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母子用品の購入履歴で夫の不倫が発覚したので、私は彼を社会的に終わらせました

作者: 熾星
掲載日:2026/06/20


 1.配送先の住所


 夫の楽天の購入履歴で、私は初めてその子どもの存在を知った。

 紙おむつ、哺乳瓶、赤ちゃん用のおしり拭き、産後ケア用品、新生児用の肌着。注文履歴に並んでいたものは、どれも私たち夫婦には必要のないものばかりだった。しかも配送先は、私たちが住む部屋ではなく、港区の同じ高層マンションの別棟になっていた。

 そこは、亡くなった両親が私に遺してくれた部屋だった。


 その夜、私は仕事から帰ってきて、何気なく夫の藤堂凛にネットの育児系インフルエンサーの話をした。粗悪な母子用品を売っていたせいで、子どもが高熱を出したという動画が炎上していたのだ。コメント欄は怒りの声で埋まっていた。

 ソファにもたれてスマホを見ていた凛は、ちらりと私の画面を見ただけで、気のない声を出した。


「こういう悪質な業者と配信者は、徹底的に潰されるべきだな」


 そう言ってから、彼は何気ない口調で続けた。


「俺も前に、あの配信で何度か買ったことがあるし」


 私の指が、スマホの画面の上で止まった。

 私たちには子どもがいない。二年前に流産してから、凛はずっと、まずは私の体を整えることが先だと言っていた。それなのに、子どものいない男が、どうして母子用品の配信で買い物をするのか。

 私は彼を見た。


「あなた、この配信で買い物したことがあるの?」


 凛の表情が、一瞬だけ固まった。

 けれど彼はすぐに立ち上がり、椅子の背に掛けていたバスローブを手に取った。まるで、何でもないことのように振る舞っていた。


「会社の同僚に子どもが生まれたんだよ。部署のみんなでお祝いを送った。俺は部長なんだから、何も出さないわけにはいかないだろ」


 あまりにも自然な言い訳だった。

 もし彼の目に、一瞬だけ走った動揺を見ていなければ、私はそのまま信じていたかもしれない。


「そうだったのね」


 私は笑って、それ以上は聞かなかった。

 浴室からシャワーの音が聞こえ始めてから、私はタブレットを開き、凛の楽天アカウントにログインした。彼は私がそんなところまで確認するとは思っていなかったのだろう。パスワードは、昔から変わっていなかった。


 購入履歴が、一件ずつ画面に表示された。

 ベビーベッド、哺乳瓶の消毒器、ベビーカー、産後用の寝間着、高価な空気清浄機、そして山のような日用品。配送先住所には、はっきりとこう書かれていた。

 東京都港区白金台、森海タワーB棟二十七階。

 それは同僚の家ではない。

 私の両親が生前に暮らしていた部屋だった。


 私は部屋着を脱ぎ、適当にコートを羽織って、車の鍵をつかんだ。夜の港区は明るく、エレベーターの鏡には血の気のない自分の顔が映っていた。

 私と凛が今住んでいるA棟から、両親の遺したB棟までは、歩いて五分もかからない。

 けれどその五分は、私の十年の結婚生活を歩き切るような時間だった。


 私は見慣れた扉の前に立ち、深く息を吸ってから、昔の暗証番号を入力した。

 エラー音が鳴った。

 もう一度入力しても、結果は同じだった。


 この部屋は私の名義だ。凛は以前、長いあいだ空けておくと湿気で傷むから、軽くリフォームして若い社会人に安く貸したいと言っていた。その頃の私は両親を失ったばかりで、何も考える余裕がなく、すべて彼に任せてしまっていた。


 今ならわかる。

 彼は私の財産を管理していたのではない。私の傷口の上に、別の女との巣を作っていたのだ。

 私はインターホンを押した。


 中から、赤ん坊の泣き声が聞こえた。細く、鋭く、耳の奥に針を刺すような声だった。しばらくして、扉が開いた。


 玄関に立っていたのは、若い女だった。

 淡いピンク色の産後用の部屋着を着て、手には最新型のスマホを持っていた。顔には出産直後らしいむくみが残っていて、奥では二人の産後ヘルパーが、泣きやまない赤ん坊の世話に追われていた。

