①
仕事終わりの一コマ ①
新たな朝を告げる陽射しに、揺らぐ水面がきらめきだした。
こんな爽やかな描写なのに申し訳ないが、実際は常人には嫌悪の対象でしかない光景しか広がっていない。
「……しかし、本当に誰も自分の事を知らない世界で0からやり直すなんて事が可能か?」
こんな世界系の代名詞的な台詞から始まっているのに申し訳ないが、細い水路を揺られる小船の上で口を開いたこの男には常人には嫌悪の対象でしかない気持ち悪さしかない。
その声は誰かの返事など端から期待していないようで、男はバカバカしいとでも言うかのように鼻で笑ってしまう。
「誰にも頼らず、誰にも知られず――それがそもそも難しいが、仮にそれに成功したとして、そこで何をやり直すんだ? 自分というものはそれほど簡単に変えられるものではないだろう。新たな土地で新たな自分を形成出来るのだとしたら、それは今居る場所では不可能なことなのか?」
水路は水中からそのままそびえるように立つ建物の隙間を縫う様にはしり、煉瓦造りの壁にぶつかる度に小船はその方向を変え、男を街の外へ外へと運ぶ。
「そんな覚悟と勇気があるのなら、そこでやればいいじゃないか!?」
男の声はそれを聴いた者なら十中八九怒っていると判断するようなものだった。
この景色を切り取って一枚の絵画としてみたのなら、それを見た多くのものは、あぁ彼は悲しいのだなという感想を持つだろう。ただ、そんな事をすれば、悲しんでいる云々の前にそれとは別の感情を彼に持ってしまうであろう事も確かだが――。
男はなおも大きな声で続ける。
「いつもそうだ! 私はなんて下衆野郎なんだ! いや、野郎などと人を表す単語を使うのも躊躇われる下衆だ! いやいや、下衆の衆がすでに人を表してるから下だな! 下下下の下だ! こんな上品な水路を揺られるのも似つかわしくない! 下水道で十分じゃないか! だって私は下だもの……ん、ゲダモノ……獣? そうかもしれん……人間ではない動物なのだから獣だな! あぁ、もう嫌だ。こんな仕事したくない。働きたくない……そもそもどうして私がこんな仕事をしなければならない? 神様どうか……あ、だめだ。人間でもないのに神に救いを求めるなんて……では、どうすれば良い? 神に祈る事すら叶わぬ私は……どうすれば良いのだ!?」
男の声は周囲の壁に反射し辺りに響き渡ったが、家々から水路を覗き見る者はいない。
閑散とした街の雰囲気が男の表情を一層暗くさせる。
「……なぁ、どうすればいい?」
それは男以外に誰もいない小船の上で、明確に誰かの返事を期待したトーンで響く。
すると、誰もいないはずの船上で音がした。
「誰もアンタを知らない世界にでも行ってみれば?」
人の言葉のようなその音は男の胸元からする。
「それが有益かどうかなんてアンタがその身をもって試してみればいいじゃない」
男の胸に抱かれた人形は人間で言えば面倒臭そうにそう発した。
「そんな覚悟や勇気は私にはない」
人形相手に男はその行為がさも当然のように会話を続ける。
「それに私は人生をやり直したいなどとは思っていないのだよ、ミゼリー。この仕事をどうにか辞める術はないかということを君に聞いただけなんだ」
成人男性が少女趣味全開な人形をミゼリーと呼び、胸に抱いたそれに話しかける。
どの時代のどのような世界であろうと気味の悪い光景であろう。
だが、男にはまったくそれを気にする様子がない。
「私の仕事は本当にこの世の中に必要な事なのかい? 私にはそう思えないんだよ。今回だってもっと早く私が仕事から逸脱すれば結果は変わったはずなんだ。それをこの肩書きのせいで全てを手遅れにせざるを得なかった。そうだろ?」
「そうかもね」
ミゼリーと呼ばれた人形は一定の口の開閉で綺麗にその五文字を発音した。
「だろ? だったら、やっぱりこのままどこかに消えてしまうの――」
「でも、アンタはいつもそう言ってはあの地下の史料室に戻るんだ。そして、次の下衆な仕事に手をつける。英雄にも、英雄未満にもなれないアンタにはお似合いなのさ。その肩書きがね」
人形は男の手から逃れ、振り向くと目を光らせながらカパカパと嗤うように口を動かした。
「……まぁ、それも解ってるからこそ、たまには愚痴も吐きたくなるんだよ。こんな時、貞淑なレディーは優しく慰めてくれるものじゃないかな。そんな気味の悪い動きはせっかく精巧に造られているのにもったいないよ」
男は人形の頬を撫でる。
頬は何で出来ているのか解らないが、人肌に近い温もりと手触りを男に伝えた。
「次は悲しみのない仕事に当たるといいな」
「アンタの仕事に、悲しみのない仕事なんかないよ」
「だろうね。歓喜とともに終わる時は――」
「――失敗だ」
小船は一人と一体を乗せて流れていく。
清々しいはずの陽光の下、気味の悪い一人と一体が流れていく。
内務省国家安全保全局監査室 file
『ウォルター=ハップスのスターシステム』
1
膨張していく人口と増長していく欲求により、化石燃料は枯渇した
人々は知識を集め抵抗したが、それは人類同士の争いへと発展し
前時代は終わりを迎える
流れる月日は積み上げた知識を砂塵へと返した
ある種のものは秘匿されたまま忘却され
ある種のものは意図的に放棄されたまま眠らされた
――結果
人類は前時代で言うところの
産業革命以前の文明レベルへと衰退した
(現世界の風景)
1
フランク=シュタイナーは次官補に渡されたファイルを脇に抱え、仕事場である地下の史料室に入る。
「おや、充電中だったのかい。失礼したね」
壁の高い位置に取り付けられた部屋にある唯一の窓から、人形のミゼリーが目を大きく見開き、口はだらしなくポカンと開いて陽を浴びていた。
陽を遮らないように部屋を横切る。
上司に渡されたファイルを机の上へと放り投げ、代わりに置かれていた新聞を手に取る。
数紙ある全ての一面にだけ目を通すと、それも無造作に机に置き椅子に座った。
「……しかし、いつもながらに不気味な光景だね。言っちゃ悪いがミゼリー――君のその表情ったら本当に酷いもんだよ。どういう仕組みだかわからないけど、そうやって君が光を動力に変える姿はおぞましいとも言える。前時代の遺物たる君には私達が受ける印象なんてのはどうでも良いんだろうけどね」
そのまま見つめていると、雲が太陽を隠してしまったのか、窓からの陽光が途絶えた。
ミゼリーの眼球といえるものが縦に二回転する。
「……そのおぞましいとも言える人形の触ってはいけない場所にある、触ってはいけないスイッチを押してしまったのはアンタだろう、フランキー」
覚醒したミゼリーはよちよちと机へ向かってくる。
「どうしてソコに触れてしまったのかねぇ。魔が差したとでも言うかい? だが、ソコに興味を持ってしまったこと、それ自体が異常だとは思わないかい? いくら私の肌の質感が人間に近いものであったとしても私は人形だよ? 人として、ソコに触れちゃいけないだろう、フランキー」
ミゼリーが机の側まで来ると、フランクは彼女(?)を抱きかかえ机の上に座らせる。
「どうもその節はすまないね。だが、私が君の言う異常性愛者でなければ君は今も眠りについたままだと言う事を忘れて欲しくはないね」
「目覚めた事に感謝などした覚えは一度としてないが?」
「私だって君を目覚めさせてしまった事を非常に後悔しているよ。君さえいなければ、こんな隔離された史料室に一人ぼっちで勤めることなんてなかったんだから。私は一介の公務員として、マニュアル通りに決まりきった仕事を九時―五時でこなし、家に帰って趣味に没頭するという暮らしを望んでいたんだがね」
「趣味とは何かね?」
ミゼリーはまったく興味のなさそうな口調で訊ね、机の上に広がった新聞に目をやる。
「例えば楽器。私はね、幼い頃からバイオリンが弾けたらよいなと思っていたんだ。だが、バイオリンは庶民が習うには少し敷居が高い。だから、こうやって大人になった今、高くはないが、安くもない給料を得て始めてみようかと思っていたんだ」
