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犬神憑き奇譚(後編)

AIを使って書いた作品になります。

<昏い確信>


大学を卒業した僕は、大手の総合商社に入社できた。新人の研修として僕が通っていた地元の高校近くの支店に派遣されることになり、僕はあまり良い思い出の無い土地に帰ることになった。

学生時代から続く、理不尽な扱いへの鬱憤を小動物にぶつける悪癖は、社会に出てからも続いていた。むしろ、日々の業務で積み重なるストレスと、正当に評価されない悔しさで、その衝動は悪化の一途を辿っていた。

やがて、雀や猫といった小さな命では、僕の黒い感情を鎮めることはできなくなる。もっと大きな絶望、もっと深い苦痛を、この目で見たくなった。そして僕は、犬に手を出すようになった。


人目につかないよう、深夜に郊外の林へ向かう。そこに、買ってきた安物の餌で誘き寄せた犬を、通販で買ったスタンガンで気絶させ、首だけ出して地面に埋めた。


目の前、しかし舌が絶対に届かない距離に僕はドッグフードをばらまく。

飢えた犬は、狂ったように首を伸ばし、餌を食べようともがく。だが、その努力は決して報われない。

日に日に衰弱し、やがて生への渇望と、目の前の餌への執着をその目に宿したまま、力尽きて絶命する。その、無様で哀れな最期を見届けることが、僕の歪んだ精神を唯一安定させる儀式だった。


そんな行為を何度か繰り返したある日のことだ。いつものように、衰弱死した犬を林の奥に埋めて家に帰ると、部屋の隅に、見慣れないものがいた。


犬の形をした、黒い靄。

それは陽炎のように輪郭が揺らめき、実体があるのかないのかもわからない。だが、確かにそこに「いる」。僕にしか見えていないようだった。


最初は不気味で、悪夢を見ているのかとさえ思った。だが、何日経ってもその靄は消えず、僕の行くところどこへでも、影のようについてきた。


そんな奇妙な同伴者を得てから、しばらく経ったある日のこと。僕は、ある取引先で、担当者からこれ以上ないほど理不尽な扱いを受けていた。


こちらの提案書に目も通さず、ただ僕が若いというだけで、人格を否定するような言葉を延々と浴びせられたのだ。


「だから最近の若い奴は・・・」


腸が煮え繰り返るような怒りが、頭のてっぺんまで突き抜けた。だが、僕は無力な営業マンだ。ここで怒りを爆発させれば、全てが終わる。唇を噛み締め、拳を固く握りしめ、ただ嵐が過ぎ去るのを耐えるしかなかった。


―この男が、今すぐ目の前から消えてくれればいいのに。


心の中で、生まれて初めて覚えるほどの殺意にも似た激情が渦巻いた、その瞬間だった。

僕の足元にいたはずの黒い靄の犬が、すうっと立ち上がり、何の抵抗もなく、その担当者の体を通り抜けたのだ。


僕は、自分の目を疑った。幻覚か?だが、黒い靄は再び僕の足元に戻り、何事もなかったかのようにそこにうずくまっている。


そして翌日、会社に一本の電話が入った。あの社長が、昨夜から原因不明の高熱と体調不良で倒れ、しばらく入院することになった、と。

ぞわり、と全身の鳥肌が立った。まさか。 あの黒い靄は、ただの幻覚ではなかったのか?


僕は、その日から憑りつかれたように調べ始めた。図書館の民俗学コーナーに足を運び、インターネットであらゆるキーワードを打ち込んだ。「黒い犬の霊」「憑き物」「呪い」。


そして、ついに「犬神」という存在に行き着いたのだ。


―飢えさせた犬を、餌への強い執着を持たせたまま殺すことで、その怨念を呪物として使役する。 ―それは犬神と呼ばれ、持ち主の意のままに他者に害をなす。


書かれていた犬神の作り方は、僕がストレス発散のために行っていた行為と、恐ろしいほど酷似していた。僕は、犬神筋の家系でも何でもない。ただの一般人だ。


だが、僕の歪んだ儀式は、偶然にも、古来から伝わる呪いの工程をなぞってしまっていたのだ。

意図せずして、僕は僕自身の犬神を「作って」しまった。

恐怖よりも先に、歓喜が込み上げてきた。僕はもう、無力な存在ではない。理不尽に僕を踏みつける連中に、天罰を下すことができる力を手に入れたのだ。


僕はもう、昔の僕じゃない。誰にも見えない、絶対的な力を持つ、犬神使いなのだ。僕の意に沿わない者は、排除される。それが、この世界の新しいルールなのだから。

昏い笑みを浮かべた僕の視界の端で、犬神が満足げに尻尾を振ったように見えた。



<制御不能>


回想の闇から意識が浮上すると、そこはいつもの、無機質な照明に照らされたオフィスだった。僕は、自分の力の成果を反芻し、静かな満足感に浸っていた。

僕の成功を妬んだ同期は、自らの不注意で病院送り。僕を見下した尊大な社長は、原因不明の病で臥せっている。全ては順調だ。僕の思い通りに、世界は動いている。

デスクに積まれた資料の中から、僕は一つのファイルを取り出す。健吾の働く、あの町工場の案件だ。

今僕が抱えている案件の中で、この件だけが停滞している。

工場側は「前向きに検討する」という、実体のない言葉を繰り返すばかりで、一向に話は進まない。

なぜ、僕がこんな小さな工場の、意思決定の遅い老人たちに付き合わされなければならないんだ?最初はビジネスライクに考えていたアプローチも、次第に億劫になってきていた。電話一本、メール一つ送るのさえ、面倒で仕方がない。

いっそ、いつものように「力」を使えば、全てが早く進むのではないか?あの工場長も、少し体調を崩せば、もっと話のわかる後任が出てくるかもしれない。そんな黒い考えが、疲弊した思考の隙間から鎌首をもたげる。

だが、僕はすぐにその考えを打ち消した。あの工場は、典型的な中小企業だ。社長と工場長がいなくなれば、代わりになる人間などいやしないだろう。

交渉相手そのものが消えてしまっては、元も子もない。僕の「力」は、あくまで僕の望む結果を出すための手段。無意味な破壊では本末転倒だ。

では、健吾はどうだ?彼を通して内部から契約を後押しさせることはできないだろうか。

だが、その考えもすぐに頭から消えた。昼飯を共にした時の、健吾のくたびれた作業着姿が目に浮かぶ。健吾は経営に口を出せるような立場じゃない。ただの作業員。いくら突いたところで、契約の後押しにはならないだろう。

正攻法は面倒。裏の手も効果がない。自分の力が及ばないこの状況に、僕は苛立ちを募らせた。完璧だったはずの僕の世界に、健吾の工場という些細だが不快な染みが広がっていくようだ。


「・・・ちっ」

思わず小さく舌打ちした、その瞬間だった。 今までずっと背後に感じていた、あの冷たく重い気配が、ふっと消えたのだ。まるで、そこに立ち込めていた霧が、風に攫われるように。


はっとして振り返る。だが、そこには誰もいない。いつも僕の影のように寄り添っていた、あの黒い靄の姿が、どこにも見当たらなかった。

僕の意思とは関係なく。何の予兆もなく。 僕だけの忠実なしもべであるはずの犬神が、忽然と姿を消していた。



<黒い確信>


信也の姿が脳裏に焼き付いて離れない。俺の足取りはいつもより少しだけ重い。あの攻撃的な愚痴、そして「そのうち何とかしてくれる」という不気味な言葉。俺の知っている信也とは、まるで別人のように感じられたからだ。


工場に着き、いつものようにロッカールームで作業着に着替えていると、隣で着替えを終えた田中さんが溜息混じりに口を開いた。


「おい室瀬、聞いたか?工場長、今日は休みらしいぞ。なんでも朝から体中の関節が激しく痛んで、起き上がれないんだと」


「え・・・工場長がですか?」

思わぬ知らせに俺は動きを止めた。あの、いつもパワフルな工場長が体調不良で休むなんて、滅多にないことだ。


「ああ。社長も朝からバタバタしてる。なんせ今日の午後にやる予定だった特殊な溶接、あれができるのは工場長だけだからな。こりゃ、今日のノルマ達成は厳しいぞ・・・」


田中さんの言葉に、ロッカールームの空気全体が重くなった。この工場は、熟練の職人である工場長の腕一本で成り立っている部分が大きい。彼の代わりになれる人間など、この小さな町工場にはいやしない。

年齢も年齢だ。もしも、なんてことがあれば・・・。従業員たちの顔には、会社の存続に対する漠然とした不安の色が浮かんでいた。


工場長や社長の許可が必要な作業以外は、いつも通り進めるよう通達が出され、俺も持ち場についた。だが、プレス機の規則正しいリズム音を聞きながらも、俺の頭の中は別のことでいっぱいだった。


「未経験の海外展開なんて話で、心労がたまったんだろうか・・・」

思わず独り言が漏れた。


信也が持ちかけた、あの話。工場長は真摯に受け止め、夜遅くまで資料を読み込んでいると聞いていた。それが、彼の体に負担をかけたのだろうか。

そこまで考えて、はっとした。信也の言葉が、脳内で不気味に反響する。


「そんな連中も、どうせ長くは続かないよ。そのうち何とかしてくれるから」


この言葉が妙に心に引っかかった。「何とかしてくれる」が、なんのことを言っているのかは、わからない。でももし、信也の仕事の邪魔になるような存在が、何らかの手法で排除されているのだとしたら?

俺の背筋を、冷たい汗が伝う。


「室瀬君、ちょっといいかい」


不意に背後から声をかけられ、俺はびくりと肩を揺らした。振り返ると、そこには少し困り顔の社長が立っていた。


「佐伯さんの件なんだけどね・・・」

社長は、俺を工場の隅へと連れて行くと、声を潜めて切り出した。


「話を振った私が言うのもなんだけど、正直、工場長が倒れたのは、あの話のプレッシャーもあったんじゃないかと思ってる。社長として、従業員の健康を脅かしてまで進める話じゃない。室瀬君は、あの話に同席して、率直にどう思った?」


社長の真剣な問いに、俺は一度目を伏せた。信也への疑念が渦巻いている。だが、それとこれとは別の話だ。俺はこの工場の従業員として、正直な気持ちを伝えるべきだと思った。


「個人的には、海外展開はありだと思います」

俺の言葉に、社長は少し意外そうな顔をした。


「このまま国内だけでやっていても、仕事は減っていく一方です。ジリ貧になるのは目に見えてる。もちろんリスクは大きいでしょうけど、挑戦してみる価値はあるんじゃないかと。俺は、そう思います」


俺の答えを聞くと、社長は「そうか・・・」と何かを考えるように腕を組み、しばらく黙り込んだ後、「・・・わかった。意見、参考にするよ。ありがとう」と言って、持ち場へと戻っていった。


一人残された俺は、再び作業台に向き直った。信也の言葉に不穏な気配を感じてはいる。だが彼が提示した未来は、この沈みゆく工場にとって、一条の光なのかもしれない。

その矛盾が、俺の心を重く締め付ける。足元では、黒い靄の犬が相変わらず静かにうずくまっていた。俺にはこいつのことも、信也のことも、何もかもがわからない。


ただ、何もわからない暗闇の中だからと言って、立ち止まっていることを許してもらえるほど世の中というのは寛容ではない。進む時間は誰にも止められないのだから、手探りでも動くしかないのだろう。



一日の仕事を終え、俺は重い足取りでアパートへの道を歩いていた。工場長の不在は、工場の空気を一日中重く淀ませていた。ただの一人の不在が、あれほどまでに全体の機能を麻痺させるとは。改めて、この工場がどれほど危ういバランスの上で成り立っているのかを思い知らされた。

そして、その重苦しい現実以上に俺の心を蝕んでいたのは、信也への疑念だった。

「そのうち何とかしてくれるから」

あの言葉が、工場長の突然の病と重なり、頭の中で不吉な音を立てて反響し続けている。

まさか、とは思う。だが、あの時の信也の目は、ただの愚痴や冗談で済ませられるほど穏やかなものではなかった。


アパートに帰り着き、部屋に入る。

電気もつけず無意識にポケットからスマートフォンを取り出し、画面に表示された「佐伯信也」の名前を睨みつけた。

伝えるべきだ。今日の工場の状況を。もし万が一にも、信也が「何か」をしているのだとしたら、これ以上話は進められないと。そう思う一方で、高校時代の友人を疑っている自分自身に対する嫌悪感も湧き上がってくる。

数分間の葛藤の末、俺は通話ボタンを押した。


コール音が数回鳴った後、信也の声が聞こえてきた。


「もしもし、健吾?どうしたんだ、急に」


相変わらず、快活さを装った声だった。


「ああ、信也。仕事終わりで悪いな。少し伝えておきたいことがあって」

俺は努めて事務的な口調で切り出した。


「今日、うちの工場長が倒れたんだ。体中の関節が痛むとかで、起き上がれないらしい。だから、信也が営業に来てくれても、しばらくは話が進まないかもしれないと思ってな」


その瞬間、電話の向こうで信也が息を呑むのが、音として聞こえた気がした。一瞬の沈黙。それは俺が予想していた「そうか、大変だな」という同情や、「了解した」というビジネスライクな返答の前の間ではなかった。もっと生々しい、不意を突かれた者の動揺だった。


「・・・そう、か。工場長が・・・」


ようやく聞こえてきた信也の声は、明らかに震えていた。俺は、心臓がどくんと大きく脈打つのを感じながら尋ねる。


「どうかしたのか?そんなに驚くことか?」

その問いに、信也はすぐには答えなかった。電話の向こうで、彼の呼吸が乱れているのが伝わってくる。


「信也、何か知ってるのか?」

俺は、声を低くして問い詰めた。


「いやっ・・・ただ、急な話で驚いただけだよ。年齢の割に力強い感じの人だったから・・・」


信也は慌てて言葉を繋いだが、その声は上ずり、取り繕っているのが見え見えだった。


「そうか。一応、社長に同席者としての意見を聞かれたから、海外展開はありって答えておいた。また何か進展があったら連絡する」


「えっ・・・あ、ありがとう」


信也の声は本当に虚を突かれたような、変に飾らない素の声に感じられた。


「じゃあ、そういうことだから。」

俺はそれだけ言うと、信也が何か言い返す前に一方的に通話を終了した。


シン、と静まり返った部屋で、俺はスマートフォンを握りしめたまま立ち尽くす。冷たい汗が背中を伝う。 疑念はもう確信に変わっていた。 工場長の体調不良には、何かしらの形で信也が関係している。


足元で、黒い靄の犬が静かに俺を見上げていた。まるで何かを訴えているように見えたのは、気のせいだろうか。こいつの正体も、信也の秘密も、全てが暗闇の中だ。だが、もう目を逸らしているわけにはいかない。



<犬神憑き解説 六>


犬神が特定の人に強く憑く理由として、まず個人の状態が挙げられます。物を欲しがる心が強い人や執念深い人、また病気などで心身が弱っている人は、犬神につけ込まれやすいとされています 。また、犬神が憑く動機には、怨恨や物欲、偶然の縁などがあります 。例えば、犬神を持つ家の人が他人を羨ましいと思うと、その感情が犬神を通じて相手に災いをもたらすと考えられていました 。さらに、犬神は特定の家系である「犬神筋」に代々伝わるとされ、その血筋の人は特に憑かれやすいと信じられてきました 。このように、個人の感情や状態、家系、人間関係における嫉妬などが複合的に重なることで、犬神は特定の人に強く現れると考えられています 。



<独りよがりの正義>


健吾が一方的に切った通話の終了音が、静まり返った部屋に虚しく響いた。僕はスマートフォンを握りしめたまま、その場に立ち尽くす。健吾から告げられた予想外の事実―工場長が倒れたという知らせが、頭の中でうまく処理できない。


「・・・なんでだ」

先ほどまで感じていなかったはずの、あの冷たく重い気配が、いつの間にか背後に戻っていた。振り返ると、そこには夜の闇よりも濃い黒い靄が、犬の形を成して静かにうずくまっている。僕の犬神。僕だけの忠実なしもべ


「おい。僕はお前に、あの工場長に何かをしろと命令した覚えはないぞ」

僕は低い声で、背後の靄に詰め寄った。僕の意思とは無関係に、僕のあずかり知らぬところで、こいつは勝手に行動したというのか。


僕の問いかけに、犬神は揺らめきもしない。ただ静かに、そこに在るだけだ。僕のコントロールを超えて勝手なことをしたことへの苛立ちが、胸の奥で小さく燻る。

だが、まあいい。健吾の最後の言葉を思い出す。


「社長に同席者としての意見を聞かれたから、海外展開はありって答えておいた」


僕の意図を汲んでか知らずか、健吾がアシストしてくれたおかげで、停滞していた話が前に進む可能性が出てきた。結果的に、全ては僕の望む方向へと動いている。プロセスはどうあれ、障害が取り除かれたという結果が重要だ。工場のことは、これでひとまず良しとしよう。


それよりも気になるのは、健吾の言葉だ。「どうかしたのか?」「何か知ってるのか?」。あの執拗な問いかけには、僕に対する明確な疑念の色が滲んでいた。まずいな。先日、居酒屋で会った時に、少し口が滑りすぎたか。「そのうち何とかしてくれるから」などと、思わせぶりな発言をしてしまった自覚はある。


健吾には、僕の犬神が見えているわけではないだろう。だが、あいつにはあいつで、何かよく分からない黒い靄が憑いている。あの靄が、健吾に何らかの影響を与え、僕の秘密に気づかせるようなことがないとは言い切れない。そうなれば面倒だ。僕の犬神のことが白日の下に晒される。


