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犬神憑き奇譚(前編)

AIを使って書いた作品になります。

<犬神憑き解説 一>


犬神憑き(いぬがみつき)は、日本の西日本を中心に伝わる「憑き物筋」の代表的な怪異譚。

犬の霊が人や家系に取り憑くとされ、特に大分県東部、島根県、四国北東部から高知県一帯で根強く信じられてきた。

九州や山口県、さらには沖縄・薩南諸島にも類似の伝承が見られる。



<追憶の茶色い毛玉>


どこか懐かしい、乾いた土の匂いがした。

陽は傾きかけ、空はオレンジと紫が滲んだように混ざり合っている。視界の端で、錆びたジャングルジムが夕闇に溶けかかっていた。ここは、家の近所にあった公園だ。

持て余された土地をいくつか遊具を置いて公園にしただけのただの空き地だ。実際に利用する人はほとんどいない。そんなところを、俺はたまに利用していた。


「コロ!」

張りのある、まだ声変わりしきっていない自分の声が、やけにクリアに鼓膜を揺らす。その声に、少し離れた場所で地面に鼻を擦り付けていた茶色い毛玉が、勢いよく顔を上げた。ピンと立った耳、くるりと巻いた尻尾。紛れもない、あいつだ。


「コロ、来い!」

もう一度呼ぶと、短い脚で地面を蹴り、土埃を上げながら真っ直ぐにこちらへ駆けてくる。その姿は、まるで風に乗る落ち葉のようだ。嬉しそうに細められた目、大きく開かれた口からは、楽しそうな息遣いが聞こえてくる。


人のいない公園は、まだ子犬と呼べる飼い犬をリードを外して遊ばせるには都合がよかった。

俺は公園で拾った使い古されたテニスボールを空高く放り投げた。だけどコロはそのボールには目もくれずに俺の足に飛びついて、構ってほしそうに尻尾を振る。苦笑してコロを抱き上げ、投げたボールのところまで歩いていく。


「ほら、これだぞ」

ボールを拾ってコロによく見せ、匂いをかがせる。コロは一瞬ボールの匂いを嗅ぐも、すぐに俺の顔を舐めようと首を伸ばしてきた。

投げたボールを拾ってこさせる。という飼い犬との定番の遊びにあこがれて何度か試してみたのだが、コロは全く理解してくれなかった。


ボール拾いは中止し、コロの望むようにその小さな体を何度も撫でた。硬くて短い毛の感触、温かい体温、そして全身で喜びを表現する仕草。全てが愛おしく、胸の奥がきゅうっと締め付けられるような、甘酸っぱい幸福感が込み上げてくる。

その感触は今も忘れてはいない。



<灰色のルーティン>


「なんて都合のいい夢だ」

目が覚めた俺はしばらく自己嫌悪で起き上がる気力がわかなかった。

夢なら覚めた瞬間に忘れてくれればいいのに。

コロを撫でたときの感触が手に残っているのでは?と錯覚してしまいそうなほどはっきり覚えている夢は、確かに現実にあったことだった。

ただそれは、ほんの一瞬あったきれいな出来事を切り取ったに過ぎない。実際はもっと・・・


楽しい夢のはずなのに、どうしてこうも後味が悪いのか。まるで、幸せだった頃の自分を見せつけられ、今の空っぽな俺を嘲笑われているかのようだ。いや、実際そうなのかもしれない。あいつにとっては、俺との思い出など、苦痛の記憶でしかないだろうから。


カーテンの隙間から差し込む朝日は、今日も容赦なく一日の始まりを告げてくる。六畳一間のアパートは、最低限の家具しか置かれていないせいか、やけにがらんとして見える。昨日と全く同じ場所に置かれたティッシュ箱、寸分違わず畳まれた寝間着。規則正しい生活、というよりは、ただ同じ毎日を機械的に繰り返しているだけ。そんな生活が、もう何年も続いている。


顔を洗い、無味乾燥なシリアルを牛乳で流し込む。その間も、視界の隅には黒い霧のようなものが纏わりついていた。あいつだ。俺が飼い殺しにした柴犬の、怨念にも似た何か。恨んでいるのだろう、当然だ。俺はあいつから、たくさんのものを奪ったのだから。その視線を感じながら朝食を終え、作業着に袖を通す。これもまた、罰なのだろう。


