2、大使 5
狭い通路にいたのは全部で五人。やはり、名前も知らないし顔にも覚えがなかった。
男達はギオが消耗しているのを良いことに、一発目のダメージのせいでうまく動けない体を転がして、腹部や四肢を中心に十分以上は蹴り続けた。抵抗もできない暴力を味わうのは久しぶりだったせいか、最初の方は軽減することもできずまともに食らった。
「けっ…、ざまあみろ……」
興奮で息を切らした一人が小声で罵り、肩を踏みつける。
「大佐の手を叩くなんて真似するから、バチが当たったんだ」
もう一人が忌々しげに言い捨て、胸倉を掴み上げる。
至近距離の瞳は、ギラギラと物騒な光を放つ。宿っているのは紛れもなく怒りで、胸がきりきりと締めつけられるような思いがした。
理不尽な暴力と共に向けられるのはいつも、劣等感と嫉妬と罪悪感。
怒りには慣れていない。
相手が怒っているとわかった瞬間、抵抗しようとする気持ちが殺がれてしまう。
だが、一人の口から出た「大佐」という言葉のせいで無気力はやってこなかった。
大佐。
それは十中八九、マリオ=R=ノエル大使のことだろう。
『私の見た限り、あの人は現代のパイロットの中で最強よ』
昨日のシスターの言葉が過ぎる。
最強という単語は、気安く使ってはいけないものだ。
本当に強いものがそれだけ軽いものに聞こえてしまうし、目の前で強さが実証されてしまったとき、ただの憧れが獰悪的な信奉じみたものになってしまう。
力というものに人は弱い。そして、その弱さを否定するため、人は力を信奉したり欲したりする。数年前までのギオがそうだったように、彼らもまた、最強という名の〝力〟に魅せられたのだろう。だから、ギオが腹立たしくてしょうがないのだろう。
自分達が切望してやまないものを伸ばされ、それを払い除けたギオが。
その気持ちはわかる。顔を見るまでは、ギオも彼女の強さに惹かれていたから。
しかし、いくら彼らの気持ちがわかっても、この状況は許せなかった。
自分は知っている。彼らが抱く身勝手な気持ちを。
だが、彼らは知らない。この世で最も恐れているものに酷似した、白髪の少女が目の前に現れたとき、ギオを襲った途方もない恐怖を。
なにも知らないくせに。
そんな思いを込めて、目の前の男をねめつけた。
代償は腹部への打撃だった。
「ぐ、ぅっ…」
短い呻き声を上げ、咳き込む。その際、口に溜まっていた血が飛沫となって飛び散った。
「お仕置きが足りねえみたいだなあ、ガキ」
言葉と共に、頭がリノリウムの床に押しつけられた。
靴底で頭を踏みつけられ、柔らかい黒髪が捩れるように乱れる。引っ張られるような痛みについ顔を顰めれば、下卑た嘲笑が上から降ってきた。
「ギオちゃんは髪が痛いんでちゅかー?」
わざとらしい幼児語で言い、一人が髪を掴んで顔を上げさせた。
喜ばせるのも癪なので、平然とした顔で笑ってみせる。すぐにまずいと思ったが、その直後にはもう頬が殴られていた。冷たい床と熱を持った頬が触れあう。
今日は本当に馬鹿なことばかりしている。
そう思いながら、憤怒以外のものが彼らの目に隠されていることに気づく。
罪悪感。
粗末な隠蔽を壊せば、怒りの中からそんなものが露わになった。
「…はっ」
鼻で笑い、男達を蔑む。
喧嘩。というより、集団で一人を嬲ることには長けているらしい彼らだが、度胸では昨日絡んできた二人組にさえ劣っているらしい。
嫉妬で振るわれる暴力も低俗だが、無関係な第三者をダシに振るわれる暴力は最低だ。
罪悪感は、自覚ある理不尽さに支払う当然の代価。それすらも疎い、挙句の果てに怒りで暴力の目的を挿げ替え、罪悪感から目を背ける。
ゆるせない。
手を叩き落とした自分を棚に上げ、心から思った。
「…………情けない」
「あぁ!?」
「なんだとこらぁっ!」
ポツリと呟いた言葉に、再び胸倉を掴まれる。
それすらも一笑して、嘲るように嗤った。