 女は私を上から下まで眺め、不機嫌そうに眉をひそめた。


「藤堂さんが頼んだお掃除の方ですか? 少し待ってください。本人確認しますから」


 私は答えなかった。

 ただ彼女の肩越しに、部屋の中を見た。

 両親が大切にしていた胡桃材のダイニングテーブルは消えていた。母が好きだった白い陶器の花瓶も、父の書斎に並んでいた本棚も、すべてなくなっていた。

 代わりに置かれていたのは、ベビーベッド、粉ミルク、産後ケア用品、高価な母子用家電だった。

 私の家は、他人の産後部屋に変わっていた。

 女はスマホでビデオ通話をかけた。


「凛さん、頼んでいたお掃除の人が来たみたい。確認したら中に入れていい?」


 スマホの向こうから、聞き慣れた声がした。


「掃除の人なんて後でいいよ。瑠奈、俺はいまシャワー上がりなんだ。あの年増女も家にいないし、お前のことばかり考えてる」


 立花瑠奈と呼ばれた女は、恥ずかしそうに笑った。


「もう、やめてよ。そばに人がいるんだから」


 彼女はわざとらしく目を伏せ、甘ったるい声を出した。


「確認が終わったら、ちゃんと相手してあげるから」


 電話の向こうで、凛が満足げに息を吐いた。


「じゃあ、その人の名前だけ聞いて」


 私は手を伸ばし、瑠奈のスマホを奪った。

 彼女はまったく警戒していなかったのだろう。スマホを取られても、すぐには反応できなかった。私は画面を自分の顔の前に持っていった。

 画面の中で、藤堂凛は上半身裸のまま、タオルで髪を拭いていた。


「今さら、自己紹介が必要かしら?」


 画面の中の凛が凍りついた。

 浴室の湯気が、彼の背後で揺れていた。彼の顔から血の気が引いていくのが、画面越しにもわかった。数秒後、彼はようやく状況を理解し、驚きの表情を怒りに変えた。


「佐倉結衣、どうしてそこにいる。俺を調べたのか?」


 私は彼を見つめた。

 その瞬間、心のどこかで笑いが込み上げてきた。彼の顔に浮かんでいたのは、罪悪感でも後悔でもない。自分の不倫がばれたことへの怒りだけだった。


「私の両親が遺してくれた部屋をリフォームしたのは、愛人と子どもを住まわせるためだったの?」


 凛は眉をひそめた。

 いつもの穏やかな仮面は、もうそこにはなかった。


「お前はいい加減、そのお嬢様気取りをやめろ。どうせ知ったんだ。隠す必要もない」


 彼は一度言葉を切り、冷たい声で言った。


「瑠奈は出産したばかりで、静かに休まなきゃいけない。彼女と子どもに何かしたら、絶対に許さない」


 私は思わず笑った。


「夫が愛人と子どもを、私の両親の部屋に住まわせているのに、その私に向かって、彼女を怖がらせるなと言うの?」


「それなら私が、高級な産後ケアホテルでも予約してあげましょうか。あなたたち三人が、もっと快適に暮らせるように」


 凛の声が急に荒くなった。


「結衣、お前は少し大人になれ。男には一度くらい間違いがある。世界が終わるような話じゃない」


 彼は堂々と言い切った。


「それに瑠奈は、俺に息子を産んでくれた。藤堂家に跡継ぎができたんだ。これは俺にとって、悪いことじゃない」


 瑠奈が、遠慮がちに口を開いた。


「結衣さん、凛さんと喧嘩しないでください。もし私のことが受け入れられないなら、子どもはあなたの子として育ててもらってもいいんです。私はただ、凛さんのそばにいられれば……」


 私は通話を切った。

 部屋には、赤ん坊の泣き声と、産後ヘルパーたちの気まずい沈黙だけが残った。瑠奈は目に涙を浮かべ、まるで私こそが他人の家庭を壊しに来た悪者であるかのように立っていた。


 私は彼女を無視し、そのまま部屋に入った。

 リビングのソファに腰を下ろす。私の両親が使っていたものではない。真新しい、柔らかな白いソファだった。まるで凛が、この汚れた関係を隠すために用意した布のように見えた。


 五分もしないうちに、廊下から乱暴な足音が聞こえた。

 藤堂凛が飛び込んできた。髪はまだ濡れていて、上着もまともに着られていなかった。彼はソファに座っている私を見るなり、顔を歪めた。

 大股で近づいてきた彼は、私の腕をつかみ、無理やり立たせた。

 次の瞬間、頬に激しい痛みが走った。


「佐倉結衣、お前はいったい、いつまで騒げば気が済むんだ」



「今すぐ、ここから出ていけ!」



 2.息子として登録された子


 頬が熱を持って腫れていくのがわかった。

 痛みは皮膚から耳の奥まで広がり、一瞬だけ視界が暗くなった。それでも私は泣かなかった。叫びもしなかった。ただ、ソファに手をつき、ゆっくりと座り直した。

 私は凛を見上げた。


「私に出ていけと言うの?」


「藤堂凛、忘れたの? ここは私の部屋よ。あなたは私の部屋で愛人と子どもを養っている。それなのに、私に出ていけと?」


 凛は鼻で笑い、スマホを取り出した。

 彼は一枚の写真を開き、私の前に投げるように見せた。


「私生児だと?よく見ろ」


 私は画面を見た。

 そこには、子どもを藤堂凛の息子として登録した手続きの記録が写っていた。彼は私に黙って、立花瑠奈が産んだ子どもを自分の息子にしていたのだ。

 私はスマホを握る手に力を込めた。


「こんなことまで、私に黙ってしていたのね」


 凛は少しも悪びれなかった。


「あれは俺の息子だ。お前が産めないなら、他の女が産むしかないだろ」


 その言葉は、胸に深く突き刺さった。

 二年前の流産のあと、私は病室で痛みに耐えながら意識を失いかけていた。凛は私の手を握り、何度も大丈夫だと言った。お前が無事ならそれでいい、子どもはまた授かる、と言っていた。

 あの優しささえ、嘘だったのか。

 彼はもうずっと前から、私が産めないことを、裏切りの理由に変えていたのだ。

 私はスマホを彼の前に投げ返し、立ち上がった。


「藤堂凛、今日あなたがしたことの代償は、必ず払わせる」


 彼は軽蔑するように私を見た。


「誰を脅しているつもりだ。お前の両親はもう死んだ。今のお前は、誰にも守られない女だ。俺と別れて、お前に何が残る?」


 彼は玄関の方を指さした。


「これ以上騒ぐなら、瑠奈に席を譲ってもらうだけだ」


 私はそれ以上、何も言わなかった。

 部屋を出て、エレベーターの扉が閉まった瞬間、涙が落ちた。それは凛が惜しかったからではない。両親が残してくれた最後の温もりまで、彼に踏みにじられたと気づいたからだった。