アパートのドアを開けると、梅雨入り前の湿った空気が肌にまとわりついた。どんよりとした曇り空は、俺の気分を正確に映し出しているかのようだ。駅までの道を、いつもと同じ速度で歩く。道端の紫陽花が色づき始めているが、そんなものに心を動かされることもない。ただ、アスファルトの継ぎ目を律儀に踏みながら、一歩、また一歩と職場へと向かうだけ。


工場の敷地が見えてくると、金属を打つ甲高い音や、機械の低く唸るような振動が微かに伝わってきた。今日もまた、火花と油の匂いに塗れた一日が始まる。それは、俺にとって逃れられない日常であり、そして、ある意味では救いでもあった。何も考えずに手を動かしている間だけは、あの黒い犬の視線も、胸に巣食う罪悪感も、少しだけ薄らぐような気がするからだ。もちろん、それもまた、俺の身勝手な思い込みに過ぎないのかもしれないが。



タイムカードを押し、油と鉄の匂いが混じり合う工場に足を踏み入れる。これが俺の日常。もう何年も変わらない、朝の光景だ。古いロッカーに荷物を押し込み、くたびれた作業着に袖を通す。鏡に映る自分は、相変わらず覇気のない顔をしていた。


始業のサイレンがけたたましく鳴り響き、工場全体がゆっくりと動き出す。俺はまず、昨日途中まで進めていたプレス機の金型の調整に取り掛かった。 図面と睨めっこしながら、レンチを手にボルトを締めたり緩めたりする。金属同士が擦れる鈍い音と、時折火花が散るような甲高い音が、朝の静寂を破っていく。


この工場では、一人が複数の工程を担当することも珍しくない。 おかげで、ぼんやりと物思いに耽る暇もないほど、常に何かしらの作業に追われている。

「室瀬、そっちの調子どうだ?」 背後から、年配の田中さんの声が飛んできた。


「…あと少しです」 短く答えると、田中さんは「そうか」とだけ言って持ち場に戻っていく。この工場での会話なんて、大抵こんなものだ。必要最低限の言葉だけが交わされる。それが心地良いとすら感じている自分がいる。


プレス機の調整を終えると、次は金属板の切断作業に移った。 設計図通りにマーキングされた巨大な鉄板をシャーリングマシンにセットし、レバーを引く。轟音と共に刃が振り下ろされ、分厚い鉄板がバターのように断ち切られていく。その瞬間、ほんのわずかな振動が足元から伝わってくる。この、力強い機械の動きと、それに伴う振動や音。それらを感じている時だけは、余計なことを考えずにいられた。


それでも、ふとした瞬間に、それはやってくる。 機械の影、積み上げられた資材の隅。視界の端で、黒い霧が揺らめいた。あいつだ。今日も変わらず、じっと俺を見つめている。その視線は、まるで呪詛のように俺の背中に突き刺さる。だが、俺はもうそれに動揺したりはしない。当然の罰だと、ただ受け入れるだけだ。


汗が滲み、作業着が機械油で少しずつ汚れていく。 立ち仕事が多く、体力が要る仕事だが、それももう慣れた。 午前中の作業は、主にこうした単純作業の繰り返しだ。同じ動作を何度も何度も、正確に。まるで自分自身が機械の歯車のひとつになったかのように。 その無心さが、今の俺には必要なのかもしれない。


空っぽの頭で、ただ手を動かし続けること。それだけが、過去の記憶から逃れる唯一の手段だった。もちろん、完全に逃れられるわけではないのだが。黒い犬の幻影は、今日も俺のすぐそばにいる。



けたたましいサイレンが工場内に響き渡り、午前中の作業が終わったことを告げる。額の汗を雑に拭い、俺は工具を置いた。周囲の機械音が少しずつ静まり、代わりに安堵とも疲労ともつかないざわめきが広がっていく。


作業着のまま工場の門を出て、すぐ近くのコンビニでいつもの弁当と缶コーヒーを買い、これまたいつもの公園へと向かう。平日の昼間、公園には人もまばらで、古びたベンチだけがぽつんと置かれている。そこに腰を下ろすと、隣にふわりと黒い靄が形を成した。あいつだ。俺の罪悪感が生み出した、死んだ飼い犬の幻影。


ビニール袋から弁当を取り出し、プラスチックの蓋を開ける。彩りの乏しい、工場生産品特有の匂いが鼻をついた。割り箸をパキリと割り、味気ないおかずを黙々と口に運ぶ。そんな俺の隣で、黒い靄の犬はただじっと、恨みがましい視線を向けてくる。いや、本当に恨んでいるのか、それともそう見えるだけなのか、俺にはもう分からない。