いや、誰かに話したところで、本気で信じる人間などいるはずもない。警察が動くわけでも、僕が社会的に断罪されるわけでもないだろう。しかし、変人扱いされたり、余計な詮索をされたりするのは、僕の完璧なキャリアプランにおいてノイズでしかない。


これからは、健吾の前での言動には細心の注意を払わなければ。幸い、今のところ全ては僕の思い通りに進んでいる。僕の成功を妬んだ同期は怪我で休み、僕を見下した社長は病に倒れ、そして進まなかった健吾のところの工場にも後押しが入った。


「・・・はははっ、やっぱり僕は正しいんだ」

乾いた笑いが口をついて出た。僕の進む道が正しいからこそ、世界が僕に味方をする。邪魔な人間は淘汰され、道は自ずと開かれていく。そうだ、僕のやり方は間違っていない。


込み上げてくる万能感に浸り、僕は口の端を吊り上げた。その僕の姿を、足元にうずくまる黒い犬神が、感情の読めない目でじっと見つめてくる。何を考えているのかわからないが、これからも役に立ってもらうぞ。



<蠢く予兆>


信也との不穏な電話から数日が過ぎた。あれ以来、俺の心には重い疑念の澱が溜まっていたが、日常はそんな俺の心境などお構いなしに、以前と変わらない顔で 流れていった。

驚いたことに、起き上がれないと言っていた工場長は数日でケロッとして職場に復帰してきた。関節の痛みはなんだったのかと思うほど、その声にはいつもの張りが戻っている。


「いやあ、年かねえ。変な寝方でもしたんかな」


と本人は笑っていたが、医者に行っても原因はわからずじまいだったらしい。

そして今日、社長と工場長の間で話し合いが持たれ、信也が提案した海外展開の話を正式に進める方向で固まったという知らせが、朝礼で共有された。工場内には、期待と不安が入り混じったような、どこか落ち着かない空気が漂っていた。


「俺たちの作ったもんが海外で通用するかどうかわからねえが、まあ、試さんとわからんわな」


昼休憩中、田中さんがニヤリとしながら俺の肩を叩いた。


「そうですね。なんでもやってみないと」

生産者として、自分たちの作ったものが世に広まることに、悪い気はしない。


疑惑はある。だが、腐りかけていたこの工場が新しい一歩を踏み出すきっかけになったこと、そして、それが高校時代の友人である信也のキャリアにとっても大きなプラスになるであろうことは、素直に喜ばしいと思えた。


俺の意見が、そのほんの少しの後押しになったのかもしれない。そう思うと、腹の底で燻っていた澱が、少しだけ晴れるような気がした。


昼休憩が終わり、持ち場に戻る前、俺は工場長に声をかけられ、午後の作業手順について簡単な打ち合わせをしていた。その時だ。


俺の足元にいる黒い靄の犬が、ふと身じろぎし、工場長に向かって低く唸るような仕草をした。今までこいつが、俺以外の誰かに対して明確な反応を示したことなどなかった。敵意、というよりは強い警戒心。そんな空気が、靄の輪郭を緊張させている。


「・・・どうしたんだ」

俺は、思わず小声でもらす。そして、犬が警戒する先―工場長の全身に、改めて視線を向けた。


その瞬間、俺は息を呑んだ。 工場長の体、その輪郭に沿うように、ごく薄い黒い靄が陽炎のようにまとわりついていた。俺に憑いている犬と、全く同じ質のものだ。だが、それはすでにほとんど消えかかっており、注意深く見なければ気づかないほど希薄だった。


なんだ、これは。 犬の態度からして、あれは間違いなく良くないものだ。そして、他の誰にも見えていない。だとしたら、工場長の急な体調不良は、この靄が原因だったのか?俺に憑いているこいつと、何か関係があるのか?信也の不気味な言葉が、再び脳内で警鐘のように鳴り響く。


さっきまで感じていた、ささやかな高揚感は一瞬で吹き飛んだ。代わりに、背筋を這い上がってくるのは、得体の知れないものに対する、純粋な恐怖。


これ以上、一人で抱え込める問題じゃない。

幸い、答えを知っていそうな人物には心当たりがある。

犬神憑きの少女、犬塚千歳。彼女なら、この現象について何か知っているかもしれない。

だが、どうやって連絡を取ればいい?電話番号も、何も知らない。考えあぐねた末に、俺が思いついたのは原始的で、そして気味の悪い方法だった。




終業後、俺はいつもの帰り道ではなく、スーパーへと続く道を歩いていた。先日、彼女と再会した場所だ。ここで待っていれば、また会えるかもしれない。

街灯がぽつりぽつりと灯り始め、仕事帰りの人々が足早に行き交う中、俺はスーパーの入り口が見える壁際に身を潜めるようにして立ち続けた。


「・・・まるでストーカーじゃないか」

こみ上げてくる自己嫌悪に、軽く眩暈がする。だが、他に方法がない。俺は犬塚千歳本人に用があるんじゃない、彼女の持っている知識が必要なんだ。そう自分に言い聞かせ、ひたすら待った。


どれくらい時間が経っただろうか。諦めて帰ろうかと思い始めた、その時だった。見覚えのあるセーラー服のシルエットが、雑踏の中から現れた。犬塚千歳だった。

俺は意を決して、彼女の前に歩み出た。


「犬塚さん」

俺の姿を認め、彼女はぴたりと足を止めた。そして、街灯の下に佇む俺の姿を見て、あからさまに、ほんの少しだけ後ずさった。その目に浮かんだのは、警戒と、若干の呆れのような色だった。


「・・・室瀬さん。何か御用でしょうか」


なんとか事情を説明すると、彼女は俺の足元にいる黒い靄の犬の様子をじっと観察し、それから何かを思案するようにしばらく黙り込んだ。

やがて彼女は「ふう」と小さく息を吐くと、少し思案したのち、前に会った喫茶店で話そうと提案してきた。


「・・・長話になりそうです。後日、改めてあのお店でお話を伺います。私の考えを話せるかもしれません」


「わかった。助かる」

安堵する俺を見て、彼女は続けた。


「それと、こういう形でお会いするのは、お互いにとってあまり気分の良いものではないかと思いますので、連絡先を交換しませんか」


そう言って、彼女は自分のスマートフォンを取り出した。

俺たちは、街灯の頼りない光の下で、互いの連絡先を交換した。デジタルな情報が、俺と彼女の間に奇妙な繋がりを作っていく。次に会う約束を取り付けたことで、俺の心には、恐怖と入り混じった、微かな希望の光が差し込んでいた。



<犬神憑き解説 七>


犬神の憑き方には、主に二つのパターンがあります 。一つは、呪術的に作られた犬神が作り主やその家系である「犬神筋」に代々取り憑き続けるもので、女系で伝わるとする伝承も存在します 。もう一つは、犬神持ちの者が他人へ強い嫉妬や恨みを持つと、その感情に応じて犬神が相手の人間だけでなく、牛馬や道具にまで取り憑くというものです 。犬神に憑かれると、発熱や手足の痛み、犬のように吠えたり這い回ったりする異常行動などの症状が現れるとされます 。特に精神的に不安定な人や情緒が激しい人が憑かれやすいと言われ、耳から体内に侵入するとも伝えられています 。



<喫茶店の助言者>


日曜日、俺は数日前に犬塚千歳と待ち合わせをした、あの古びた喫茶店の前にいた。


重い扉を開けると、カラン、という涼やかなベルの音と、香ばしいコーヒーの匂いが俺を迎える。前回と同じ、店の奥の隅の席。そこには既に、セーラー服姿の犬塚千歳が静かに座っていた。


「すまない、待たせたか?」

俺が声をかけると、彼女は読んでいた文庫本から顔を上げ、静かに首を横に振った。


「いえ、時間通りです。私が少し早く着いただけなので」


俺は彼女の向かいの席に腰を下ろす。テーブルの上には、俺たちの間に見えない境界線を引くかのように、水滴のついたグラスが二つ並んでいた。俺の足元では、黒い靄の犬が静かに体を丸めている。

当たり障りのない挨拶を二、三交わした後、本題を切り出したのは俺の方だった。


「早速で悪いんだが、聞いてもらいたいことがある。俺の働いてる工場の、工場長のことなんだが・・・」

俺は先日起こった出来事を、順を追って彼女に話した。


工場長が原因不明の関節痛で突然倒れたこと。数日で何事もなかったかのように復帰したこと。そして、その工場長の体に、ごく薄い黒い靄がまとわりついているのが見えたこと。俺の足元の犬が、その靄に警戒心を示したことも付け加えた。

俺の話を黙って聞いていた千歳は、カップに口をつけることなく、しばらくの間、何かを考えるように視線を落としていた。やがて、彼女はゆっくりと顔を上げ、俺の目を真っ直ぐに見据えた。


「その方の症状・・・おそらく、犬神に憑かれていたのでしょう」


その言葉は、俺の漠然とした不安を肯定するには十分すぎるほど、確信に満ちていた。


「犬神に・・・?じゃあ、あの靄はやっぱり」


「ええ。ですが、体調が回復されたということは、幸運にも犬神はもう離れている可能性が高い。何らかの理由で、憑いていた犬神が工場長から離れたのでしょう。本当に、運が良かったのだと思います」


犬塚千歳は淡々と続ける。


「犬神憑きの症状は様々です。原因不明の発熱や、今回のように手足の関節に激しい痛みが生じることもあります 。症状が進行すれば死に至ることもあると言われていますから 」


俺は息を呑んだ。工場長は、一歩間違えれば命を落としていたのかもしれない。


「室瀬さんの隣にいる『それ』が反応したのは、おそらく工場長に残っていた犬神の残滓・・・残り香のようなものに気づいたからでしょう。同族嫌悪、というわけではありませんが、似たような存在を敏感に察知したのだと思います」


「だとしたら、一体誰が工場長を・・・」

俺の疑問に、千歳は静かに問いを返した。


「その方に、強い恨みを持つような人物に心当たりは?」


「恨み・・・?」

俺は記憶を探る。工場長は頑固で口うるさいところもあるが、部下からの信頼は厚い。誰かから強い恨みを買うような人物とは到底思えなかった。


「いや、特に思い当たる節は・・・」


「そうですか。犬神は、持ち主の強い感情・・・特に、嫉妬や恨みに呼応して動きます 。そして、誰かに憑くためには、ある程度の物理的な接触や、心理的な繋がりが必要になる」


「とすると、最近になって、その方と頻繁に接触するようになった人物はいませんか?その人の中に、犬神を持っている、あるいは憑かれている人間がいるのかもしれません」


最近、工場長との接触が増えた人物。 その言葉に、俺の脳裏に浮かんだのは一人の男の顔だった。佐伯信也。だが、俺はすぐにその考えを打ち消した。

信也が持ちかけた輸出の件で、工場長が強く反発したという話は聞かない。それに、あの頭の切れる信也が、犬神などという非科学的なオカルトに関わっているとは、到底思えなかった。


「・・・いや、特に怪しい人間はいないと思う」

俺がそう答えると、千歳は「そうですか」とだけ言い、それ以上は追及してこなかった。


工場長が犬神に憑かれていたかもしれないという事実は、依然として重く心にのしかかる。だが、彼女の言う通り、現状は解決している。

誰が憑かせたのかも見当がつかない以上、これ以上考えたところでどうしようもない。俺たちの中では、この件は一旦保留ということになった。


「今日は、ありがとう。助かった」

俺は伝票を手に取り、彼女の分もまとめて支払うために席を立った。

犬塚千歳もこれから用事があるということで、一緒に喫茶店を出る。


駅へと向かう道すがら、俺たちはほとんど言葉を交わさなかった。ただ、別れ際に千歳がぽつりと言った。


「室瀬さん。あなたの隣にいるそれは、やはり犬神とは違う。私には、ただあなたを守ろうとしているように見えます」


その言葉の真意を、俺は測りかねたまま、彼女と別れた。


夜、自室のベッドに腰掛け、俺は千歳との会話を反芻していた。工場長に最近接触した人物・・・。やはり、どう考えても信也しか思い当たらない。


「そのうち何とかしてくれるから」


あの不気味な言葉が、再び頭の中でこだまする。 まさか、とは思う。だが、もしも。もしも、信也が・・・。

俺は、部屋の隅で静かにうずくまっている黒い靄の犬に、無意味と知りながら問いかけた。


「なあ、お前は、何か知ってるのか?信也のこと・・・工場長のこと・・・」

返事はない。黒い靄は、ただ静かにそこに在るだけだ。


結局、俺にできることなど何もない。考えつくことも、これ以上はない。俺は全ての思考を振り払うように、ベッドに倒れ込んだ。重い疲労と共に、意識はゆっくりと暗闇の中へと沈んでいった。



<犬神憑き解説 八>


犬神使いが自ら使役する犬神に憑かれることは、伝承上あり得るとされています 。犬神は意のままに操れる存在とされますが、必ずしも従順ではなく、時には逆に使い手やその家族に害を及ぼすことがあると伝えられています 。愛媛県の伝承では、犬神が不従順で、家人を噛み殺すことさえあると記録されています 。また、犬神を持つ家系である「犬神筋」は代々犬神が離れず、家族全員が影響を受け、胸の痛みや犬のような行動といった症状が現れることもあるとされています 。そのため、犬神使い自身も犬神の霊的な影響からは逃れられず、その存在は時に自らに災いをもたらすと考えられてきました 。



<代償の痛み>


夜の森は、僕だけの聖域だ。ざく、ざくと落ち葉を踏みしめる自分の足音だけが、不気味なほど静かな闇に響き渡る。ひんやりとした空気が、日中の喧騒で火照った頭を冷ましてくれるようで心地良い。僕は、ここ数日間の出来事を反芻しながら、ゆっくりと森の奥へと歩を進めていた。

全ては順調、いや、順調すぎるほどだった。 数日前、健吾から工場の工場長が倒れたと電話があった時は、一瞬、心臓が凍るかと思った。僕の犬神が、また僕の意思を汲み取りすぎて、勝手なことをしたのかと。

だが、後日、工場長は何事もなかったかのように復帰したと健吾から連絡があった。単なる偶然だったようだ。胸をなでおろすと同時に、自分の力が及ばない偶然の存在に、ほんの少しだけ苛立ちを覚えた。

しかし、結果として全ては僕の望む方向へ転がった。僕が改めて工場を訪れると、あれほど停滞していた海外展開の話は、驚くほどすんなりと進んだ。これでまた一つ、大きな実績が手に入る。

僕の成功を「運が良いだけ」と揶揄してきた同期たちに、歴然とした差を見せつけてやることができるのだ。そう思うと、口元が自然と吊り上がる。

思えば、最近は不思議なほど心が軽かった。少しでも煩わしいと感じた案件は、いつの間にか担当者が変わったり、先方から折れてきたりして解決する。僕の道を阻む障害は、まるで意思を持っているかのように自ら消えていく。

この結果が、僕に憑いている犬神が勝手に行っているのか、それとも僕自身の実力が開花した結果なのかは、もはやどうでもよかった。これは僕に与えられた、当然の報酬なのだ。僕はただ、その甘美な果実を素直に受け入れるだけでいい。

華々しい成功の記憶に浸っていた、その時だった。


「ぐっ…!」

唐突に、体中の関節を内側から万力で締め上げられるような激痛が走った。思わずその場にうずくまり、こみ上げてくる呻き声を歯を食いしばって殺す。


ここ最近、公私ともに順調な一方で、この原因不明の激痛に突然見舞われることが増えている。数分もすれば嘘のように痛みは引き、何事もなかったかのように体は動く。だが、理由のわからないこの現象は、少しばかり気味が悪かった。


「調子が良いことに気づかず、働きすぎて疲れが溜まっているのか・・・?」


一度、ちゃんと病院で診てもらうべきか。そんなことを考えながら、痛みで口の端からこぼれた泡を手の甲で無造作に拭う。僕は、重いボストンバッグを片手に、再び林道の奥へと足を進めた。


やがて視界が開け、僕だけの祭壇にたどり着く。地面から、まるで不気味な植物のように、数匹の犬の頭が生えていた。

以前はストレスを発散させるための儀式だったが、最近は何もなくても、時間が許せばここに来ている。心が落ち着くからだ。


持ってきたボストンバッグのジッパーを開くと、中からぐったりとした雑種犬が現れた。僕が近所の住宅街で見つけてきた、新しい生贄だ。犬が苦し気に体を起こそうとするのを認めると、僕はポケットから取り出したスタンガンをその体に押し当てた。


バチッ!という乾いた破裂音。

声にならない悲鳴を上げ、犬が白目を剥いて痙攣する。


僕はその姿に何の感情も抱かず、ただ犬が完全に動けなくなったのを確認すると、近くの木の根元に立てかけておいたスコップを手に取った。


慣れた動作で穴を掘り、まだ微かに痙攣している犬を、頭だけ出した状態で手際よく埋めていく。先に埋まっていたうちの一匹は、すでに息絶えていた。これは、その代わりだ。


新たな虐待の対象を前に、僕は満足げに微笑んだ。そして、手の中のスタンガンを、まるで玩具で遊ぶ子供のように、何度も、何度も空撃ちして火花を散らせた。


その時、僕の背後で、夜の闇よりもさらに濃い黒い靄に包まれた犬神が、じっとその光景を見つめていた。


先に埋められ、こと切れた犬たちの亡骸から、陽炎のような黒い靄が立ち上り、まるで吸い寄せられるように犬神の体へと集まっていく。そのたびに、犬神の輪郭が、ほんのわずかに濃くなっていることに、僕は気づけなかった。


