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猫みたいな男を拾った話

作者: 朝日エール
掲載日:2026/03/19

 その男は雨の中、ずぶ濡れで猫を抱えて丸くなっていた。


(…………?)


 多分、そこで足を止めたのが間違いだった。

 いや、いい判断だったとも言う。




 在宅ワーカーにも、たまに出社日がある。

 この日涼真は、出社帰りに最寄りのスーパーへ足を運んでいた。


(スーパー近いのは有り難いんだけどな……量がな……)


 そこは商店街の端にあるからか、業務用ですか? という程にひとまとまりの量が多く、多くの種類が買えない。特に野菜。

 その結果、残念な献立になる。

 1週間じゃがいも料理、とか、1週間人参料理、とか。


 安いんだけどな……ともやっとしたまま、今週はキャベツ、とまるっと1玉を買い物かごへ放り込んだ。



 会計を終えてエコバッグに詰め替えると、折り畳み傘を広げた。



 少し歩いたところで、()()に気づいたのは、多分偶然。

 横道の角辺りで黒いものが動いたような気がして、猫か? と何気なく顔を向けた。



 そこに、その男はいた。



 全身黒。黒の半袖パーカーに黒の七分スウェットパンツ。

 黒髪の未成年らしき青年がうずくまり、膝に黒猫を乗せていた。


 停止する思考回路とともに、うっかり足が止まる。


(…………家出……? 捨て猫見つけて、家で飼えない、とか?)


 この雨の中? と一人勝手に突っ込む。


(って、いやいや。止まってどうする。関係ない。おれには関係ないって)


 そういう気分の時もあるよな、振られたとか。と言い聞かせながら、再び歩き出す。


 左手に、エコバッグの、ずし、とした重みを妙に感じた。



 気づけば踵を返し、傘を青年の頭上に掲げていた。


「……どしたよ、おまえ」

「……え?」

「その猫、拾ったの?」


 青年が、目を丸くして顔を上げる。

 目でけーな、とふと思う。


「え、いや……こいつが、ノミかゆいって言うから、雨で洗ってる」

「にゃ」

「ああ、ごめん」


 ここ? にゃあ。と猫と謎の会話を繰り広げる青年に、呆気にとられ、言葉が出ない。


「…………(今年一番意味わからん)」


 声かけなきゃよかった、と涼真は心底思った。



 

「服、適当に置いといたから使って」

「…………どうも」


 結局、家に連れてきた。


(未成年を見て見ぬふりするのはな……声かけちゃったし。そのまま帰っても後味悪いしな……ビールが不味くなる)


 冷蔵庫から取り出した缶ビールを、カシュ、と開ける。

 ぐいっと喉へ流し込むと、机の上で存在感を放つ、キャベツの大玉を見た。


(……野菜、余るしな)


 そういうことにした。



 洗面所の扉が開いて、青年がおずおずと顔を出した。


「これ……どうしたらいいの?」

「ああタオル? 濡れた服も一緒に、全部洗濯機に放り込んどいて。後で洗っとく――」


 そこまで言って、彼が着ている、ワンピースかってくらい長い自分のTシャツに、思わず視線が向く。


「……ぶかぶかだな……」

「…………」


 じと……、と、すごい目で睨まれた。



 青年は、氷魚(ひお)、と名乗った。


「氷に魚で、氷魚」

「……珍しい名前だな」

「よく変な名前って言われる」

「別に変ではないだろ」

「…………。おまえは?」

「涼真。涼しい、真実の真」


 すると、氷魚の目が真ん丸に見開かれる。

 ただでさえでかい猫目が、顔いっぱいに広がった。


「…………龍に馬じゃねーんだ」

「…………何で?」

「郵便受けに『坂本』って書いてあったから」

「……よく見てんな」


 フルネームバレたくなかったのに、とぼやくと、ふ、と小さく笑う氷魚。


「強そう」

「強くねーよ。ジャンプ力だけが取り柄の、ただの25歳」

「何だそれ」


 普段嫌いな自己紹介が、氷魚の緊張を少しだけ解いたようだ。



「これ、適当に食ってて」


 食べるとも何も聞いてないけど、買ってきた唐揚げや餃子などの惣菜を適当に出した。

 外は真っ暗、時間も時間だし、まあ食うよな、という完全自己判断。

 9月の終わり、夜の時間は短くなりつつあった。

 

 キッチンから静かなダイニングを、ちら、と覗くと、氷魚は円卓の前にちょこんと丸くなって座っていた。

 そして、唐揚げをもりもり食べていた。


(……案外ふてぶてしい?)