「何のために?」
「何のためというか……格好いいだろう? バイオリンが弾けたら」
「他には?」
ミゼリーは次の新聞へと目をうつす。
「例えば勉強。失われた前時代の歴史について学びたいと思っていたんだ。これは別に君を発見したからじゃない。むしろ私にそういう興味があったからこそ君を発見させたんだ」
「……ソウイウキョウミ……?」
ミゼリーの口がカタカタと上下に動く。
「君はどうしてすぐに……君を造った変態野郎の思考回路がそのまま移植されてしまっているんじゃないのか?」
「作品が製作者の影響を受けないなんて事がありえるのかね?」
ミゼリーは広げられていた新聞を綺麗にたたみ、その下に隠れていた封筒を拾い上げる。
「さて、無益な雑談はやめて仕事の話に入ろうか、フランキー」
封筒で頬を叩かれたフランクはあからさまな嫌悪を示した。
「どんなに下衆な仕事だろうと、それがアンタの仕事なのだからさっさと取り掛かろうじゃないか。そんな顔をせず、楽しくとは言わないまでも事務的に――公務員なのだから」
まったく心のこもっていないミゼリーの笑顔(そもそも心があるのか謎だが)とともに封筒を渡されたフランクは、いつものようにペーパーナイフを使って開封した。
そこには名前、あれば似顔絵、略歴、そして備考の書かれた資料が入っている。
それは月の初めに直属の上司である内務省次官補から、内務省国家安全保全局監査室室長のフランク=シュタイナーへと渡されるもので、月によってまちまちであるが、だいたい3~5人分の資料が入っている。
「一人目から順に見ていくかい?」
「アイツの本命はいつだって最後の一枚だけど……まぁ、選ぶのはアンタだ。こんなものに当たりも外れもないからね」
片眉を歪ませながらフランクは取り出した資料の一枚目を読み上げる。
「サヴォエ=クラスター。ソシエド郡出身。ニハト湖畔周辺での呼び名は聖クラスター……三ヶ月前に湖の上を歩く姿を発見され、それからそう呼ばれるようになったらしい。ちなみに本人は法王庁所属の司教でもなければ司祭でもない……フッ」
「何を噴いておる?」
「なんでも幼い頃に両親に捨てられ狼に育てられたらしい。人の言葉を理解出来ないと書いてある。だが、人に合った薬草を煎じることは出来るらしい。むちゃくちゃな設定だな……見た目は……いかにも魔女と言った感じだ」
フランクは馬鹿馬鹿しいとでもいうように笑いながらミゼリーにもその資料を見せてやろうとするが、ミゼリーは片手を上げそれを制す。
「ふむ……局側からすれば、すでに状況が出来上がっていることが問題なのだろうな……」
「国家安全保全局もこんなペテン師を相手にしなきゃならないなんて同情を禁じえないな」
フランクは言葉とは裏腹にさも楽しそうにしている。
「ペテンかどうかなど問題ではない。周りの人間がそう信じて英雄扱いしているのが問題なのだろう。アンタの仕事だってそうだ。聖クラスターとやらが英雄かどうかは問題じゃない」
ミゼリーの言葉にフランクは表情を曇らせる。
「……考えられる処置は?」
「まずは奇跡が本物かどうかの調査。それから本人が本物、偽者に拘らず金品をそれによって受け取っていたならば詐欺罪、もしくはそれによって民衆の扇動しようとしたならば騒乱罪も考えられるだろう。さらに本物だった場合……一生法王庁の監視下に置かれるだろうな」
フランクは苦虫を噛み潰したような表情でミゼリーの後を引き継ぐ。
「問題は調査の過程で執拗な拷問が行われないか……か」
フランクは似顔絵でしかわからぬサヴォエ=クラスターと担当のわからない国家安全保全局員の姿を想像する。
しかし、調査される側も調査する側も顔がわからなくては想像のしようがなく、自分の職務について呪うことしか出来なかった。
内務省国家安全保全局とはその名の通り国家の安全を保全するための局である。局員は国家の安全を脅かす政治犯を調査・監視・検挙を担う。そして、フランク=シュタイナーの所属する内務省国家安全保全局監査室はその局員達を調査・監視し、懲罰を与える役割を担っている。
つまり、世界を変えてしまう未来の英雄となる可能性持つ者を摘む下衆野郎、それを監視する下衆――それがフランク=シュタイナーなのだ。
重要な事は、彼の職務が、未来の英雄候補が局員の強引な調査によって摘まれることを防ぐといった類のものではないと言う事だ。彼は局員のやり方についてのみ懲罰する権限を与えられており、当の政治犯については言及する立場にない。
「まぁ、そんなに難しい顔をすることもないだろう。実際水の上を歩けるからといってそれだけで世界が変えられるわけじゃない。聖クラスターとやらもちょっとした悪戯心だろうさ」
「そう言い切れるかい、ミゼリー」
「本気で英雄になろうとするような奴が狼に育てられたなんて吹聴するかい? ついて行きたくないだろう、そんな人語も解せぬ英雄には? おそらく色んな国を廻って三ヶ月前にこの国に辿り着いたのさ。ただの薬売りで客を掴むために奇跡を演じて見せる。きっと簡単に口を割って国外追放、また別の国で同じ事を繰り返すだけさ」
フランクにはミゼリーが片目を瞑って笑ったように見えた。
「なるほど……しかし、ミゼリー。なぜ君の瞳はそんなにも表情豊かなのに、口は上下にしか動かないんだろうね。普通そうやって笑うときには口も吊り上げるものだよ」
「残念ながら、普通の人間ではないのでね。必要のない機能はついていない」
フランクはミゼリーの言葉を聴きながら次の資料へといく。
「ウィガン=ヴィッテンハイム伯爵。バーデンの貴族様だ。先祖代々伝わる古城を一般に公開している。見物料は取っているが、その全てを医療福祉団体に寄付しているみたいだな。バーデンとその周辺には彼の寄付によって運営されている病院が五つはあり、孤児院も十三施設あるらしい。バーデンの父と呼ばれているんだと」
「善良な貴族だな」
「まったくだ……調査対象をここまで広げていたら、そのうち迂闊に落し物も拾えなくなるぞ」
フランクはミゼリーに資料を渡す。
今度はミゼリーもそれを受け取り資料に目を通す。
「……善意も悪意も局側から見れば等価ということだよ……秩序を乱す可能性を根こそぎ刈る。それだけの事だ。一度政変が起こってしまえば今度は逆の立場に追いやられるからな。局員も必死になるさ。まぁ、とは言っても、今回は相手が伯爵様だ。局員も無茶な調査は行わないだろう。場所も人口の少ない古いだけが取り柄の地方都市だし」
ミゼリーは資料を返す。
「……気になるな……」
フランクはもう一度資料に目をやり、言葉を続ける。
「……バーデンと言えば人口一万五千程度の城壁に囲まれた都市だ。周辺地域の人口をあわせても三万にも満たないだろう? そこに十三もの孤児院が必要かい? 伝統を重んじ観光産業で潤う地域にどうしてそんなに孤児が溢れているんだ?」
フランクの問いにミゼリーは爪を噛む仕種をして答える。
もちろんミゼリーに爪など生えてはいないのだが。
「……つまりアンタはこう言いたいのかい。伯爵はどこからか――考えられるのは観光客の子ども、もしくは地域住人の子ども、まぁ、前者だろうな。それを集めて孤児院に入れ、何か良からぬ事を考えているのではないかと」
「そう。一度バーデンで観光客の子どもが行方不明になっていないか調べる必要があると思うんだ。子どもを集めて何をしようとしているかはわからないが、きっと――」
「それは国家安全保全局員の仕事でアンタの仕事じゃないね」
ミゼリーはフランクの言葉を遮った。
「だが、もしこんな事実があるとしたら、局員の伯爵に対しての調査が行き過ぎる可能性があるとは考えられないかい?」
「相手は由緒正しき伯爵様だよ? さっきのどこの馬の骨とも分からない魔女とは違うんだ。アンタの言うとおりだったとしても、表向きは穏便にすますさ。突然、伯爵に何かあったとなれば、その恩恵を受けているバーデンの住人が黙っちゃいないだろう。局の唯一の目的は秩序を保つことなのに、自らそれを乱してどうする」