「かはっ…!ごほっ、ごほっ…!」

再び、激しい動悸と、肺が張り裂けそうなほどの咳が僕を襲った。今回も数分と経たずに症状は収まったが、さすがに無視できないものを感じる。やはり、近いうちに本気で病院での検査を考えよう。


今日はこの新しい犬を埋めただけで満足だ。僕は空になったボストンバッグを手に、早く帰って休もうと、その場を後にした。


僕が去った後も、主のいないその場所に、僕の犬神は静かに座っていた。そして、死んだ犬たちから立ち上る黒い靄は、途切れることなく、その身に集まり続けていた。


<具現化する悪意>


変わらぬ日々の作業を続ける俺の耳に、プレス機が規則正しく立てるリズミカルな金属音が襲ってくる。呼吸の音と同じくらい耳になじんだ音だ。しかし変わったところもある。工場全体の雰囲気は活気に満ちていた。

先日、信也の提案した海外展開を正式に受けることが決まってから、工場の空気は明らかに変わった。今までどことなく漂っていた停滞感は消え、未来への期待が油の匂いに混じって漂っているかのようだ。


「この調子でガンガン作って、海外に俺たちの技術見せつけてやろうぜ」「ボーナス上がるといいなあ」


休憩の時も、仲間たちはそんな景気の良い話で盛り上がっていた。大口の取引先が確保できれば会社は安泰になり、給料も上がるかもしれない。

その単純明快な希望が、皆の士気を高めている。俺も、その一員として、この変化を素直に喜ぶべきなのだろう。信也への疑念に蓋をして、目の前の仕事に集中しようとしていた、その矢先だった。


「室瀬、ちょっといいか!」


背後からかかった工場長の弾んだ声に、俺は手を止めて振り返った。


「また佐伯さんが来てくれててな。今後の大まかなスケジュールとか、進め方について話を詰めたいんだと。悪いが、またお前も同席してくれねえか」


信也が、来ている。その事実に、俺の心臓が小さく跳ねた。社長ではなく工場長が窓口になっているのは、現場の意見を最大限尊重したいという社長の意向なのだろう。

会社の未来に関わることなので、現場作業員代表として若手の俺の意見が求められる。それは、この工場で働く者として光栄なことのはずだった。


「わかりました。すぐ行きます」

仲間たちの「室瀬、頼んだぞ」「変な条件のまされんなよ」という激励の声を背に受けながら、俺は作業着の汚れを軽くはたき、洗面所で手を洗ってから事務所へと向かった。


事務所のドアの前まで来ると、中から工場長の豪快な笑い声と、それに合わせた信也の快活な声が漏れ聞こえてくる。どうやら俺を待つ間、雑談交じりに工場の近況でも話しているようだ。その和やかな雰囲気に、俺の疑念もただの取り越し苦労だったのではないかという気がしてくる。

ドアノブに手をかけた、まさにその瞬間だった。


視界の端で、俺の足元にいた黒い靄の犬が、さっと身を固くした。毛を逆立て、牙を剥き出しにするかのように、その輪郭が鋭く尖る。明確な敵意と、強い警戒。

その様子は、復帰後の工場長にまとわりついていた残滓に対して見せた反応と全く同じように見えた。まだ工場長に犬神の気配が残っているのか?

いや、そんなはずはない。今朝、朝礼で顔を合わせた時には、工場長の体からはあの不気味な靄は綺麗に消え失せていたはずだ。では、こいつは一体、何を警戒しているんだ?


疑問が頭を渦巻く中、俺は意を決してドアを開けた。


「おう、室瀬、来たか。悪いな、やっぱり俺一人じゃ難しい話についていけないから、またサポート頼むよ」


手を上げ、人の良さそうな笑顔で声をかけてくる工場長。俺は、なんとか「はい」と返事をすることができた、と思う。だが、俺の意識は、もはや工場長の声など捉えてはいなかった。

俺の目は、工場長の向かいの席に座る男の姿に釘付けになっていた。佐伯信也。そこにいるのは、高校時代の友人である、佐伯信也のはずだった。


だが、俺の目に映っているのは、人間ではなかった。

人の形をした、どす黒い靄の塊。底なしの闇を塗り固めたような、濃密な絶望そのもの。


そして、その塊のすぐ傍らに、そいつはいた。揺らめく陽炎のような、それでいて確かな輪郭を持つ、黒い犬の姿。恨みと憎悪を煮詰めたような瞳で、靄の塊―信也を、じっと見つめている。

直感で理解できた。これが、犬塚千歳が言っていた「犬神憑き」。本物の、呪いだ。


ドアの前で威嚇していたコロの気配が、いつの間にか掻き消えていた。事務所の中に充満する、あの犬神が放つ凄まじい威圧感に耐えきれず、逃げ出してしまったのかもしれない。

俺は、足元から絡みついてこようとする、見えない靄の恐怖になんとか抗い、震える足で一歩を踏み出した。そして、工場長の隣の椅子に、石のように固まった体を無理やり押し込む。


そこからの話し合いは、理性の全てを総動員しなければならなかった。工場長と信也―いや、信也の形をした靄―が交わす言葉の意味を理解し、時折求められる意見に当たり障りのない返事を返す。

その一つ一つの動作が、俺の全神経をすり減らしていく。今すぐにでも叫び声を上げてこの場から逃げ出したい。その衝動を、奥歯を噛み砕くほどの力で、必死にこらえ続けるしかなかった。



どれほどの時間が経ったのか、もはやわからなかった。俺の全神経は、目の前のどす黒い靄と、その傍らに控える犬神の威圧感に耐えることだけに注がれていた。

やがて、信也の形をした靄が立ち上がり、今日の話を一旦持ち帰って輸出先の企業に伝え、また後日その結果と調整のために訪れる、という形で話し合いは終わった。


「じゃあ、また近いうちにご連絡します」


快活な声だけが、やけにクリアに鼓膜を揺らす。信也が事務所を出ていくと、部屋に充満していた息苦しいほどの圧が、ふっと和らいだ。俺は、今まで止めていた息を大きく吐き出し、椅子の背もたれにぐったりと体重を預けた。全身が鉛のように重い。


「室瀬、悪かったな、今回も。もう昼休憩の時間だし、このまま飯に入ってくれ」


工場長のねぎらいの言葉に、俺は弾かれたように顔を上げた。そうだ、このまま帰すわけにはいかない。近づきたくはない。関わりたくない。本能の全てが警鐘を鳴らしている。だが、あの状態は明らかに異常だ。そして、きっと危険だ。友人として、いや、人として、このまま見て見ぬふりをしていいはずがない。


「・・・っ、はい!」

俺はほとんど叫ぶように返事をすると、逃げるように事務所を飛び出した。工場から出たところで、敷地の門に向かって歩いている信也の背中を見つける。


「信也!」

俺の声に、信也は立ち止まり、ゆっくりとこちらを振り向いた。相変わらず、その全身はどす黒い靄に覆われていて、表情どころか顔の輪郭さえはっきりと見えない。


「健吾?どうしたんだ、今のことで何か問題でもあったのかい」


俺が慌てて追ってきたことを、さっきの話し合いに関してのことだと思ったのだろう。靄の奥から、少し怪訝そうな声がした。


「いや、仕事のほうは問題ない。工場長から、このまま昼休憩に入っていいって言われたからさ。また、一緒に昼飯でも食えないかと思ってな」

自分でも驚くほど、自然な声が出た。恐怖を理性で塗り固め、俺は必死に笑顔を作る。


「いいね。ぜひ行こう。実は僕も、健吾に聞いてもらいたい話があったんだ。最近、すごく調子が良くてさ」


靄の塊が、心なしか嬉しそうに揺らめいたように見えた。調子がいい?冗談じゃない。俺には、お前がものすごく危険で、取り返しのつかない、やばい状態にしか見えない。きっと体にも相当な不調が出ているんじゃないだろうか。


「そうなのか?」

俺は、なんとか平静を装って問い返す。


「うん。まあ、ぶっちゃけ自慢話になっちゃうかもしれないけどね」


「自慢かよ!ま、何でもいいや。信也のこと、色々聞かせてくれよ」

俺は努めて明るくそう言って、信也の隣に並んで歩き出した。隣にいるだけで肌が粟立つような悪寒がする。


だが、もう後戻りはできない。確かめなければならない。こいつは、犬神に憑かれてしまった哀れな被害者なのか。それとも―自らの意思で犬神を使役している、加害者なのか。その答えを、俺はこれから、このどす黒い闇の中から見つけ出さなければならなかった。



<仮面の下の狂気>


俺たちが向かったのは、以前にも利用した、工場近くの昔ながらの定食屋だった。油の染みついたカウンターと、壁に貼られた手書きのメニュー。昼時を少し過ぎていたせいで、客は俺たちの他に数人しかいない。そのおかげで、信也の話はよく通った。


「それで健吾のところの海外展開の案件も確定したから、同期の中だけじゃなくて部署全体でも僕の業績はかなり上の方になるんだ」


生姜焼き定食を前に、信也は箸を動かすのももどかしいといった様子で、いかに自分の仕事が順調に進んでいるかを語った。その顔は、俺が事務所で見たどす黒い靄の塊ではなく、確かに高校時代の友人の顔をしていたが、その目は狂気的とも言えるほどの成功への渇望にギラついている。


「そっか、信也の仕事の助けになったんなら、社長や工場長の後押ししたかいがあったよ」

俺は相槌を打ちながら、彼の話を冷静に聞く。信也の話では、本人が言うように仕事は絶好調のようだ。


ただ、その話の端々から感じられるのは、彼の孤独だった。彼が賞賛する上司や、手本にしている先輩の話は一切出てこない。出てくるのは、彼の足を引っ張る無能な同僚や、時代遅れな考えを押し付けてくる取引先の愚痴ばかり。

俺にこうして自分の手柄を生き生きと話して見せるのも、会社には心を許して話せる相手が一人もいないからなのではないか。そんな気がしてならなかった。彼の成功は、彼をますます孤立させているのかもしれない。


「なあ、信也。急に変なこと聞くけどいいか?」

俺はどんぶりの飯をかき込み、意を決して口を開いた。


「なんだよ改まって」


信也は少し驚いたように、きょとんとした顔でこちらを見た。


「いや、先日うちの工場長が体調不良から回復した時にさ、こんなこと言ってたんだよ。『まるで犬神に憑かれたみたいに関節が痛くなったり腫れたりして、あれは本当に大変だった』って」


もちろん、工場長はそんな話はしていない。原因不明の体調不良は、慣れない頭を使ったからだろうと笑っていただけだ。 これは、俺が仕掛けた罠だった。


「・・・」


一瞬、信也の動きが止まった。彼の目の奥で、ギラついていた光が揺らめく。俺は、その変化を見逃さなかった。


「年配の人っていまだに憑き物とか気にするんだなって思ってさ。信也はどう思う?犬神とか、憑き物みたいなオカルト的なことって、あると思うか?」

俺の問いに、信也は数秒の沈黙の後、馬鹿にしたように鼻で笑った。


「はぁ、あのね健吾。このご時世に憑き物はないでしょう。工場長だって昔気質の人だけど、そんな迷信を本気で言ってると思う?」


「まあ、そうだよな。ないよな」


「ないよ。他人に憑かせて利益を得るなんて、そんな都合のいい話があるわけないじゃないか」


信也はそう言って、からりと笑った。俺もそれに合わせて笑い声を上げたが、心の中は冷え切っていた。

「他人に憑かせて利益を得る」

その言葉は、やけに具体的で、まるで自分の行いを正当化するために言い聞かせているかのように聞こえた。


お互い笑い飛ばし、そのあとは本当に他愛のない雑談をして昼飯を終え、店を出た。 疑念は確信に変わりつつあったが、俺にはまだ、決定的な何かが足りなかった。


「ねえ、健吾。僕も一つ、変なこと聞いてもいいかい?」


店の前で別れようとした時、信也が不意にそう言った。


「さっきは俺の変な話を聞いてもらったし、いいぞ」


「僕たち、友達だよね」


店での雑談の延長のように出てきたその言葉は、いやに真剣な響きを持っていた。 彼の目は、俺の答えを求めるように、まっすぐに俺を射抜いている。その瞳の奥に、彼の深い孤独と、誰かに肯定されたいという渇望が見えた気がした。


「友達だよ。当然だろ」

俺が即答すると、信也は心の底から安堵したように、ふっと表情を和らげた。


「そっか、ありがとう」


「なんだよ、そんな真剣に返されたら恥ずかしいだろ」


「うわ、言われたら急に恥ずかしくなったよ。頼む、今の忘れて」


俺たちは高校時代に戻ったかのように、照れ隠しで笑い合った。 そして、それぞれの仕事に戻るため、駅とは反対の方向へと歩き出す。


信也の背中を見送りながら、俺は複雑な気持ちを抱えていた。彼は、俺が思っている以上に追い詰められているのかもしれない。そして、その孤独が、彼を人ならざる道へと引きずり込んでいるのだとしたら―。俺に、一体何ができるのだろうか。



工場への帰り道、俺の心は暗澹としていた。 さっき笑って別れたのに・・・。


「信也・・・なんで他人に憑かせて利益を得るなんて言葉が出てきたんだ・・・」

言いようのない悔しさがこみ上げ、口からこぼれ出た。


俺もオカルトに詳しいわけじゃない。でも一般的に憑き物といって思いつくのは狐憑きなどだろう。

ああいったものは大抵、罰当たりなことをしたとか、狐にたいしてひどいことをした仕返しに憑かれるというものだ。 犬神のように意図的に相手に憑かせるなんて発想は、少なくとも最初に思い浮かべるものじゃない。


「とっさに口から出たのなら、それは・・・お前が犬神を使う側だからじゃないのか?」


定食屋の隅からじっと俺たちを見ていた犬神を思い出す。信也の隣で、まるで忠実な番犬のように控えていた、あの黒い犬の姿を。


「あれが、信也の犬神」

信也・・・なんでそんなものに手を出したんだ。



高校時代、あんなに臆病で、他人の顔色ばかり窺っていたお前が。努力家で、それを馬鹿にされても黙って耐えていたお前がーどうして、こんな歪んだ力に溺れてしまったんだ。


重い足取りで工場の敷地に戻ると、午後の始業を告げるサイレンが鳴り響いた。


俺の足元に、いつの間にか黒い靄の犬が戻ってきていた。信也の犬神が放つ強大な気に当てられて逃げ出していたのだろう。普段より近い位置に座っているそいつは、まるで俺を心配しているようだ。


「・・・大丈夫だ」

誰に言うでもなく呟き、俺はその場に立ち尽くした。信也を止めなければならない。あいつは、もう自分では引き返せないところまで行ってしまっている。あいつの歪んだ行いを知ってしまった友人として、俺にできることは何だ?



<犬神憑き解説 九>


犬神憑きは、個人に身体的・精神的な影響を与えます。憑かれた人は胸や手足に痛みを感じたり、犬のように吠えたりする異常行動を示すほか、精神錯乱状態に陥ることもあります 。その影響は家系や社会にも及び、犬神を持つとされる「犬神筋」の家は富を得る一方で、周囲から忌避され、結婚などを通じて社会的排除の対象となりました 。また、犬神筋の者が他人を羨むと、その感情に応じて犬神が相手に憑いて不幸をもたらすという呪詛的な側面も持ち合わせています 。このように、犬神憑きは個人の病気というだけでなく、家系の差別や地域社会の人間関係にまで深刻な影響を及ぼす現象でした 。



<破滅への序曲>


夜の森は、僕だけの聖域だ。 バチッ、バチッと一定のリズムで弾けるスタンガンの電撃の音を無感情に聞き流す。白目をむき口から泡を吹いて動かなくなった犬の頭を見つめる。


「なんでだよ健吾」

バチッ、バチッ・・・


「友達だって言ってくれるのに」

バチッ、バチッ・・・


「なんで犬神のことを僕に聞いてくるんだよ」

バチッ、バチッ、バチッ・・・


健吾に憑いている犬の存在には初めから気づいていた。ただ、それが僕に従っている犬神とは雰囲気が違っていたので、たまたま健吾の周りをうろついているだけのものなんだと思い込んだ。

健吾の体調も悪くなさそうだし、犬神とは別の何かで健吾自身も犬神のことは知らないと思っていた。


「見えてるんだ・・・知ってるんだ・・・僕がしていること」

意図して見ないようにしていたんだろうけど、今日の健吾は明らかに僕の後ろを気にしていた。


最初のころをのぞけば、犬神はこの森の中か僕が使いたいと思わないかぎり現れなくなっていた。だけど、最近はまたずっと僕の周りをついてくるようになっている。

それでも会社や取引先で犬神に反応する人間はいなかったから、健吾にも見えないだろうと、なんの対策もせずに工場に行ってしまった。

油断してたんだ、最近の調子のよさに。


カチッ、カチッ、カチッ・・・


スタンガンのスイッチを押しても電気が出ない。無意識に押し続けたせいでバッテリーが切れたらしい。犬の毛と肉が電気で焦げた匂いが鼻につき、漂ってきた煙が目にしみる。


グチッ、グチッ、グチッ

電気が出なくなったスタンガンの電極をこと切れている犬の頭に突き刺す。


グチッ、グチッ、グチッ

皮膚の下の血管内を、流れることなくとどまっていた血がにじみ出て、押し付けたスタンガンにこびりついてくる。


「僕のしていることに気づいたんだろう、健吾。なら・・・君はどうする?」


断続的に襲ってくる体の痛みは日に日に間隔が狭まってきていた。今も痛みから口の中の唾液が泡立ち口の端からあふれてくる。それでも僕はそんなものを無視して、しばらく犬の頭にスタンガンを突き刺し続ける。