 遠慮されると気まずいから、助かった。

 少し安心して、缶ビールと山になったキャベツが乗る皿を円卓に置き、涼真も少し離れた隣に座る。


 すると、その皿を見た氷魚の目がまた丸く見開かれる。


「キャベツと塩昆布とツナを適当に和えたやつ。ほぼキャベツだけど。いいか。おれがおまえを連れてきたのは、このキャベツを消費してもらうためでもあるんだからな。食えよ」

「…………」


 じ、と皿を見つめていた氷魚は、無言でキャベツを大量に小皿によそった。


 その時、涼真がぐいっと傾ける缶に、氷魚の視線が留まる。


「……それ」

「ん? ビール」

「おれも飲みたい」


 はた、と固まる涼真。


「……未成年には、やれないけど……」


 すると氷魚は、むっと目を細めた。


「21」

「え?」

「おれ、21」

「…………」


 今度は涼真が、目を丸くした。


「…………噓だろ」


 再び、じと…………、と、すごい目で睨まれた。



 酒が入れば、それなりに会話は弾む。

 スーパーの話だとか、好きな惣菜の話だとかキャベツ料理って何があるんだみたいな話とか(そういえば、ほぼスーパー絡みの話しかしてない気がする)。

 あとは、猫の話とか。


「猫、好きなの? 今日世話してたけど」

「……それなりに愛着は」

「それなりにあいちゃく」


 ちょっと意味は解らなかったけど。



 途中、シャワーを浴びに席を外し、戻ってくると。

 氷魚は寝ていた。


 2人のクッションを繋げ、その上で丸くなって眠る姿は、猫を彷彿とさせた。

 丸くなる目も、じと……と睨む表情も、どこかふてぶてしいところも、なんか猫っぽい。


(……変なやつ)


 気まぐれに一時保護した猫が、安心して寝ていったのだとすると、拾った意味はあったかも、と少し嬉しくなった。



 都心の社会人一人暮らし。

 たまにはこういう、意味のわからない出会いみたいなものがあっても面白いのかも。

 とか、少しだけ酔った頭で、いい感じのことを思いながら寝た。


 どうせ、今日だけのこの場限りの関係なんだし。



 

 と思っていたのだが。




 次の日。


 

 氷魚はなんやかんや、帰らなかった。


 

「まだ、靴乾いてなかった」

「…………」


(服は、昼には乾いたけど……靴……? つーか、窓際から動く気配がない……)


 窓際で丸くなりながらスマホをいじる氷魚に、ちらっと視線を送る。

 周囲の視線に敏感なのか、ぱっとこちらに大きな目を向けた。


「何?」

「おまえ、今日も夕飯までいる?」

「…………まだいていいの?」

「別にいいけど」


 作る量の都合があるから、と言うと、氷魚は目を真ん丸にして固まった。


(…………これ、驚いた顔?)


 やっぱり猫っぽい……と、ちょっと気になりだした。




 その次の日。


「今日も夕飯食う?」

「(こくこく)」

「一昨日話してた、スーパーの美味い惣菜買ってくる? たらことか」

「(ぱあ)」

「(……好きなのか?)」




 その翌朝。


「…………」


 涼真の布団の足元で、丸まって寝ている氷魚。


(……猫?)


 こいつ猫なんじゃないか、という気がしてきた。




 そんな感じで、氷魚はゆるっと家に住み着いた。




 氷魚がある日、猫の言葉がわかる、と言い出した。

 さすがに一瞬、言葉に詰まった。


「……そんなことある?」

「あるみたい。おれの唯一の取り柄」

「どんな取り柄?」

「ジャンプ力が取り柄の奴に言われたくない」

「あれか? 実家が猫の霊祀ってる神社とか」

「名前に『魚』が入ってるから?」

「…………」

「冗談だけど」

「信じかけたじゃねーか」

「猫、そんなに魚好きじゃないもんな」

「……そうなの?」


 その一言で、ちょっと信憑性が増した。


「じゃあ、猫ってなに喋ってんの? 普通にタメ口?」

「『肉』『あっち』『ねむ』『ノミかゆ』とか。割と支離滅裂」

「………………それ、合ってんの?」

「だって、猫がそう言ってるから」

「…………(適当じゃねーのか)」


 でも氷魚が猫っぽいから、何となく信じてやることにした。



 その話を聞いてから、余計に氷魚の猫っぽさが気になりだした。




 氷魚は、たらこが好き。

 

