さよならオレゴンオパール
潮の香りがする。きっと、海が近いのだろう。僕らは立ち止まって潮風の入口を眺める。
「髪が傷んでしまいそうね。」
長い髪を潮風になびかせ、彼女はそう言った。
「でも、悪い気分じゃないよ。」
僕はそう答える、すると彼女は呆れた顔をして、僕の髪に触れる。
「あなたの髪は短いもの。傷んでも目立たないわ。ねえ、あなたも髪を伸ばしてみたら、女の子なんだから。」
「うーん、でも面倒なんだよな。」
僕らはまた、歩き始めた。
しばらくすると、白い砂と塩水の世界が僕たちを迎え入れた。僕はざくざくと貝殻の混じった砂を踏む。まるでコーンフレークのような音だった。でも、彼女はなかなか白いコーンフレークを踏もうとしない。僕はじれったくて彼女を大きな声で呼ぶ。けれども。
「嫌よ、足が汚れちゃう。」
彼女はほっぺたをブーと膨らませて言った。
「君が来たいって言ったじゃない。ほら、キレイだよ、早くおいでよ。」
僕がそう言っても彼女はこっちに来ようとしない。
「仕方ないお嬢さんだなぁ…ほら、おんぶしてあげる。」
すると彼女はすぐに得意気な顔で
「その言葉を待ってたのよ。」
と言った。
砂浜を歩く。時々、足に緩やかな波がぶつかってきて気持ちがいい。
「なんだか、昔を思い出すわね。」
「昔?」
「初めての出会いを忘れちゃったの?薄情な子ね。ほら、幼稚園の時、足を挫いた私をあなたが家まで送ってくれたじゃない。」
「うーん、覚えているような、ないような。」
彼女はふんっと鼻を鳴らして僕の肩に顔をうずめた。拗ねてしまったようだ。
実のところ僕は彼女に謝らないといけないことがある。
僕は嘘を吐いた。本当はぼんやり覚えている。でも、きっと、プライドの高い彼女の事だから、僕が「覚えているよ。足を挫いたときだね。」なんて言うと、もっと拗ねてしまったことだろう。
なんて面倒な親友だろうか。僕は少し笑い飛ばしたくなった。いや、笑ってしまった。
「なに、笑ってるのよ。」
「いや別に、厄介な人に捕まったなと思ってね。」
僕は海を眺める。彼女もつられるように海を眺めた。
「ねえ、やっぱり自分で歩きたいわ。」
「はいはい。」
やっと彼女がコーンフレークの砂を踏んだ。
ざくざくという感触が癖になったらしく、はしたなく足踏みをした。
「こらこら、はしたないよ。立派なレディが。」
「あら?男女に言われたくないわね。」
「言うね。」
僕らは、はしたなく大声で笑う。なんとなく幸せだと感じた。
笑い疲れたのか、彼女は砂浜に座りこむ。
僕も、彼女に合わせて座りこむ。
「私ね、生まれ変わったら魚になりたい。」
と彼女が急に突飛なことを言った。
「君が?無理だね。シャチかなんかに食べられて死んでしまうのがオチさ。」
「失礼ね。」
彼女は近くに落ちていた貝殻を弄りながら、話を続けた。
「違うの、魚じゃなくてもいいの。泡でもいい。海に住めたらなんでもいいわ。海に包まれていたいのよ。」
なんとなく、彼女の顔を覗きこむ。いつもの冗談だと思った。でも、違った。真っ直ぐな瞳であった。僕は初めて、彼女が誰かわからなくなった。そして、彼女がこうなった理由を僕は知っていた。
「…君が泡になるのは嫌だなぁ、僕は。泡はおんぶできないもの。」
何を言えばいいのかわからなくて、僕が今、何を言ったのかもわからなくなった。彼女はそんな僕の複雑な心情を理解したらしくふっ…と笑った。
そして、彼女はまた、ぽつぽつと話し出す。
「…オレゴンオパールって知ってる?」
「なんだい?それ。」
彼女は自分の膝におでこをあてて、少しため息をついた。
「宝石よ。とってもキレイなの。海を閉じ込めたみたいで。あなたみたいな宝石なのよ。」
「僕かい?」
「ええ、あなたよ。あなたは海を閉じ込めたみたいな女の子。ずっと昔から。だから、私は海に包まれていたいの。」
彼女が紡ぐ言葉はまるで、愛の告白だった。
僕が男の子だったら、きっと顔をお日様みたいに熱くしているだろう。
「もしも、君が海に包まれてしまったら、溺れて死んでしまうよ。僕は君を殺したくなんてないよ。」
「いいのよ。死んだっていいの。だって、もうすぐあなたは海じゃなくて、お姫様になっちゃうもの。その前に、海に包まれてしまいたいの。」
-本当に彼と結婚しちゃうの?
と彼女が言った。
彼、というのは僕らの高校時代からの友人だ。そして、僕の恋人であった。彼女の言った通りもうすぐ僕は彼の妻になる。
「…うん。」
「そう。…私ね、あなたは誰の物にもならないと思ってた。ずっと私のわがままを聞いてくれると思ってた。でも、止めにしなくちゃね。あなたの旦那様に怒られてしまうわ。これから、あなたは彼のわがままを叶えてあげないといけないもの。」
ぷかりぷかり、彼女の瞳に泡が浮かぶ。彼女の小鳥のような声は掠れて砂に消える。
…もう、陽が傾き始めていた。浮かんだ泡は太陽の色になった。
「彼にいじめられたら、私に言ってね。懲らしめてやるんだから。」
「はははっ、彼はそんな人じゃないよ。君も知っているじゃない。」
「それもそうね。」
彼女は目を赤くしながら笑った。
…本当は彼女の気持ちを僕はずっと前から知っていた。知っていて知らないふりをしていた。僕にとって、彼女は大好きな、世界一の親友だったから。
でも、彼女にとっての僕は違ったのだ。
僕は彼女を…泡にした。
「さよなら、私のオレゴンオパール。」
僕は泡沫の言葉に蓋をした。
そしてその時、彼女の海は死んだのだ。
おわり
読んでくださってありがとうございました。