私の婚約者は天才ですが、私のお金の使い方が致命的に下手です
「コーデリア! こっち!」
彼が、私を見て微笑んでいる。
――うっ。可愛い……。
私の婚約者エリアス・ヴェインは王立大学そばのカフェテラスの一席に身を預け、私を見つけるなりにこやかに手を振った。
学院街にある石畳の大通り沿いのカフェ。
学者や官僚たちの憩いの場でもあるそこには、人々が思い思いに過ごしていた。
白塗りの木製テーブルがきちんとした顔で並び、本が積まれていたり、空のコーヒーカップを前に客同士が議論し合っていたりする。
深呼吸。
できるだけ優雅に彼の向かいの席まで歩き、静かに腰を下ろす。
「……お待たせしてしまったかしら」
優雅に。優雅にね。
私も微笑んで小さく首を傾げる。
エリアスは一度席を立つと、椅子を私のすぐ隣に置き直した。そして肘が触れる距離に改めて座る。
「コーデリアが今日はどんな色のドレスで来るんだろう……なんて想像しながら待つ時間は有意義なんだ。
――つまり少し待ったけど、全然平気」
「そういう時は“僕も今来たところ”って言うのよ、普通は」
彼が声を立てて笑った。私はその笑顏をそっと見つめる。
――私の婚約者様は、本当に今日も可愛い。
胡桃色のふわふわした柔らかそうな髪に、琥珀の瞳。繊細な指先でモノクルを外すと、フロックコートの胸ポケットに無造作にそれをしまった。
「……本を読んでいたの?」
「うん。あと少しで論文が完成するんだ。その参考文献を改めて見直してた」
「……もう少しゆっくり来たほうが良かったかしら?」
「え、なんで?」
「あなたが本を読めるから。……忙しいんでしょう?」
エリアスが眉を寄せる。
「僕はコーデリアに会いたいからここに来てる。一分一秒でも長く君といたい。
だから、約束の時間にわずかに遅れてきたコーデリアを僕は本当は少し恨めしく思ってる。
理解できる?」
「ごめんなさい」
「なんてね。ごめん。怒ってないよ。君に会えたから、僕の気分はマイナスからプラスになった」
私が思わず笑うと、彼がまた笑った。
「時間はあっという間だね」
しばらく二人でお茶をした後、我が家の馬車が迎えに来てしまった。
「エリアスは大学に戻るの?」
「うん」
ほとんど同時に立ち上がる。
私は鞄からいつものように取り出した。
「はい。好きに使って」
私――コーデリア・アシュクロフトの家は大富豪なのだ。
私は金貨を一枚、彼に差し出した。
エリアスは眉を下げて、それを見つめる。
「……コーデリア。いつも話してるけど、僕、お金には困ってないよ。
学者としてはまだ一人前ではないけど、いくらかは貰えているし、我が家の領地収入だってある。君の家に比べたら雀の涙かもしれないけれど……」
私は彼の手を掴むと、無理やり金貨を握らせた。
「私には、これしかあなたにあげられるものがない。いいじゃない。あるに越したことはないでしょう?