「徒党を組んで理由を作らなきゃ、子供一人も満足に殴れない。そんな奴らと同じ隊に所属する自分が、情けなくてしょうがねえよ」
「――――っ!」
図星を突かれ逆上した男の一人が、倒れたままのギオを蹴り始めた。
予想していたので、身構えることはできた。しかし、与えられる攻撃は、想像以上に断続的で容赦がない。必死のそれは黙らせようとする焦燥感に満ち溢れていて、蔑みではなく憐憫が浮かんだ。それがわかったのか、蹴りがさらに苛烈になった。
痛みのせいで、意識が徐々に霞む。男は怒鳴り散らすようになにかを叫んでいるようだったが、まともな言葉はほとんど聞き取れなかった。
おまえなんか、
おまえなんか、
拾い集めた文字でそんな言葉を組み立てた直後、骨の軋む音がした。嫌な感じのする鈍い音は、ギオからではなくギオを蹴っていた男から聞こえた。
見慣れないローズグレイが、視界に入り込んだ。
「た…」
「大佐……?」
信じられないとでもいいたげな声が、男一人を蹴り飛ばした闖入者に向けられる。
声をかけられた白髪の少女はそれを相手にもせず、血が混じった唾液を零すギオを一瞥すると、欠片の微笑も浮かべず男達を見やった。
「なにをしているの」
淡々とした声音に刺し抜かれ、小さな悲鳴が上がる。
「なにをしているの、こんなところで」
咎める響きさえ持たない声音。
冷めてすらいない怒り。
それらは人形じみた無表情に恐ろしいほど映え、逆に恐怖を感じさせた。
彷彿する過去の悪夢、合致する面影。外見しか似ていなかった少女は、今や纏う雰囲気さえ哀しいくらい六年前の悪魔とそっくりだった。
「――――行きなさい」
「は、はぃっ!」
軽く顎をしゃくれば、弾かれたように男達が去っていく。
狭く薄暗い通路に残されたのは、悠然と立つマリオと床に伏したギオ。
マリオは男達が完全に去ったのを見届けると、瞬きをして紅い目を数回隠す。それを繰り返していくうち、ガラス玉のような紅が優しい光を湛えた色に戻った。
「……大丈夫?」
膝をついて伸ばされる右手。
指先が頬に触れる直前、なけなしの力を振り絞ってその手を払い除けた。
あのときと比べると、勢いにも強さにも欠けた動作。だが、後悔するくらい彼女が手を引くには十分すぎて、良心が針に突かれたような痛みを一瞬だけ訴えた。
痛みは一瞬だけだった。後悔も一瞬だけだった。
ガチガチと不愉快な音が、自らの歯根が小刻みにぶつかる音だと気づいた。
怖い。
こわい。
「……………………ごめん」
あやまらないで。
ちかよらないで。
相反する感情がせめぎあい、どろどろとした形で絡みついていく。
視界が滲む。眉間になにかが伝う。体が震える。引き攣った音が喉から溢れる。
きっと今、自分はとても情けない醜態を晒しているのだろう。
そしてその醜態は、目の前の少女を見えない刃で切り刻んでいるのだろう。いつもギオがシスターにされているように、いつもギオがシスターにしているように。
白髪の少女は、ギオが向けてくる恐怖に身に覚えがない。当然だ。だってこれは、彼女ではない者に向けられているもの。本来は、彼女ではない者に向けられるべきもの。
わかっている。
彼女に向けたって意味がないということくらい。
彼女に向けるべき感情ではないということくらい。
でも、
だけど、
(こわいんだ)
彼女はあまりにも、六年前の悪魔と似すぎていて。
次から次へと込み上げてくる恐怖は、どうしようもならなかった。
「軍医を呼んでくるよ」
そういいながら、マリオは礼服の上着をギオにかける。
一瞬逡巡したようだったが、それでもすぐに踵が返された。
響く足音。離れていく希薄な気配。
去っていく彼女は、医務室にいた会って間もない少女だった。
凛としたアルトで喋り、目の下の隈が痛ましく見える、白い髪で紅い目の。
「ごめん、クラルテ君」
ごめんなさい。
マリオの気配が遠ざかった後、ギオは嗚咽を押し殺して泣いた。