ミゼリーの言う事はもっともだったが、何かしら事件の匂いを嗅ぎつけているのに自分では行動できないばかりか、誰にも報告する立場にないことを恨めしく思ってしまう。
「公務員なのだから、与えられた仕事だけしていればいいのだよ、フランキー」
と、慰めにもならない皮肉を言われても、当然すっきりしない。
「そうやって落ち込む顔を見るのは好きだが、仕事に差し障るのは具合が悪い……よし、わかった。少し休憩にしようじゃないか、フランキー。どうせ次の資料で最後だろう? もう今回の調査対象もその一枚に決まったようなものだし、お茶を淹れてやろう。机から降ろしてくれ」
ミゼリーが両手を前に出すので、抱きかかえて降ろしてやる。
「すまぬな。次はお湯を沸かしてくれると嬉しい。そして、お湯が沸けたらポットに茶葉を入れて――お湯が沸ける前に準備してはダメだぞ。お湯が沸けたとしても少し冷まさなければ美味しいお茶は淹れられないからな。お湯が沸けるまではのんびりしていろ。そして茶葉にお湯を浸した後は一度カップに注いでそれをまたポットに戻すのだ。分かったな? それから少し蒸らしも必要だ。間違ってもお湯を入れてポットをフリフリなんてしてはダメだ。という一連の作業を全てやってくれると大層嬉しい」
「つまり、私が全部やるんだね、ミゼリー」
「その顔だ、フランキー。いい顔をしているぞ」
*****
古い紙が放つ少しかび臭いような特有の匂いが充満していた史料室に、アップルティーの香が申し訳なさそうにその存在を主張する。
フランクはカップを口に運びながら部屋の九割を占める史料たちを眺める。
もともと国家安全保全局に監査室という部署はなかった。
しかし、内務省の権益が分割縮小される中で、相対して軍部や法王庁の力が強くなり、局内の自浄組織の設立を求める圧力がかけられたため、仕方なく監査室が置かれた。
当然のようにこの内部告発組織は局内で歓迎されなかったため、歴代の政治犯の史料室を名前だけ監査室にしようと言う事で発足させ、当初人員の配置はされなかった。
そして、現在に至っても組織図の端にひっそりと書かれているこの部署に人員が配置されている事などは、次官補級以上の者と配置された当人しか知らない。
「では、フランキー。気持ちも落ち着けたことだし今回の仕事の資料に目を通そうか」
ミゼリーがティーカップをボツになった二枚のファイルの上に置く。
下唇からカップの外側を伝わって零れたアップルティーが、ファイルを赤茶色に染めていく。
「無駄にリアリティーを求めた質感なのに、君は本当に飲むという行為が下手だね」
フランクはミゼリーの顎を拭いてやる。
「製作者には不要な機能だったんだろう。それか……このように少々多めに垂らすのがお好みだったか……」
されるがままに顎を拭われ、ミゼリーは片目を閉じる。
「起動される前の記憶はないのかい?」
「記憶? 記憶という言葉を充てるのは正確ではないな。私は人間ではないのだから。以前の記録は消去されているだけだ」
フランクはミゼリーのこのような言い回しが好きではなかったが、ソレはそういうものだから仕方ないと諦めてもいた。
なので、特に言い返すこともせず封筒から最後のファイルを取り出す。
が、半分程引き抜いてそれを封筒に戻してしまった。
「どうした? 知り合いの顔でも載っていたか?」
「いや……」
深い溜息をつき、フランクは既に飲みきってしまっていたカップにもう一度口をつける。
「どれ貸してみろ。アンタの直視したくないものをこのミゼリー様が確かめてやろうじゃないか……」
机から一人で降りられなかったのが不思議なくらい素早い腕の動きで、ミゼリーはフランクからファイルを奪い取る。
「ふむ……ウォルター=ハップス……ヴェネトロス……以上。どう考えても最初からこれを選ばせる気だったね、アイツは。この黒く塗りつぶされているのはなんだと考える、フランキー?」
「略歴やら何やらが書かれていたんだろうね」
うんざりした表情と声色でフランクは答えた。
「ふむ……その通りだ。では、なぜ黒塗りにされている?」
「知られてはならない素性、もしくは局側が調べられなかったことを隠すために何も書けない箇所を黒塗りにして誤魔化した。あとは……次官補殿の悪戯かな……」
「あいつは何か言っていたか?」
「特には……あぁ、新聞がどうのこうのと言っていたかな……」
ミゼリーは机の端に畳んだ新聞に目を移す。
「確かにここ数日、どの新聞もヴェネトロスが一面だったが――それこそアンタの仕事とは無関係なような気がするな……」
フランクは新聞を見もせず吐き捨てる。
「あぁ。全く嫌だね、省庁間の争いに巻き込まれるのは。同じ公務員なんだからみんな仲良くすればいいのに……いや、仲良くしなくてもいいよ。ただ淡々と業務をこなしてくれれば」
「争うこと自体を楽しむ人間もいると言う事さ」
フランクは頬杖をつき溜息を洩らす。
ここ数日、新聞の一面を賑わかせてしたのは、とある二人の婚約記事であった。
水上に建てられた商業都市ヴェネトロスの商工会長の一人娘と、次期法王庁幹部候補の男が婚約するらしい。『らしい』というのは未だに正式発表がなされていないためであり、しかし、連日に渡り報道されるのはそれが確定的事実である事を知らしめてもいた。
商工会長とはいえ、ヴェネトロスに於いては市長よりも実質的権力を行使する立場にあり、それが法王庁と結びつくとなれば、ヴェネトロスは宗教的支配をも受ける事になり、無神論者である生粋のヴェネトリアン(ヴェネトロス出身者をそう呼ぶ)達は大反対の立場にあった。
しかし、ヴェネトリアン以外の商人達は、法王庁が利権を主張してくることにより、何かしらの商機をそこに見出そうとしていた。
しかも、そのような商人達の後ろ盾になっているのは、法王庁の権益増大を阻止しようとする軍部や内務省であるという全く見当違いな記事まで一面に踊っていた。
そのためヴェネトロスでは、婚約に賛成するデモと反対するデモとが連日衝突していた。
「……まぁしかし、あれだね……省庁間の利権争いは置いておいても、当人同士はどうなのかね? 昔馴染みだの、一大ロマンスの果てだの、スキャンダラスな言葉を並べてみても、それを流しているのは全部法王庁よりの新聞だし、結局は政略結婚って事なんだろう? まだ十七か十八くらいなのに可哀想に……」
結婚する当人達をさほど心配しているような素振りを見せずに、フランクは投げやりにミゼリーへ問いかける。
「物事には当人の意思とは関係なく決まる事の方が多いのだよ、フランキー。アンタが嫌々ここで働いているようにね。それを打ち破れるのは英雄だけさ。壁を突破した英雄だけが、自分の意思を世界に反映できる」
そう言われてはフランクも返す言葉がなく、背もたれに身体を預け新聞に載った白黒の写真をぼんやりと眺めるしかなかった。
「……ウォルター=ハップスねぇ……どうやって探そうか? 与えられた情報はヴェネトロスだけ。当然そこに行くしかないんだろうけど、あんなに人の多い場所で見つけられるかな?」
「英雄なんてのは自ずと匂い立ってしまうものさ。あとはそれに誘われた虫である局員を見つけるだけ。いつも通りの簡単な仕事さ。クールに行こう」
「クールに行けた例がないのだがね……局員の方はどれくらいの情報を持っているんだろうね。こちらは何をしようとしているかわからない英雄候補を追いかけ、それを監視している調査員に気付かれずその相手を見つけ出さなきゃならない。どうしたって後手に回ってしまう。次官補殿も担当局員くらい教えてくれれば手間が三分の一くらいには省けるのに」
「そうもいかないさ。アンタの存在なんか無いに等しいのだからね。秘密警察たる局員の情報をそう簡単洩らすわけにはいかない。相手は一般的に知られてはいけない存在で、アンタはその知られてはいけない存在に知られてはいけない存在なのだから」