 A棟の自宅に戻った私は、玄関に入ったところで目の前が暗くなった。靴箱に手をつき、何とか倒れずに立っていた。

 そのとき、スマホが震えた。

 知らない番号からのメッセージだった。


「佐倉結衣、もう騒がない方がいい。藤堂凛があなたを愛していると思っているの? 本当に愛していたら、二年間飲ませ続けた体を整える薬を、体を傷つける薬にすり替えたりしない」


 続けて、数枚の薬の明細写真が送られてきた。

 私は画面を見つめたまま、指先が震え始めた。

 それは、流産後に通っていた婦人科の漢方クリニックのものだった。凛は毎回私に付き添い、薬を受け取り、家に帰ると自分の手で煎じてくれていた。

 私はずっと、それを愛だと思っていた。


 パソコンを開き、写真に写っている薬の成分を一つずつ調べた。調べれば調べるほど、体の芯が冷えていった。

 中には、長期間飲むべきではないものが含まれていた。さらに恐ろしいことに、本来の体調管理の薬と合わない成分も混ざっていた。飲み続ければ、体調を大きく崩し、妊娠しにくくなる可能性もあった。


 私は画面の前に座ったまま、凛が毎晩薬を運んできたときの優しい顔を思い出した。


「結衣、飲んで。ちゃんと体を整えよう。俺たちには、また子どもができるから」


 あのとき、私は彼が一緒に悲しみから抜け出そうとしてくれているのだと思っていた。

 けれど実際には、彼は私をもっと深い場所へ突き落としていた。

 私は顔を洗い、クラウド保存の管理画面を開いた。

 B棟の部屋には、両親が生きていた頃、小型カメラをいくつか設置していた。母の体が弱く、父が転倒や急病を心配していたからだ。両親が亡くなってから、私はあの部屋を整理する気力もなく、カメラの存在さえ忘れていた。

 まさか、それが凛の裏切りの証拠になるとは思わなかった。

 映像が一つずつ再生された。


 藤堂凛と立花瑠奈は、リビングで抱き合い、寝室でキスをし、私の両親が暮らしていた部屋の中で、何の遠慮もなく親密に過ごしていた。母が大切にしていたテーブルは消え、父の書斎は赤ん坊の部屋になっていた。

 私は画面を見つめたまま、もう一滴の涙も流さなかった。

 スマホを手に取り、銀行担当の小林さんに電話をかけた。


「小林さん、両親が遺してくれた資産を、すべて私個人の名義できちんと整理したいんです。できるだけ早くお願いします」


 電話の向こうが、数秒静かになった。


「佐倉様、以前はその資金を、藤堂様が将来独立されるときのために残しておくとおっしゃっていましたが……」


「もう必要ありません」


 私は静かに言った。


「今日から、私のお金は藤堂凛とは一切関係ありません」


 電話を切ったあと、私は早川弁護士に連絡した。


「早川先生、離婚協議書の準備をお願いします」


 私はパソコン画面に映る監視カメラの静止画を見た。


「それから、私は部屋の所有者として、藤堂凛と立花瑠奈を訴えます。勝手に私の部屋に住み、鍵を変え、内装まで変えたことについて、退去と損害賠償を求めます」


 早川弁護士は、余計なことを聞かなかった。

 ただ、すぐに準備しますと言った。


 すべての手配を終えて寝室に戻ると、ベッドの上に飾られた結婚写真が目に入った。

 写真の中の凛は白いスーツを着て、穏やかに笑っていた。あの日、彼は私の手を握り、この人生で一番幸運だったのは私に出会えたことだと言った。


 私は椅子に上がり、写真立てを壁から外した。

 ハサミが写真を切る音が、部屋に小さく響いた。藤堂凛の顔は、少しずつ細かく切り刻まれ、ゴミ箱に落ちていった。


 化粧台の上には、彼が煎じてくれた薬がまだ何袋も置かれていた。

 私はそれをすべてトイレに流した。

 黒褐色の液体が排水口に消えていく。まるで、私の十年分の愚かで盲目的な愛が、音もなく流されていくようだった。



 3.後ケアホテル


 翌朝、一本の電話で目が覚めた。

 電話は、東京の高級産後ケアホテルからだった。藤堂様が産婦と赤ちゃんを連れて来られ、最上級の部屋を希望しているが、登録されていたカードの決済ができない、という丁寧で困った説明だった。

 私はベッドの端に座り、最後まで聞いてから笑った。


 藤堂凛は、ようやくお金が動かせなくなったことに気づいたのだ。

 私と私の両親がいなければ、彼の言う体面など、一泊三十万円の産後ケアホテルさえ支えられない。

 私は着替えて、そのホテルへ向かった。


 ホテルのロビーは明るく静かで、空気には淡い香りが漂っていた。藤堂凛はフロントの前に立ち、ひどく不機嫌な顔をしていた。立花瑠奈は赤ん坊を抱き、少し離れたソファに座って、目を赤くしていた。