(猫っぽい……)


 でも、唐揚げも好き。


(もや……)

「猫じゃねーから」

「氷魚、暗闇で目光りそうだよな」

「猫だな、それ」


 おまえ、おれを何だと思ってんの? と言いながら刺身を食べる氷魚。


(刺身も好き……!(猫っぽい……!))


 ちょっと嬉しい涼真であった。


「だから、猫そんなに魚好きじゃないから。肉肉言ってるから」

「肉肉言ってる猫、なんか嫌だな」

「なんで」




 またある日。


 氷魚が「スナップエンドウも好き」と言ったので、買ってきた。


「やっぱり大袋しか売ってなかった」


 スナップエンドウのボールかよ、ってくらいの大袋を前に、氷魚の目が真ん丸に見開かれる。


「おまえ食いたいんなら、筋取って」

「……どうやって取んの?」


 ここと、ここをこうやって取るの、と教える涼真。


 少しして。

 こんもり山になっているスナップエンドウに、涼真は目を瞬く。


「……え? 全部取ったの?」

「え? 取った」

「速くね?」

「そう?」

「……おまえの取り柄、それじゃねーのか……?」

「猫の言葉がわかるのと、スナップエンドウの筋取りが速い」

「猫って器用なのか……?」

「猫じゃねーから」




 ある日、大きな荷物が届いた。


「商品に対して無駄に段ボールでかいの、何なんだろうな……」


 はっ、段ボール……! と気づく涼真。

 そっ……、と氷魚の近くに置いてみた。


「入んねーからな?」

「(もや……)」

「…………」


 ちょい、と段ボールに近づく氷魚。


「――!(わくわく……!)」

「入んねーからな?」




 自分は、そう他人に心をあっさり許すタイプの人間ではないと思っているけど。

 猫みたいな男との奇妙な共同生活は、思いの外心地よかった。


 氷魚が、いるのかいないのか、みたいな絶妙な存在感だったからかもしれないし。

 猫のような氷魚の行動を観察しているのが、意外と癖になったからかもしれない。


 氷魚は氷魚で、別にずっといるわけじゃなくて、たまに出かけて帰ってこない日もあるけど、気づけばいて、その後数日はだらだらと丸くなっている。

 その「自然と戻ってきてる」感が、何か嬉しかった。


 まあ、円卓の上のごはんを、ふてぶてしいほどにもりもりたいらげていく氷魚を見ながらまったりと過ごす夕飯が、単純に好きだっただけかもしれないけど。

 (野菜も、もうまるで余らなくなった)