そんな僕を後ろに控える犬神が嗤っているように感じた。



<命の対価>


部屋の中でスマホを握りしめ、相手が出てくれることを祈りながらコール音を聞き続ける。 昼に信也と別れた後、頭の中がぐちゃぐちゃになりながらも俺は何とか午後の作業を終え、帰宅後にようやく少し冷静になれた。

信也は犬神に憑かれている。そして、たぶん使ってもいる。 信也がどんなことに犬神を使っているのかはもちろん気になるが、それよりも信也の今の状態の方が俺には心配だった。

信也の全身を覆う黒い靄。あれは工場長の時の比じゃない。 工場長の話では、まるでインフルエンザの時のように全身の関節が痛んだという。

なら今の信也はどれだけの痛みを感じているのか・・・なにより、そんな状態の体で「調子がいい」なんて本当に清々しそうに語る精神状態こそが異常だ。


「室瀬さん?」


考えに沈んでいた意識を、スマホ越しの犬塚千歳の声に引き戻される。


「夜分にすまない。犬神に憑かれている人間を見つけたんだ」


「はあ、そうなんですか」


思っていたのとは違い、ひどく無関心な声で返されてしまった。


「それで君の意見を聞きたい」


「意見と言われても・・・まだそんなことしてる人いるんだなぁぐらいしかないんですけど」


俺に犬神の危険性などを教えてくれた少女の言葉に絶句した。


「なぜ・・・」

無意識に疑問の声が出る。


「なぜと言われても、私や私の家は犬神専門の拝み屋でも退治屋でもありませんから。私は犬神の知識があるだけのただの女子高生ですよ?」


「それは・・・わかってる。ただ俺には君以外に聞ける人間がいなくて・・・」


「もしかして室瀬さんも『知識や技術があるなら、それを万人のために提供することが義務だ』とか考えてる人ですか?」


「そんなことはー」


「私はそういう考え方は嫌いです。知識や技術は得た人間の財産です。例えば、あなたで言えば工場勤務で得た知識や技術が財産です」


「それを『知ってるんだから、できるんだからやってくれるのは当然』と近所の人に家の物の修理を押し付けられて笑顔で対応できますか?」


確かに俺は知識のある犬塚千歳に当然のように頼ってしまった。俺にくっついてる犬や信也の犬神のことは彼女となんの関係もないのにだ。


「・・・すまない」

自分でも驚くほど情けない声が出た。


「ピカソの30秒という話を知っていますか?」


「え?いや」

突然出てきた有名画家の名前におれは茫然と答えた。


「ピカソがファンであるという夫人に似顔絵を描いてくれと頼まれて、30秒で夫人の似顔絵を描いたという話です」


「・・・それでなにが?」


「その30秒で描いた似顔絵代としてピカソは100万ドルを夫人に請求しました」


「いや高すぎだろ!」


「当然ファンである夫人でもたった30秒で描いた絵が100万ドルは高すぎると言いました」


「まぁ、そうだろうな」

俺はいったい何を聞かされているんだ?


「ピカソの答えはこうです。『30秒ではありません。私は、これまでに30年もの研鑽を積んできました。だから、この絵を描くのにかかった時間は、30年と30秒なのです』と」


「・・・」


「ネットを探せば出てくる小ネタなんですけどね」


「つまり、君は何が言いたいんだ?」


「知識や技術を借りたいのなら、それ相応の対価を払うのは当然だと思いませんか?」


「もちろん対価は払う。だから頼む。信也を…友人を助ける知恵を貸してくれ」


「はい。場所は・・・何度か会っている喫茶店でいいですね」


「かまわない」


それから会う日時を決め、通話を切った。

勢いに押されるような形になったが、頭は冷えたように感じる。 冷えた頭で思い返せば、藁にもすがる思いとは言え、大の男がすがる先が女子高生とは情けない話だ。 しかもその態度を諭されてしまうとは・・・


部屋の隅に座る犬を見る。 犬神ではないにしろ、似たような存在なら信也の犬神をお前がどうにかしてくれたらな・・・と、この考えも自分勝手な押しつけだな。


「・・・」

犬は何の反応もなくただじっと座ってこちらを見ている。 黒い靄の塊の表情はわからない。


「コロ・・・なんだよな」

靄は動かない。 信也についていた犬神は恨みの塊、悪意の塊といった様子が一目でわかった。 なら、コロは? 犬塚千歳は恨みからではないと言っていた。 だとしたら何のために今ここにいる? お前と信也の犬神と、何が違う?


しばらく見つめていたが意思の疎通ができない虚しさに考えに区切りをつけ、俺は寝る前にシャワーを浴びるため風呂場に向かった。


犬「・・・」



<届かなかった視線>


自転車のすぐそばで、見慣れた茶色い毛玉が退屈そうに地面に伏せていた。コロだ。

鎖の届くギリギリの場所まで身を寄せ、俺の自転車の後輪に鼻を押し付けて、くんくんと匂いを嗅いでいる。俺がいない間、あいつはよくそうやっていた。俺の残り香を求めるように。


「コロ」

俺が声をかけると、ぴくりと耳が動いた。ゆっくりと顔を上げたコロは、俺の姿を認めると、次の瞬間には地面を蹴って飛び起きていた。ちぎれんばかりに振られる尻尾。鎖がじゃらりと音を立て、その動きに合わせて跳ねる。


俺が自転車に手をかけると、コロはぴょんぴょんと飛び跳ねながら俺の足にじゃれついてきた。「遊んでくれ」「どこにも行くな」と言わんばかりに、その全身で喜びと愛情を表現する。


「よしよし、いい子だから」

俺は屈みこんで、その硬い毛並みの頭をくしゃくしゃと撫でた。あたたかい体温と、嬉しそうな息遣いが伝わってくる。ひとしきり撫でまわしてやると、コロは満足したように少しだけ離れ、その場にお座りをした。


「じゃあな、行ってくる」

俺は自転車にまたがり、ペダルをこぎ出した。庭から道路へ出るまでの短い間、コロは鎖の許す限り、必死に俺の後を追いかけてくる。


そして、俺が道路に出て、もうこれ以上は追えないとわかると、その場でピタリと足を止め、尻尾を振りながらじっと俺を見送っていた。

角を曲がる直前、俺は一度だけ振り返る。コロはまだ、同じ場所で俺の方を見ていた。俺が手を振ると、尻尾の振りが少しだけ大きくなったように見えた。

それが、あの頃の俺たちの日常だった。


俺の姿が完全に見えなくなる。その瞬間、夢の中の俺の視点は、まるで空から見下ろすかのように切り替わった。

あれほど激しく振られていたコロの尻尾が、ぴたりと止まる。

そして、まるで糸が切れた人形のように、だらりと力なく垂れ下がった。輝いていた目は光を失い、来た道をとぼとぼと力なく歩き出す。そして、日の当たる場所を避けるように、薄暗い犬小屋の中へとその身を沈めていく。

見送る姿の裏側にあった、あの深い孤独に、俺は気づいてやることすらできなかった。



<犬神憑き解説 十>


犬神使いに呪われた人と、使い手自身が自らの犬神に呪われる場合では、一般的に後者の方がより深刻な症状になると考えられています 。他者を呪う際、犬神の力は外部に向けられますが、使い手自身が呪われるのは制御を失った状態を意味し、犬神の怨念が直接本人に及ぶためです 。伝承では、犬神使いが自分の犬神に呪われた場合、「死に至る」「家系ごと滅びる」など、より深刻な末路が語られることが多いです 。このため、犬神使い自身が呪われる方が、症状は重く回復も困難であるとされています 。



<決意の通話>


喫茶店には俺が先に着いた。

席を確保し注文を済ませ、頼んだコーヒーが運ばれてくる頃に入り口のベルが鳴った。


犬塚千歳が入ってくる。 彼女は前と同じ席に座っている俺を見つけるとカウンターに向かった。 先に注文を済ませてきた犬塚千歳が席に座ると同時に話を切り出してくる。


「まず初めに確認しておきます」


契約事項の確認をする事務員のように、無機質に言われた言葉に俺も姿勢を正す。


「私にできることは知っていることを教えることだけです。犬神を祓ったり、犬神憑きを治したりすることはできません」


「ああ、わかってる」

店員が犬塚千歳の頼んだ飲み物を持ってきたのでいったん間が空く。


「では話してください。何を見たんですか?」


店員が去るのを確認してから話を進める。

俺は高校の時の友人が営業で工場に訪ねてきたこと、最初の数回は何の変化もなかったが先日来た時には全身が黒い靄に包まれ、近くには犬神らしき姿が見られたことを話した。

靄に包まれた姿が体調不良になった工場長と一緒なら、体の痛みなどの症状はかなりひどいものになっているであろうことや、それを全く苦に感じていない友人の精神状態などの懸念点を上げていく。

黙ってこちらの話を聞いてくれている犬塚千歳の眉間にはしわが寄っている。 その表情から、俺の思っている通り状況は悪いらしい。


「手遅れですね」


「え・・・」

バッサリ切って捨てられた言葉に俺は絶句する。


「前に犬神は儀式によってつくられると言いましたよね」


「ああ、ここで最初に話したときに言っていたな」


「やり方はいろいろありますが、簡単に言ってしまえば犬を虐待しつくした後に✕します」


「っ!」

簡潔に告げられた言葉に俺は絶句する。


「代表的なものに犬を頭だけ出して土に埋め、ちょうど舌の届かないところに餌を置きそのまま放置します。何日か放置して犬が飢えて✕ぬ寸前に首を切り落とす」


「そしてその頭を辻道など人の往来が多い場所に埋め、踏ませることで怨念を強めます。十分に怨念が強まったところを掘り返してその首を呪物とし、祀ることで犬神になります」


オカルト的な存在なのだから、その生まれ方はひどいものだろうと思ってはいたが想像以上の内容に俺は言葉が出ない。


「そんな風にして生み出した犬神を使って人は人を呪うんです。・・・そしてどんなにうまく使ったとしても、犬神が呪う対象には使う側、作り出した側も含まれます。当然ですよね」


儀式を行った者をあざけるように言い、彼女はそっと自分の肩の小さな靄を撫でるようなしぐさをした。


「さらに嫌になることに、憑かれるのは犬神を最初に作り出した者だけじゃなくその家族、子孫にまで続いていくんです。だから犬神を使ったり憑かれたりした者の血筋は犬神筋と呼ばれ、周りから忌避されます」


当然ですよね。と、また彼女は言った。

頭の芯が冷えていく。 自分の周りのことでいっぱいだったとは言え、俺は彼女の思い出したくもないものを言葉にさせてしまったんだ。

彼女の話は続く。


「伝承によると犬神を使われて呪われるよりも、犬神を使っていた側が自身の犬神に呪われる方が状況は悪くなるらしいです。大体は✕んだり、家系ごと滅びたりといった感じで」


犬神にされた犬からしたら、より恨みのある方はどちらか? 考えるまでもなく、自身を犬神に作り替えた方だ。

犬神を使って呪う対象は、犬神にしたら自分に直接関係のない人物なのだから。 たとえ、その人物がいたからこそ自分が生み出される結果になったとしても。

犬神の元となる犬に対する仕打ちを思えば、彼女のいうように当然、作り出した側への恨みの方が強くなるだろう。


「ご友人の方は、話を聞く限り完全に使役していた犬神に憑かれています」


犬神という存在の悲惨さにうなだれ、視界が自分の手元だけになっていた俺の耳に、さらなる追い打ちがかけられる。


「室瀬さんの見立て通り、ご友人の精神は異常な状態です。犬神憑きの症状には体の痛みのほかに行動の変化や精神の変化があります」


「具体的に行動で言えば、犬の真似をする、犬のように吠える、精神的には怒りっぽくなったり、情緒不安定になったりなどです。そのような変化は見られましたか?」


「いや、そこまでは・・・」

言いかけて俺と信也が居酒屋で食事をした時のことが頭をよぎる。あの時俺は信也の愚痴を、らしくもない攻撃的なものに感じた。


高校時代の信也も愚痴っぽいところはあった。 人付き合いが苦手な信也は、周りのちょっとしたからかいを敏感に感じ取り、よく俺に愚痴をこぼしていた。

その時の愚痴はどこか諦めを含んでいて、信也の自己肯定感の低さが垣間見えるものだった。 愚痴を聞くたびに俺は、信也がダメだと思っている部分を言葉を変えて信也の強味に聞こえるように、話を誘導していたことを思い出す。


「心当たりがあるみたいですね」


「言われればそうなんじゃないかと思える程度のことが・・・あった。ただ、社会に出て仕事をするようになれば、この程度の変化ぐらいはあるかと・・・」


「それがどの程度のものだったのかはわかりませんが、少しずつ影響は出ていたんだと思います」


信也は繊細なやつだ。 少しの違和感でも見過ごさずに指摘していればー


「意外と顔に出るんですね」


「なにが」

小さな笑いとともに言われた言葉に反応する。


「気づけなかった自分のせいだ・・・とか考えてましたよね」


その通りなので何も言葉が出ない。


「無理ですよ。自分からおぼれようと水に潜り続ける人を助けることなんてできません」


彼女の中では信也は完全に手遅れで、もう関わっていい存在ではないと結論付けられているようだ。

直接目にせず俺の話越しとはいえ、彼女の知識をもとにした判断ではそうなるのだろう。


「人を呪わば穴二つ。他人を呪おうと行動した時点で自分の埋まる穴は掘られています。あとは相手と一緒に埋まるか後から埋まるか、早いか遅いかだけ」


だけど俺はその結論を受け入れられない。


「また顔に出てますよ。『そんなのは嫌だ』って」


答えを提示して一息ついたようにカップに口をつけていた彼女が、ちらりとこちらを見ながら言葉をこぼした。


「そもそもの話ですが室瀬さん。そのご友人とは高校卒業以来会ってなかったんですよね?」


「そう・・・だな」

軽いため息とともにかけられた問いに答える。 確かに卒業後に信也と連絡はとっていなかった。 信也は大学進学、俺は高校時代のバイトの延長で就職。 生活サイクルも生活圏もまるで違って、自然と接点はなくなったからだ。


「親友と呼べる人だったんですか?」


「・・・」

高校時代、当然何人かは親しい人間はいた。 むしろいくら人づきあいが苦手でも、学校という閉鎖空間で完全に孤立したまま数年間を過ごすことなど不可能だ。 俺よりも人付き合いの苦手な信也でさえ、俺とはよく話していた。

では、その少ない人間関係の絆が強いかと聞かれたら・・・どうなのだろう? 思い返してみれば、学校では話しても休日まで一緒にいるような友人はいなかった。 互いの家のことなどプライベートな内容の話もほとんどしたことがない。

同じ空間にいなければいけないから関わっていた表面上だけの人間関係。 信也もそのうちの一人だ。

俺は信也の家の場所を知らない。 俺は信也の家族構成を知らない。 俺は信也が休日に何をしているのかを知らない。 俺は信也の俺以外の友人関係を知らない。 俺はー


「きっとその人の精神状態はこれからさらに不安定になっていきます。それこそ視界に入る人の些細な言動一つで呪う対象にしてしまうくらいに」


答えを返せない俺を諭すような声で信也のこれからが予想される。


「室瀬さんがそのご友人を『助けたい』とする行動は、きっとご友人には邪魔に思われるでしょう。『自分は犬神を使ってすべてうまくいっているんだ』そんなふうに考えているところをやめさせようとするのですから」


全身真っ黒な靄に包まれながら「調子がいい」と晴れ晴れと語った信也が思い出される。 彼女が言う通り、今の信也は心底自分はうまくやっていると思っているのだろう。 たとえ、俺から見たら全速力で破滅に向かっているように見えたとしても。


「これ以上その人に関わるのなら、室瀬さんは確実にその人に呪われ、犬神に憑かれることになります」


「多分・・・なるだろうな」


「一時期友人関係だった。それだけの人のために、室瀬さんも穴に埋まりますか?」


また下がってしまった視界の端に黒い靄が映りこむ。 いつからか俺についてくる黒い靄の犬、コロであろうその犬がいつもよりも近い位置に座って俺をじっと見ている。

俺にとってはコロも同じだったのだろうか? 閉鎖空間で一緒にいなければいけないその息苦しさ、気まずさから逃れるために作られたその場限りの人間関係。

家で一人でいる時間をもてあますのが嫌で、暇を潰すためだけに飼われた都合の良いペット。 俺はそんなふうに刹那的な理由で、自分以外との関係を即席に作り続けただけだったのかもしれない。 なら俺はー


「埋まらない。俺もー信也も」

確かに俺は信也の多くを知らないし知ろうともしなかった。関係も卒業と同時に途絶えた。 だからといって信也との関係がなかったことになったわけじゃない。


信也は俺に愚痴をこぼした。 たしかに信也は愚痴っぽかったが、見境なしに愚痴るようなやつじゃなかった。 それはある意味俺を信頼して、俺になら愚痴っても受け止めてもらえると思ったからじゃないのか?