――受け取って」
「でも……」
「エリアス。愛してるわ。あなたに受け取って欲しいの」
エリアスが何か言おうと口を開けたが、私の瞳を見て、また口を閉じた。
彼の視線がゆっくりと下がる。
「わかった……。
でも、これは使わないで取っておくから……」
「使い方はあなたに任せるわ。
じゃあ、またね。研究、頑張ってね」
「……コーデリア」
私は踵を返した。
「会えて嬉しかったよ、コーデリア……」
振り返りたい気持ちをぐっと抑えて、私は彼を離れる。
彼は天才数学者。
私はただの富豪の娘。
可愛くて頑張りやのあなたには、どれほど金貨を渡しても、私は物足りないって思ってしまう。
◇
大学の研究室に戻ると、僕は項垂れた。
本だらけの部屋。
僕の研究机や与えられた書棚は本と計算用紙で詰まっている。むしろ溢れている。
同室の教授の机はそれ以上に荒れているので、なんとなく僕のほうがまともに見える。
薄いカーテンが引かれた縦長の窓から差し込む光は金色。
机の上の紙を、どこかくすませて見せた。
「また……受け取っちゃった」
ため息が、こぼれる。
僕の婚約者のコーデリアは、不器用だ。金貨を渡すことが愛情表現だと思っている節がある。断ろうとすると、彼女の青い瞳がふっと悲しそうに沈んでしまうんだ。
あれを見るのが、僕はつらい。
「でも……次こそちゃんと断ろう」
そう思いながら、一体何枚の金貨を受け取ってしまったことか。
僕の気持ちは、伝わっていないのかな。
僕こそ、愛情表現が下手なのかもしれない。だから、彼女を不安にさせてしまっているんだろうか。
扉が開く音。
「お、エリアス戻ってたか」
振り返ると、白髪の男。僕の恩師――アルジャーノン・ウェスト教授がにこにこしながら部屋に入ってきた。
「教授」
「論文は?」
「もう少しです。また見てもらえますか?」
「いいよ。楽しみだね」
机の上の書類と本を端に寄せて場所を作る。
「食事行くか?」
壁時計を見る。まだ外は明るいが、そろそろガス灯が灯り始める時刻だ。
「そうですね。行こうかな」
教授は荷物を机の上に適当に置くと、踵を返してまた扉に向かった。僕も、その後を追う。
古い木床の廊下は、踏むたびに軋む音がした。向こうから歩いてくる男がいる。
僕は、つい眉を寄せてしまった。
「よぉ。エリアス・ヴェインじゃないか。身売り男だと評判だぞ、お前」
彼は、シリル・モンフォート。僕と同期の数学専攻の男だが、ついている教授は異なる。こうして、事あるごとに突っかかってくる男だ。
「身売りなんかしてないよ」
「顔が可愛いやつは得だなぁ。富豪の娘に買ってもらえてさ」
「モンフォート君。失礼なことを言うのはやめたまえ。君の品まで疑われることになるぞ」
アルジャーノン教授が僕を庇うと、シリルはふっと笑って僕の横を通り過ぎていった。
足音が遠ざかる。
「エリアス、気にするな。
あんな事を言っているのはごく一部の人間だけだ。そういう人間は何をしたって文句を言うんだから」
「……はい」
僕は、視線を下げる。
僕はどう言われたっていい。
でも、コーデリアが“男を金で買うような女”だと言われるのが、どうしても耐えられない。
「……僕が不甲斐ないから……」
教授が眉を下げて僕を見つめた。
「エリアス。君の才能は本物だ。成果が出ているからこそ、妬まれる。
でも、もっともっと成果を出せれば、逆に誰も文句も言えなくなるさ。
今度の論文。あれはみんなあっと驚く。完成させよう。――な?」
奥歯を噛みしめる。
そう。僕には研究しかないんだから。
これで、彼女に並び立つんだ。
「はい」
前を向く。
廊下に並ぶ窓の向こう。
西にゆっくりと落ちてきた陽は、王都の尖塔に少しだけ触れていた。
石畳に並ぶガス灯に順番に明かりが灯り始める。
僕は歩きながら、それを眺めた。
僕は、衝撃を受けている。
学院街にある書店。いつもの専門書の一角。天井まで届くほどの木製書棚。高い位置にある横長の窓から差し込む自然光が柔らかく店内を照らし出している。
僕は震える手でその一冊を抜き出した。
はたきを持って僕の後ろにきた馴染みの店主がニヤニヤとしている。
「店主……」
「おぉ……エリアス。見つけたか。早いな」
「こ……これは……」
「素晴らしい逸品だろう」
僕は本を持ったまま振り返った。
「これは……あの『天球数理原論』ではないですか!?