「このスーパーのたらこ、うまい」

「よかったな」


 こくこく、と氷魚はうなずいた。




 ゆるい共同生活をしている中で、ちょっとした不思議めいたこともある。


「……きらきら? ……ぴかぴか?」

「……?」


 仕事中、突然窓際の氷魚の口から、メルヘンな発言が飛び出した。


「きらきら……」

「……ど、どうした氷魚……」

「わかんない。どっかできらきら言ってる。猫が」

「ねこが」

「ちょっと見てこよーっと」


 たっ、と部屋を後にする氷魚。


「…………(気になる……)」


 氷魚が立ち去った方を見ながら、もや……と目を細める。

 パソコンのメッセージングアプリを「退席中」に切り替えると、立ち上がる。

 仕事さえちゃんとこなしていれば、多少こういうことも許されるのが、うちの会社のいいところだ。



 アパートの裏には小さめの川が流れていた。

 遊歩道というほどでもないが、春には川沿いの桜が咲いたり、秋には紅葉が少し見られたりする。

 駅や商店街とは逆方向なので、涼真は普段立ち寄らないが、朝のジョギングやカップルの散歩コースとなっているらしかった。

 そしてそこには、野良猫やどっかの飼い猫がよくいた。


「あの猫かな」


 川沿いのベンチに、1匹の猫がちょこんと座っていた。

 氷魚の視線の先にいるその茶トラは、確かににゃあにゃあと鳴いている。


「こいつが、『きらきら』?」

「何だろうな?」


 氷魚が隣に座ると、みゃあー、と甘い声を出して氷魚の膝に乗った。

 絶対この猫、メスだと思う。


 氷魚が耳を撫でると、とろんと顔が溶けた。

 窓際でまったり溶けてる氷魚は、やっぱり猫に似ている。


「きらきらって、何?」


 すると猫は、ひょい、と跳び下りる。

 ベンチの下に入り込み、丸くなった。


「……?」


 2人揃って、ベンチの下を覗き込む。


「あ」

「お」


 同時に、2人は声を上げた。

 そこには、きらきらと光を反射する銀色のものが落ちていた。


「指輪」


 氷魚がすっと拾う。


 その瞬間、あ、と顔を見合わせた。


「これ? もしかして」

「上の階の?」


 数日前、夜風に当たるのが好きな氷魚が夜窓を開けたら、上の階のカップルが大喧嘩していた。

 その聞こえてきた喧嘩の内容が「彼女がペアリングを紛失した」というものだった。


「これかー」

「どうなんだろうな……? 違ってたら?」

「いいんじゃない? 違ってても。拾われないものだったんだし。もしこれだったら、拾われてラッキーくらいで」


 氷魚はそう言って家に戻ると、アパート入り口の掲示板に、「拾いました」と書いた紙を指輪と一緒に貼りつけた。


 そういうことをするのは意外だったけど、もしかしたらきっかけが猫だったからかもしれない。

 (氷魚が本当に猫の言葉がわかったのかは謎だけど)

 拾われた氷魚が、今度は他人のものを拾って返すとか、なんか面白いなと思った。


 因みに、掲示板に貼った紙はすぐになくなり。

 ある日氷魚が夜窓を開けたら、カップルの親密そうな声がかすかに聞こえて、慌てて閉めた。

 氷魚はきょとんとしてたけど。


 別れなくてよかったな、とぽそっと呟いた。




 10月も半ばを過ぎ、少しだけ涼しくなると、氷魚の猫化率が上がった。


 朝。


(……あれ?)


 氷魚の布団に氷魚がいない。


(帰った?)


「…………」


 さっ、と自分の布団をめくる。

 足元で丸くなっている氷魚の目が、うっすら開いた。

 そして秒で布団を戻された。


(……猫?)


 別の日。

 また氷魚の布団に氷魚がいない。

 

 さっ、と自分の布団をめくる。

 

「…………いない……(ちょっともや……)」

「何?」


 トイレ行ってた、と顔を出した氷魚は、そのまま涼真の布団の足元へ消えていった。

 巣穴か。



 さらには、窓際率も増えた。


「(ぬくぬく)」

「……暑くねーの? そこ」

「涼真んち、日当たりいいよな」

「まあ、南向きだから」

「みなみむき……」


 南向きっていいな、と氷魚が呟くと、たまたま近くにいたのか、猫の「にゃあ」という鳴き声が返ってきた。

 明日にはこの辺一帯の猫全員が「みなみむき」という言葉を覚えていそうな気がした。



 そしてこの日は、地元の母親から電話がかかってきた。


 母親は、年一、正月にしか帰省しない息子に、定期的に生死確認の電話をかけてくる。

 (年一帰ってるだけでも親孝行だと思ってるけど)


『ちゃんと食べてる涼真!? お金足りてるの!?』

「前と変わってないって。俺みたいなベンチャー企業の低賃金サラリーマンは、カツカツに決まってんの。早々給料上がんないから」

『そうなの? ペットとか飼ってないでしょうね!? お兄ちゃん、ペットにお金使いすぎなんだから! ペットに使うお金はあげないからね!』


 ペット……、とちらっと横目で見た氷魚は、窓際で丸くなったまま、なぜか目を丸くして固まっていた。

 猫以上に猫みたいな男ならいるけど、と心の中で返答する。


「……飼うわけねーだろ」

『ならいいけど。 またお金振り込んどくね! 食品も送るわ! ちゃんと食べなよ! 何でもいいから』

「はいはい。何とか食ってるから」


 電話を切ると、小さくため息をつく。


(嫌いとかじゃないけど、めんどくさいんだよなー母さん……でも資金援助はもらわないとな)