 私を見るなり、凛は大股で近づいてきた。


「佐倉結衣、お前は正気か?どうして金を全部動かした」


 彼は声を低く抑えていたが、目の怒りは隠せていなかった。


「瑠奈と子どもには、今いちばん良い環境が必要なんだ。すぐに金を戻せ」


 私は彼を見た。

 もう、見知らぬ男を見るような気持ちだった。


「それは私の両親が遺してくれたお金よ。どうして私が、あなたの愛人と子どもの世話代を払わなきゃいけないの?」


 凛の顔が暗くなった。


「何が私の金だ。結婚して十年も経つ夫婦が、今さらお前の金だ俺の金だと分けるのか」


 私はロビーのソファに座った。


「分けないと言うなら、あなたが大学時代から私と私の両親に払わせてきた学費、生活費、留学費用、スーツ代、人脈づくりに使ったお金も、全部計算していいわよね」


 凛は笑った。

 馬鹿にするような、乾いた笑いだった。


「佐倉結衣、お前はそんなことまで数えていたのか?」


 彼は私を見下ろした。


「俺がここまで来たのは、俺の実力だ。お前はただ、教授の家庭に生まれて、親に守られていただけだろ」


 立花瑠奈が赤ん坊を抱いて近づいてきた。

 彼女は凛の袖を弱々しくつかんだ。


「凛さん、もういいです。結衣さんが私たちを受け入れられないなら、私が出ていきます」


 そう言いながら、彼女は涙をこぼした。


「私のせいで、二人が喧嘩するのは嫌なんです」


 凛はすぐに彼女を抱き寄せた。


「どこに行くんだ。お前は出産したばかりだ。どこにも行かなくていい」


 彼は私に向き直った。


「結衣、このホテル代を払え。今日お前が少しでもまともな態度を取るなら、離婚しないでやってもいい」


 私は思わず笑いそうになった。


「勘違いしないで。離婚するかどうかを決めるのは、もう私よ」


 凛の顔が一瞬で曇った。


「いい気になるな。この子は、いずれお前を母親と呼ぶんだぞ。大人として恥ずかしくないのか」


 私は立ち上がり、彼の前に立った。


「お金を立て替えてほしいなら、条件があるわ」


 凛が一瞬、動きを止めた。

 私は彼を見つめて、はっきり言った。


「大学時代の学費、生活費、留学交流費、結婚後の高額な支出、それからあなたの両親が私から受け取ってきたお金。少なく見積もっても二千万円以上あるわ。まずそれを返して。そうしたら、彼女と子どものホテル代を払ってあげる」


 凛の顔が青くなり、次に赤くなった。


「お前、本気でそんな金を請求するつもりか」


「もちろん」


 私はうなずいた。


「あなたが全部自分の力でやってきたと言うなら、私のものはすべて返してもらう」


 瑠奈が横から小さく言った。


「結衣さん、ひどいです。凛さんは医療機器会社の営業部長なんですよ。外には藤堂夫人になりたい女性がたくさんいるのに、あなたはその立場を大事にしないばかりか、凛さんを侮辱するんですか」


 私は彼女を見た。


「藤堂夫人がそんなに価値のある立場なら、あなたが自分で払えばいいじゃない」


 瑠奈の顔がこわばった。

 凛はとうとう我慢できなくなったのか、私の手首をつかもうとした。


「佐倉結衣、俺を追い詰めるな」


 私は一歩下がって、その手を避けた。


「少しでも触れたら、すぐに警察を呼ぶわ。昨夜の平手打ちは、もう診断書を取ってある」


 凛の手が宙で止まった。

 私はスマホを取り出し、早川弁護士に短いメッセージを送った。そしてフロントのスタッフに向き直った。


「申し訳ありません。藤堂さんの支払いは、私とは一切関係ありません。今後、私に連絡しないでください」


 そう言って、私はホテルを出た。

 背後から、凛の歪んだ声が聞こえた。


「佐倉結衣、必ず後悔させてやる!」


 私は振り返らなかった。

 本当に後悔すべき人間は、私ではない。



 4.旧宅の写真


 藤堂凛も、数日くらいは大人しくするだろうと思っていた。

 しかし夕方、私がB棟の部屋に戻ると、立花瑠奈はすでにそこにいた。彼女はリビングに座り、二人の産後ヘルパーに赤ん坊用品を片づけさせていた。まるで、この部屋の女主人であるかのようだった。

 私は玄関に立ち、彼女が母の好きだったカーテンを外させ、ゴミ袋に入れさせるのを見ていた。

 その瞬間、私の中に残っていた最後の迷いが消えた。

 瑠奈は私に気づくと、一瞬だけ驚き、それから柔らかく挑発的な笑みを浮かべた。


「結衣さん、来たんですね」


 彼女は赤ん坊を抱いてソファに座ったまま、客を迎えるような口調で言った。


「このヘルパーさんたち、本当に手際がいいんです。結衣さんもいつか子どもができたら、紹介してあげますね」


 私は彼女を見つめ、ゆっくり歩み寄った。


「この部屋が誰のものか、わかっているの?」


 瑠奈は赤ん坊をあやしながら、私を見ようともしなかった。


「凛さんは、ここを私と子どものために使わせてくれると言っていました。夫婦の財産のことは、私にはわかりません。関わるつもりもありません」


 関わるつもりはないと言いながら、彼女は私の両親の部屋に座っていた。凛が私のお金で買ったものを使い、凛が自分の息子として登録した子どもを抱いていた。

 私はバッグを開き、写真の束を取り出した。

 それを彼女の前に投げた。

 写真が床に散らばった。


 監視カメラから切り出した画像だった。藤堂凛と立花瑠奈が、リビングで、寝室で、廊下で、抱き合い、触れ合い、親密に過ごしている姿が写っていた。どの一枚も、彼らの顔をつぶすには十分だった。