人の愚痴を聞くのは苦痛だ。でも俺は信也の愚痴を聞き続けた。即席のどうでもよい関係なら、卒業よりももっと前に関係を切っていただろう。ましてやその愚痴に対して真剣に考え応えたりはしない。

それは俺にとっても信也はそれだけの対応を、時間や労力というリソースを使うに値する人間だと思ってたからじゃないのか? 何がかはわからない。

もしかしたら、似た者同士、同属の傷の舐め合いみたいな関係だったのかもしれない。それならそれでかまわないだろう。あの時期、確かに俺たちの間には上っ面だけではない関係があった。

そしてそれを俺は今も覚えている。


「そうですか」


またため息のような、ある種諦めを含んだ言葉が彼女の口からこぼれた。たぶん今考えていたことが顔に出ていたのだろう。彼女が諦めたのは、「きっとこの人は友人に関わるのをやめない」といったところか。


「最初に言ったように私は祓ったりできませんので、これから話すことは『そういう言い伝えがある』程度に聞いてください」


「わかった。ありがとう」

姿勢を正して発した感謝の言葉に彼女は少しむずがゆそうにしながら話始める。


「まず『憑き物を落とす』ということで誰でも思い浮かべるのが神社などでのお祓いですね。犬神に関しては徳島県の賢見神社けんみじんじゃが有名で日本随一と言われています」


「あるのか!そんな専門の神社が」

犬神に特化した神社が存在するとするのなら、犬神という憑き物は俺が知らなかっただけで実はメジャーな存在だったのか。


「そこに連れて行けば信也は助かるんだな」


「賢見神社のお祓いを受けることで症状が和らいだ、治ったという事例は報告されています。でも、連れていけますか?ご友人は多分、犬神を自分の成功のカギか何かと思い込んでいますよ。そんな人が犬神を祓うことを受け入れるとは思えません」


「確かに・・・抵抗するだろうな」


「他には『憑かれた人が無意識に欲しがっているものを与える』や『自分の悪事を告白させる』などといったことで犬神憑きが治ったとされる事例もあります」


「欲しがっているものや、悪事・・・」

信也が欲しがっているものとは会社での業績や出世か?・・・違うような気がする。悪事に関しては俺には思いつくものがない。高校を卒業してからのことだろうか?


「今言った方法もあくまで『緩和した、治ったという事例がある』というだけで、確実なものではありません」


「過去にできた人がいるなら、俺はそれを試したい」


「おそらく室瀬さんが次にご友人に会われるときは、犬神の影響がもっと強くなっているはずです。最悪、理性などほとんど残っていない状態かも・・・ただの話し合いではすみませんよ」


初めに「手遅れですね」と切り捨てた時とは違い、随分と心配してくれる。 彼女にしてみれば、犬神を使って何かをなそうとした信也が不幸になるのは自業自得ということなのだろう。

なら俺が信也を見捨てられないのも自業自得だ。義務でもないのに、ふらりと戻ってきた友人関係に見切りをつけられず危ない橋を渡ろうとしているのだから。


「何とかしてみる。体をはってでも」

言い切ってみると意外とすっきりした気分になったので、すっかり冷めてしまった手元のコーヒーを一気にあおる。


「そうですか。すみません。一言、言葉を飾らずに言いますね。バカなんですか?」


「ック!!」

今までの話し方から一変した率直な言葉に危うく吹き出しかけた。


「背負う必要のない責任まで背負うなんてバカげてますよ」


ちらりと俺のそばにいる犬を見て彼女はそう続けた。


「そうかな、俺はどちらかと言うと責任から目をそらし続けてきたように思うけど」


「本当に責任から逃げている人はそんなこと思いもしません」


随分と印象が変わったように見える彼女に笑いがこみ上げてくる。言葉だけなら罵倒されているように聞こえるが、とりつくろわない本音という感じが妙に清々しく感じて気持ちがいい。


「ありがとう。話を聞いて俺がやるべきことがはっきりしたよ」

声に出そうになる笑いがおさまってから、改めて彼女に礼を言う。 目標や道が決まると人の頭はこんなにもクリアになるのか。


話をする前まで心を塗りつぶしていたものが拭い去られ、俺は若干ハイな状態になっていた。


「はぁ・・・もう一度言いますけど、話し合いにはなりませんよ。言葉が理解できる状態かどうかも怪しいです。もし本当にご友人に会いに行かれるのでしたら、荒ぶった野犬と対峙するつもりでいてください」


なにかを飲み込んだ後のようなため息の後、彼女は真剣に最後の忠告をしてくれた。 それに俺も覚悟をもって答える。


「わかった。肝に銘じておく」

俺はもう一度彼女に礼を言って伝票とともに席を立った。



店を出て信也に連絡をとるためにスマホを取り出しながら歩き出す。駅前通りは喧騒に包まれていたが、俺の耳には届いていなかった。

画面をタップし、挑むような気持ちで呼び出し音を聞く。

俺は信也が犬神を使っていることに気づいていないふりをしたが・・・まぁ隠せてはいなかったよな。 犬神なんて耳慣れない名前を出したうえに、こいつのこともある。


視界の端で俺についてくるコロ。犬神ではないが似たようなものだ。 事務所でいったん消えたコロは、定食屋では信也の犬神に怯えていつもより離れた位置にいた。だが認識できる範囲にはいた。

当然、信也にも見えていたんだろう。あの日信也が犬神を連れて工場に来る前までは、もっと近くにいたのだから。


信也の前でコロを意識したことはない。信也は俺には犬神が見えないと思ったのかもしれない。俺のいるところに自分の犬神を連れてきたのは、状態や精神的に、もう犬神をコントロールすることができなくなっているからだろう。

そして定食屋での質問だ。自分が犬神を使っていることが俺にばれた。信也はそう理解したはずだ。

なら俺からの連絡、お前に出ないという選択肢はないよな。


「健吾?」


考えを整理しているうちに繋がったようだ。 電話したのに無言だった俺は、信也のいぶかし気な声で名前を呼ばれ意識を戻す。


「話があるんだ、大事な話が」

俺は、自分でも驚くほど落ち着いた声でそう切り出した。電話の向こうで、信也が息を呑む気配がした。



<聖域への招待状>


会社は僕の部署だけパンデミックが起こったのかと思うほど病欠する人間が増えていた。人手が減れば業務も滞る。それを何とかしようとマンパワーで無茶をすれば体調を崩す人間が出る。

そしてまた残った人員の負担が増える負のスパイラル。会社の認識はそんなところだろうが事実は違う。僕の犬神だ。


繁忙期かと思えるほど激務の中で与えられた休日で、僕はカーテンを閉め切った薄暗い自室の隅でうずくまっていた。

部屋の中央には、ここの主とでも言いたそうに座っている犬神。


本来の主である僕は断続的に襲い来る体の痛みで顔も上げられない状態だ。

その構図はまさに主人と下僕。

本来ならこんな状況、怒りがこみあげてくるべきところだが今の僕にそんな感情はみじんもない。気分がずっと高揚しっぱなしで、気を抜けば今にも大声で笑い転げてしまいそうだ。

うまくいっている。そう全部うまくいっているんだ! 僕をバカにするやつ、見下してくるやつ、同僚や担当者はみんないなくなった。今では足りない人員の補填に奔走する僕に同情的なやつか、急な担当変更でこちらに助力を求めてくるやつばかりだ。


「っく・・・は、はは、はははははははははっぐ!」

体が痛い!体が痛い!体が痛い!あははは!体が痛い!痛いんだよ!! もはや自分が思い通りになった日常を喜んでいるのか、体の痛みを喜んでいるのかわからない。 口の中で粘度を増した唾液が食いしばった歯の間から溢れてくる。


「はぁはぁはぁ・・・」

受け止めきれない幸福感。表現できない喜びで僕の頭の中はグチャグチャだ。今すぐ部屋を飛び出してこの感情をぶちまけたい! にもかかわらず、実際の僕は激痛に手足が引きつり部屋の隅から一歩も動けないでいる。


電話のコール音


僕の荒い息だけが響いていた部屋に別の音が混ざる。今は仕事関連の連絡はメールが主流になった。それでも急ぎの場合はやはり電話でくる。 最近は業務の遅れに伴って電話の本数も増えていた。

そのため僕は無意識に、すっかり耳なじみになった音を発するそれに手を伸ばした。画面に表示された名前に、それまでの高揚も痛みも消し飛ぶ。

室瀬健吾

そうか・・・見ぬふりはできなかったか・・・健吾。


画面をタップ。通話状態になる。聞こえてくるのは・・・街の雑踏を歩いているような騒めき。 まさかポケットに入れたスマホが、何かの拍子で勝手に反応してしまったのだろうか?


「健吾?」

電話してきてなんの話も始まらないことを疑問に思いつつ僕は呼びかけた。


「信也、すまん。大丈夫か?」


その言葉に僕は笑いだしそうになる。多分いろいろ考えながら電話したから、僕の呼びかけにとっさに出た言葉なんだろう。

健吾、その大丈夫か?は「今時間的に大丈夫か?」じゃなくて「お前犬神に憑かれてるけど大丈夫か?」だよね。 さて、どう答えようか・・・


「ああ、仕事は忙しいけどなんとか今日は休みをもらえたから、時間は大丈夫だよ」

あえて時間的なことを強調してみる。


「休めないときがあるほど忙しいのか?営業も大変だな」


「営業が大変って言うより、今僕の部署ってやたらと病欠する人が多いんだよね。そのしわ寄せって感じかな」


「病欠か・・・お前はどうなんだ信也。こないだ工場に来たとき、ちょっと顔色悪そうだったぞ」


「そんな風に見えた?確かに残業続きで少し疲れはたまってるけど、その分充実してるから僕的にはむしろ心地よい疲れって感じなんだけど」


「お前はそう感じてるんだな」


その深刻そうな健吾の声に僕は笑いそうになる。滑稽だよ健吾。できもしない演技で、たどたどしくこちらの状況を探ろうとするなんて。

うん。十分楽しめたし確証も得られた。やっぱり健吾は僕が犬神に憑かれていることを理解している。なら、これ以上健吾に下手な腹の探りあいをさせる必要はないな。 助け船を出してあげよう。


「健吾が聞きたいのは僕に憑いてる犬神についてでしょ」

息をのむ感じが通話越しに伝わってくる。


「何を驚いてるんだい、健吾。バレバレでしょ」


「お前やっぱりー」


「健吾の後ろにだっていつも憑いてたじゃないか。僕の方こそ最初に見たときは驚いたよ。まさか健吾が僕と同じだなんて」


「いや・・・こいつは犬神じゃない。だから俺はお前と同じ犬神憑きでも犬神使いでもないんだ」


「じゃあさ。それ、なに?」


「・・・」


「なんだか僕のと全然感じが違うから、そういうのもいるんだなぁって気になってたんだけど、違うんならなんでもいいや」


「信也・・・お前、犬神を使ってるんだよな」


「もちろん使ってるよ。こんな便利なものを使わない手はないでしょ。なにせこっちが邪魔だなって思った相手が勝手に僕の前から消えてってくれるんだから」


「それで相手がどうなるのかわかるよな。今のお前みたいになるんだぞ!お前の言う邪魔な相手はそこまでの仕打ちを負うべき相手なのか?」


「当然でしょ。大した理由も根拠もなしに僕を見下してくるやつなんて」

僕の前からいなくなったやつらの僕に対する態度を思い出して自然と声が低くなる。 そう、当然の報いってやつだ。


「工場長がいつお前をー」


「ねぇ健吾、今外でしょ。直接会って話さない?」

なんだか食いついてくる健吾が煩わしくなって僕はそう持ちかけた。自分でも会ったところで話の内容が変わるとは思わないが、相手の顔が見えないこの状況がものすごくもどかしい。


「わかった。どこに行けばいい?」


健吾も同じように思ったのか、僕の提案にすんなり従った。それで、どこがいいだろう? 健吾の部屋というのも相手の土俵に立つようで落ち着かない。逆に僕の部屋では健吾が警戒するかもしれない。どこかの喫茶店・・・は、もっとないな。周りの目など気にしたくもない。

なら、あそこがいい。 僕のなじみの場所だけど健吾は知らないのだから。


「そうだね。じゃあ、街のはずれにある林道の入り口まで来てよ。そこで待ってるからさ」


「林道?・・・わかった」


僕にも健吾にも関わりのなさそうな場所を指定されて疑問に思ったようだが、了承は得られた。健吾の中では場所の違和感よりも僕との話のほうに思考が向いているのだろう。


「それじゃ健吾。また後で」


「ああ」


通話を切った途端に意識の外になっていた痛みがぶり返し、額を床に打ち付ける勢いでうずくまる。


「はぁはぁはぁ・・・」

無音になった室内で荒い息を吐き出し、体が痛みに慣れるのを待つ。そうして何分かたって顔を上げると、そこには変わらず僕を見下ろしている犬神の姿。


これから健吾に会ったとき、こいつはどうするだろう。健吾にも憑りつこうとするのか? 健吾に憑りついたのなら、それは僕が健吾のことを邪魔だと思っているということだ。

・・・それでもいいか。僕にとって健吾は、学生時代に愚痴を吐けた人間というただそれだけの存在なんだから。

本当に、それだけの存在だ・・・



<暴かれた墓場>


信也との通話を終えた俺は、そのまま指定された林道をマップアプリで検索し、そこに向かった。林道入り口までは1時間くらい。今からだと、たどり着く頃には暗くなっているかもしれない。

信也がなぜこんな場所を指定したのかはわからない。近くに仕事関係で出向く場所でもあるんだろうか?


「人目を気にせずに話せる場所ならどこでもいいか」

通話を終えた俺は、すれ違う何人かが俺にいぶかし気な視線を向けていることに気づいた。

話に夢中になって少し声が大きくなっていたのかもしれない。あのまま話し続けていたら状況はもっと悪化しただろう。


場所を変えるという信也の提案は、冷静になるためにも必要なことだった。それに話の内容的なこともある。犬神のことをもっと突っ込んで聞き出したい。

どうやって知って、本当に犬塚千歳から聞いたような儀式をやったのかどうか・・・

そもそもなんでそんなオカルト的なものに頼ろうとしたのか。


「ほんとオカルトだよな」

つぶやき、少し振り返ると変わらず自分の後ろをついてくる黒い靄の犬が確認できた。


今も通り過ぎる人に接触することなく体をすり抜けている姿に、改めて自分の状況の異常さを認識する。その異常さにすっかり慣れてしまっている自分に苦笑がもれる。


「まるで散歩だな」

そう考えると 、もしかしたら生前よりも今の方がまともな「飼い主」をしているようだ。庭につなぎっぱなしのあの頃に比べたらよほど・・・


過去に飛びそうになる意識は、前から歩いてくる人をよけることで引き戻される。今はバカなガキのころのことよりも信也のことだ。

信也の精神状態はどうなっている?

電話に出た信也は何かを必死でこらえているように感じられた。きっと体中が激痛にさいなまれていたんだろう。

犬塚千歳の言っていた症例では、理性の期待できない野犬のようになるらしい。話ができたのだとすれば信也はまだ大丈夫なのか? これから会った時の俺の話のもっていきかた次第では、信也の症状は悪化するかもしれない。

そんなときに周りに人がいたら・・・ 信也がどんな行動をとるのかはわからない。暴れるにしろ喚き散らすにしろ、周りに人がいない方が都合がいい。信也もそう判断して人気のない場所を選んだのだろうか?

だとしたら信也自身、自分が正常でないとわかってはいるんだ。俺がそのことをもっと強く認識させることができれば、信也を思い直させることができるかもしれない。そうすれば賢見神社でお祓いを受けるという話も可能になるだろう。

信也に犬神を使うことを辞めさせ、犬神憑きを治す。その方向性が見えた気がした。



陽が落ちる前に俺は林道入り口に到着した。信也はまだ見当たらない。

林道は木々に陽の光がさえぎられ、ぽっかりと黒い口を開けているだけだった。

夕日の差し込まない暗い林道の奥を見つめながら信也を待つ。ここは街の端で、特に目的もなく歩いていてたどり着けるような場所ではなかった。手入れがされているわけでもないので、管理が行き届いてるという感じではない。

放置された森。その森の入り口で佇むこと十数分。

人気のない道を、黒い靄がこちらに向かって近づいてくる。


「やあ、健吾。早かったね」


森の中を覆う闇に同化しそうなほど黒い靄をまとった信也が、日常の延長のように気軽に声をかけてきた。


後ろには犬神もしっかりついてきている。この前工場に来た時よりもそいつは大きく、そして邪悪な気配を色濃くしているような気がした。その気配に気圧されるように、俺の後ろからは、黒い靄の犬が消える感じがした。

信也の犬神から流れ出る黒い靄は、まるで巨大な手で信也を締め上げるように全身に絡みついている。靄に包まれた信也からは、今にも肉がつぶれ、骨が砕ける音が聞こえてきそうな気がした。


「こっちだよ、少し歩こう。見せたいものがあるんだ」


予想以上に悪い状態に言葉をなくしている俺に信也が声をかけ、俺の横を通り林道へと向かう。すれ違う間、信也の後ろをついていく犬神が俺を見てくる。存在の禍々しさとは逆に、俺を見るそいつの目には何もなかった。


憎しみや怒りといった負の感情は感じられない。ただ、ぽっかりと開いた黒い穴のような、無機質な視線だった。ただただ昏く底の見えない暗い穴。


背筋に嫌な汗がにじむのを感じながら通り過ぎた信也に声をかける。


「見せたいもの?それはお前の犬神の話と関係あるのか」

俺の質問には答えずに、信也は「まあ、いいからついてきて」と言って、闇が口を開ける林道へと足を踏み入れる。俺は一瞬ためらったが、意を決してその後に続く。ざくり、と乾いた落ち葉を踏む音が、やけに大きく響いた。


信也の犬神がなるべく視界に入らないように、足早に信也の隣まで歩く。並んで歩き出すと、信也はまるで日常の延長のように快活な口調で話し始めた。


「健吾と再会してから高校時代のころを思い返すことがあるんだよね」


「そうなのか」


「うん。健吾は覚えてる?テスト結果が張り出されて僕がいつも上位にいることを揶揄されたときのこと」


「ああ、毎回のようにいちゃもんつける奴いたな」

高校時代、信也は本当に勉強を頑張っていた。それを「勉強だけしているんだから上位になれて当然」みたいな風に言ってくる連中がいた。自分たちは部活もあるから、テストにだけ集中はできないんだ。とかそんなことを、わざわざ聞こえるように言ってきて。