「つまり、実際はいなくても誰も気付かないってことだろう?」
「そう言う事だ。だが、いなければ困る人もいるかもしれない」
元も子もないことを言うフランクの肩を、ミゼリーはポンポンと叩く。
フランクは軽く目を閉じた後、背もたれの反動を使って勢いよく立ち上がる。
「まぁ、ああだこうだ言ったところでやらなきゃバイオリンも習いに行けない」
「そう言う事だ」
ミゼリーを抱き上げドアへと向かう。
「お金さえあれば困らないだろう? 何か他に持って行くべきものはあるかい?」
それにミゼリーは机を指して答える。
「ティーカップをちゃんと洗ってからでなければ、染みができてしまうよ?」
振り返ると史料室全体が視界に収まった。
フランクは心の中で呟いた。
(願わくは、ウォルター=ハップスという名のファイルがここに並びませんように……)
2
ブルームランド西部にある水上都市ヴェネトロスは水の都とも呼ばれている。
その路地の八割は水路で出来ており、人々は小型櫂船で移動を行う。
陸路もあるがそれらは建物間を繋ぎ、船舶の往来を邪魔しないように多重高層となっているため、ある目的地を目指しても迂回に迂回を重ねなければならず、ヴェネトリアン以外の人々はまず使わなかった。
「一応、港には着いたわけだが、ミゼリー。舟から降りて、また舟に乗るとは不思議な感覚だね。これほどの人間がこれだけ船賃を落としていけば、それだけで商業都市として大成功じゃないか。金が集まるから人も集まるし、人が集まるからまた金も集まる……しかし、そもそもヴェネトロスが陸地にあったのならこんな金の回り方しないのにとも思うがね」
フランクは人でごった返す小型櫂船乗り場で並びながら、不機嫌そうに、だが小さな声で胸に抱いたミゼリーに話しかける。
「任務先の一般常識くらいは身につけておくべきだよ、フランキー。ここは元々外敵から身を守るために何もない河口の浅瀬に人々が集まってつくったんだ。それから何世紀もかけ、人々が住みやすく工夫を重ね今の形になった。陸地にあったならばという仮定は前提を覆すことになり、そんなものは成り立たないというわけだ」
「私が無知蒙昧な輩であろうと、不便なものを不便だという自由くらいは欲しいね」
小型櫂船は間断なく港に降り立った人々を市街へと運ぶが、それでも捌ききれない程に港へは大型帆船が新たな人々を降ろしていく。
望むと望まざるに関わらず押し合い圧し合いされる人々が、広いとは言えない港にひしめき合う。
「おい、フランキー。そんな顔をするんじゃない。ただでさえ不気味な出で立ちなのに、これ以上目立ってどうするんだ?」
「どんな出で立ちだろうと、こんなに人が多くちゃ顔から下なんて見えないだろう? ……こんな事なら商人用の港から入ればよかった。あっちならこんな目に遭うこともなかっただろうに……」
フランクの深い溜息がミゼリーの前髪を揺らす。
ミゼリーは何か汚いものを振り払うように顔を横へ振る。
「そうでもありませんよ、同志よ」
突然、後ろからそう声を掛けられた。
フランクは不自由な身体を顔だけ何とか反転させる。
すぐ後ろにはシルクハットを被り、細い口髭の先がくるりと巻いた男がいた。
男は眉をしかめ、続ける。
「商人用の港は入港料が高いですし、そもそも個人契約小型櫂船がなければ市街へと向かえず、港に足止めされていましたよ。あ、いや、突然話しかけてしまい申し訳ありません。つい気になってしまって――」
男はフランクの肩越しに胸元を覗き込んできて、さらに続ける。
「――随分と精巧な人形ですね。私も様々な場所へ足を運んでいますが、これ程のモノはお目にかかった事がない。腹話術ですか?」
「え、えぇ……あなたは?」
顔がぶつかりそうな距離だったため、フランクは男から目を逸らし、前を向いて聞き返した。
「私はほら――」
視界の端にステッキらしきものが伸びてきたかと思うと、その先端から花束が飛び出した。
見事なものであったが、それは周りの者にとって迷惑でしかなかった。
ステッキはすぐに引っ込んだため、周囲の厳しい視線がフランクに向かう。
なので、フランクは大げさに振り返りながら反応してみせる。
「い、いやぁ! すごいですねぇ! こんな窮屈な場所で手際よく――」
しかし、振り向いたフランクの視線の先に男はいなかった。
「――消えた……?」
フランクはゆっくりと向き直ってミゼリーを見る。
「消えたんじゃない。逃げたのさ。アンタが邪魔で見えなかったけどね」
「……逃げた? 腕一本動かすのがやっとな場所で?」
「モノを隠したり出したりするのはお手の物なんだろう、手品師って奴は」
フランクは周囲を見渡して男の影を探す。
だが、どこにもシルクハット姿の男はいなかった。
変わりにフランクの視界に入ってきたのは、怒りを露にした人々の表情だった。
「あんた何この状況で腹話術なんかやってんだ!?」
「いきなり花束なんか投げて、危ないじゃないか!?」
「ママ、あの人なんでお人形さん抱いてるの?」
「……見ちゃいけません!」
舟の順番が来るまでの間、フランクは白い目と罵声に文字通り包まれ過ごした。
*****
ヴェネトロスにあるいくつかある広場の一つで港から最寄りの〝海神広場〟へと到着したフランク達は、そこで情報を集めることにした。
「……まったく着いて早々酷い目に遭った……」
「まだ言っているのかい、フランキー。それは小型櫂船の上で聞き飽きたよ。こうやって人が集まればいろんな人間がいるものさ。そんなに気にすることはないよ。そんなことより、情報を集めると言ってもどうするつもりだい? 手当たり次第に聞いて回ると相手にこちらの存在を気付かれてしまうよ?」
海神広場は海産物の卸売市場で客もほとんどヴェネトリアンであった。
他の広場とは違い浮かれた賑わいは無いものの、商人達の活気は十分に辺りに満ちていた。
「名前しかわからないのだから、ここで聞いて回るのが一番じゃないか? それに向こうから接触してきてくれるならそれに越した事はない。私はほら、この通り腹話術師なんだから」
「だったら、海神広場でなく太陽広場で聞き込めばいいじゃないか。あっちの方が人も集まっているし、アンタの存在が浮くこともない」
「あのね、浮いているのは私ではなく君なんだよ、ミゼリー。それにあんなところに行ったら今度はどんな大道芸人が出てくるかわからないじゃないか。さっきは花束で済んだけど、耳元で火でも噴かれた日には、私も君もただじゃ済まないよ?」
フランク達は並ぶ商店を物色しながら話の聞けそうな人間を探す。
しかし、人々は忙しなく動いているため、なかなか機会を見つけられない。
「新聞報道だと街全体が混沌に陥っているように書かれていたけど、意外と普通に生活しているんだね」
「政治的関心事項と肉体的欲求は別物だろうさ。アンタは二十四時間何かに熱中出来るのかい? それに腹が減ってはなんとやらとも言うだろう?」
歩いていると売り子に商品を勧められたり、買い付けにきた料理人に自分の店での食事を薦められたりはするが、こちらの目的を叶えてくれるほど暇そうではないため、フランクは愛想笑いを浮かべ左右と上下に首を動かしながらミゼリーとの会話を続ける。
「飲み食いを忘れて熱中するなんてことを良く言うじゃないか。私にはないけどね」
「熱中なんてものはいずれ冷める。冷めるからこそ熱中と言うのだろう? それが常態化してしまったら熱中とは呼ばないし、平常ならば腹も減る。そんなことより、仕事をしろ。私に話しかけても何の情報も得られないぞ」
「そうは言っても話を聞いてくれそうな人がいないから仕方ないだろう」
身なりの怪しい場違い男にも、商人たちはその違和感に興味を持つ事はなく、一人の客として扱う。
街全体が渡航者を温かく迎え、人当たり良く接する態勢が整っているのだ。
だがその実、商人達は己の利益のみを追求しているため、客は客であってその人となりなどに興味を持つ事はない。
