世界の終わりに、きみを乞う
前作⇒『世界の終わりに、何を願う』(N2827BG)
それは、聞くはずのない声だった。もう一生聞くこともないだろうと、一度はそう思った、声だった。
ソメヤ。静かに鼓膜を打った穏やかな声色に、中途半端に身を起こした姿勢で固まる。川辺を吹き抜ける風が、幾分伸びた彼女の髪を攫っていった。
幻覚でも何でもないその立ち姿に、ただ瞠目する。
「お、前……なにしにきたんだよ」
「『あまり遅い』から『迎えに』」
飄々と答える悪友の、数年ぶりに見た不敵な微笑みに、喉の奥から乾いた笑いが漏れ出す。
ああくそ、眩しいな。なんでお前はいつも、沈みかけた太陽に背中を向けるんだ。
細めた眼も、掠れた声も、少しだけぶれた視界も、全部夕日のせいにしてやりたいのに、これじゃ誤魔化しもきかないじゃないか。自分だけ逆光に紛れさせて、気づかれないとでも思ってるのか。
「戻らないんじゃなかったのかよ」
非難がましくぼやいた俺に、センリは飄々と肩を竦ませる。
「わからないと言った」
「なんで来た」
「お前が言ったんだろう」
会ったら話そうと思ってたこと、沢山あったはずなのに、いざ本人を前にすれば何一つ思い出せやしない。考える間もなく次々と浮かぶ言葉を、裸のまま投げつけるだけ。
人間、幾らか年を重ねたところで根本的なところは成長しねぇな、とつくづく思い知る。
散々、文句を言い連ねては流されて、結局最後にたどり着いたのはまるで子供のような台詞。
「馬鹿か」
「――お互い様だろう?」
ああ、そうだな。お互い、馬鹿だ。
息を吐いて諦めたように天を仰いだ俺を、愉しげなセンリの眼差しが追った。草の匂いのする土手に身を投げたまま静かに眼を閉じて、最初に言うはずだった言葉を改めて絞り出す。
「おかえり、センリ」
閉じた瞼の向こう側で、センリが笑う。
「ただいま、染谷」
*****
「あーくそ。まったく、このパスポートどうしてくれる」
隣に並んで腰を下ろしたセンリに、いつかの如く土手に背中を預けながら恨み言を吐く。
赤地に菊の紋。一度も使われないまま今日まで刻んだ、掌サイズのタイムリミットをぼんやりと見つめる。
「なんだ、わざわざとったのか?」
「三年前にな」
「気が短い奴だ」
呆れを貼り付けたセンリが、やれやれと首を振る。その仕草が無性に苛立たしくて、冷めた一瞥を投げた。
「お前にだけは言われたくねえよ」
実際に日本に戻ってきた奴に言われるのはなんとも心外だと、鼻で笑う。センリも負けじと鼻を鳴らして、赤い手帳を指先で弾いた。右手の薬指に収まったシンプルな銀の輪が、オレンジ色の陽光を反射する。
「別に、持っておけばいいだろう。どうせあと二年だ」
「よく見ろ。五年じゃねえ十年だ。あと七年あんだよ」
「いいや、関係ない――あと、二年だ」
「はあ?」
妙にきっぱりと言い切ったセンリに、眉を顰めて飛び起きた。正面から捉えた腐れ縁の姿に、年相応の落ち着きを見出して、複雑な苦味が胸に広がった。些細な変化に、時間の経過を噛み締める。
センリが笑う。三年前には見せなかった、落ち着いた色を纏って。
「帰るよ、ここに。私は、帰る」
だから、待っていてくれないか? 尋ねるセンリに、目を細めた。――今更、何を。
「断る」
「……そう、か」
「誰が二年も待つか――俺の気は短いんだよ」
いい加減限界だ。告げれば、一拍置いてセンリの瞳が丸く見開かれた。阿呆面。いつかの意趣返しをしたかのようで、少しばかり溜飲が下がる。
たまには、お前が振り回されてみればいい。
「いい歳して、いつまで安物つけてる気だ」
「は? あ、いや、これは」
センリが、慌てたように右手を背中に隠す。
薬指にはまる、飾りのないシンプルな銀の指輪。それが、純銀なんて大層なもんじゃないことは、よく知っている。
「三年前もつけてたな、これ」
首にかかる革紐を辿って、シャツの下から金属を引っ張り出す。扱いが雑なせいでひどくくすんで傷だらけだが、たしかにそれは、センリの指にはまるものと対になる存在だった。俺の記憶が、そう告げる。
こわばっていたセンリの表情が、ふっと崩れた。
「お前こそ、紐が変わっているが。五本ぐらい切れたか?」
「馬鹿言え。三代目だ」
いつかの福袋からでてきた、安物のペアリング。渡す相手もいなくて、結局たまたまサイズの合ったセンリに渡った、片割れ。
簡素なデザインが好みではあるものの、男物の方は俺の指でも緩くて、結局革紐に通して使っていた。
「それはまた。意外と物持ちがいい」
「お前ほどじゃねえよ。――ほら」
本気で驚くセンリに眉を顰めて反論しながら、拳を押しつける。
ぱちぱち、と瞬いたセンリの瞳を見つめながら、ゆっくりと口角を上げた。――ああ、これだ。この距離。
やはり俺は、この腐れ縁と一緒でなければ駄目らしい。この三年間で、嫌ってほど思い知った答えを、再確認する。
「なんだ?」
訝しむセンリに強引に押しつけた、小箱。
紫のベルベット地に覆われた蓋を、センリは恐る恐る開く。
「――空?」
開いた中には、中央に指輪の座すべき穴が一つ。
「おい、染谷、これ」
「お前が作れよ? 千里」
センリの言葉を遮って、笑う。わかるだろう? なあ。
この三年間、後先考えずに突っ走っていた馬鹿な時代が、眩しくて仕方なかった。だからもう一度だけ、やりたいように、馬鹿なことをしてみたくなったのかもしれない。
「――フランスまで受け取りに行ってやる」
お前になら、それだけで伝わる。だからそれ以上、言ってやらない。言葉が欲しけりゃお前が言え。
馬鹿みたいに負けず嫌いな俺たちは、いつまでも餓鬼同士、意地の張り合いを続けてきた。いっそ心地よさすら感じ出してしまった距離感は、今更きっと変えられない。正直変える気も、ない。
「……ああ」
たった一言、絞り出したような彼女の返答に、ほのかな満足感を得る。
ぬるま湯のような関係に、囚われたのはどちらが先か。先週提出したばかりの退職願を思い浮かべながら、ただこんな充足感は、もう当分味わえないのだろうなと、思った。