 瑠奈は悲鳴を上げ、慌てて床にしゃがみ込んだ。


「あなた、正気なの? 私たちを盗撮したの?」


 私は冷たく見下ろした。


「ここは私の部屋よ。両親が生前、見守りのために設置したカメラが残っていただけ。勝手に入り込んで、不倫の場所にしたのはあなたたちでしょう」


 そのとき、玄関から荒い足音が聞こえた。

 藤堂凛が飛び込んできた。床にしゃがみ込んで写真を拾っている瑠奈を見た瞬間、彼の目が赤くなった。


「瑠奈、どうした」


 彼は一枚の写真を拾い、内容を見た途端に顔色を変えた。次の瞬間、テーブルの上にあった花瓶をつかみ、私に向かって振り上げた。

 私は動かなかった。

 ただ、彼を見て言った。


「今日ここで私が怪我をしたら、この写真はすぐに、あなたの会社の上層部、取引先、家族のLINEグループ、そしてあなたの知り合い全員のもとへ送られるわ」


 凛の手が止まった。

 彼は面子を何よりも愛している。結婚を裏切り、私の部屋を奪い、私の体を壊そうとすることはできても、自分の汚れた姿を人に見られることだけは耐えられない男だった。

 花瓶は床に叩きつけられ、粉々に割れた。

 凛は私を指さし、歯ぎしりするように言った。


「佐倉結衣、よくも俺を脅したな」


 私はバッグと予備の鍵を手に取った。


「脅しじゃないわ。通知よ」


 私は瑠奈を見た。


「明日までに、あなたの荷物を持って出ていって。そうしないなら、裁判所から退去を求める書類が届くことになる」


 そう言って、私は部屋を出た。

 その夜、私は凛のいる家には戻らず、三浦沙耶の事務所へ向かった。

 沙耶は大学時代からの親友で、今は私と一緒にPRデザイン事務所を経営している。すべてを聞き終えると、彼女は怒りのあまりコーヒーカップを割りそうになった。


「あなたの部屋で女を養って、そのうえ殴ったの?」


 私は事務所の小さなソファに座り、疲れて目を閉じた。


「それだけじゃない。二年前から、私の薬にも手を加えていたかもしれない」


 沙耶の顔色が変わった。

 私はあの薬の明細写真を彼女に渡した。

 読み終えた沙耶の表情が、少しずつ暗くなっていく。


「結衣、これはもうただの不倫じゃない」


「わかってる」


 私は目を開けた。


「だから、離婚だけで終わらせるつもりはない」


 それから数日、私はあの婦人科の漢方クリニックへ通った。

 最初、クリニックは詳細を話すことを拒んだ。けれど早川弁護士が正式に介入すると、当時の処方記録の確認に応じた。結果は、私の想像よりずっと悪かった。


 主治医が出した本来の処方は、途中で勝手に変えられていた。

 薬を用意する補助スタッフとして働いていた臨時職員が、立花瑠奈だった。


 その頃の彼女は、少なくとも私にとっては見知らぬ人間だった。けれど彼女と凛はすでに知り合っていて、私の薬を変えることに関わっていたのだ。

 医師は記録を見ながら、重い声で言った。


「長く飲み続けていれば、妊娠しにくくなる可能性はあります。体にもかなりの負担がかかったはずです」


 診察室に座ったまま、私の手足は冷えきっていた。

 十年の結婚。十二年の感情。

 私が何もかも差し出して愛した男は、一時の過ちを犯したのではなかった。ずっと前から、私のお金、部屋、体、そして命までも奪う準備をしていた。

 クリニックを出たとき、沙耶から電話が来た。

 彼女の声は慌てていた。


「結衣、すぐ戻ってきて。藤堂凛が赤ちゃんを抱いて、事務所の前で土下座してる。あなたが夫と子どもを捨てたって騒いで、野次馬と動画配信者が集まってる」


 私は足を止め、曇った東京の空を見上げた。

 そして、笑った。


「彼が芝居をしたいなら」


 私は車のドアを開けた。


「私が、もっと大きな舞台を用意してあげる」



 5.大型スクリーンの真実


 事務所へ戻る前に、私は病院の化粧室に寄った。

 鏡の中の私は顔色が悪く、目の下には薄い影があった。ファンデーションを塗り直し、口紅を引き、髪をきちんとまとめた。

 人前に立つなら、惨めな姿では立たない。


 三十分後、私は車で事務所に戻った。入口の前には、すでに大勢の人が集まっていた。何人かの動画配信者や八卦系のネット記者がスマホを構え、獲物を待つような目をしていた。