「おいおいフランキー、アンタはこんな場所でひっそりと佇む人間に話を聞こうとしているのかい? 物陰から何かを窺うように人々を眺めているような人間に? そんな奴がいたら声を掛けるよりもそっと後ろから監視するのが吉だろうさ。そいつはアンタと同じような職種なのだからね」
「私は人見知りでね。どうもこういう探偵染みたことは向いてないんだよ」
「……別に友達をつくるわけじゃない。仕事だと思えば気も楽になるさ。こうやって呼び込みをやっている人たちもそうだよ。アンタと親しくなりたいわけじゃなく、アンタの財布と親しくしたいだけ――おいおい! どこに行く!?」
フランクは広場を抜け、路地へと足を踏み入れた。
建物の側面に打ち付けられた階段を上り、水路を横断する空中回廊を進む。
「……ミゼリー、英雄とは路地裏から生まれるものじゃないだろうか? こんな魚市場から誕生するとは思えない」
深刻な表情でフランクは言った。
「話しかけたくないだけだろう」
「やる気は仕事の効率を上げるために重要な要素だと思うよ?」
フランクは地図を広げる。
「英雄は既に誕生しているんだ、だからここに来たんだろう? それにアンタの言う英雄と局の定義する英雄とには齟齬がある。今アンタが話題にしているのは、一人で何かを変えてしまう――例えば一人で百人を斬り殺すことが出来たり、一人で何か人々の想像もしえないような物を発明したりしてしまう勇者のことだ。常人には不可能に思える事を可能にしてしまう人間。このような奴らは確かに人々を驚嘆させ、人々の生活を変えてしまうかもしれない。だが……そうだな、なんと言えばよいかな……次官補殿の資料にあった聖クラスターのように仮に水の上が歩けようと、空が飛べようと、その力自体は人々に伝染しないだろう? 何か特別な事は出来ても、それがその個人だけで完結してしまう人間は英雄でなく勇者だ。もちろんその力を善意を以って行使した場合のみだがな。悪意とともにあれば、そいつはただの犯罪者だ」
フランクの胸の中でミゼリーは熱っぽく語る。
しかし、フランクは地図と路地を交互に確認しながら、
「じゃあ英雄とは?」
と適当な相槌を打つ。
「その個人で超人的な事が出来ずとも、人々に影響を与え世界を変える事が出来る者だ。変える世界が正しかろうと間違っていようと、それは後世の者が判断することであって、現代に生きる人々がその変革を自分の意思として望ませることが出来る者――それが英雄だ。史料室に並べられたファイルを見てアンタもそれくらいの事は解っているはずだろう?」
「……あぁ、知ってるよ……」
フランクは立ち止まり、次の角をどちらに曲がろうか思案している。
溜息を吐き、腕の中で身体をくねらせたミゼリーはフランクの進行方向を向いた。
「……それで次はどこに向かおうというのだね?」
「これだけの人がいると言う事は長期戦になる事が考えられるね。ということは、調査や監視だなどという前に今夜の宿を先に見つけるべきだと思うのだよ。そこでだ、左に曲がれば料金も高いし目立つ場所にはあるが情報を得るにも移動にも便利な宿屋がある。右に曲がればリーズナブルで汚いが目立たずもしもの時に備え易い宿屋がある。どちらが良いかな?」
「当然リッチな方だよ、フランキー。一流の宿屋というのはね、防犯にも気を遣っているものだよ。だいたい公務員が経費で落とすのに節約してどうするんだい?」
確かにミゼリーの言うとおり経費を削減する意味もないので、フランクは角を左へと向かう。
すると、物凄い勢いで何かがぶつかった。
フランクは回廊から落下しないよう咄嗟に手をつく。
すぐに手首を捻ってしまったことが判り顔を歪ませる。
「すみません!」
顔を上げると若く髪の長い女性が息を切らせ、慌てた表情でフランクを覗き込んでいる。
手首は痛かったが、このような場所でぶつかり命を落とさなかっただけマシだと思うことにした。
「えぇ。まぁ、あなたのような美人に接触できたと思えば――」
これくらい大丈夫ですよ。
そう答えようとした瞬間、下方でポチャリと何かが水路に落ちた音がした。
慌てて水路に目をやるとミゼリーが沈んでいくのが見えた。
「ミゼリィーーー!!!!」
フランクの咆哮が辺りにこだまする。
周囲を見回し、フランクは最短距離で水路まで降りられるルートを探そうとするが、道が入り組んでいてどこをどう行けば水路まで降りられるかすら判らない。
「下へ行くにはどうすればいい!?」
ぶつかってきた女性の肩を掴み問い質す。
女性は困惑した顔をするだけで言葉を発せない。
「早く教えてくれ! じゃないとミゼリーが! ミゼリィーが!!」
「え、えっと……じゃあ……ついてきてください」
女性はすぐそこまで行くのに迂回を重ねるので、フランクには苛立たしかった。
しかし、ついて行く以外にミゼリーの元へと近づく術がないので、逸る気持ちを抑えながら回廊を渡る。
だが、あまりにも女性の誘導が回りくどいので、飛び降りても怪我する心配のなさそうな距離まで近づくと、フランクは迷わず水路へと飛び込んだ。
「ミ~ゼリ~!!!」
3メートル程の水深を一気に潜り、ミゼリーを抱きかかえて浮上する。
「大丈夫か!?」
「防水仕様は基本だよ、フランキー。でなければ、共に湯に浸かれぬではないか。さすがに泳げはしないがね」
「よし。そんな口が利けるのならいつものミゼリーだ。壊れてはいないようだね」
ミゼリーを抱きかかえほっと安心の溜息をつくと、思い出したように振り返る。
「あ、あの……大丈夫ですか?」
振り返った先の女性は何かおぞましいものを見るかのような視線をフランクに向けていた。
「ええ、大丈夫なようです」
フランクには視線の意味がわからなかったが、出来るだけ爽やかに答えてみた。
女性は小さく呻き声を上げ、後ずさりを始める。
「どうかしまし――っつ!」
腕を女性の方へと伸ばすと先ほど捻った手首の痛みが甦ってきた。
「あてててて…そうか、私の手首の心配をしてくれていたんですね、ミゼリーじゃなく……」
「あのさっきからミゼリーって……?」
「この娘の名前です」
「……人形ですよね?」
そこでやっとフランクは自分の大げさな救出行動が世間一般の常識から大きく乖離していたことに気がついた。
「え、えぇ、まぁ……お恥ずかしいところをお見せしました。ただの人形です。商売道具ですが……」
「商売道具……あぁ、そう言う事ですか……」
女性はフランクとの距離を縮める事を許し、ハンカチを差し出してきた。
「こんなものをしかありませんが」
感謝の意を示し、フランクはハンカチでミゼリーを拭う。
「あの、そうじゃなくて……」
「え?」
「ご自分も濡れてらっしゃるのに……随分と大切にされているんですね」
「あぁ、そうですよね。人形なんて普通後回しですよね! あはは!」
額から滴る水滴をごしごしと拭き取ると、やはり手首が痛む。
「私がぶつかった時ですね?」
女性はフランクの腕を取ると、様々な箇所を押さえ、どこが痛いのか調べる。
それにフランクが受け答えをしていると、ミゼリーが口を開いた。
「その指はどうしたのかね?」
「え?」
女性は驚いた表情をミゼリーへ向けた後、さっと手を引き胸の前で指を隠してしまった。
フランクからは女性の指が見えなかったため、ミゼリーが何を疑問に思ったのかわからない。
しかし、ここでミゼリーに質問をぶつけると、状況を混乱させてしまう事になるので黙っていた。
「名前はなんと言うんだい?」
「私は……」
女性は俯き、まごまごとしだす。
今にも駆け出してしまいそうな雰囲気を感じ取ったフランクはミゼリーを嗜める。
「女性にいきなり名前を尋ねるなんて失礼じゃないか、ミゼリー」
「アンタのために訊いてやったんじゃないか、フランキー」
「そりゃ私もこんな美人を前にすれば、名前の一つどころか住所や想い人の有無、家族構成からお父上の職業、菓子折りは何を持っていけば良いだろうかなんて事も訊きたい気分でいっぱいだけどね。モノには順序というものがあるんだよ。特に男女の関係には」