ふと、その黒い靄の輪郭が、昔飼っていたコロの姿と重なる気がした。 中学一年の時、学校の裏門に捨てられていた、柴犬に似た雑種の子犬だった。 生後3か月くらいの小さかったあいつを、「コロ」と名付けて家に連れ帰った日のことを、今でも鮮明に覚えている。大きくなってからは庭にある俺の自転車置き場のすぐ横に犬小屋を置いて、鎖で繋いで飼っていた。


「・・・コロも、よくそうやって待ってたな」

俺は、隣の黒い靄に話しかけるでもなく、ぽつりと呟いた。 学校から自転車で帰ってくると、コロはいつも鎖の許す範囲で目一杯に駆け寄り、ちぎれんばかりに尻尾を振って俺にじゃれついてきた。 俺の自転車の匂いを嗅いだり、顔を擦り付けたりして。 あの頃の俺は、そんなコロの無邪気な愛情を、当たり前のものとして受け止めていた。


時々、気が向いたときに散歩に連れて行くと、コロは本当に嬉しそうにした。 近所の山や空き地でリードを外してやると、目を輝かせてあたりを駆け回り、それでも必ず俺のところに何度も戻ってきた。 あの時の全身で喜びを表現するコロの姿は、今でも瞼の裏に焼き付いている。それと同時に、そんな純粋な信頼を当たり前と思っていた自分の愚かさも。


俺が高校を卒業して家を出てから、コロは病気になったと聞いた。 それでも、帰ってこない俺をずっと待ち続けていたらしい。 そして、死んだ日。母親から聞いた話では、もうすぐ俺が帰ってくると知らされた後、鎖を外してもらったコロは、病気でほとんど動けない体を引きずるようにして家の前まで行き、そこでずっと俺を待ち続け、夜になって自分の犬小屋の前で冷たくなっていたという。 コロはまだ7歳だった。


「・・・あと、二、三日だったのにな」

間に合わなかった。俺が帰るのを、あいつは待ちきれなかった。いや、俺がもっと早く帰っていれば、あいつは・・・

そこまで考えて、俺はかぶりを振った。意味のないことだ。過去は変わらない。 隣の黒い靄は、相変わらず俺を見つめている。その姿は、「どうして帰ってきてくれなかったんだ」と俺を責め立てているような気がした。


弁当のプラスチック容器は、いつの間にか空になっていた。味などよく覚えていない。ただ腹を満たすための作業を終えただけ。 空の容器をコンビニの袋に押し込み立ち上がる。午後の作業がまた始まる。あの黒い犬の視線と共に、俺は今日も機械のように働き続けるのだろう。それが俺にできる唯一の償いなのかもしれないと、漠然と思いながら。



空になった弁当の容器をコンビニ袋に押し込み、俺は重い腰を上げた。公園の木々が風に揺れる音も、子供たちの遠い声も、今の俺にはどこか他人事のようにしか聞こえない。腹は満たされたはずなのに、心の空虚さは相変わらずだ。


工場に戻ると、昼休憩の浮ついた空気は消え、再び油と金属の匂いが支配するいつもの空間に戻っていた。

午後の作業は、午前中にプレス加工した部品のバリ取りと、その後の寸法検査だ。


高速で回転するグラインダーの前に立ち、一つ一つ部品を手に取って、余分な金属片を削り取っていく。火花が作業ゴーグルにバチバチと当たり、甲高い金属音が耳の奥で反響する。 単調だが、少しでも気を抜けばケガに繋がる作業だ 。その緊張感が、余計な思考を遮断してくれる。


視界の隅では、相変わらず黒い靄の犬がうずくまっていた。時折、グラインダーの火花にその輪郭が一瞬照らし出される。恨めしそうな、それでいてどこか悲しげな目。コロも、こんな目をしていたのだろうか。病気で苦しんでいた時、俺の帰りを待ちわびていた時・・・


そんな詮無い感傷を振り払うように、俺は作業に没頭した。一つ、また一つと部品を仕上げていく。機械油と金属粉で、作業着も手も真っ黒だ 。それでも、手を止めることはない。これが今の俺にできる唯一のことだから。


やがて、終業を告げるサイレンが工場全体に鳴り響いた。他の従業員たちが安堵の息を漏らし、工具を置く音が聞こえてくる。俺もグラインダーのスイッチを切り、今日の作業で出た金属の山を所定の場所に片付けた。


