3、病人と墓場 6
建物の外に出ると、またあの声が聞こえた。
マリオを探すため飛び出したのに、ギオはなぜか声が聞こえる方に向かって歩いていた。それこそ、小さな砂鉄の粒が強い磁力に引き寄せられるように。
徐々に大きくなる声。
はっきりしていくにつれて、ますます理解できないものになっていく。
知らない言葉。
だから、天を仰いで声を紡いでいる彼女を見るまで、それが歌だと気づけなかった。
粗末な墓標が密集した中で。
彼女は目を瞑り、異邦の唄を歌っていた。
「――――どうしたの?」
声をかけられ、いつのまにか歌がやんでいたことに気づいた。
「……なんの歌ですか、それ」
「レクイエム」
あえてその問いを無視して聞けば、簡素な答えが返された。
鎮魂曲。
死者に捧げる歌を、彼女は一体誰に捧げているのか。そればかりが気になった。
「誰のために」
「自分のため」
「自分の……?」
「これしか覚えてないから」
微笑と共に放たれた言葉は、ギオの心を正確に撃ち抜いた。
「レインから聞かされたんでしょう? 私には記憶がないって」
「なんで」
そんなこと。
最後まで言い切ろうとするのを、静かな言葉がやんわりと遮る。
「話すって言ってたから」
推測ではなく、当たり前のことをいうアルト。
そして彼女は喋り始めた。
ただの事実だとでもいいたげな淡々さで。
「六年前、私が乗っていた宇宙船はこの星に墜落した。私はまだ幼かったレインに介抱されて一命を取り留めたけど、目が覚めたらなにも覚えていなかった。わかったのは、マリオという自分の名前とこの歌くらい。だからここは、私にとっては終わった場所であると同時に始まった場所。週に一度はここにきて、意味も途切れ途切れにしか覚えていない挽歌を自分のために歌っている。
初めて見たリビングデッドを説明なしに操作できたから、多分記憶を失う前も操縦士だったんだろうなってことはわかった。でも、それはあくまで推測だから断言できないし、整備士しか知らないような専門的なことも体が覚えてるから、多分違うかもしれない。
半年くらいはここにいて、その後『大使団』に保護された。そこで今のファミリーネームをもらって、私はマリオ=R=ノエルという人間になった。記憶を取り戻すために色々やったけど、記憶は戻らないまま。事故のショックが原因だろうって医者には言われて、違う医者には新しい人生をやりなおせばいいと言われた。どの医者にも同じようなことを言われたから、私は記憶を取り戻すことを諦めた。なにをしても戻らないならしても無駄だし、戻ったところでどうすればいいかわからなかったから。
昔の記憶にあまり未練はない。でも、失ってしまったという喪失感は確かにあって、私はそれのせいで眠れなくなった。眠くならないし、隈ができるだけだから支障はないんだけど、やっぱり睡眠は必要みたいだから、週に一度はいつのまにか寝てる。そして起きたら、大抵は胸を傷だらけにして血を流している」
そこで言葉を切り、マリオは片膝を地面につかせた。
白い手袋をはめた左手が杭の一つに触れ、慈しむようにその表面を撫でる。
なにも言えなかった。先刻、墓守の少女と対峙したときと同じ、いやそれ以上に。
陳腐な相槌など打てはしない。無粋な沈黙さえ挟めない。
息を止め、呼吸を忘れ、彼女の話に聞き入るしかなかった。
「眠る回数が昔と比べて減ったから、気づいたら血まみれになっているのも少なくなった。でも、無意識の自分がなにをしたいのか、私は未だによくわからない。ただ、死のうとしているのとは違う気がする。傷は出血するけど致命傷には至らないし、本当に死のうとするなら、胸よりも手首や頚動脈を傷つける。
多分、理由なんてないんだと思う。起きた直後はどうしようもない衝動に駆られて、それから逃れるために自分の体を傷つけて正気を取り戻す。そうしないと、一番大きくて深い傷が開いて、今度こそ私は死んでしまう。それくらいどうしようもない傷痕が、六年前の喪失で確かに残されてしまったから」
クラルテくん。
唇の動きが名を呼んだ。
攻撃を受け続けたギオは瀕死寸前で、そんなことにさえ鼓動が跳ね上がる。彼女が喋るたびに、心地よさを伴う甘美な傷が増えていく。
そして、
「どうしてだろう。君からは同じにおいを感じるよ」
とどめを刺された。
「そういえば、クラルテ君はどうしてここに?」
お墓参り?
的外れな問いを投げかけられ、ギオは頭を振った。
「…………貴方に、用があって」
小さな音でも掻き消されてしまいそうな小声で言いながら、紙袋を持つ手をグイッと突きだした。マリオは小首を傾げ、それでも黙って受け取り中身を覗き見る。
穏やかだった紅い目が、見開いた。
信じられない。
こんなことのために。
そういっている顔には明らかな驚愕が滲んでいて、それを見たギオは、沸騰しそうな頭が良い方向に冷えていくのを感じた。
「……物好きだね」
「それほどでも」
初めて見せられた苦笑に、やや皮肉じみた言葉を返す。
恐怖、躊躇い。渦巻いていたものが全て消え去っている。
あるのは、充足感。怯えも迷いも払拭してしまう、痺れるような感情。
捜し求めていた半身が見つかったようなそれに、心は歓喜で湧き上がる。
たくさんの符合。多くの共通点。
怯えが介入する余地はどこにもない。恐れも後悔も戸惑いも罪悪感も、なんの前触れもなく流れ込んで心を満たしていくこの感情には勝てなかった。
ああ、手を伸ばしたい。
そうすればきっと、手に入る。
欲しい。
傲慢な心が飢えたほうに咆哮を上げ、冷えた頭がまた熱を持つ。
理性があるときに湧き上がれば、ギオは反吐が出るほどの嫌悪感を味わっただろう。しかし今、本能によって追いやられた理性はまともに機能しておらず、怒濤のように押し寄せてきた欲望を抑える術はない。
リミッターを失い、制御不能になった感情。
それに流されるまま、ギオはきょとんとした顔のマリオに手を伸ばそうとし――――、
ぴーっ
ぴーっ
胸元から響いてきた電子音に腰を折られた。
「…………………………………………通信?」
一分以上の沈黙を前に置き、呟く。
我に返ったギオを襲ったのは、欲望と同じく怒濤のように押し寄せてきた自己への嫌悪。反射的に頭を抱えて蹲りたくなったが、自制心を掻き集めてなんとか抑える。
ギオにとっては正当すぎる行為でも、なにも知らないマリオからすれば、それは奇行に他ならない。それに、パイロットスーツの胸元にしまってある通信機が鳴っている以上、非番であろうがなかろうが、どんなに不本意であろうが、それを優先するのが軍人である。
「……もしもし?」
電子音を鳴らす通信機を取り出し、ボタンを押して通話状態にする。ローズグレイの上着に腕を通すマリオを横目に見て、惜しかったなという露骨すぎる気持ちが過ぎった。
自らの頭を、今すぐ叩き割ってやりたい衝動に駆られた。