何に集中し結果を出すかなんてことは、本人が選択できることだ。自分たちが部活を優先し、それで結果を出すと決めたのなら、別にテストの結果など気にする必要もないのに・・・。


「それで健吾は毎回、僕の努力を認めてくれてた。あの頃は健吾の言葉で結構救われてたんだよ」


「救うとか、そんな大げさなことだったか?」

今思い返すと、かなり青臭いことを言っていたような気がする。考え自体は今も変わらないが。


他愛もない思い出話。だが、その声色とは裏腹に、信也の全身から立ち上るどす黒い靄は、濃くなる一方だった。その隣を歩くだけで、肌が粟立つような悪寒が背筋を走る。

俺の足元では、いつの間にか戻ってきていたコロの靄が、不安げに身を縮こませていた。

信也の話は、高校時代の思い出から、会社での成功譚へと移っていく。彼の言葉は自信に満ち溢れていたが、その端々には、彼の成功を認めない周囲への苛立ちと、見下すような響きが滲んでいる。俺はただ、黙って相槌を打ちながら、この不気味な散歩の終着点がどこなのかを計りかねていた。


やがて、荒れた道を進んだ先で、不意に視界が開けた。そこは、木々が少しまばらになり、月明かりが差し込むようになっていた。そして俺は、そこに広がる光景に、息を呑んだ。


鼻をつく、甘ったるい腐臭。点在する、黒い土の盛り上がり。そして、そのいくつかからは、犬の頭が突き出ている。よく見れば、犬の頭には無数の焦げ跡や、肉をえぐられた跡がある。

ここは墓場だ。無数の命が無残に弄ばれて捨てられた、地獄のような場所。死んでから時間がたったであろう犬の眼下には、腐りはてたのか眼球はなく、涙の跡のように腐汁がこびりついていた。


「これはー」

声が震え、言葉にならなかった。俺の動揺を察してか、信也は愉しげに口の端を吊り上げた。


「特別だよ。ここは僕の聖域なんだ」


そう言うと信也は、足元にあった一つの土の盛り上がりに、無造作に靴裏を乗せた。そこから、苦しげな呻き声と共に、犬の頭が突き出ていた。犬はまだ生きていた。信也は、その弱々しくもがく頭を、体重をかけてゆっくりと踏みつけながら、恍惚とした表情で俺を見る。


「高校の頃からさ、僕は時々、こうやってストレスを発散させてたんだ」


信也は、うっとりと目を細めながら、独白を始めた。


「僕を馬鹿にする連中、僕の努力を認めない教師。全部ムカついた。でも、言い返せなかった。だから、手近にいた虫や、カエルや、雀を殺した。そうしてる時だけ、自分が世界の支配者になったような気がして、心が落ち着いた」


彼の告白は、俺が知らなかった信也の、暗い側面を抉り出すようだった。


「社会人になったら、ストレスはもっと大きくなった。無能な上司、嫉妬深い同僚。理不尽なことばかりだ。だから、対象も大きくなった。猫とか、ウサギとか・・・そして、犬になった」


信也は、足元の犬の頭をさらに強く踏みつける。ぐ、と潰れるような鈍い音がして、犬のか細い悲鳴が夜の空気に溶けた。


「色々試したよ。飢えさせて、喉が渇いたところに汚水をやったり、動けなくして、目の前で餌を燃やしたり。そうやって、絶望の淵で死んでいく様を見るのが、たまらなく快感だった」


そしてある日、いつものように犬を埋めて家に帰ったら、部屋に「あいつ」がいたんだ、と信也は続けた。自分の隣に控える、黒い犬神を一瞥して。


「最初は死ぬほどビビったよ。でも、調べていくうちにわかったんだ。『犬神』っていう存在がいること。そして、僕が偶然やっていた虐待行為が、古くから伝わる犬神を作るための儀式と、ほとんど同じだったってことをね」


信也は、まるで世紀の発見を語る科学者のように、目を輝かせていた。その足元では、もはやピクリとも動かなくなった犬の頭が、無残なオブジェのように転がっている。彼の背後に控える犬神は、主人の狂気に呼応するように、そのどす黒い輪郭をさらに濃くした。


「すごい偶然だろ?僕は選ばれたんだ。無能な連中に虐げられるだけの人生じゃない。自分の手で運命を切り拓く力を、手に入れるべくして手に入れたんだ!」


万能感に満ちたその声は、夜の森に虚しく響いた。俺は、目の前で起きている現実を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。こいつはもう、俺の知っている信也じゃない。

いや、そうじゃない。俺は今まで信也の何を見ていたんだ?バカにされて言い返せずとも、ひたむきに努力を続けられるヤツ。それは美談にしたい俺の一方的な人物評価だったんじゃないのか?

目の前の今の信也は、力と成功に酔いしれ、自ら破滅の道へと突き進む哀れな化け物にしか見えない。


「信也・・・お前、自分が何言ってるかわかってるのか?」

俺は、震える声で絞り出す。


「お前が手に入れたのは力なんかじゃない。ただの呪いだ。お前自身を食い尽くすだけの、おぞましい呪いなんだぞ!」


「呪い?」


信也は、心底おかしそうに笑った。


「健吾、君はわかってないな。これは祝福だよ。僕の正当な努力が、ようやく世界に認められた証なんだ。その証拠に、僕の邪魔をした連中はみんな消えた。僕は今、会社のトップを走ってる。これが祝福じゃなくて、何だっていうんだい?」


その時、信也がふらりとよろめき、激しく咳き込んだ。口の端から、血の混じった泡がこぼれる。


「それが祝福された人間の姿かよ!お前だってわかってるだろ、自分の体がボロボロだってこと!その呪いに、お前自身が殺されかけてるんだぞ!」


俺の叫びに、信也の顔から笑みが消えた。彼の目の奥に、初めて動揺の色が浮かぶ。自己愛が傷つけられたことによる、激しい怒りの発露だ。


「・・・黙れ」


地を這うような低い声が、俺の足元を凍らせた。


「お前に、僕の何がわかる!高校の時と同じだ!君はいつもそうやって、僕を上から目線で憐れむんだ!僕の努力も、苦しみも、何も知らないくせに!」


「違う!」

俺は叫び返した。


「俺は知ってる!お前が誰よりも努力してたことも、それを馬鹿にされて、一人で唇を噛んで耐えてたことも、全部見てきた!だからわかるんだ!今のお前は、お前じゃない!お前が一番軽蔑していたはずの、弱い者いじめをする連中と、同じことをしてるだけじゃないか!」


「うるさいッ!!」


信也が絶叫した瞬間、彼の背後にいた犬神が、獣のように低い唸り声を上げた。その姿が陽炎のように揺らめき、一直線に俺へと向かってくる。肌を裂くような、殺意の塊。その殺意に硬直する俺の体を、犬神が通り抜けた。


瞬間、全身の神経を内側から焼きごてで抉られるような激痛が走る。


「がっ・・・、ぁ・・・ッ!」

声にならない悲鳴が喉の奥で詰まり、呼吸が止まる。意識が飛びかけたが、心臓の鼓動と連動するように断続的に襲ってくる痛みで、気絶することもできない。


急速に地面が近づいてくることで、自分が倒れようとしていることを理解する。とっさに手をつき、何とか顔面を打ち付けることを避けたが、それ以上の行動はとれなかった。地面に突いた腕が震え、全身の力が抜けていく。


「はっ、・・・ひゅっ、・・・かはっ・・・!」

歯を食いしばり、意識して荒い呼吸を繰り返す。そうでもしないと、本当に意識が途切れてしまいそうだった。脂汗が額から流れ落ち、顎からぽたぽたと地面に染みを作っている。狭まって地面しか見えない視界の端に、犬神の前足が入ってきた。


脂汗を顎から滴らせながら無理やり顔を上げると、そいつと目が合った。

なにも写らない闇の穴が俺を見下ろしていた。痛みに耐えて動けないでいる俺をあざ笑うでもなく、ただただ昏く見つめてくる。その視線からは何の感情も読み取れない。


朦朧とする意識の中、俺は視界の端で信也の姿を捉えた。さっきまでの狂気に満ちた万能感は、彼の顔から綺麗に消え失せている。代わりに浮かんでいるのは、失望。まるで、最後の期待を裏切られたかのような、冷え切った絶望の色だった。


「・・・そうか。健吾、やっぱり君も僕を認めてはくれないんだね」


その声には、怒りすら含まれていない。ただ深く、昏い諦めだけが感じられた。

自分を肯定しない。そんなものは自分の世界にとって意味のない存在だ。自己愛が満たされないのなら、その対象は破壊されるか、あるいは無価値なものとして捨て置かれる。信也の犬神がとる行動は前者だ。

信也は、俺を見下ろす犬神に向かって、ふっと息を漏らす。それは命令でも合図でもない。ただ、全身から力が抜けたような、無関心の表明だ。

「もう好きにしろ」と。その言葉なき許可を得て、俺の体を蹂躏していた犬神の殺意が、じわりとその濃度を増した気がした。


「が、ぁ・・・ぅ・・・」

激痛の波が、再び俺の全身を叩きのめす。だが、その痛みの中で、俺の脳は一つの答えを弾き出した。


逃げろ!


犬塚千歳の言った通り、対話の余地はない。今のままじゃ俺が何を言っても、信也の歪んだ自己肯定感を揺るがすことはできない。友人としてできることなど、もう何一つ残っていないってことなのか?


「・・・っ、くそ・・・!」

地面に縫い付けられたような体を、意志の力だけで引き剥がす。


腕が、足が、自分のものとは思えないほど重く、鈍い。それでも、生存本能だけが俺を突き動かしていた。這いずるように、もがきながら、信也と犬神から距離を取る。一歩、また一歩と、闇が深くなる森の奥へと向かって。


「どこへ行くんだい?」


背後から、信也の平坦な声が投げかけられた。追いかけてくる気配はない。ただ、壊れた玩具を眺める子供のような、無機質な好奇心だけがそこにあった。俺がどうなろうと、信也にとってはもはやどうでもいいことなのだ。

振り返る余裕などなかった。木の根につまづき、腐葉土に顔を突っ込む。口の中に広がる土の味と、腐臭。全身を走る激痛に意識が飛びそうになるが、奥歯を噛み砕くほどの力で耐え、また立ち上がる。


どれくらいそうしていただろうか。信也の声も、あの忌まわしい犬神の気配も、いつしか感じなくなっていた。代わりに、肺が張り裂けそうなほどの息切れと、心臓が耳元で鳴り響いているかのような鼓動だけが、夜の森の静寂を乱す。


やがて、それも限界に達した。ぷつりと頭の中で何かが切れる音と共に、俺の膝から力が抜ける。視界が急速に白んでいき、森の木々がぐにゃりと歪む景色の中、俺は枯葉の積もった地面に倒れこむ。


意識が途切れる寸前、確かに感じた。足元に寄り添う、温かく、そして懐かしい気配を。俺が危険に晒されている間、その強大な気に当てられて姿を消していた、コロの気配だった。


「・・・逃げろ・・・」

足元に座る黒い靄の犬にかすれた声で告げ、俺は暗闇の中に沈んだ。



<崩れゆく世界>


闇に溶けていく健吾の背中を、僕は何も感じないまま見送っていた。木の根につまずき、無様に転がる姿が一度だけ見えたが、その光景に心が揺れることはない。


僕の犬神が、のっそりとその後を追っていく。まるで、主人の夕食の準備をする忠実なしもべのように。健吾がその牙にかかってどうなるのか、あるいは深い森で衰弱して果てるのか。もはや、どちらでもよかった。


結局、健吾も僕を肯定してはくれなかった。僕の世界は、僕を肯定する者と、そうでない無価値な者だけで構成されている。健吾も、後者になった。ただ、それだけのことだ。

なのになぜ、胸の奥に空いた穴が、こんなにも冷たい風を通すのだろう。


「なんで、誰も僕を理解してくれないんだ・・・」

無意識に、言葉が漏れた。 そうだ。僕はいつだって、理解されたかっただけなのだ。


子供の頃から、僕は「普通」ではなかった。友達の輪に入っていくための会話のテンポも、体を動かして遊ぶための運動神経も、僕には欠けていた。不器用な僕にできることは、ただ一つ。机に向かい、教科書と向き合うことだけ。

テストで良い点を取ることだけが、僕が僕の価値を証明できる唯一の手段だった。だから、ひたすら勉強した。そうして手に入れた上位の成績は、僕の脆い自尊心を守るための、唯一の鎧だったのだ。

会社に入っても、それは変わらなかった。コミュニケーション能力の低さを自覚していたから、バックオフィス部門を希望した。それなのに、配属されたのは最も避けたかった営業部。

皮肉なものだ。ここでも僕は、知識で武装するしかなかった。製品データを読み込み、市場を分析し、誰よりも完璧な提案書を作った。どうすれば僕の持つ知識の有用性が伝わるか、どうすれば相手が論理的に納得してくれるか、そればかりを考えていた。

だが、現実は非情だった。僕の完璧なロジックは「小難しい」「理屈っぽい」と一蹴され、評価されたのは、中身のない世辞と接待ゴルフの腕前ばかり。僕が積み上げた努力は、いとも簡単に「コミュニケーション能力の欠如」という一言で無価値なものにされた。

学習性無力感。努力しても報われない経験が続くと、人はやがて努力そのものを諦めてしまう。心理学の教科書で読んだ言葉が、脳裏をよぎる。そうだ、あの時の僕は、まさしくそれだった。この世界では、僕のやり方は通用しないのだと、骨の髄まで思い知らされた。

そんな絶望の淵で、僕は「力」と出会った。 僕の努力を必要としない。僕の知識を必要としない。ただ、僕の「想い」だけで、僕を阻む障害を排除してくれる、絶対的な力。犬神は、僕の無力感を埋めてくれる、唯一の存在だった。


「僕が・・・間違っていたとでも言うのか・・・?」


違う。断じて違う! 悪いのは僕じゃない!!僕の努力を、僕の価値を、正当に評価しようとしなかったこの世界の方だ。僕はただ、自分の身を守るために、当然の権利を行使したに過ぎない。

だが、健吾の最後の言葉が、耳の奥で不気味に反響する。


「今のお前は、お前じゃない!お前が一番軽蔑していたはずの、弱い者いじめをする連中と、同じことをしてるだけじゃないか!」


僕が・・・弱い者いじめを・・・? 僕が埋めた、あの無数の命。絶望の表情。僕の足元で、か細い悲鳴を上げて潰れた、あの頭蓋骨の感触。それは、僕が高校時代に軽蔑していた連中の行いと、何が違う?


「ぐっ、がはっ・・・!ごふっ・・・!」

その思考を拒絶するかのように、内側から凄まじい激痛が体を貫いた。犬神の呪いだ。まるで、僕の裏切りを罰するかのように、骨と神経を万力で締め上げる。


「あ・・・ぁ・・・ッ!」

意識が朦朧とし、思考が強制的に断ち切られる。そうだ、考えることなど無意味だ。正しさも、間違いも、もはやどうでもいい。この耐え難い痛みだけが、僕の世界の全てだ。この苦痛こそが、僕が特別な存在である証なのだから。


やがて、嵐のような痛みが、少しだけ和らいだ。僕は泡の浮いた唾液をだらりと垂らしながら、おぼつかない足取りで立ち上がる。頭の中は、空っぽだった。ただ、一つの疑問だけが、霧の中から浮かび上がってくる。


「健吾は・・・どうなった・・・?」

別に、心配しているわけではない。ただの、好奇心。僕の玩具は、僕の犬神に、どういう壊され方をしたのだろうか。


何の目的も、何の意志もなく。僕は、健吾と犬神が消えていった森の闇の奥へと、まるで何かに引き寄せられるかのように、ふらふらと足を踏み出した。



<小さなぬくもり>


チャイムが鳴り、解放された生徒たちの喧騒が廊下に満ちる。俺もその流れに乗り、次の教室へと向かっていた。学校という狭い世界の中で、ルーティン化された時間割での行動。


そのありふれた日常の音の中に、ふと、か細い鳴き声が混じった。他の誰も気にも留めない、子犬の声。何故かその声に強く引かれた俺は、人波から外れ、音のする方へと歩き出した。


たどり着いたのは、校舎裏の非常階段の下だった。薄暗く、湿ったコンクリートの上。粗末な段ボール箱が、まるで世界のゴミ溜めに捨てられたかのように置かれていた。声はそこから聞こえてくる。


そっと中を覗き込むと、小さな柴犬の子犬が、ガタガタと体を震わせていた。誰かの悪戯か、そのあどけない顔には、黒いマジックペンで無残な眉毛が描かれている。その滑稽な落書きが、逆に子犬の孤独と無力さを際立たせていた。


その姿を見た瞬間、胸の奥にチリリとした痛みが走った。これは共感だったのだろう。自分より弱い存在が理不尽に傷つけられていることへの、原始的な怒りと庇護欲。


俺は、その衝動に突き動かされるように、一度その場を離れると、家庭科室へと急いだ。裁縫の授業で余った、使い道のない布の切れ端。いくつかのそれを持って、再び子犬の元へと戻った。


「寒かったよな」

そう声をかけながら、柔らかい布でその小さな体をそっとくるんでやる。子犬は驚いたように一瞬身を固くしたが、やがて外気が遮断されたおかげか、少しだけ震えを和らげ、不安そうだった顔も和らいだように感じた。


放課後、恐る恐る階段の下を覗くと、子犬はまだそこにいた。俺が巻いた布の端切れにくるまったまま、じっとうずくまっている。落書きが増えた形跡も、それ以外の異変も無いことに俺は安堵した。