 別に全然カツカツじゃねーけど、と踵を返すと、冷蔵庫を開いた。


「悪いな氷魚、電話終わった。氷魚もビール飲む?」

「…………飲……」

「なに迷ってんの」


 はっと鼻で笑うと、迷わず缶ビールを2本取り出した。




 そして。



 この日を境に、どことなく、氷魚の滞在時間が減っていった。


 

「……あれ? 今日来んの遅くない?」

「そう?」


 みたいな。



 でも完全に来なくなるわけじゃなく、ある日は夜遅くにひょこ、と顔を出しては、翌朝あっさり帰っていく。

 またある日は、なぜか朝起きたら布団の中で丸くなっていて、仕事をしてる間に気づいたらいなくなっていた。

 猫か。



 夜、見ないほど酔って倒れるように飛び込んできた日もあった。


「ちょ……大丈夫か、氷魚」

「…………うー…………ふわふわする……」

「飲み過ぎだろ……誰と飲んでたんだ」

「知らない人」

「…………」


 この日はだいぶ、もやっとした。

 多分飼い猫が他所で気に入られて餌をもらっていたと知った飼い主は、こんな気分なんだと思う。



 でも、よく考えたら、ゆるっと勝手に住み着いただけで、同棲の約束をしたカップルとかでもない。

 詮索したり咎めたりするのはなんか違うな、と思って、特に普段通り振る舞った。


 でもなんか、胸の「もや……」としたやつが、ずっと留まっているような気がした。



 朝、さっと布団をめくる涼真。


(……いない……)


 巣穴じゃねーのか。




 それでも毎日働いて、スーパーへ行って重い野菜を買って。

 (そういえば、氷魚の来る頻度が減ってから、また野菜が余るようになった)

 そうやって忙しく過ごしていれば、これが当たり前になっていくような気がした。


 相変わらず、胸の「もや……」は留まったままだけど。



 そんな風に過ごし、気づけば11月も末に差し掛かっていた。




 寒い雨の日、久しぶりの出社日。

 そういや氷魚を拾ったのも雨の日の出社帰りだったな、とそんなことを考えながら家に戻ると。

 室内に妙な違和感を覚えた。


 靴はなかった。

 そして、なぜか大きく聞こえる雨の音。


 円卓のあるリビングへまっすぐ向かうと。

 雨なのに、わずかだけ窓が開いていた。


 

 うまく言えないが、「いるはずなのにいない」ような。



 円卓の上には、スナップエンドウの筋取りが途中のまま、中途半端に置かれていた。

 氷魚の姿はない。


 ざわ……と、嫌な圧迫感が胸に込み上げる。


 脳の動きがショートしたかのように頭が一瞬真っ白になり、なぜか、その場で立ち尽くした。


(…………いや、何か急用を思い出したとか……呼び出しの電話がかかって来たとか…………そんなの、いくらでも……)


 そんなわけないと、頭でわかっていながらも。


(ただ……ここにいたはずの氷魚が、出てっただけ……――)



 ――二度と、氷魚と会えなくなるような。



 がた、とカバンを捨てるようにその場に置くと、足早に玄関まで戻る。



 飛び出すように家を出た。




(別に……気まぐれに拾った猫だし……いや、猫っぽいだけで、ちゃんと成人した男だし)


 速足で駆ける足元から、ぴしゃぴしゃと水を弾く音が響く。

 

『涼真んち、日当たりいいよな』

『このスーパーのたらこ、うまい』


(どうせ、家にいたのだって、日当たりとかたらことか、そんな理由で)


 ああ、靴間違えた、とスニーカーに染み込む雨が、余計に気持ち悪さを増幅させる。


(猫なんて……あっちこっちで餌もらって、誰が飼い主だか、みたいな放浪生活してる生き物だろ? で、ある日を境にぱたっと姿を見せなくなったり……――)


 目を真ん丸にして固まる猫みたいな氷魚の顔が、頭をよぎる。


(――……そんなん、後味悪すぎ――)



 その時。



 見慣れたパーカーが視界に入った。



(――いた)