古代の大数学者エレスカイオスが生涯をかけて編纂したとされるが、政敵による粛清を受けて、かつて一度失われてしまった写本! その復刻版!! “無限級数”や“軌道計算”、“高次方程式”の原型理論が載っており、数学界の聖典と名高い一冊! 数学を志す全ての者が死ぬまでに一度は目を通したいと願う、あの『天球数理原論』……!」
「すごい早口」
店主が身体を震わせる僕の肩に手を置く。
「俺も入荷できたのは奇跡だと思っている……。だがな……目ん玉飛び出るほど高額だ」
僕は本の価格を確認した。
「本当だ! 目ん玉飛び出るほど高額!」
――手持ちじゃ絶対に足りない……。
ため息をつく。諦めよう。
「エリアス。……諦めるのか?」
「だって……高いもん」
「そうか……。
でもな、この本はほとんど君のために手に入れたようなものなんだ。流星のごとく現れた若き数学の天才エリアス・ヴェイン。
君こそ……この本を手に入れる資格がある。
……俺はそう思う」
「店主。
いつからそんな話術を使えるようになったの……」
僕が店主を見ると、中年の男はふっと笑った。
手の中の大型本。
紺の表紙は光を吸うように静かで、そこに施された金文字の表題も、息を潜めるようにして僕を見つめている。
「……でも」
――僕では、手が届かないよ……。
今日はカフェの個室。
週に一度は、個室か、コーデリアの邸宅で、きちんと婚約者として会うことにしている。クラヴァットやウェストコート、フロックコートを整えて、彼女を待った。
間もなく、カーテン越しに声が掛かり、使用人がそれをめくる。
「ごきげんよう。エリアス」
部屋を満たす白い光。
彼女の丁寧に編まれた金の髪に返され、その白い肌を滑っていく。
彼女が柔らかく笑った。
「……コーデリア」
僕は立ち上がり、彼女のために椅子を引く。
――僕の素敵な婚約者。
――いつもは凛としているのに、笑顔があどけなくて可愛い。
コーデリアが椅子に腰を下ろすと、僕はその髪に短く口づけた。
「今日は淡い檸檬色のドレスなんだね。似合ってる。綺麗だよ、コーデリア。
こんな婚約者を持てて、僕は果報者だ」
「エリアス……」
机を回り、彼女の正面の席についた。
やがて、注文した品がテーブルに並ぶ。
白い陶器に入った紅茶。
その琥珀の水面が、揺らいだ。
僕は膝の上で拳を握りしめ、それを見つめる。
「コーデリア……。僕、君に謝らなくちゃいけないんだ」
「……謝る?」
コーデリアが、持ち上げかけたカップをテーブルに戻した。
「君がくれた金貨。僕は“手をつけない”って言っていたのに……手を出してしまった」
「あれはあなたに使ってほしくて、渡しているのよ?
……ちなみに何に使ったの?」
僕は脇に置いていた鞄から、あの大型本を取り出す。
「これ……」
「専門書を買ったのね」
僕は顔を上げた。
心臓が、思わず跳ねる。
コーデリアが、まるで花が咲いたように笑っていた。
その表情に、つい頬が熱くなる。
「嬉しい」
「え」
「エリアスって、あまり物欲がないから……。でもそうやって使ってくれたのなら嬉しい」
「でも……僕は約束を……」
「私はそんな約束した覚えはないわ。いつも“使って”って言ってるの。
ねぇ……その本、見せて」
『天球数理原論』を渡す。彼女の白い華奢な指が持つと、もっと大きく見える。コーデリアは丁寧に開いて、中の文字を視線でたどった。
その頬が、緩む。
「ふふ……。難しいわね。私にはちんぷんかんぷん」
僕と目を合わせて、また笑った。
「もう読んだ?」
「……まだ全部は……」
「読んだら、何が書いてあったか教えて。
あなたが楽しそうに話してくれる姿をみるのが大好きなの。私にとってのご褒美よ。
本当に嬉しい。
この本が、あなたの知識の血肉となるのね」
「コーデリア……」
僕は席を立ち上がる。
「……抱きしめてもいい?」
彼女は椅子に座ったまま、両腕を広げた。
僕は彼女のそばに寄り、その身体を抱きしめる。
「でも……もう使わないから」
「……どうして?」
「あれは……君のために使うって決めてるんだ。
僕は君といられればいい。
だから、金貨はもう、いらないよ。
君がこうして僕に会ってくれるだけで、僕は嬉しいんだから」
「だめよ」
「……コーデリア」
僕は彼女を離すと、コーデリアの前に片膝をついた。
「僕は、この国一番の数学者になるよ。
君は僕の隣で笑っていてくれるだけでいい」
「お父様もあなたには期待している」
彼女の青い瞳。
きらりと日差しが差し込んで輝いた。
「でも、私は好きなことを一生懸命頑張っているあなたが好き。
一番になんてなれなくても、私は構わない。もちろん、頑張るあなたを全力で応援する。
でも、無理はしすぎないで」
彼女が小さなバッグから、また金貨を取り出す。
「コーデリア……本当にいらないよ」
「受け取って」
「受け取れないよ」
コーデリアの瞳。
揺れて、それから、ふっと影が差す。
――あっ……
僕は、震える指で、金貨を受け取った。
――僕は、なんて弱いんだろう……。
「エリアス!」
アルジャーノン教授が勢いよく研究室の扉を開けた。
積んでいた計算用紙が部屋に舞う。
「……教授?」
教授は大股で机に向かっていた僕に近づくと、無理やり両手を取った。
そして、呼吸が触れるほどに顔を寄せる。
「残ったぞ!」
「……何が」
「君の論文! 王立アルケイア学術大賞の最終選考にだ!」
肌が、粟立った。
最高峰の学術賞。
それに、僕の論文が……?
