2、大使 4
「……ようやく思い出した」
「なにを?」
「組み手の約束」
「あっそ」
ご苦労さん。
そういって、クリスマスは買ったばかりの清涼飲料水を飲んだ。
ペットボトルの中にある半透明の甘い水が一気に半分ほど減るのを見上げ、ハアと小さく溜息を吐く。クリスマスが壁を背に立っているのに対し、ギオは壁を背に座っている。そこに大きな差を感じてしまい、苦々しく眉間に皺を寄せた。
クッション素材で作られた床にごろりと寝転がれば、天井とその角が視界を埋めた。
端々に強く残る痛みと、汗で張りついた服が不快だ。どうして軍服のまま組み手に突入してしまったのかと、数十分前の自分を咎めたい。
だが、それ以上に、動くのも億劫なほど叩きのめされたという事実に腹が立った。
地球軍Ⅴ隊に異動したばかりのころは、色んなことでクリスマスに負けていた。射撃、RBV、組み手。数えるだけでキリがない。当時、誰かに負けることを知らなかったギオにはそれが悔しくてならず、努力や特訓を重ねた結果が現状だ。
劣等感は時に人を強くする。
ある意味、ギオはクリスマスのおかげで成長できたといっても過言ではない。
コテンパンにした理由が理由なので、面と向かって感謝する気はさらさらないが、感謝の気持ちが全くないといえばそれは嘘になる。どんな理由にせよ、傲慢を圧し折ってくれたことに変わりはなかった。
そういった経緯もあってか、クリスマスを超えることはギオの目標でもある。しかし、射撃やRBVで勝つことはあっても、なぜか組み手だけは一度も勝てたためしがない。取っ組み合いでは引き分けるが、本気で喧嘩や勝負をしたら必ず負けるのだ。
いつもクリスマスは、組み手後の飲み物を買いに行く余力を残して勝つ。
そこに勝者の余裕が滲んでいるような気がして、ますます勝とうと躍起になる。それでも勝てない。それが、悔しくてたまらない。
「これでも鍛えてるつもりなんだけどな……」
拳を作ったまま片手を伸ばし、呟くように零す。
耳聡くそれを聞きつけたクリスマスは、口腔に残った甘い水を飲み干すと、キャップをしめてペットボトルを乱暴に放り投げた。床が柔らかいせいか、二人の人間しかいない広い稽古場だというのに音は響かず、ペットボトルはゴロゴロと転がっていった。
寝転がっているので、紅い目には天井しか映らない。
ギオは、音と自分の真横にきた気配で彼の動作を知るしかなかった。
「お前は猪だな」
「なんで」
「猪突猛進。軌道がまっすぐすぎ。次の手が読みやすい」
「……」
「そういう戦い方は、自分より遥かに弱い奴が相手じゃないと通じない」
だから俺はお前に勝てる。
だからお前は俺に負ける。
淡々と指摘され、しかめっ面になるのを感じた。
「勿体ない」
「なにが」
「戦い方さえ覚えれば、お前はきっと俺より強くなる」
なんでこう、組み手が終わった後のクリスマスはやけに達観しているのだろうと。
視界の端に見える金髪を見て、ぼんやりと思う。
「俺を負かすには、攻撃の単純化をどうにかするところから始めないとな。大体、リビングデッド戦ではあれだけ見事な不意打ち・フェイントをかけられるくせに、どうして組み手のときだけわかりやすいんだ」
「……組み手のときだってかけてるぞ、フェイントとか」
「あの寸止めはいいと思うけど、お前の場合はそれがフェイントか否かってのが簡単に見分けられるのが問題だな。素手と戦闘機で、なんでそこまで差が出るのか理解に苦しむ」
「ほっとけ」
言い返しながら、倒していた上体を起こす。
離れた場所のボトルに目をやり、その後に隣のクリスマスを見る。壁に寄りかかりだらしなく手足を投げだす姿と頬を伝う汗に疲労を感じて、小気味よい気分になった。
数ヶ月前までは見られなかった光景だ。
着実に距離を縮めているのがわかる。素直な歓喜が浮かび上がった。あのころは、汗すら流させることもままならなかったのだから。