 ――濁流の川沿いの木の上に。

 


 探してよかった……!! と安堵で崩れ落ちる涼真。



「この土砂降りん中、なにしてんのおまえ!?」

「え?」


 木の上の氷魚の目が、大きく見開かれた。


「涼真? なにしてんの?」

「こっちの台詞……!!」

「猫がさ、子供が川に落ちそうって」

「は?」


 氷魚が、枝先へ視線を向ける。

 その先、細くて今にも折れそうな枝に、子猫がぷるぷる震えて掴まっていた。

 その真下では、普段穏やかな街の川が増水し、ゴオゴオと唸っている。


(――まじでいる)


『おれ、猫の言葉がわかるんだけど』


 信じてなかったわけじゃないけど、半信半疑であったことは認める。

 いやでも、まさか。


 そう戸惑っている間にも風が吹き、枝先を大きく揺らした。


 か細い鳴き声とともに、するっと枝から子猫の手が離れた瞬間――



 考えるより先に、跳んだ。



 一瞬、氷魚の真ん丸に見開かれた目が、視界の端に映った気がした。



 子猫だけはと強く握って飛び込んだ晩秋豪雨の川は、死ぬほど冷たかった。

 やべ、子猫死ぬ、と慌てて子猫を川から出そうともがくと、案外川底に足がつく。

 ただ、流れは速い。そして荒い。


 子猫を掴む手を何とか伸ばしながら、水を飲まないよう必死に顔を上げると、高い木の上から氷魚が飛び降りるのが見えた。


 その勢いのまま全力で駆けてきた氷魚は、迷わず涼真の手から子猫を救出した。


「…………」


 いや正しい。正しいんだけど。


 その後、氷魚は川の縁に掴まりながら飛び込むと、涼真の腕を絡めるようにしっかり掴み、思った以上の力で引き揚げた。




 あっさり親猫の元へ駆けて行く子猫を見ながら、2人は川の縁で横になっていた。

 息はまだ整わない。


「し……死ぬかと思った……」


 思わず呟く。

 すると、氷魚が珍しく、ぷっと吹き出した。


「あ?」

「涼真、すげージャンプ力……!」


 あーおかし……! と楽しそうな氷魚。


「絶対、届かないと思った」

「唯一の取り柄だから」

「涼真の取り柄は、優しいとこだよ」

「…………」


 驚いて涼真は、ちら、と氷魚を横目で見る。

 急にデレるな猫は……と若干照れて口を結んだ。


「なにしてたの涼真。こんなとこで」


 川沿いに用事ないだろ、と言う氷魚に、濁そうか正直に言おうか、少し迷う。

 一瞬のデレから一変、大して興味無さそうな氷魚のツンツンした態度に、ふっと無意識に笑みを漏らした。


「……おまえ、探してた」

「……何で?」

「何で……」

「……?」

「…………スナップエンドウが」

「スナップエンドウ?」

「途中だったから」

「とちゅうだったから」


 おまえ、筋取れないの……? と不思議そうな顔に、思わず吹き出す。

 少しだけ濁したけど、多分間違ってもない。


「勝手にどっか行くな。心配するから」

「…………」

「川で溺れたり木から降りられなくなったり、変なもん拾い食いされると――」

「猫か」



 その時、う……と氷魚の口から小さく呻き声が漏れる。

 顔を歪めて涼真にくっついた。

 ぎゅ、と服を掴む様子に、はっと息を呑む。


「ちょ……どーした氷魚!? どっか打った――」

「寒……」

「…………」




 風呂へ放り込まれた氷魚は、ぬくぬくと目を細める。


「あったか……」

「生き返るな」

「何で涼真も入るんだよ」

「おれも凍え死にそうなんだよ」


 風呂から出たくない、とわがままな氷魚の髪を無理やり洗ってやった。

 むすっとしながらも、成すがまま、目に泡入ったんだけど、と文句を垂れていた。

 無視してシャワーで流すと、ちょっと拗ねた。


「……風呂熱い」

「あ、まじで? 寒いからお湯多めにしたからな。水足すわ」


 蛇口を捻る涼真。

 シャワーから勢いよく吹き出す冷水が、氷魚の顔を直撃した。


「……あ」




 部屋の隅から、じと……と涼真を睨む氷魚。


「いやごめん。ほんとごめん。切り替え間違えたの。うっかりだから。怒んな」

「怒ってない」