「エリアス! やったな!
最終選考に残るだけでも、とんでもない栄誉だ! きっと最年少候補者だぞ!?
自信持て!
これで君は、この国でも指折りの学者であると証明されたようなものだ!
私も誇らしい!!」
「本当に……僕の論文が……?」
「そうだ!
私も何度も確認したから間違いない!」
僕は、席を立つ。
「ぼ……僕……コーデリアに……」
「そうだな。婚約者殿に伝えてやれ」
「えっと……まずは先触れを出して……それから……着替えて……?」
「先触れは私が出しておいてやるから、君はただ彼女の邸宅に向かったらどうだ?」
「……教授」
僕は深く頭を下げた。
「教授のご指導のおかげです!」
「君の努力の成果だよ。
ほら、早く行け」
「はい!!」
駆け出した。
研究室の扉を出て、廊下を駆ける。
その時――
腕を掴まれた。
体勢を崩して倒れそうになったところを、ぎりぎり持ちこたえる。
「おい、エリアス・ヴェイン」
そこにいたのはシリル・モンフォート。彼は僕の腕を強く掴み、僕を見据えている。
「……何」
「“アルケイア学術大賞”だって?」
彼の周りにいた男たちが、笑いだす。まるで嘲るように。
「みんな言っている。
お前の婚約者が金で買ったんだって」
「え……」
「選考委員まで買収するとは、やることがえげつないな。あのお嬢様」
血の気が引いていく。
「コーデリアがそんなことするわけ……」
廊下を歩く他の人々も、僕のことをちらと見ていった。
「お前の身体どころか、“王立アルケイア学術大賞”にまで手を出すなんて、とんだ阿婆擦れじゃないか」
「……な……何だって?」
声が震えた。
掴まれていた手を振り切り、シリルの胸ぐらを掴む。
「今……何て言った?
コーデリアを侮辱するようなことを言うなんて!
君は最低だな!!」
「お嬢様の飼い犬に吠えられたって怖くねぇや」
「この……!」
腕を振り上げる。
「待て待て待て!!」
研究室から飛び出してきたアルジャーノン教授が僕とシリルの間に身体を差し込んだ。
「エリアス。手をあげては負けだぞ」
息を呑み、拳を、下ろす。
教授はシリルの方を向くと、腕を組んで彼を見据えた。
「君も君だ。人の婚約者に向かって言っていい言葉ではない。君の指導教官にはしっかりと伝えておくからな」
シリルは肩をすくめると、飄々として、仲間の男たちを連れて去っていく。
傷だらけの廊下の木床。
軋む音がいくつも鳴る。
窓から差し込む日差しは鈍く、ぼんやりとした影が隅に蹲っていた。
僕は、教授に頭を下げ、また駆け出した。
馬車を飛び降りて、アシュクロフト邸の前庭を駆ける。
玄関扉の前で、執事が丁寧にお辞儀した。
「お待ちしておりました。エリアス様」
「さっき先触れを出したんだけど……。
大丈夫だった……?」
老執事は、柔らかく笑う。
「はい。お嬢様は大変喜ばれておりました。
……実は、本日はコーデリアお嬢様のところにベアトリス殿下がいらしておりまして。
王女殿下も是非お話を伺いたいとお待ちです」
「あ……。日を改めたほうが良かったんだ……。
ごめんなさい」
「いえ。お二人ともエリアス様を大変心待ちにしていらっしゃいます。
サロンでお待ちです」
僕は呼吸を整えると、執事の後をついて邸宅の中に入った。
豪奢な玄関ホール。
巨大なシャンデリアの明かりが、白大理石の床に弾かれている。誇るように飾られた大きな油絵が並び、ところどころに季節の花が活けられた大ぶりの花器が並べられていた。