 藤堂凛は、赤ん坊を抱いて入口の前に跪いていた。

 私を見るなり、彼は目を赤くして駆け寄ってきた。


「結衣、やっと会ってくれた」


 彼は赤ん坊を強く抱きしめ、涙声を作った。


「怒っているのはわかってる。でも子どもに罪はないだろ。俺を捨てるのはいい。でも、俺たちの子まで捨てるのか」


 周囲がざわめいた。

 何人ものスマホが私に向けられた。凛は芝居がうまかった。しわの寄ったシャツ、乱れた髪、泣き続ける赤ん坊。どう見ても、冷たい妻に捨てられた哀れな夫に見えた。

 私は彼の前で立ち止まり、見下ろした。


「藤堂凛、あなたはまだ、自分が先に私を悪者にすれば、私が黙ると思っているの?」


 凛の目が揺れた。

 けれど口では、なおも芝居を続けた。


「結衣、何を言ってるんだ。俺はただ、お前と子どもを連れて家に帰りたいだけだ」


 私は沙耶を見た。

 事務所の入口に立っていた沙耶が、リモコンのボタンを押した。

 外壁の大型スクリーンが点灯した。

 一枚目の写真が映し出された瞬間、周囲は静まり返った。

 そこには、藤堂凛と立花瑠奈が、私の両親の部屋のリビングで抱き合っている姿が映っていた。二枚目、三枚目、四枚目と、画像はどれも鮮明だった。

 凛の顔から血の気が引いた。


「消せ! 今すぐ消せ!」


 彼は立ち上がり、赤ん坊を抱えたままスクリーンへ向かって走ろうとした。だが沙耶が呼んでおいた警備員に止められた。

 私はマイクを取った。

 声は、事務所のスピーカーを通して広がった。


「先ほど藤堂凛さんは、私が夫と子どもを捨てたと言いました」


 私はカメラを見た。


「でも、この子は私が産んだ子ではありません。母親は、画面に映っている立花瑠奈さんです」


 スクリーンの映像が切り替わった。

 凛がその子を自分の息子として登録した記録、立花瑠奈が私の両親の部屋に住んでいた配送記録、監視カメラの画像、そして部屋の所有者が私であることを示す書類が映し出された。

 人群の中から、息をのむ声が聞こえた。


「つまり、男が不倫して、愛人と子どもを妻の部屋に住まわせていたってこと?」



「さっきまで本妻が夫と子どもを捨てたって言ってたのに、完全に自作自演じゃない」



「ひどすぎる」


 藤堂凛は赤ん坊を抱いたまま、顔を歪めた。


「佐倉結衣、お前は俺を潰す気か」


 私は彼を見た。


「私が潰すんじゃない。あなたが自分でやったことよ」


 彼は突然、赤ん坊を藤堂の母に押しつけた。

 そして事務所の入口に置かれていた観葉植物の鉢をつかみ、私に向かって投げつけた。

 沙耶がとっさに私を引いた。


 鉢は私の肩をかすめ、地面に叩きつけられて割れた。破片が腕を切り、鋭い痛みが走った。その瞬間、近くで待機していた警察官が凛を取り押さえた。

 私は血のにじむ腕を押さえ、冷たく彼を見た。


「藤堂凛、今の行動は全部カメラに映っているわ」


「傷害、名誉毀損、私の部屋の不法使用、それから私の薬に関わること。全部、一つずつ責任を取ってもらう」


 凛は警察官に押さえつけられながら、なおも叫んだ。


「この女! 俺がいなければ、お前なんて何者でもないくせに!」


 私はもう彼を見なかった。

 沙耶に付き添われ、病院で腕の処置を受けた。包帯を巻かれながら、沙耶は悔しそうに目を赤くしていた。


「あんな人間、社会的に終わらせないと気が済まない」


 私は腕の包帯を見つめ、静かに言った。


「彼はすぐにわかるわ。本当の報いは、まだ始まっていないって」


 その夜、私は整理した証拠を早川弁護士に送った。

 同じものを、藤堂凛の会社の監査部門にも送った。医療機器会社にとって、信用と倫理は何より重要だった。凛は病院相手の営業部長だ。不倫、妻の部屋の不正使用、公開の場での暴力、薬のすり替え疑惑。そのどれか一つでも、会社は彼を切り捨てる理由になる。