汗と油で汚れた手を洗い、ロッカーで作業着から普段着に着替える。「お疲れさん」「お先です」そんな当たり障りのない言葉が周囲で交わされるが、俺は誰にともなく軽く会釈するだけだ。誰かと深く関わることは、今の俺には億劫でしかなかった。


タイムカードを押し、工場の重い鉄の扉を開けて外に出る。夕暮れ前の、少し生ぬるい空気が頬を撫でた。一日の労働が終わったという解放感は、ほとんどない。ただ、今日もまた、決められた時間を機械のようにこなし終えたという、漠然とした事実だけがそこにあった。


家路につきながら、ふと視線を横にやると、やはり黒い靄の犬が俺の数歩後ろをついてきていた。明日も、こいつと一緒に出勤し、同じように一日を終えるのだろう。その変わらない日常に、俺はどこか諦めにも似た感情を抱いていた。



帰り道の途中、俺はいつものスーパーに立ち寄った。自動ドアが開くと、特売品を知らせるけたたましい音楽と、様々な食品の匂いが混じり合った独特の空気が流れ出てくる。一日の仕事を終えた人々でそれなりに賑わっていたが、その喧騒も俺の周りだけを避けていくようだった。


惣菜コーナーへ直行し、値引きシールが貼られた弁当を一つ、何も考えずにカゴに入れる。今日の昼と同じような、茶色いおかずが並んだプラスチックの容器。栄養を摂るためでも、食事を楽しむためでもない。ただ腹を満たすという生命維持活動のためだけに、それを選択する。


レジの列に並び、自分の番が来ると、無言でカゴを差し出す。店員が機械的にバーコードを読み取り、金額を告げる。電子マネーで会計を済ませ、袋を受け取る。その間、一言も発しない。


スーパーを出てアパートまでの短い道を歩く。街灯がアスファルトをぼんやりと照らし出す中、俺の足音だけがやけに大きく響いた。そしてその数歩後ろを、あの黒い靄の犬が静かについてくる。その存在は、もはや俺の影の一部だった。


鍵を開けて部屋に入ると、そこには昼間と何も変わらない、生活感の希薄な空間が広がっていた。電気をつけ、スーパーの袋から弁当を取り出してテーブルに置く。ノートパソコンの電源を入れた。


モニターが明るくなり、見慣れた動画サイトのトップページが映し出される。俺は慣れた手つきで、お気に入りに登録してあるチャンネルを開いた。画面には、投稿者の男性が人懐っこそうに笑う柴犬の頭を優しく撫でているサムネイルが並んでいる。


最新の動画を再生しながら弁当の蓋を開けた。動画の中では柴犬が緑豊かな庭でボールを追いかけ、飼い主の元へと駆け寄り、全身で喜びを表現していた。テロップには「毎日の運動タイム!」とある。過去の動画では旅行に連れて行ってもらったり、誕生日を祝ってもらったり、その犬はまるで家族の一員として深い愛情を注がれていた。


味のしないおかずを口に運びながら、俺はその光景から目を離すことができなかった。見るたびに胸が抉られるように痛むのに、やめられない。動画の中で大切にされている柴犬を見るたびに、自分がどれほどいい加減にコロと接していたかを思い知らされる 。


たまに気が向いた時にしか散歩に連れて行かなかった俺 。鎖に繋いだまま、ほとんど構いもしなかった俺 。動画の中の幸せそうな犬と飼い主の関係は、俺がコロにしてやれなかったことの全てだった。そのギャップが、俺の接し方がほとんど虐待だったのではないかという罪悪感を増幅させる 。


部屋の隅では、黒い靄の犬がじっと画面を見つめているようだった。その視線が、まるで俺を責めているように感じる。「お前は自分に、こんな風にはしてくれなかったな」と。


食べ終えた容器をすすいでゴミ袋に放り込み、シャワーを浴びる。一日の汚れと共に思考も感情も洗い流してしまえたら、どれほど楽だろうか。そんなことを考えながら無心で体を洗った。


パジャマ代わりのTシャツとスウェットに着替え、歯を磨く。すべてのルーティンを終え、俺はベッドに倒れ込んだ。部屋の明かりを消すと、暗闇の中で、部屋の隅にうずくまる黒い靄の犬の気配だけが、より一層濃くなるのを感じた。