歩くと、ブーツの音が高く響く。
玄関ホールを抜け、サロンへ。
白い石床を踏み、大きな木製扉の前に立つ。
執事がノックをしようと手をあげた。
僕は、思わずその手を掴む。
中から、声が漏れ聞こえてきていた。
「ねぇ、どれだけ積んだの?」
「大した額じゃないわ。
エリアスのためならいくらでも出せる」
「控えめに言ってもコーデリアは狂ってるわね」
僕は、息を呑む。
コーデリアと、ベアトリス王女殿下の声。
「それにしてもあの審査員はしぶとかった」
「本当に愚かね、あなた」
「結局かなり無理を通したわ」
「あ、そう。本当に愛が重いわね……」
「あちらも大変だったのよ。
でも、私はやり遂げたわ。
これで、素敵なものをエリアスに贈ってあげられる」
「そんなので……喜ぶのかしら、彼」
「きっと、喜んでくれるわ。
いくら積んでも足りないほどよ。
なんて言ったって
――誉れある“王立アルケイア学術大賞”ですもの」
僕は、一歩下がる。
「……嘘だ」
呼吸がうまく吸えない。
執事が心配そうに僕を見る。
「……エリアス様……これは……」
僕は首を振った。
また、一歩下がる。
「……ごめんなさい。
無理を言ったのに……。
僕、帰るよ……」
呼吸が、浅くなる。
胸が強く締め付けられた。
視界が、滲んでしまう。
「ごめんなさい……!」
踵を返した。
――嘘だ……
――信じられない……
信じたくない……!
あろうことか、僕の論文は
――王立アルケイア学術大賞のまさに大賞を受賞してしまった。
最年少受賞者。
この国きっての天才数学者。
そう持て囃され、あれよあれよという間に、受賞式典を迎えてしまう。
コーデリアが用意した礼服に身を包み、壇上へ。
メダルを掛けられ、賞状を受け取る。
スピーチを求められ、一人、壇上に立たされた。
見渡す。
朱の絨毯が一面に敷かれた会場。
シャンデリアの明かり。
壁の燭台の火が、揺れている。
こちらを見ている観衆。
誇らしげなコーデリアと、その後ろにいるアシュクロフト家の人たち。
微笑んでこちらを見つめているアルジャーノン教授。
僕を睨みつけるシリル・モンフォートとその一味。
特別席にはベアトリス殿下をはじめとした王族。
たくさんの、無邪気な人々。
僕は、深呼吸をした。
顔を上げる。
「大変、栄誉ある賞を……ありがとうございました。
でも僕は……。
僕のために僕の愛する人が手を汚してしまったこの賞を……受け取ることはできません」
会場が、ざわつく。
「僕は……辞退しま――」
「異議あり!!」
声の方を見ると、腕を真っ直ぐに伸ばしたベアトリス王女殿下。
彼女はゆったりと、だが、早足で僕のそばまで寄ってくる。
「皆様、この王立アルケイア学術大賞は我が国が威信をかけて育ててきた賞なのです。
いくら金を積まれようと、その選考に口を挟むことなどできはしません。
このベアトリス・ルヴェリエが保証致しますわ」
水を打ったように会場が静まった。
「つまり、我が国はこのエリアス・ヴェインの論文を、大変優れたものであると、はっきりと認めたのです。
誰がなんとか言おうと揺らがない」
「……殿下」
ベアトリス王女殿下が僕を見る。
すぐに視線を外し、会場を見渡した。
「コーデリア・アシュクロフト!
こちらにいらっしゃい! 例の物を持って!