「昨今は順序なんて在って無いようなものじゃないか。良い女を順番待ちしようなんて考えていたらあっという間に老いてしまうよ? 特にアンタのように平凡な男には整理券すら配られないだろうさ。いや、違うね。アンタのようなお間抜けな男は並ぶ列さえ間違えて、順番がきたと思ったらそれはタイムセール品の行列だったというオチさ。もちろん品物なんて残ってないっていうね」
「ミゼリー、君は私に対する見方を少々改める必要があると思うよ?」
「改めさせるような行動を起こして欲しいものだね」
一人と一体がそこまで会話すると上品な笑い声が聞こえてきた。
「お上手ですね。本当に二人で話していらっしゃるみたい」
「それほどでもありませんよ。特別な技術など要りませんから」
ミゼリーは自立しているためフランクには当然何の技術もない。
「いえ、本当に素晴らしいものを見せていただきました。そのお人形をそれほど大切になさるのもわかります。突然、名前を叫んだのには少々びっくりしましたが。ところで、宿泊先は決まっていらっしゃいますか? 随分と回り道をさせてしまいましたので、よろしければご案内させていただきますが」
地図を見ても元の道に戻れそうに無かったので、女性の申し出はフランクにはありがたいものだった。
「まだ宿をとってはいないのですが、このルッスオーゾ・アルベルゴという宿にしようかと思っていまして」
「まぁ! ルッスオーゾに?」
女性は目を見開いて驚いた。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ、そこは……失礼を承知で申し上げれば、ルッスオーゾは各地の富豪の方々しかお泊りにならないような宿なので……」
「大丈夫ですよ。金なら――」
「――フランキー」ミゼリーがフランクを制す「なら、お薦めの宿はあるかね? 条件としては静かでそれなりに防犯が効いている所がよいな」
「防犯? ……あぁ、大切なお人形が盗まれてはいけませんものね。それなら……」
女性はフランクの持っている地図の載ったガイドブックでいくつかの宿を紹介した。
どれも手頃な料金で質素ではあるが手入れの行き届いた宿だった。
ミゼリーはその中から、街の中心に近く交通の便のよいものを選んだ。
「では、ご案内いたしましょう」
先導しようとする女性の背中にミゼリーが声をかけた。
「急いでいたのではなかったのかね?」
「え?」
ミゼリーの言葉に女性は立ち止まり振り返る。
「何か急いでいたからこそ、フランキーとぶつかってしまい、この身体は水路の中へと投げ出されてしまったのではないのかね?」
女性は一瞬顔を引きつらせたが、すぐに笑顔に戻る。
「……もういいのです。結局、どこへも行けない事はわかっているのですから。それよりもここでの縁を大切にさせてください」
そう言うと女性は宿へと歩みだし、宿に着くまでそれ以上何も喋らなかった。
*****
市民広場まで数ブロックの場所にあるコルテーゼという宿に着くころには陽は沈みかけていた。宿はガイドブックに載っていた写真と違わす、アットホームな雰囲気を漂わすもので、親切そうな主人が置物のような優しい笑みを浮かべている。
「それでは私はこれで」
女性は宿泊の手続きまで済ますと、フランクにそう言った。
「ありがとうございました。私だけでは辿り着けませんでしたよ」
「この街で育った者でもたまに迷いますから。早く服を乾かしてくださいね。水のおかげで夜はまだしも明け方には冷え込みますから。機会があれば今度は太陽広場であなたの腹話術を拝見したいと思います」
女性は一度頭を下げ行こうとする。
「あの! お食事でもどうでしょう?」
一瞬だけ見えた女性の表情が何か険しいものに見えたため、フランクは思わず引き止めた。
「もしくは名前くらい伺ってもよい程度の順序は踏んだと思いますよ? 私はフランク。ちなみにこっちはミゼリー」
「知っていますよ。私は……キャサリンと申します……」
キャサリンと名乗る女性は食事の誘いには触れず、そう言い残して宿を後にした。
3
一人きりの食事を終えるとフランクは宿の部屋へと戻ってきた。
ミゼリーは沈みかけの太陽に顔を向けていたらしく、すでに暗くなった窓の外を向いて停止していた。
フランクは意味も無く深い息を吐く。
疲れていると言えば疲れていたが、その疲れの成果は全く無かった。
聞き込みもうまくいかず、相当な距離を歩いたにも関わらずそれは人気のない路地裏ばかりで、ウォルター=ハップスについての情報は何一つ手元にない。
今までの仕事はそれなりの情報を元に、あとは現地での監視作業でほぼ済んでいたためそれほど苦労がなかった。
しかし、今回はまず情報を仕入れる所から始めなければならないのだ。
元々、熱心な仕事の虫というわけではないフランクには気の滅入る仕事だった。
実際の所、手を抜こうと思えば簡単であるというのが解っている事も、フランクの意欲を削ぐ原因の一つで、自分でもどうしてこれほど仕事について思い悩まねばならないのか解らなかった。
要は局員の処分なので、何も見ず『問題なし』の判を押すことも出来る。政治犯がどう扱われようと、それはフランクの与り知らぬ話なので関係がない。そのため、局員を処分したところで誰も幸せにならないのだ。もちろん処分された局員が次の仕事では少々慎重に調査を進めるかもしれないが、そのような目の届かぬ場所での貢献などフランクの満足度に何ら影響を与えるものでもなかった。
それでも――。
フランクはもう一度深い息を吐く。
今度はあからさまな溜息だったので、部屋の中は倦怠感に包まれた。
「やる気に満ち溢れている男も嫌だからいいのだがね……」
顔を上げるといつの間にかミゼリーがフランクを見つめていた。
「まだ一日目じゃないか。一ヶ月を三日で過ごす気かい? のんびり行こう」
「……まぁ、たしかにここは気候もいいし、人当たりも悪くない。長居するにはいいかもしれないね……キャサリンもいるし……」
「アンタ、あの女の言う事信じているのかい?」
「信じるって何をだい? 何か言っていたかな」
フランクの言葉にミゼリーはカタカタと口を動かす。
「ミゼリー……どうし――」
そう言いかけると、部屋の窓ガラスが大きな音を立て割れ、部屋に破片が飛び散った。
フランクは咄嗟にミゼリーを抱きかかえると部屋から出ようとする。
「そっちはダメだ。割れた窓から向かいの建物の回廊に飛び移れ」
ミゼリーの言う事に不満は感じつつも、考えている時間はなさそうだったので、フランクは思考を遮断し窓から力の限り飛び出した。
向かいの建物は思いがけない近さにあったため、身体を強く打ち付ける。
「くはっ!」
「立ち止まるな。さっさっと走れ」
「どこに!?」
「どこでもいい」
振り返ると、部屋明かりに照らされた人影がいくつか見えた。
フランクは回廊を駆け上る。
「あいつらはなんだ!?」
「自分の疑問を口に出したとしても、解決するとは限らないのだよ」
背後を気にする暇も無く回廊から回廊へと飛び移る。
「あぁ……わき腹が痛い……」
「食べてすぐに走っているからね」
「……解りきった解説をどうも……」
「アンタは普段からもっと鍛えておくべきなのさ」
「……そう言う事をこの状況で言われてもね……」
事態を深刻に考えないように、息も切れて苦しいのだがミゼリーとの会話を続けて気を紛らわす。
「バイオリンを習いたいなんていうお坊ちゃんに、平時にこんな事を言っても聞く耳持たないだろう?」
「……参考にしておくよ……この状況を切り抜けられたらね……」
フランクの身体能力は一般成人男子の平均程度なため、飛び移れる回廊も自然と限られてしまう。
「……追い詰められてないかい? ミゼリー、ちょっと後ろを覗いてくれよ……」
抱きかかえたミゼリーの顔を肩口から後方へと向ける。
「影は四つ……五つかな……ウサギの折れた耳のような覆面を被っている……」