迷いは、一瞬だった。自転車のカゴに段ボールごと子犬を乗せ、家路を急ぐ。カゴが揺れるたび、子犬が不安そうな声を上げた。なるべく揺らさないように自転車を走らせたが、子犬が鳴くたびに速度を落としたので、家に着くまで普段よりも時間がかかった。

幸い、昔にも犬を飼っていた経験のある両親は、俺の突然の行動を咎めなかった。こうして、子犬は俺の家族になった。


段ボールから出してやると、まだ足腰の定まらない子犬は、よろよろと歩き出しては、面白いようにコロコロと転がった。その姿がおかしくて、自然と笑みがこぼれる。


「お前の名前は、コロだ」

その日から、玄関の土間と新しい段ボールの犬小屋がコロの居場所になった。


学校から帰り、玄関を開けるとコロが出迎えてくれる。俺の姿を認め、ちぎれんばかりに尻尾を振り、おぼつかない足取りで段ボールから飛び出してくるコロ。

その小さな体との触れ合いは、思春期の漠然とした苛立ちや孤独感を癒してくれる、かけがえのない時間だった。俺の存在を全身で肯定してくれるコロは、俺にとっての「安全基地セキュアベース」そのものだった。家にいる間、暇さえあればコロの様子を見に行き、撫でまわす日々。


やがてコロは成長し、玄関の土間では手狭になった。ホームセンターで買ってきた犬小屋を庭に置き、首輪と鎖で繋いで飼うようになった。

ごく自然な、当たり前の変化。だが、そのわずか数メートルの物理的な距離は、俺とコロの間に、決定的な心理的距離を生んだ。

玄関から、庭へ。ただそれだけで、俺がコロと触れ合う時間は激減した。部活、友人との他愛ない会話、新しく買ったゲーム。俺の関心は、より刺激的な方へと移っていく。コロの存在は、いつしか俺の中で「日常」という風景の一部に成り下がっていた。

夢の中の俺は、その変化を冷静に分析している。 あれは、認知的不協和を解消するための、無意識の防衛機制だったのではないか。

「犬を助けた心優しい自分」という自己イメージと、「成長した犬に飽きて構わなくなった自分」という現実の行動。その矛盾から目を逸らすため、俺は「ペットがいる生活」という形式だけを維持しようとした。

家にはペットがいて当たり前。そう思っていた。 だが、本当にそうだったのか? あの頃の俺は、ただ「ペットを飼っている」という体裁が欲しかっただけで、動物そのものが好きだったわけではないのかもしれない。

飼うということの意味も、飼われる側の気持ちも考えずに。 俺は、自分の孤独を埋めるためだけに、一方的にコロとの関係を求め、そして飽きたら一方的にその関係を打ち切った。

信也が、彼の孤独を埋めるために犬神という歪んだ力を求めたように。 俺もまた、自分の未熟な心の隙間を埋めるためだけに、コロの純粋な愛情を利用しただけなのではないか。

そうだ。俺は信也を責められない。俺も、同じだったのだ。 見送る俺の背中を、いつも不安そうに見つめていたあの瞳。その裏側にあった深い孤独に、俺は気づいてやることすらできなかった。その罪の意識が、現実の激痛よりも鋭く、俺の魂を苛んでいた。


コロを蔑ろにした、これが当然の報いか・・・。



意識は、ぬるま湯の中からゆっくりと引き上げられるように浮上した。全身を駆け巡る鈍い痛みで、気を失っていたのだと理解する。ひんやりとした土の感触と、湿った腐葉土の匂いが鼻をついた。

夢うつつに見た、中学時代の光景が脳裏に焼き付いて離れない。俺の孤独を埋めるためだけに利用され、その孤独の裏側で静かに心をすり減らしていた、小さな命の記憶。



<守るべきもの>


「う・・・」

呻き声を上げながら、重い瞼をこじ開ける。ぼやけた視界が徐々に焦点を結んだ先、そこに広がっていたのは、信じられない光景だった。


見慣れた黒い靄の犬。俺がコロだと信じているその存在が、俺の前に立ちはだかるようにして、何かと対峙していた。その背中は、普段よりもずっと小さく、今にも消えてしまいそうに見えた。

その視線の先にいるのは、信也の犬神だった。


夜の森の闇をさらに凝縮したような、どす黒い塊。信也の犬神はただ静かに佇んでいた。攻撃的な素振りも、威嚇の唸り声もない。ただ、ぽっかりと開いた、昏く底の見えない穴のような双眸を、まっすぐにコロへと向けているだけ。

それだけだというのに。

コロの体を構成していた黒い靄が、まるで強い風に吹かれた砂のように、その輪郭からさらさらと削り取られ、闇に溶けて消えていっている。

犬神の視線は、存在そのものを否定し、消滅させる呪詛そのものだった。コロは悲鳴も上げず、ただ耐えるようにして、俺を庇い続けている。その靄の体が、見る間に薄れていく。


「なんで・・・」

かすれた声が、喉から絞り出された。


「なんで、お前が・・・俺なんかをー」

理解できなかった。夢で見た光景が、現実の痛みとなって胸を抉る。


俺は、お前の純粋な愛情を、自分の都合で利用し、飽きたら放置した。散歩に連れて行くのも気まぐれ。庭の鎖に繋いだまま、ほとんど構いもしなかった。

病気で苦しんでいる時でさえ、会いにも行かなかった。お前は俺を待ち続けて、独りで死んだ。

恨まれて当然だ。呪われて当然だ。信也の犬神のように、俺に牙を剥き、その苦しみを俺に叩きつけて然るべき存在のはずだーそれなのに、なぜ。


「やめろ・・・」

震える腕で、必死に体を起こそうともがく。だが、犬神に貫かれた体は鉛のように重く、言うことを聞かない。


「そんな思いをしてまで・・・俺なんかを守るな!」

それは俺のエゴだった。俺の罪悪感が、これ以上重くなることへの恐怖だった。庇われる資格など、俺にはない。お前にそんな自己犠牲を強いる権利など、俺にあるはずがない。


俺の悲痛な叫びが聞こえたのか、コロがほんの一瞬だけ、こちらを振り返った気がした。靄の輪郭は表情など窺えない。だが、その一瞬の揺らめきに、「大丈夫」とでも言うような、穏やかで、そして懐かしい温もりを感じたのは、俺の願望が生み出した幻覚だったのだろうか。


コロは再び前を向き、信也の犬神と対峙する。その姿は、かつて俺が角を曲がるまで、ずっと同じ場所で俺を見送ってくれていた、あの日の小さな背中と、確かに重なって見えた。



「やめてくれ・・・」

俺の喉から絞り出された声は、夜の森の腐葉土に吸い込まれ、誰の耳にも届かずに消えていく。


信也の犬神が放つ、存在そのものを否定するような昏い視線を浴び続け、コロの体を構成する黒い靄は、その輪郭から砂のようにさらさらと闇に溶けていっていた。

俺は、お前に何もしてやれなかった。それなのに、お前は今、俺のためにその存在のすべてを賭けてくれている。その事実が、犬神に与えられた激痛よりも鋭く、俺の心をさいなむ。


動け。動けよ、俺の体!こいつの前に出ろ。お前が庇われる理由なんて、どこにもないじゃないか!!


もがけばもがくほど、全身の神経が悲鳴を上げ、視界が赤く染まる。その絶望的な攻防の中、犬神の背後の闇から、ざくり、と乾いた落ち葉を踏む音がした。


夢遊病者のように、不確かな足取りで闇の中から現れたのは、信也だった。

その顔には何の表情もなく、まるで魂の抜け落ちた人形のようだ。信也は、目の前で繰り広げられている異様な光景ー俺を庇って消えかかっているコロと、それを無感情に見下ろす自分の犬神―を、ぼんやりと眺めている。やがて、その虚ろな視線がゆっくりと俺に向けられた。


「何、これ。健吾がやらせてるの?」


その声は、何の感情も抑揚も含まない、ただの音の羅列だった。友人が苦しみ、得体の知れない存在が対峙しているというのに、彼の心は微塵も揺れていない。その底なしの無関心が、俺の心の奥底に冷たい恐怖を植え付けた。

守られているこの状況と、思い通りに動かない自分の体への忸怩じくじたる思いが、喉の奥で一つの叫びになる。


「違う!」

俺は、地面に頬を擦り付けたまま、ありったけの力で叫んだ。それは懇願であり、否定であり、そして、どうしようもない自分への怒りだった。

だが、俺の心の叫びも、感情が麻痺した信也には届かない。彼はただ、つまらなそうに「ふ〜ん」とだけ相槌を打った。まるで、道端の石ころに興味を失った子供のような、そんな響きだった。

もうダメなのか。信也の心は、もうどこにもないのか?ならば、俺にできることは一つしかない。俺は最後の力を振り絞り、這いつくばったまま信也に顔を向けた。


「信也・・・頼む!」

かすれきった声で、俺は懇願する。


「お前が邪魔に思ってるのは、犬神が狙ってるのは俺なんだろ?だったら、俺を苦しめればいいだろ!こいつは・・・コロは、関係ない。だから、こいつには何もするなッ!」


俺はどうなってもいい。これは、俺が蒔いた種だ。だが、コロだけはーこいつの純粋な想いを、これ以上俺の身勝手につき合わせるわけにはいかない。俺の懇願は、虚ろな信也の心に、果たして届くのだろうか。俺はただ、祈るような思いで、その返事を待つことしかできなかった。



<渇望の果て>


僕は、まるで何かに引き寄せられるかのように、健吾が消えた森の奥へ、ふらふらとその後を追っていた。断続的に襲ってくる、骨の髄を抉るような痛みが、現実と夢の境界を曖昧にしていく。

ざくり、と落ち葉を踏むたびに、過去の光景が脳裏に蘇っては消えた。 ストレス発散のために繰り返した、犬への虐待。あれは、僕の脆い心を保つために必要な儀式だった。

邪魔な同僚、思い通りにならない取引先、僕を見下してきた経営者。犬神を使って彼らを排除したことは、僕の正当な権利の行使だったはずだ。

僕が何か悪いことをしたのか?違う。悪いのは、僕の価値を正当に評価しようとしなかった、この世界の方だ。

そうだ、僕は間違っていない。 それなのに、健吾の最後の言葉が、呪いのように耳にこびりついて離れない。


「今のお前は、お前じゃない!お前が一番軽蔑していたはずの、弱い者いじめをする連中と、同じことをしてるだけじゃないか!」


もし、あれが間違いだったというのなら。僕がしてきたことの全てが、ただの「弱い者いじめ」だったというのなら。

じゃあ、僕は、いったいどうすればよかったというんだ?


答えの出ない問いが、霧のように思考を覆い尽くす。よろめき、木の幹に手をついて、何とか倒れ込むのをこらえる。どれくらい歩いたのか。やがて木々の隙間から、あり得ない光景が目に飛び込んできた。


開けた場所に、僕の犬神がいた。そして、その犬神と対峙するように、健吾に憑いていたあの黒い靄の犬が立ちはだかっていた。健吾は?視線を巡らせると、少し離れた地面に、虫のように這いつくばっている健吾の姿があった。犬神の呪いにやられたのだろう。


僕の姿に気づいた健吾が、苦悶に歪んだ顔をこちらに向けた。 さあ、どうする?謝罪か?命乞いか?僕を肯定しなかった罰だ。無様に許しを乞うがいい。そう思った。

だが、健吾の口から絞り出されたのは、僕の理解を完全に超えた言葉だった。


「お前が邪魔に思ってるのは、犬神が狙ってるのは俺なんだろ?だったら、俺を苦しめればいいだろ!こいつは・・・コロは、関係ない。だから、こいつには何もするなッ!」


思考が、止まった。


何を言っているんだ、こいつは。 あの黒い靄の犬が、仮に健吾の犬神だとしても、それはただの「道具」だ。僕がそうであるように。自分の身を挺してまで、守る価値のあるものじゃない。自分の命よりも、優先されるべきものじゃない。

それなのに健吾は、自分のことなどどうでもいいと、ただの道具のために懇願している。

その言動が、理解できなかった。 なぜ?どこからそんな言葉が出てくる?普通は、自分の身が一番可愛いはずだ。僕がそうであるように。


健吾の行動原理が、僕の常識では全く説明がつかない。目の前にいるのが、自分とは全く違う価値観で動く、未知の生物であるかのような、根源的な恐怖が背筋を這い上がってきた。

健吾が何を考えているのか、わからない。 わからないことが、怖い。

僕の世界を構成していたはずの「当たり前」が、目の前で音を立てて崩れていく。僕はただ、その異様な光景を前に、立ち尽くすことしかできなかった。


僕が築き上げてきたはずの完璧な世界に、健吾という異物が亀裂を入れる。


「違う・・・」

違う、違う、違う。間違っているのは僕じゃない。健吾の方だ。僕の価値観を揺るがす健吾こそが、僕の世界にとっての「障害」だ。自己肯定感が足元から崩れ落ちていく恐怖に突き動かされ、僕は叫んだ。


「お前も、そいつも、全部消えろ!」

肯定しろ。僕のやり方を、僕の力を、僕の存在そのものを。それができないのなら、僕の世界から消えてなくなれ。僕の心を満たす絶望的な承認欲求が、命令となって犬神に伝わる。


「僕の邪魔をするな!全部、全部、消してくれッ!」

その瞬間、今までただ座っていただけの僕の犬神を中心に、重力が増したかのように空気が重くなった。


それは歓喜か、あるいは嘲笑か。犬神の声なき嗤い(わらい)があたりに響いたように感じた。僕の命令に従うというよりも、僕の心の叫びそのものに呼応したかのように。


ぞわり、と空気が震える。 犬神の体から、夜の闇よりもさらに濃い呪詛の靄が、波紋のように全方位へと広がった。それは健吾や、彼を庇う黒い犬だけでなく、僕自身の体にも、何の区別もなく平等に襲いかかってきた。


「が、あ・・・っ!?な、んで・・・」

今までとは比較にならない、存在そのものを内側から握り潰されるような激痛。犬神が、僕を攻撃している。僕だけの忠実なしもべであるはずの犬神が、明確な敵意をもって僕を蝕んでいく。


「やめろ・・・僕は、お前の主人だぞ!」

混乱と苦痛で思考が焼き切れそうになる。だが犬神は、僕の言葉など意にも介さず、ただ静かに呪いを振りまき続けるだけだった。


「これがお前のしたかったことなのか?」


地を這うような、かすれた声。見ると、同じように呪いの圧を増されたはずの健吾が、それでも這いずりながら、消えかかっている黒い靄の犬を越え、僕の方へとにじり寄ってきていた。


「こんな風に犬神の呪いで自分も周りも苦しめて・・・何が欲しいんだ!」


その目は、呪いの苦痛に歪みながらも、まっすぐに僕を射抜いていた。見下ろしてくる昏い犬神の視線と、下から見上げてくる健吾の問いかける視線。二つの視線に挟まれ、僕の意識は過去へと飛んだ。

本当に欲しかったものは、何だ? 学生時代、テストで良い点を取った時、欲しかったのは順位という「結果」だけだったのか?

違う。健吾がかけてくれた「信也が俺たちの何倍も勉強してるって知ってる」という、努力を認める言葉が欲しかったんじゃないのか。

会社に入って、完璧な資料を作った時、欲しかったのは契約という「結果」だけだったのか?

