「そうだな……怖そうだ、とか、取っつきにくいな、とかは……いろいろ思ったけど」
「…………」
一瞬、矢伊原の表情が曇った。しかし、構わず続ける。
「でもやっぱり一番最初は……強そうだ……って思ったかなぁ」
「強そう?」
「そう。威圧感というか何というか……そういうのが、さ」
「…………」
俺の言っていることが理解できない、というような彼女の顔。安心して下さい、俺も自分で言っておいてよく分かりません。
「ま、まぁ。それとちょっと、羨ましいなって思ったりもしたかな」
「……余計に意味が分からない」
「ほら、俺って弱っちぃところあるだろ?」
「それどころか、全部そうよね」
「…………」
容赦情けない指摘を、済んでのところで聞き流す。
「だからさ、矢伊原のそういうところ、俺が欲しいものでもあるってことだよ。漠然と、あんたみたいになりたいなって……それが俺の真っ先な印象」
「……そういえばそういう話だったわね」
「え? 違ったっけ?」
「違わない。違わないわ」
僅かに、取り乱したような反応。
「ただ、そんなふうな言い方されたのは、今まで無かったから……ちょっとわが耳を疑っただけよ」
「え、無いの?」
「当たり前よ。どうも周りには、冷血とか、鬼とか、そんな印象を与えるらしいのよ。中にはあからさまなお世辞で“可愛い”とかなんとかもあったわね。というか、実際に面と向かってそう言われた」
「……嬉しそうじゃないね?」
「当たり前」
みるみるうちに不機嫌な顔になっていく矢伊原。その時のことでも思い出したのだろうか?
「見ず知らずの人間に“可愛い”だの何だの言われたって、気持ちが悪いだけよ。まるでストーカーを相手にしてる気分だったわ。『死んでくれませんか?』と言わなかっただけでも褒めて欲しいくらいね」
「そこまで言いますか、あんた」
「だから、かな……」
そこで再び、顔を伏せる。
何か、辛いことでも思い出したのだろうか?
そう思案し始めたとき、
「何だか、私の人格そのものを褒められた気がして……」
「っ」
言われた瞬間、確かに鼓動が跳ね上がったのを感じた。それは限りなく不意打ちで、未知の感覚だった。
瞬間、ハッと、思わぬ醜態を晒してしまったかのような表情を作る。
「いえ……何でもないわ。これも忘れて頂戴」
「……ああ、分かったよ」
もうはっきり聞こえてしまっているから、どうやって忘れればいいのか甚だ不明だったのだが。とりあえず頷いておく。
「じゃあ、私はこれで。また来週も、しっかりね」
若干急ぎ足で、矢伊原はその場を離れていった。
「あ、ああ……お疲れ」
遠ざかる背中に、かろうじてそれだけ告げられた。
(結局、聞けなかったな……)
俺が聞こうとしたこと。それは、矢伊原の“本当の動機”。
彼女は言った。運命的なものを感じて、と。
でもそれは、はっきりいって身勝手な理由だ。自分の好奇心に無関係の人間を巻き込んでいるといって差し支えない。これじゃあ迫神君が機嫌を悪くするのも頷ける、俺だって、あともうちょっと過酷な内容だったら考えるまでも無く退部していたはずだ。
でも、矢伊原は例え強引なところはあっても無責任な態度は絶対にとらない。そんな人間が、こんな自己中心的な、問答無用で他人を巻き込むような真似をするだろうか。
早い話が、胡散臭い。
俺の考え違いか、あるいは……
(もっと別の理由がある? さっき話したこととは、まったく別の……)
仮にそうなら、彼女は俺にそれを話したくなかったことになる。俺に言いたくないなら、きっと他の人にも言い辛いことなのだろう。
話したくないのは何故だろう。恥ずかしいから? 他人にまでそれを背負わせたくないから? それとも……。
いずれにしても、俺が興味本位で聞いていい事ではない気がする。
(そのうち聞けるといいな)
その瞬間、違和感に襲われる。
(聞けたらいい? 何で?)
彼女の本心に対して、興味を持っているとでも言うのだろうか?
そもそも、さっきも言われたが、知ってどうするというのか?
俺は彼女に対し、何を望んでいるというのだろうか?
(まさか……ね)
その複雑怪奇な疑問に対し、その内、異性相手と聞けば誰でも思いつくような可能性が浮かんだが、首を振って(周囲に誰もいないから堂々と出来る)完膚なきまでに打ち消す。それと決め付けるにはあまりにも性急すぎるし、何よりそれが本当だとしたら来週から話しにくくなる。
「か、帰ろう……うん、そうしよう」
立ち止まっていたら余計なことばかり考えてしまう。
事実、今の俺はそこまで暇ではない。受験生の道を選んだのだ、これからすぐにでも帰って勉強しないといけないのだ。
若干急ぎ足で、自分もまた3年の昇降口へ、今度こそ向かう。
俺達の救済活動は、まだまだ中途半端なまま。
本当に救われるかは、今ではない、ずっと先の話である。
これにて(一旦)終了です。ある程度書き溜められたら、その時に再び投稿します。
ところで……タイトルどうしましょうか?
いや、このままでいいのかもしれませんが、続きといっても形式は新作という形になりますし……。単純に尻尾に「2」とか「続」とかつけるだけなら私も楽でいいのですが……。
いずれにせよ、ここで暫しの閉幕といたします。ここまで読んでくださった皆様方、本当にありがとうございました。