あんたが元凶なんだからね!」
殿下の侍女らしき女性がコーデリアの腕を引き、彼女を連れてきた。当のコーデリアは大きな包みを胸に抱えている。
「コーデリア。
それを見せなさい」
「……嫌!」
侍女が包みを取り上げると、恭しくベアトリス殿下に渡した。
「待って! それは!」
コーデリアが取り返そうとするも、殿下はそれをすっと避けた。
包みを雑に開け、中の物を会場にかざして見せる。
「……それは?」
僕の声は、震えていた。
巨大な金色の長方形のもの。
繊細で豪華な彫刻が施されている。
「額縁よ!!」
会場がまたざわつく。
「名匠オリーフェイアによる作品」
悲鳴のような声が上がる。
「大金を積まないと絶対に引き受けはしないと名高い彼の作品だと!?」
「各国の王族が競い合うように彼の作品を欲していると聞いたことがあるわ!」
会場から語られるオリーフェイアについての評判が、次々と聞こえてきた。
僕は、言葉を失ってその金の額縁を見つめる。
「審査員を脅してまで賞状の大きさを聞き出し、オリーフェイアに大金を積んで作らせたのよ!
この女はね、金の使い方が致命的に下手なの!!
だから、アシュクロフト卿は賢いエリアス・ヴェインを娘の夫にと願ったんだわ!
その発想もどうかと思うけど!
分かるでしょ!? つまりバカなのよ!!
王立アルケイア学術大賞の選考委員に金を渡そうなんて発想があるわけ無いじゃない!」
会場の人々は、力が抜けたように苦く笑っていた。
コーデリアは壇上に蹲り、顔を手で覆っている。
「……エリアスに最初に見せたかったのに……。ひどい裏切りだわ……」
ベアトリス殿下は額縁を僕に押し付けた。
やたらと重い、それを。
「エリアス・ヴェイン。
改めて、王立アルケイア学術大賞の受賞、おめでとう。
これはほかでもない、あなたの賞よ。
そして、この精神的にも物理的にも重たい額縁にその証を入れて、家に飾ることね。
きっと玄関ホールがいいわ。一番見栄えがいいもの!」
僕はそれを、両手で受け取った。
ベアトリス殿下の後ろにいるコーデリアが顔を上げる。
額縁を受け取った僕を、嬉しそうに見つめていた。
会場から、拍手が湧く。
金の額縁。
シャンデリアの光を滑らせ、それはとても……とても眩しかった。
それから――
大賞を受賞しても、僕の生活はさほど変わらなかった。
いや、そうでもないかな?
学者として、肩書は上がった。
だけど、相変わらずアルジャーノン教授と一緒に研究を続けている。
「おい。エリアス・ヴェイン」
シリル・モンフォート。
彼とも相変わらず仲は悪い。廊下ですれ違いざまに絡んできたシリルを横目で見る。
「……お前の論文を読んだ。大賞を取るだけある。
次は負けないからな」
「……僕の論文。とってもよく出来てたでしょ?」
「あんま調子乗るなよ」
僕が声を立てて笑うと、シリルはふっと笑って歩き去っていった。
それから、それから――
カフェの一室。
僕の可愛いコーデリアは相変わらず……
「はい。受け取って」
僕に金貨を渡したがる。
「コーデリア。いらないよ」
また、彼女の綺麗な青い瞳がかげる。
仕方なく、金貨を受け取る。
「これは、コーデリアのために使う。今までのも全てコーデリア貯金」
「あなたのために使うのよ」
僕は顎に手を添え、考えた。
「あ、そうだ。
これで、コーデリアのウェディングドレスを買おう。デザインも僕がやる」
「え? でもそれは……」
僕は椅子を立って彼女の前に片膝をつき、その華奢な手を取る。
「コーデリアのウェディングドレスを脱がせるのは……僕だよ」
「え」
コーデリアの白い頬がみるみる赤くなった。
「つまり、コーデリアのウェディングドレスは僕のもの」
「な……」
「以上。証明完了」
僕がにっこりと笑うと、彼女は口を開け閉めしていた。でも、言葉は出てこない。
コーデリアの指先に、キスをした。
「結婚式が、楽しみだね」
彼女は、耳まで真っ赤にして、黙って頷いた。
僕の婚約者は、致命的にお金の使い方が下手。
でも、大丈夫。
僕が隣にいるから。
僕の隣で笑っていてくれるだけで、僕は幸せなんだから。