違う。「ここまで調べたのか、すごいな」という、プロセスを認める一言が欲しかったんじゃないのか。

僕が本当に欲しかったのは、僕が積み上げてきた努力そのものを見て、認めてもらうことだった。ただ、それだけだった。

そのことに気づいた瞬間、理解した。犬神が僕にもたらしてくれたのは、僕が最も軽蔑していたはずの、何の努力もプロセスも必要としない、空虚な「結果」だけだったということを。

呪いで意識が霞んでいく。朦朧とする中、僕は目の前の健吾に向かって、か細い声で、最後の本心を絞り出した。


「僕は・・・ただ、頑張ってるって・・・認めて、ほしかっただけで・・・」

それを聞いた健吾は、全身を苛む激痛に耐えながらも、まるで昔、僕をからかう連中を一喝した時のように、力強く言い返した。


「そんなの、とっくに認めてた!何度も、そう言っただろ!」


その言葉が引き金となり、霞む意識の中で過去の光景が鮮明に蘇る。放課後の教室。張り出されたテスト結果。僕の努力を「勉強『だけ』」と揶揄するクラスメイトたちの嘲笑。その中で、健吾だけがまっすぐに僕を見て言った。


「友達の努力を笑うような奴らのことは気にするな。信也が俺たちの何倍も勉強してるって知ってるから、俺は信也がすごい奴だって思ってる」


そうだ。僕は欲しかったはずのものを、もうずっと前に、この友人からもらっていたじゃないか。結果という空虚な鎧ではなく、その内側にある努力という名の汗と涙を拭ってくれる、温かい言葉を。犬神という歪んだ力に手を染めるより、ずっと前に。


「そう・・・だったね。前に言ったように・・・それで・・・救われてたんだ・・・」

救われていた。満たされていた。それだけで、よかったんだ。


「あぁ・・・それで、よかったんだ・・・」

心の底から湧き上がってきた安堵は、まるで長年にわたって張り詰めていた緊張の糸を、ぷつりと断ち切るかのようだった。同時に、呪いに蝕まれきった肉体の限界が訪れる。


全身から力が抜け、信也の体は糸の切れた人形のように、ゆっくりと地面に崩れ落ちた。最後に見たのは、苦痛に歪みながらも、必死にこちらへ手を伸ばそうとする友人の姿だった。



<二つの影の消失>


目の前で、信也が力なく倒れるのを見た。その最期の言葉は、後悔とも諦めともつかない、ただひどく疲れた響きを持っていた。

その瞬間、今まで俺とコロを締め付けていた呪いの圧が、ふっと和らいだ。はっとして顔を上げると、信也の傍らに佇む犬神に、明らかな変化が起きていた。

あれほど濃密で、夜の闇そのものを塗り固めたようだった輪郭が、端から陽炎のように揺らめき、砂のようにさらさらと崩れ始めている。その光景に、俺は犬塚千歳から聞いた言葉を思い出していた。


『他には『憑かれた人が無意識に欲しがっているものを与える』・・・といったことで犬神憑きが治ったとされる事例もあります』


信也が本当に欲しかったもの。それは、会社での成功や他人からの賞賛といった「結果」ではなかった。ただひたすらに積み重ねてきた自分の努力を、その過程を、誰かに認めてほしかっただけなのだ。そして、その願いは、高校時代の俺が、とっくに叶えていた。

信也が、最後の最後でその事実に気づいた。自分が求めていたものは既に与えられていたのだと理解したことで、犬神を繋ぎとめていた彼の渇望という名の楔が、外れかかっているのではないか。


犬神は、崩れゆく自身の体には構わず、意識を失った主の元へと、ゆっくりと歩み寄ろうとしていた。その姿に、俺は最後の力を振り絞って声を張り上げた。


「待て!信也にもうお前は必要ない!」

俺の言葉に、犬神の動きがぴたりと止まる。昏く、底なしの穴のような双眸が、ゆっくりとこちらを向く。


「信也が犬たちにしたことは、俺が一生かけて償わせる!あいつが目を覚ましたら、俺がこの場所に連れてきて、一つ一つの命に謝らせる!だから、もうお前は―」

そこまで言った時だった。


犬神が、地を揺るがすような低い唸り声を上げた。それは、俺の言葉を明確に否定する、純粋な怨念の咆哮。瞬間、和らいでいたはずの呪いの圧が、先ほどまでとは比較にならないほどの密度で俺の全身を押し潰した。


「が、ぁっ・・・!」

息が詰まる。骨が軋む。だが、その激痛の中、俺は理解した。こいつは、信也の願望だけで動いているわけじゃない。こいつ自身が、信也によって無残に命を奪われた、数多の犬たちの怨念の集合体なのだ。俺の言葉は、その怨念を踏みにじる傲慢な響きにしか聞こえなかったのだろう。


もはやこれまでか、と意識が白みかけた、その時だった。

俺の視界の端で、今までかろうじて輪郭を保っていた黒い靄―コロが、最後の力を振り絞るように、弾丸となって飛び出した。


信也の犬神に向かって、一直線に。

何の躊躇もなく、その身を投げ出すように、コロは犬神の禍々しい体に飛びかかる


二つの黒い靄が激突した瞬間、音はなかった。ただ、夜の闇よりもさらに深い黒が閃光のように弾け、俺たちの視界を完全に塗りつぶす。凄まじい衝撃波が森の木々を揺らし、腐葉土を舞い上げた。


やがて、闇が晴れた時。

そこには、もう何もいなかった。あれほど濃い怨念を撒き散らしていた信也の犬神も、そして、最後の瞬間まで俺を守ろうとしてくれたコロの姿も、跡形もなくかき消えていた。

後に残されたのは、意識を失って倒れる友人と、静寂を取り戻した、不気味なほど穏やかな夜の森だけ。


目の前から、全ての黒が消え失せていた。 あれほど濃密な怨念を撒き散らしていた信也の犬神も、そして、最後の瞬間まで俺を守ろうとしてくれたコロの姿も、跡形もなく。まるで、初めから何もなかったかのように。

後に残されたのは、意識を失って倒れる友人と、静寂を取り戻した、不気味なほど穏やかな夜の森だけだった。

しばらくの間、俺は何も考えられず、ただその空虚な空間を見つめていた。コロがいた場所、犬神がいた場所。そこにあるはずのものが、ない。その事実だけが、やけにクリアに脳にこびりつく。体の痛みよりも、心の喪失感の方が、ずっと重く、冷たかった。



<あたたかなサヨナラ>


どれくらいの時間が経っただろうか。信也の犬神が放っていた呪詛の圧が消えたおかげか、体の痛みがいくらか和らいでいることに気づいた。鈍い痛みを全身に感じながら、俺はゆっくりと体を起こす。そして、地面に倒れている信也に視線を移した。

こいつを、このままにはしておけない。 俺はふらつく足で立ち上がると、信也の腕を肩に担ぎ、その体を無理やり引きずり起こした。成人男性一人分の重さは、衰弱しきった今の俺には鉛のように感じられる。


それでも歯を食いしばり、一歩、また一歩と、来た道を引き返す。ざくり、と落ち葉を踏む音が、静かな森に虚しく響いた。


ようやく森の外の、アスファルトが見えてきた。信也と合流した、あの林道の入り口だ。俺はそこに信也の体を横たえると、ポケットからスマートフォンを取り出し、震える指で救急車を要請した。


やがて遠くからサイレンの音が近づいてきて、俺たちの前に停まる。ストレッチャーが運び出され、救急隊員が駆け寄ってきた。彼らは手際よく信也の状態を確認しながら、俺に矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。

俺は、自分が何と答えたのか、ほとんど覚えていない。ただ、彼らの声がひどく遠くに聞こえた。俺の意識は、隊員の肩越しに見える、ぽっかりと口を開けた森の闇に囚われていた。


いつものように、あの黒い靄の犬が俺の後を追って出てくるのではないか?

けれどもう、コロが俺の後ろをついてくることはない。その事実が、現実感を伴って胸に突き刺さる。俺はただ呆然と、森の入り口を見つめ続けていた。


病院に到着すると、俺と信也は別々の処置室へと運ばれた。俺の体には、森を駆けずり回った際の擦り傷や軽い打撲はあったものの、それ以外に異常は見つからなかった。ただ、極度に衰弱しているとのことで、一時間ほど点滴を受けることになった。


冷たい液体が血管を伝って体に流れ込んでくるのを感じながら、俺は天井のシミをぼんやりと眺めていた。

信也の方は、俺よりもさらに外傷がなく、それでいて意識が戻らないため、医師から詳しい事情を聴かれることになった。「犬神の呪いです」などと言えるはずもなく、俺は苦しい言い訳を捻り出すしかなかった。


「学生時代の友人と久しぶりに会って・・・たぶん、お互い飲めもしない酒を、ノリで飲んでしまってー。酔った後のことは、正直、よく覚えてないんです」


飲酒の形跡が見られないことを不思議がられたが、「俺もあいつも、極度の下戸なんです。たぶん、一杯も飲んでないのに、そうなってしまったんだと・・・」と、我ながら無理のある嘘で押し通した。それ以上、追及されることはなかった。


信也が目を覚ましたのは、それから二日後のこと。知らせておいた俺の携帯に、病院から連絡が入った。俺は仕事を早退させてもらい、すぐに病院へと向かった。


病室のドアをノックし、中に入る。ベッドの上で半身を起こした信也は、以前の自信に満ちた姿が嘘のように痩せこけ、覇気のない顔をしていた。俺の姿を認めると、彼はか細い声で、開口一番こう言った。


「・・・ごめん」


その謝罪に、俺は静かに首を横に振る。


「俺にじゃない。俺よりも先に、お前が謝るべき相手がいるだろ。お前が弄んで、無残に殺した、あの森の犬たちに謝れ」

俺の言葉に、信也はぐっと唇を噛み締め、何も言えずに俯く。


俺は構わず、犬塚千歳から聞いた犬神についての知識を、淡々と話し始めた。その呪いがどうやって生まれ、使い手にどんな末路をもたらすのか。そして、徳島県に犬神を専門に祓ってくれる神社があることも伝えた。


「時間を作って、そこへ行くぞ。俺も一緒に行く。それから、あの森に放置した犬たちも・・・一体一体、丁重に埋葬する。約束しろ」


信也は、顔を上げられないまま、小さく何度も頷いた。言うべきことは言った。俺は踵を返し、病室を出ようとする。その背中に、信也の声がかけられた。


「健吾・・・僕たちは、まだ、友達かな?」


その問いに、俺はドアノブに手をかけたまま、振り返らずに答えた。


「友達じゃなかったら、今日ここに、わざわざ来ていない」

それだけ言うと、俺は病室のドアを開け、静かに廊下へと出て、俺は一人、病院の長い廊下を歩き出した。


信也との間にあった、長くて歪んだ空白の時間が、ほんの少しだけ埋まったような、それでいて、もう二度と元には戻れない決定的な溝ができたような、奇妙な感覚だった。


家に帰り着いた時にはすでに夜になっていた。暗い部屋の電気をつけ、ポケットからスマホを取り出す。俺は少しだけ息を吸い込み、通話ボタンを押した。数回のコールの後、静かで落ち着いた声が鼓膜を揺らす。


「はい、犬塚です」


「夜分にすまない、室瀬だ。この前の件、一応の決着がついたから、その報告をと思って」

電話の向こうで、犬塚千歳が息を呑む気配がした。


俺は森での出来事の概略と、信也が病院に運ばれ、さっき意識を取り戻したことを手短に伝えた。


「そうですか・・・」とだけ呟いた彼女に、俺は本題を切り出した。


「改めて礼を言わせてほしい。それと、前に言っていた報酬の件もある。近いうちに、また時間を作ってもらえないか」


「わかりました。では、次の日曜日に。いつもの場所で」


「ああ、助かる」

短い会話を終え、通話を切る。スマートフォンの画面に映る自分の顔は、ひどく疲れていた。足元に、いつもいたはずの黒い靄はない。その不在が、やけに現実味を帯びて胸にのしかかった。


約束の日曜日、俺は数日ぶりにあの喫茶店の重い扉を開けた。カラン、という涼やかなベルの音。前回と同じ、店の奥の隅の席に、犬塚千歳はすでに座って文庫本を読んでいる。

俺が席に着くのを待って、本を閉じた彼女は静かに口を開いた。


「それで、詳しくお聞かせいただけますか」


俺は頷き、あの夜の出来事を、順を追って語り始めた。信也が俺を誘い出した、あの犬たちの墓場のこと。彼の歪んだ万能感と、その裏に隠された承認欲求。そして、最後の最後で彼が本当に欲しかったものに気づき、呪いの楔が外れかかったこと。


「信也の犬神が暴走しかけたんだが、その時・・・俺についてたコロが、俺を庇うように飛び出して・・・。二つの黒い靄がぶつかって、それっきり、どっちも消えちまったんだ」


病院で目を覚ました信也には、もうあの狂気じみた雰囲気はなかったこと。彼が犯した罪を償わせるため、森の犬たちを弔い、賢見神社へお祓いに行く約束をさせたことも付け加えた。


俺の話を黙って聞いていた千歳は、ふう、と小さく息を吐くと、カップを手に取った。


「そうですか。正直、本当に二人ともに無事に終わるとは思っていませんでした」


「え?」


「室瀬さんも、ご友人も、どちらも犬神に呪い〇されるものとばかり」


しれっと言い放たれた言葉に、俺は思わず顔を引きつらせた。この少女は、俺たちが死ぬ可能性を平然と受け入れていたらしい。


一通り話し終え、俺たちの間には気まずい沈黙が流れた。その静寂を破るように、俺の口からぽつりと、ずっと胸の奥に燻っていた疑問が漏れ出た。


「なあ・・・コロはやっぱり、あの犬神と一緒に、消えたのか?」

その声には、自分でも情けないと思うほどの寂しさが滲んでいた。俺の問いに、犬塚千歳は少しだけ驚いたように目を見開いた後、きっぱりと首を横に振った。


「いいえ。多分、どちらも消えてなんかいませんよ」


「本当か!?」

思わず身を乗り出す俺を見て、彼女は呆れたように続けた。


「ぶつかり合った衝撃で、一時的にお互いの力が弱まって、形を保てなくなっているだけでしょう。そんなに簡単に消滅するなら、うちの先祖が作った犬神が、今でもこうして私についてきたりしませんよ」


そう言って、彼女は自分の右肩のあたりを、やれやれといった風情で横目で見る。そこには、相変わらずネズミほどの大きさの黒い靄が、陽炎のように揺らめいていた。


「じゃあ、コロもまた戻ってくるってことか?」

希望の光が差したような気持ちで尋ねる俺に、しかし犬塚千歳は少しだけ視線を逸らし、言葉を濁した。


「あれは犬神ではありませんから、なんとも言えません。でも、強い想いが核になっているのなら、そう簡単には・・・」


彼女はそこまで言うと、ふっと口を閉ざした。それ以上、俺が何かを尋ねる前に、犬塚千歳は伝票を手に立ち上がる。



「さて、話は終わりましたね」


俺たちは会計を済ませ、喫茶店を出る。日曜の午後の、穏やかな日差しが目に眩しかった。隣に、いつもいたはずの黒い靄の気配はない。だが、今はもう、あの時のような絶望的な喪失感はなかった。消えたわけではないかもしれない、という犬塚千歳の言葉が、か細い希望となって胸の奥で灯っている。


「じゃあ、俺はこれで」

礼を言って立ち去ろうとした、その時だった。


「室瀬さん」


静かな声に呼び止められ、振り返る。犬塚千歳は、俺の後ろ、喫茶店のレンガ造りの壁と隣のビルとの間にできた、薄暗い路地を指さしていた。


「あそこ」


彼女の視線の先、日の光が届かない暗がりに、影とは明らかに違う、より濃い黒が澱んでいた。それは絶えず輪郭を揺らめかせ、かろうじて犬の形を保っているように見えた。


信也の犬神と対峙した時よりもずっと小さく、希薄で、今にも闇に溶けて消えてしまいそうだ。だが、俺にはわかった。あれは、今までずっと俺のそばにいた、あいつだ。


「コロ・・・」

思わず漏れた俺の声に反応したのか、黒い靄がぴくりと揺れる。


「室瀬さんはその子に触ったことありますか?」


俺の隣に並び、暗がりを見つめながら犬塚千歳が静かに問うた。


「いや、そもそも触れられるのか?実体がないんだぞ」


「なら触ってあげてください」


犬塚千歳の声には、ほんの少しだけ呆れたような響きがあった。


「まさか生きていたときに撫でてあげることすらしてなかった、なんて言いませんよね」


その言葉が、胸に刺さる。生前の記憶が鮮明に蘇る。硬くて短い毛の感触、撫でた時のあたたかい体温、そして全身で喜びを表現する仕草。


「・・・よく撫で回してた」

足元でこちらを見上げながら座る黒い靄を見る。靄に覆われた尻尾は動いているのかどうかわからない。だが、遊んでもらえるのだと期待に満ちた目で、ちぎれんばかりに尻尾を振っていた生前のコロの姿が、確かに重なって見えた気がした。


俺は覚悟を決め、ゆっくりとその靄に近づく。そして、ためらいがちに、そっと手を伸ばした。あいつの頭があった、その場所に。

指先が、冷たいような、それでいて温かいような、不思議な感触の靄に触れた。

その瞬間だった。


「あっー」

今まで俺にしか聞こえなかった、か細い鳴き声が、確かに空気を震わせた。触れた場所から、墨を水に落とした時のように、黒い靄がサッと晴れていく。目の前には、生前と変わらない姿のコロがいた。ただ、その体は淡い光を放ち、向こう側の景色が透けて見えている。


透けた体のコロは、俺の頭の位置に置かれた手に気づくと、くんくんと懐かしそうにその匂いを嗅ぐ仕草をした。そして次の瞬間、俺の顔にぐっと近づき、ざらりとした舌の感触はないまま、ぺろぺろと何度も舐める動作を繰り返した。

その、あまりにも昔と変わらない無邪気な愛情表現に、俺の中で固く張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。


「あ・・・ぅ・・・あ・・・」

声にならない嗚咽が、喉の奥からせり上がってくる。視界が急速に涙で滲み、ぼやけていく。その涙の膜の向こうで、コロの透けた体が、光の粒子のようにきらきらと輝きながら、さらに薄くなっていくのがわかった。


「まってくれ・・・」

かすれた声で引き留めようとするが、コロの姿が薄れることは止まらない。やがてコロは、俺から少しだけ離れると、満足したように、そして心の底から嬉しそうに俺を見つめ、高く、澄んだ声で一声鳴いた。


「ワン!」

その鳴き声と共に、コロの体はまばゆい光の粒子となってふわりと舞い上がり、日曜の午後の穏やかな日差しの中に、溶けるように消えていった。


後に残されたのは、頬を伝う生温かい涙の感触と、胸の奥に灯る、確かな温もりだけ。

俺が落ち着くまで、犬塚千歳は何も言わず、ただ黙って隣でその全てを見守ってくれていた。ようやく嗚咽が収まった俺は、彼女に深く、深く頭を下げた。


「ありがとう」

犬塚千歳はそれに小さく頷くと、「では」とだけ言って踵を返し、雑踏の中へと静かに消えていった。


もう、俺の足元にあの黒い靄が寄り添うことはない。けれど、不思議と寂しくはなかった。あいつが遺してくれた温もりと、取り戻した絆が、空っぽだった俺の心を確かに満たしてくれていたからだ。

俺は、信也と共に罪を償わなければならない。そして、俺自身の罪とも向き合い、この先の人生を歩んでいかなければならない。

それはきっと、長く、そして険しい道のりだろう。

だが、今はもう、独りではない。

俺は涙の跡が残る顔を上げると、真っ直ぐに前を向き、人々の行き交う流れの中へと、確かな一歩を踏み出した。

<了>

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