 一方で、沙耶は立花瑠奈の匿名アカウントを見つけた。

 それは、限られた人間だけに公開されていたXの裏アカウントだった。そこには彼女が、さまざまな男と付き合い、金やバッグや部屋を手に入れてきた記録が残っていた。

 最新の投稿は、出産の数日前のものだった。


「今回こそ、うまく引っかけた。地方出身で、そこそこ出世していて、面子に弱い男。子どもが生まれたら、部屋とお金をもらって、息子と楽に暮らす」


 私はその文字を、長いあいだ見つめていた。

 翌日、DNA鑑定の結果が届いた。

 結果は、想像どおりだった。

 藤堂凛が自分の息子として登録したその子は、彼の子ではなかった。



 6.身代わりの父親


 翌日、藤堂凛の母親が、親戚を連れて事務所の前に現れた。

 彼女は地面に座り込み、どこかで雑に加工した私と知らない男の写真を振り回して泣き叫んだ。写真は一目で合成だとわかるほど粗かったが、騒ぎ立てるには十分だった。


「藤堂家は何の罰を受けているんだろうねえ!」


 彼女は声を張り上げた。


「こんな恥知らずな嫁をもらってしまった。外で男を作っただけじゃなく、よその男の子どもまで産んで、今度はうちの息子を陥れようとしている!」


 藤堂凛も来ていた。

 顔はやつれ、目は赤く充血していた。それでも彼はあの赤ん坊を抱き、群衆の前で父親を演じていた。

 私が現れると、彼はすぐに詰め寄ろうとした。


「佐倉結衣、お前はよく顔を出せたな」


 警察官が彼を止めた。

 私は人々の前で立ち止まり、封筒を取り出した。


「恥を知るべきなのは、あなたの方よ」


 私はDNA鑑定書、立花瑠奈の裏アカウントの投稿、彼女が複数の男と関わっていた写真を、一枚ずつカメラの前に出した。

 凛は最初、冷笑していた。

 しかしDNA鑑定書の結果を見た瞬間、体から力が抜けたように顔色を失った。


「ありえない」


 彼はつぶやいた。


「瑠奈は、俺の子だと言った」


 私は彼を見た。


「彼女は裏アカウントで、あなたのことを一番だましやすい身代わりの父親だと書いていたわ」


 周囲が一気にざわめいた。


「子ども、彼の子じゃないの?」


「妻を苦しめて、愛人の子を育てようとして、結局よその男の子だったってこと?」


「これが本当なら、報いが早すぎる」


 凛は顔を上げ、憎しみに満ちた目で私をにらんだ。


「嘘だ。佐倉結衣、お前が偽造したんだろう!」


 私は一歩下がり、彼の崩れていく顔を見た。


「藤堂凛、誰もがあなたのように、証拠を偽造して人を傷つけるわけじゃない」


 彼は突然、私に殴りかかろうとした。

 警察官がすぐに彼を押さえつけた。

 凛はもがきながら、かすれた声で叫んだ。


「そうだ、俺は不倫した。それが何だ。成功している男なら、誰でも一度くらい間違いを犯す。世の中の妻たちは、みんな見て見ぬふりをしているんだ」


「それなのに、お前だけが騒ぐ。お前だけが俺を壊そうとする!」


 彼の目は、憎しみで濁っていた。


「俺が一番嫌いだったのは、お前のその高いところから見下ろす顔だ。大学教授の娘だからって、何様のつもりだったんだ。お前の両親はもう死んだ。死んだんだよ!」


「今のお前は、俺がいなければ何もできない寄生虫だ!」


 両親をそのように罵られた瞬間、胸の奥で憎しみが燃え上がった。

 私は彼の前まで歩き、見下ろした。


「藤堂凛、あなたはずっと、私をそんなふうに見ていたのね」


「なら、その目でよく見ていなさい。あなたから離れた私は、どれだけ明るく生きていけるのかを」


 私は早川弁護士を見た。

 早川弁護士は書類を持ち、カメラの前に進み出た。


「佐倉結衣さんは、藤堂凛氏および立花瑠奈氏に対し、離婚、部屋からの退去、損害賠償を求める手続きを正式に進めています。また、本日この場で虚偽の写真を拡散し、悪質な中傷を行った方々についても、証拠を保全したうえで法的責任を追及いたします」


 藤堂の母の泣き声が、そこで止まった。

 彼女は地面から立ち上がり、私を指さして怒鳴った。


「佐倉結衣、この親不孝女! 若くして親を死なせておいて、今度はうちの息子まで潰すのかい。あなたが今持っているものは、全部うちの息子のおかげじゃないか!」


 私は彼女の前にしゃがみ、歪んだ顔を見つめた。


「あなたの息子が今まで体面を保てたのは、私の両親のお金、私の人脈、私が支えてきた暮らしがあったからよ」


 私は立ち上がり、袖を整えた。


「だから今、それをすべて取り戻す」


 そう言って、私は彼らの横を通り、事務所の中へ入った。

 その日から、藤堂凛の騒動はネットで一気に広がった。

 彼が勤めていた医療機器会社は、すぐに発表を出した。藤堂凛が会社の倫理規定と信用管理に重大な問題を起こしたとして、調査のために職務を停止するという内容だった。


 数日後、彼は正式に解雇された。

 立花瑠奈も無事では済まなかった。

 過去に彼女にだまされた男たちの妻が、私に連絡してきた。彼女たちは送金記録、メッセージ、録画、そして瑠奈が妊娠や別れ話を利用して金を引き出していた証拠を持っていた。

 さらに、クリニックの記録から、瑠奈が当時、私の薬の準備に関わっていたことも確認された。

 すべての証拠は、警察に提出された。


 やがて、藤堂凛と立花瑠奈は完全に決裂した。

 凛は親子鑑定の結果を受け取ったあと、瑠奈のところへ押しかけたらしい。問い詰める彼に対し、瑠奈は人前で、貧乏人、身代わりの父親、役立たずと罵ったという。

 逆上した凛は、台所の刃物を手に取った。


 幸い、近所の人が争う声を聞いてすぐに通報していた。警察が駆けつけたとき、瑠奈と子どもに命の危険はなかった。凛はその場で取り押さえられ、瑠奈も詐欺、脅迫、薬の件に関わった疑いで事情を聞かれることになった。