「なあ」
「なんだ」
「俺、ちょっとは成長してると思う?」
「ノーコメント」
「ずりぃ」
「なんとでもいえ」
そういって立ち上がったクリスマスは、しっかりした足どりでペットボトルを拾いに行く。先刻までの様子が嘘のようで、せっかく浮上していた歓喜が重たい憂鬱に押し潰されていくのを否応なく自覚した。
ミシェルやエディに負けてもさほど悔しくないのに、なぜかクリスマスに負けたときだけ劣等感を覚える。勝ちたい、負けたくない。そう思ってしまう。
『拍子抜けだな。そのていどかよ、スーパールーキー』
異動直後、嘲笑と共にいわれた言葉を思い出す。
今思えば、あの言葉が敗北の苦さを教えてくれたのだ。
「そういやさ」
少しへこんだペットボトルを拾い上げ、クリスマスが問う。
「お前、大使サマとどういう関係なんだ?」
いきなり核心を抉るような言葉を投げかけられ、思考が一瞬真っ白になる。
彼が直接的な言葉を使うときは、曖昧な言葉で逃げるのを許してくれないときだ。それはわかっているが、それでも正直に事実を吐露するのは憚られて。
「……初対面だ」
「お前が白髪恐怖症を患っているなんて初耳だな」
差し障りなく返し、手厳しく切り捨てられた。
「ま、言いたくなけりゃあ別に言わなくてもいいけどよ」
「なら」
聞くな。
反射的にそう言おうとして口を噤む。
叩き落した手。
逃げた自分。
どれだけの人間に気づかれているのかはわからない。だが、少なくとも目の前にいる金髪の男に気づかれていることは確かだと思った。
怯えていたことに。
「――――似てるんだ」
嘆くように、吐きだすように、呟く。
「この世で一番怖いものに」
髪の白さも、長さも。
瞳の形も、紅さも。
まるで、六年経った今でも色褪せない記憶をそのまま具現化したように。
ありえないと否定する理性を押しのけ、恐怖がこびりついた本能が震え上がるほど。
今だって怖い。
中身があれだけ違うと見せつけられた今でも、怖くて怖くてたまらない。
「そっか」
答えに満足したのか、追及すべきでないと判断したのか。どちらか定かではないが、クリスマスはポツリとそういっただけで言及してこなかった。
苦しい。
泡沫のように湧き上がった言葉が、瞬く間に心を満たした。
「俺、部屋に戻る」
「おう」
動くのはまだ億劫だったが、それを押し殺して立ち上がる。
クリスマスは、ペットボトルのキャップを外しながら返事を返した。
「……」
温くなった清涼飲料水を嚥下する音を背に、ドアを通り抜けて稽古場を出る。
空調のおかげで、通路は季節に関係なく適度な室温が保たれている。地球に降りたときは体調を崩しやすいことこの上ないが、運動後の火照った体には非常に心地よい。
心地よさに、思わず目を閉じようとして慌てて自制する。
稽古場の前で目を閉じて涼を採る。その一つ一つは、特筆すべきことではない。だが、それらが融合して一つのことになると、奇行以外の何物でもない。
「…………帰ろ」
溜息混じりに呟き、歩きだす。
部屋に戻ったらシャワーを浴びて、湿布を貼り返る。それから、まだ食べていないオムライスやマカロニサラダを腹に収めた後に、薬を飲んで寝ればいい。
時刻はまだ夕方くらいだろうが、気にしない。
そう思いつつ、重たい体を引きずるように通路を進む。
このとき、周囲に意識を向けられるほど、ギオは余裕のある状態ではなかった。
だから、すぐには気づけなかった。
ねっとりとした粘着質の視線に。
使用頻度が低いため、照明もまともについていない狭い通路から伸びる腕に。
「…!?」
背後に気配を感じ、何気なく振り返ろうととしたギオの口が大きな手に塞がれる。
驚いて抵抗する暇もなく通路へと引きずり込まれ、非難の声を上げる前に腹を思いきり蹴られた。頭よりも、体の方が先に事態を理解した。