「……ウサギの折れた耳……あの集団か!?」
「そのようだね。そんなことよりフランキー、どうやらチェックメイトは近そうだよ。影が一つになった。おそらく二名ずつを左右に展開させてこちらを囲い込む気だ」
「……どうすればいい? ダメ元で一人になったそいつに特攻をかけようか……」
「今思えばあれだね」
「……なんだい……」
「最初から逃げずに『なんなんですか~あなたたち……おろおろ』つって何も知らない振りを貫けば良かったね。逃げた事によって言い逃れがしにくくなってしまった」
「……ミゼリーが逃げろといったんじゃないか……奴らの目的はなんだろう……」
「さぁね、法王庁お抱えの秘密結社が考えていることなんて解るわけがないさ」
階段の昇降に加え、回廊間を飛び移るために脚力を使っているので、フランクの脚は自分の意思に反して上がらなくなってきた。何度も段差に躓き、踏み外す。
「一応聞いておくがフランキー、何か武器になるようなものは持っているかね」
「……私の武器はミゼリー、君だけだよ……こちらも一応聞いておくけど、何か前時代の兵器を体に仕込んでないかな……」
「そんなものあったらとっくに使っているよ」
「……だろうね。と言う事はあれかい? 絶体絶命ってやつかな……」
ミゼリーはそれには答えず、忠告だけ行った。
「おい、そのまま進むと行き止まりだぞ」
「……あぁ、そのようだね。もう少し早く言ってくれないと……」
水路が建物によって遮られ、それと共に回廊も行き止まりとなっていた。
フランクは建物の壁を背に、向かってくるウサギ耳の影を待つ。
「……あそこに飛び込めないかな?」
視線は向かってくる影から外さず、視界の隅に映る建物への入り口の方へミゼリーを向ける。
「身の程を弁えるべきだね。自分を超人か何かと勘違いした瞬間、凡人は落下の一途を辿るものだよ」
「じゃあ大声をあげて助けを求めるのは?」
「アンタは秘密結社との争いに一般市民を巻き込むのかい? それにまだこちらの正体がバレタと決まったわけじゃない。変に刺激するより生まれたての子馬のようにガクガクしてな」
フランクが生まれたての子馬を想像するより早く、影はフランクと数歩の所までやってきた。
「なんなんですかーあなたたち……おろおろ……」
全く抑揚のない調子で言うと、フランクは膝をガクガクと振るわせる。
「貴様何者だ?」
感情を押し殺した低い声で影は訊ねてくる。
「あ、あなたたちこそ何者なんですかー」
「何故逃げた?」
「あなたたちが追ってくるからじゃないですかー」
「お嬢様と何を話していた?」
「お嬢様? お嬢様って……この人形のことですか? 何も話してないですよ、ね? ミゼリーちゃん。うん。何も喋ってないわ、私達」
「ふざけるな!」
「そう言われましても……」
「痛い目に遭いたいようだな」
左右の建物の屋上にウサギ耳の影が二つずつ姿を現す。
「遭いたいわけがないだろう、馬鹿者が」
「なに?」
ミゼリーの声に正面の影が先程までとは違い、言葉に感情を乗せた。
「……もう一度だけ聞こう。お嬢様とは何を話していた?」
お嬢様が誰かは解らないが、フランクは今日唯一まともに会話をしたといってもよい女性の名を挙げる。
「……キャサリンのことですか?」
「キャサリン……だと?」
影は一歩一歩階段を力強く踏みしめ、フランクに迫ってくる。
「え? 何を怒っていらっしゃるか全く解らないんですが……?」
「お嬢様がキャサリンなどという名前のわけないだろうがっっ!!!」
その怒声が合図となり、三方から影が一気に飛びかかってくる。
怯んだフランクは態勢を崩す。
なんとか落下を避けようと回廊の上で持ちこたえようとするが、ミゼリーが重心を水路側へとかけたためそれは叶わなかった。
「どういう事!?」
「こういう時は落ちてしまった方がいいのだよ」
フランクは拉致され暴行を受ける事を想像すると、素直にミゼリーの言葉に従うことにした。
足から垂直に着水する事だけを考え、身体を直立させる。
しかし、その身体は空中で突然くの字に曲げられ、フランクは危うく膝と接吻を果たしそうになる。
「ぉうっふ!」
曲げられた身体が今度は壁に大の字に衝突する。
「――ッ!」
声にならない激しい痛みが全身を襲う。
「立って。逃げるわよ」
首元に痺れを感じながら薄く目を開けると、外套の隙間から見える着衣がほとんど裸の女性が左腕に巻きつけたロープを外していた。
「っっ……君は?」
「話は後で」
引き摺るように建物の中へと引っ張り込まれる。
放り込まれたと同時にウサギ耳の一人が入り口へと飛び込んできたが、目の前の女性が間髪入れず前蹴りを繰り出し、ウサギ耳は苦悶の声と共に落下していった。
「先に行って。そのまま直進した後、二つ目の部屋に入って。窓には近づかないでね」
身体の痺れをなんとか押さえつけ、フランクはふらふらと建物内部を進む。
「ずいぶんと素直じゃないか、フランキー」
「……他に選択肢があるかい? それより、こんなに暗くちゃどこが二つ目の部屋かなんてわからないな……目が光ったりはしない?」
「そんな機能がこの身体に求められたと思うか?」
「そりゃそうだ。……その割にはよく喋る人形なんだね……」
「知能の低い女は好みじゃなかったんだろう」
壁を手で探りながら進むと、ドアノブらしきものに触れた。
「もう一つ先か……」
「何故、ここでなくてもう一つ先なのかね?」
「身体が痛くて考えるのも面倒くさいよ。ここは誰か他の人の家なんだろう?」
指定された部屋へとフランクはもう一度歩き出す。
背後ではまた遠くなる悲鳴が聞こえた。
「……助けてくれている事実に目を瞑って、裏にある真実を見抜こうとするのは野暮ってもんだろう、ミゼリー」
「まぁ、そうだが、一から十まで素直に聞く必要はないと思うがね」
「じゃあ八くらいまでは聞いておこうよ」
次第に戻ってくる身体の感覚に比例するように、歩みを速める。
二つ目の部屋に着くと、フランクは不測の事態に対応できるよう身構えた。
ゆっくりと扉を開けると、中には火のいれられた暖炉が部屋を暖めていた。
他に灯りはなく、伸びる影をしまいこむようにドアを閉める。
「他に出口は?」
ミゼリーの言葉にフランクは部屋中を見渡してみたが、窓と入ってきた扉以外に脱出経路は見当たらない。
部屋の中を観察した結果、調度品には使った形跡がなく人の住んでいる気配もない。
「何のための部屋だろう?」
「ここは商業都市だからね。人の出入りも多くてこうした空き部屋も多いのさ」
「じゃあどうして暖炉に火が?」
「つまり……騙されたってことだろうね。アンタをここに誘導するために先回りしていたのさ」
「そこまで考えている相手がこんなあからさまに火を焚いているかな?」
フランクは暖炉の中に顔を近づける。
燃えている薪はくべられてから随分経っているようで、ほとんど炭になっていた。
「窓から逃げるべきかい?」
「逃げられるのならそれもいいが……どうやらあっちは片がついたみたいだ。近づいてくる」
廊下を蹴るはっきりとした足音が室内にも聴こえてくる。
フランクは窓に近づき、外を確認する。
窓の外は当然水路になっており、向こうの回廊までは飛び降りて無事で済まない距離があった。
「……いざとなったらクッション代わりになってくれるかな、ミゼリー」
「この身体は精密機械だぞ」
耳に入る足音は止まることなく扉を開けた。
先程の女性は部屋に入るなり、険しい顔で叫んだ。
「窓に近づかないでと言ったでしょう!」
刹那、窓ガラスごとフランクの背中は蹴り飛ばされる。
痛みより驚きが先行し振り返るとウサギ耳の影がフランクの前に立ちはだかっており、割れた窓からもう一つの影が部屋に入ってくるのも見えた。
「そっちはお願い!」
女性は遅れて入ってきた影に飛び掛る。
同時に目の前の影もフランクに蹴りかかってきた。
なんとか回避したもの立ち上がるチャンスはなく、ウサギ耳の続く攻撃に晒される。