 その知らせを聞いたとき、私は早川弁護士の事務所で離婚書類に署名していた。

 早川弁護士が、最後のページを私に差し出した。


「佐倉さん、これで法的にも、藤堂凛さんとの婚姻関係は終わりました」


 私はペンを持ち、自分の名前を書いた。

 その瞬間、想像していたような痛快さも、深い悲しみもなかった。

 ただ、長いあいだ胸に乗っていた重い石が、ようやく落ちた気がした。



 7.新しい生活


 離婚後、私は両親が遺してくれた部屋に戻った。

 部屋は、藤堂凛と立花瑠奈に荒らされ、すっかり姿を変えていた。壁紙は貼り替えられ、床には傷があり、父の書斎は空っぽになっていた。母が好きだったベランダの花台も消えていた。

 私はリビングの真ん中に立ち、長いあいだ黙って部屋を見渡した。

 デザイナーは、すべて新しい雰囲気に変えるかと聞いた。

 私は首を振った。


「できるだけ、昔の形に戻してください」


 父の本棚が戻ってきた。

 母の好きだった白い陶器の花瓶に似たものを、古道具屋で見つけた。ベランダには紫陽花とミントを植え直した。春になれば、落ち着いた陽射しが窓から差し込むはずだった。

 私はこの部屋を、裏切りの記憶だけで終わらせたくなかった。

 ここは、かつて私の家だった。


 そしてこれからも、私の家になる。

 その後、凛は私に会いたいと申し出た。

 警察からその話を聞いたとき、私は事務所で打ち合わせをしていた。沙耶は私が心を揺らすのではないかと心配そうに見ていた。

 私は首を振った。


「会いません」


 もう会う必要はなかった。

 私と藤堂凛の間には、話すことなど何も残っていない。彼は私に、憎んでいるのかと聞いたことがある。もちろん、憎んでいる。

 私は彼を憎んでいる。私たちの子どもを失わせたことも、私の信頼を利用したことも、両親が遺してくれたものを踏みにじったことも、私を傷つけながら感謝を強要したことも、すべて憎んでいる。

 けれど、憎しみを私の残りの人生すべてにするつもりはなかった。

 彼には代償を払わせる。

 けれど私は、彼が作った地獄の中に、自分を閉じ込め続けるつもりはない。


 数か月後、事件には少しずつ結果が出た。

 藤堂凛は暴力未遂、中傷、私の部屋を勝手に使っていたこと、そしてその他の調査事項によって、大きな代償を払うことになった。仕事を失い、名誉を失い、借金を抱えた。彼が誇っていた藤堂家も、騒ぎが大きくなるとすぐに彼と距離を置いた。

 彼の両親は、彼を受け入れなかった。

 藤堂の母は、村で噂になるのが耐えられない、あんな恥さらしの息子を家に入れるわけにはいかない、と泣いたらしい。

 本当に皮肉な話だった。

 藤堂凛が最も大切にしていたのは、家庭、子ども、お金、仕事、そして体面だった。けれど彼は、そのすべてを自分の手で壊した。

 大学時代、彼は私にこう言ったことがある。


「結衣、俺はお前と一緒にいられて、幸せな家庭を持って、可愛い子どもがいて、健康に働ける仕事があれば、それだけで十分だ」


 そのときの私は、彼が本当に、ささやかで穏やかな幸せを望んでいるのだと信じていた。

 けれど今ならわかる。

 人の心の底にある悪意は、放っておけば、与えられた愛さえ少しずつ食いつぶしていく。

 彼は急に変わったのではない。

 ただ、ようやく仮面を外しただけだった。


 私と沙耶のPRデザイン事務所は、以前より忙しくなった。

 あの騒動のあと、女性向けブランドから仕事の依頼が増えた。危機対応やブランド戦略を任せたいという話が次々に舞い込んだ。沙耶は冗談めかして、私は東京で一番うまく裏切り者に反撃した女だと言った。

 私は笑って首を振った。

 裏切った男に、自分の価値を決めさせたくはなかった。


 半年後、私は京都の芸術大学の短期講座に申し込んだ。若い頃からずっとやりたかったことだった。結婚や家庭のために、何度も後回しにしてきたことでもあった。

 出発の前に、私は両親の墓へ行った。

 白い桔梗の花を供え、静かに報告した。部屋を取り戻したこと、自分自身も取り戻したこと。


 墓地の木々の上を、風が通り抜けた。

 その瞬間、両親は本当はどこにも行っていないのだと思えた。彼らが私に残してくれたのは、部屋やお金だけではない。もう一度立ち上がるための力だった。


 その後、私は京都で学び、北海道を旅し、一人で鎌倉の海も見に行った。

 藤堂凛のいない日々の中で、私は食事をし、眠り、働き、暮らすことを少しずつ覚え直した。最初は大変だと思っていた。けれど実際には、彼から離れてからの方が、呼吸はずっと楽だった。


 春、東京の桜が咲いた。

 私は修復の終わった港区の部屋に戻り、ベランダの扉を開けた。陽射しが、新しく植えた紫陽花の葉に落ちていた。


 沙耶からメッセージが届いた。

 事務所に新しい案件が入ったらしい。

 私は返信した。


「わかった。明日から忙しくしよう」


 スマホを置き、自分のためにコーヒーを淹れた。

 過去の痛みは、今も消えていない。失った子ども、亡くなった両親、だまされ続けた十年。それらは、一度勝ったからといって、すべて消えるものではない。

 それでも、いい。


 私はこの傷を抱えたまま、ちゃんと生きていく。

 藤堂凛は、自分が欲しがっていたすべてを、自分の手で壊した。

 そして私は、自分の人生を、自分の手で取り戻す。



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