「ほらドライヤー。風邪引くぞ」

「…………」


 むすっとしながらも、さささっと近づいて来て、ちょこ、と背を向けて座る氷魚。

 ドライヤーをかけてもらって温かいのか気持ちいいのか、ちらっと見える目が細まる。


 すると、ドライヤーの音にかき消されないギリギリの声で、氷魚が呟いた。


「……いいわけ。いても」

「え?」

「カツカツなんじゃないの」

「!」


 ああもしかして、と腑に落ちた。


「……もしかして、電話のやつ?」


 氷魚は、こくこくとうなずいた。


「何とか食ってるとか……。飼ってるわけないとか濁してたし、負担なのかなって」

「いや、あれ親に援助してもらいたいがための常套句だから。軽い嘘。負担になってたらおまえ置かないから。つーか、おまえはペットじゃないだろ。むしろいてくれないと、野菜が余るんだよ」

「…………やさいがあまる……」

「そう。野菜が」


 やさい……と呟く氷魚。


「………………じゃあ、いる」

「(嬉しそう……)」


 照れて頬がちょっと赤くなったのは、見て見ぬふりしてやることにした。優しいから。



「つーか、前泥酔してきた日、ほんとは誰といたの? 友だち? ここにいないとき、そいつんとこいたんじゃねーの?」

「泥酔……?」


 ん……? と小首をかしげる氷魚。


「……ああ。おじさんとこの居酒屋で、客に絡まれた日?」

「……おじさんとこの居酒屋?」

「おれ、涼真以外友だちいねーし。ここにいないときは、ほぼおじさん家にいた」

「おじさん? 親戚のおじさん?」

「(こくこく)」

「…………親戚の家にいたのか……。実家は? 遠いの?」

「…………」


 丸い背中が、さらに丸くなった。


 氷魚は若干気まずそうに視線を泳がせると、ぽつぽつと自分の話をし始めた。

 昔から母親がいなくて(離婚か何か)、別にそれが普通だったんだけど、少し前に父親が再婚して母親ができて、何かどうしていいかわからない、みたいな話だった。


「やな人なの?」

「いや? めっちゃいい人」

「……いいじゃん」

「慣れないっていうか。俺人見知りだから」

「…………」

「何?」

「…………人見知りなの? おまえ」

「そうだけど」

「…………」

「何?」

「……人見知りが、見知らぬ男についてくるなよ……」

「ああ、そういえば」


 涼真って、猫すらも警戒しなさそうな空気感あるよな、と話す氷魚に、猫って認めた!? とちょっと嬉しくなる。

 嬉しくなって、なーんだそっか親戚のおじさんかー、とほっとしたように呟くと、顔に出てたのか、きもちわる……とじと目を向けてきた。

 この距離感が、やっぱりいい。


 胸の「もや……」は、すっかり晴れていた。



 ゴト、といつもの缶ビールを2本、円卓に置いた。


「今日の夕飯、何?」

「たらこと唐揚げとスナップエンドウ」


 目を真ん丸にして固まる氷魚。


「……何で、全部おれが好きなやつ?」

「あー……たまたま?」

「たまたま」


 氷魚の来る頻度が減っていたので、餌付けしようとしてたことは、ここだけの秘密。



 ここ数週間の、借りてきた猫のような遠慮した態度から一変、我が物顔でもりもり唐揚げを食べる氷魚。

 このまったりした夕飯が好きなんだよな、と涼真は隣でビールを傾けた。


「……ロフトある賃貸に引っ越す?」

「何でロフト?」

「氷魚の部屋」

「だから、なんでロフト」

「高いところ好きそうだから」

「猫か」

「好きじゃねーの?」

「好きだけど」

「(猫……!)」

「日当たりいいならいい」

「(猫……!)」

「でも涼真の布団があったかいんだよな……おれの部屋いるかな」

「(猫……!)」



 ――気まぐれで拾った男は、今日も猫っぽい。



 遠くから聞こえる猫の鳴き声。


「肉うめーって言ってる」

「絶対適当に言ってるだろ、おまえ」



 ――そいつは今日も意味不明だけど、それが妙に心地いいのも、なんか猫。

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