フランクは無我夢中で部屋の中を右へ左へと転がる。
影は立ったままの攻撃を諦め、圧し掛かってきた。
背中を床につけたまま足をバタつかせてみたが、マウントポジションをとられてしまう。
「なんなんですかー! どうして私にこんなことをー」
ミゼリーを相手の顔めがけて振り回すが、それは難なく防がれてしまう。
影はミゼリーを掴みフランクから取り上げると部屋の隅へと投げ捨てた。
「あぁ!? ミゼリー!」
影への怒りが沸点に達しようと状況を変えてしまう力が湧いてくるわけでもなく、フランクは顔面を二度強打される。
「ガァッ! カハッ! ……もういやだ……」
「お嬢様と何を話していた!」
「お嬢様って誰の事なんです――ウグッ!」
「言え!」
喉に手を掛けられる。
(く、苦し……喋れないだろう……そんなことしたら……)
そしてまた殴られる。
「た、だすげ…て……」
無慈悲な暴力にフランクが気を失う寸前で、腹の上にあった重さが取り除かれる。
涙でぼやける視界に女性が映る。
「大丈夫?」
「……あまり…そうとは……」
圧し掛かっていたウサギ耳の影は女性の連撃により窓まで後退させられると、胸部への強烈な蹴りを喰らい部屋の外へ悲鳴と共に退場を余儀なくされた。
部屋の中に静けさが戻る。
「あ、ありがとうございました……」
女性は投げ飛ばされたミゼリーを拾い、フランクの元へと届けてくれる。
「動くのはつらいだろうけど、まずは安全な所へ身を隠すわよ。これだけやれば、あいつらもすぐには追ってこないだろうし」
フランクはミゼリーの背中に手を入れ、女性の方へと向ける。
「それが良いだろう」
「ふふ。そんな事が出来る余裕があるなら大丈夫そうね」
*****
部屋から出て回廊を下ると、水路に小船が用意されていた。
「これで市民広場の北ブロックまで行くわよ」
「水路を行くんですか? また襲われたら――というか、君は?」
「あぁ、まだ紹介が済んでなかったね。あたしはシャルロット=ハインリヒ。シャルと呼んでいいわよ。で、貴方は?」
「私はフランク=シュタイナー。こっちはミゼリー。見ての通り腹話術師をしています」
「よろしく。ミゼリー」
「どうして助けた? 何故あそこに居たのだ?」
ミゼリーの言葉にシャルは驚く。そして顔をしかめるとフランクに訊ねた。
「貴方二重人格なの?」
「聞きづらい事をミゼリーに言わせると、相手もそれほど気分を害さないでしょう?」
「ふぅん、まぁ確かにそうかもね……でも、その話は後にしましょう。襲ってこないまでも監視はされているかもしれない。あたしも情報をあいつらに洩らしたくないしね」
シャルが小船を漕ぎ出す。
昼間の広場での喧騒が嘘のように辺りは静まり返っていた。
ぎこぎこと櫂が船体と擦れ合う音が響く。
「ここはどの辺りなんですかね。あまり人が住んでるようにも見えませんが」
「自分でここまで逃げてきたのに判らないの?」
「夢中でしたから」
「どんな街にも光と影があるというわけよ。ここは市民広場の西ブロック。ヴェネトロスでは〝敗者の沼〟と呼ばれているらしいわよ」
「敗者の沼?」
「そう。その名の通り敗れし者がはまり込んで抜け出さない沼よ」
「故郷に帰ったりしないんですか?」
「船代も払えないのにどうやってこの街から出るのよ」
「では、どうやって暮らしているんですか?」
フランクの質問にシャルは答えなかった。
夜だというのに部屋から明かりが漏れ出ない。
先ほど逃げ込んだ建物にも、人が暮らしているという雰囲気はなかった。
「太陽広場では人が眠ることなく騒いでるから、ここらの住人にとっちゃいい稼ぎ場なのよね」
「でも、商売に失敗した人たちなんでしょう? どうやって太陽広場で――」
「――あぁもう! 少しは自分で考えてなさいよ。人生に失敗し、どこにも行けず、だからと言って何もせず死ぬことも出来ない人間がすることなんて一つしかないでしょう?」
犯罪行為。
社会を形成する三角形の底辺――それからも漏れてしまい、しかし、それでもなお生きたいと願うのならば、三角形の中の人間から非合法な手段で奪うしかない。
フランクは押し黙ってしまう。
小船は狭い水路を抜け、少し大きな水路へと出た。
水路を行き交う小型櫂船を眺めながらしばらく浮かんでいると、手信号で合図をされフランク達の小船は水路を横切ることができた。
そして、また細い水路へと入る。
「ここまで来れば少しは安全かな」
疲れと安心を示すようにシャルは大きく息を吐く。
「どこに向かっているんですか?」
フランクは船の進行方向へと体を捻る。
市民広場の北ブロックは敗者の沼と呼ばれた西ブロックとは違い、水路にかがり火が灯り、家々から漏れた光で水面が照らされていた。
「あたしの隠れ家よ」
「隠れ家……ですか」
隠れ家という言葉に似つかわしくない華やかな雰囲気をこの辺りの建物は纏っていた。
ヴェネトロスの建物は水の中に建っているため、どの建物にも藻が付着するのだが、この辺りの建物にはそれがなく、よく手入れされていた。
「どうして君は隠れ家を持たねばならぬのかね、シャルロットとやら?」
フランクが辺りの建物を観察していると、ミゼリーが訊ねた。
「なんだかその人形って魂でも入ってるみたいね。貴方が本当に言っているの?」
「私が言っているように見えたら、プロとして失格でしょう? お金を貰って技術をみせているわけですから、それは愚問というものですよ」
ごまかすようにヘラヘラと笑いながら答えたが、シャルは納得したのか何度も細かく頷くだけだった。
「こちらの質問に答えてもらおうか。君は何者なのだ?」
ミゼリーの問いに今度はシャルも真剣な眼差しを向け答える。
「……それを言ったら貴方を巻き込むことになるわよ?」
「すでに巻き込まれている。もし、これ以上訳もわからず何者かに狙われるようなら、対処のしようがないのだよ。……もちろん、君にフランキーの身の安全を図る義務があるかどうかは知らんがね」
「ふふ。確かにその通りね」
シャルは船首を右へと向ける。
前方に小さな船着場が見えてきた。
そこで船を泊め、シャルの先導するまま回廊を廻る。
「あたし個人としては貴方を守る義務はないの。でも、あたしの属している組織の義務としては貴方を守らなければならない。お分かり?」
フランクはシャルの組織について考える。
義務として市民を守らないとなれば、公的な組織としては二つしかなかった。
警察か軍隊。
(この女性が内務省の警察ではなく、このような任についているのならば局員だとも考えられる。そう考えればこれは願ってもないチャンスだが……しかし、もし軍だとすれば……どう対応するべきだろうか? これ以上深く関わらない方がいいのかもしれないな……)
「私をそこに引き渡すということですか?」
「いいえ。本当は引き渡したいところだけど、勤務外手当て目的で――ってのは嘘だけど、あっちに渡すといろいろと面倒だからあたしが守ってあげる。貴方も商売で来てるのに、ねちねちと聴取されたりするのは嫌でしょう?」
「まぁ、そうですが……そこまでお手を煩わせるのも……」
「貴方っておかしいわね」
「何がでしょう?」
「命を狙われて、しかも、自分自身にはそれに対応する力が何もないのに、助けてくれるという人の申し出を断るなんて……何か当てがあるの?」
「いえいえ、当てなんかないですが、警察にでも行きますよ」
フランクがそう答えると、先を行くシャルが立ち止まり振り返った。
「はぁ……本当にこの街のことが解ってないのね。でも、これが一般人の常識って奴なのかしら……」
額に手をやり、やれやれと首を振るとシャルは建物の入り口を示す。
「まぁ、どうするかはお茶でも飲みながらあたしの話を聴いてからでもいいんじゃない? 今夜は疲れたでしょう?」
フランクはミゼリーに意見を求める眼差しを送るが、ミゼリーはそんなものを無視してさっさと答えてしまった。
「おいしいお茶の淹れ方を知っておるのかね?」
空を仰ぐと月が天頂を目指し昇っていた。