明日も、同じ時間にアラームが鳴り、同じように仕事へ行き、そして夜にはまた、あの動画を見て自分の罪を再確認するのだろう。その終わりのない繰り返しの中で、俺は罰を受け続ける。目を閉じると、幸せそうに笑う動画の中の柴犬と、俺を待ち続けて死んだコロの姿が重なり、重い疲労と共に、意識がゆっくりと沈んでいった。



<歪む夏の幻影>


意識が沈んだ先で、俺はまだ眩しい夏の夕日の中に立っていた。

そこは、近所の川辺だった。生ぬるい風が頬を撫で、草の匂いと水の音が混じり合って耳に届く。16歳ぐらいの俺がズボンを膝までまくり上げ、浅瀬に足を浸していた。水の冷たさが心地良い。


「コロ、こっちだ!」

俺の声に少し離れた場所で水しぶきを上げていた茶色い毛玉が、弾かれたように顔を上げた。4歳になり、すっかり成犬の体つきになったコロだ 。


あいつは嬉しそうに一声吠えると、軽快に水を蹴って俺の元へと駆け寄ってきた。リードを外してもらい、自由に川辺を走り回れるのがよほど嬉しいらしい 。


コロは俺の足元にじゃれつき、びしょ濡れの体で何度も頭を擦り付けてくる。そのたびに、俺は「やめろよ、濡れるだろ」と笑いながら、その背中をくしゃくしゃと撫でた。太陽の光を浴びてキラキラと光る水面、楽しそうに尻尾を振るコロ、そして何も考えずに笑っている自分。


そこには、何の罪悪感も、後悔も存在しない、完璧な夏の午後があった。

俺が投げた木の枝を、コロが夢中で追いかける。見失っては鼻を鳴らし、見つけては得意げに俺の元へ持ってくる。その繰り返しが、永遠に続くかのように思えた。あの頃の俺は、コロがそばにいることを、この時間が続くことを、疑いもしなかった。


だが、夢の中の完璧な時間は、少しずつ歪み始める。

楽しそうにしていたはずのコロの表情が、悲しげに揺らめいたように見えた。川のせせらぎが、まるで嗚咽のように聞こえ始める。


俺の足にじゃれついていたはずのコロが、いつの間にか少し離れた場所からじっと俺を見つめている。

その目は楽しんでいる目ではない。きっと、帰ってこない飼い主を病に伏しながら待ち続けた、あの最期の日の目だ。


眩しかったはずの太陽が、不意に翳っていく。心地よかったはずの川の水も、氷のように冷たく感じられた。

やめろ。そんな目で、俺を見るな。

心の中で叫んだ瞬間、世界がぐにゃりと歪み、俺は現実の薄暗い部屋へと引き戻された。



<不可視の共有者>


夢から覚めた後も、あの夏の川辺の光景は瞼の裏に焼き付いて離れなかった。そのせいで、その日の仕事はいつも以上に身が入らなかった。


繁忙期特有の、工場全体が殺気立っているような空気。鳴り止まない機械音と、飛び交う怒号。俺はただ、思考を麻痺させ、言われた通りに体を動かすだけの歯車に徹していた。


それでも、ふとした瞬間に、楽しそうに川辺を走り回るコロの姿と、今の自分の空虚な現実との落差が胸を突き、何度も作業の手を止めそうになった。


結局、その日は予定のノルマを終えることができず、残業になった。終業のサイレンが鳴り、他の従業員たちが次々と帰っていく中、俺は一人、薄暗い工場で作業を続けた。外が完全に闇に包まれた頃、ようやく全ての作業を終え、俺は鉛のように重い体を引きずって工場を出た。


夜の空気はひんやりとしていて、火照った体には少し心地良い。街灯が頼りなく道を照らす中、とぼとぼと家路につく。すぐ後ろには、当たり前のようにあの黒い靄の犬がついてきていた。極度の疲労のせいか、今日はその存在がいつもより濃く、大きく感じられる。その重圧に耐えかねて、俺は振り向きもせず、吐き捨てるように呟いた。


「・・・お前も、飽きないな」 毎日毎日、こうしてついてきて。それは、俺が自分自身に言い聞かせている言葉でもあった。その、独り言のはずの言葉に、返事があった。


「その犬はあなたの犬ですか?」


凛とした、静かな声だった。 心臓が、氷水で鷲掴みにされたかのように跳ね上がった。慌てて振り返ると、そこにはセーラー服を着た一人の少女が立っていた 。まっすぐに伸びた黒髪が、街灯の光を吸い込んで静かに揺れている 。

彼女は、俺の隣ーー黒い靄の犬がいるはずの空間を、まっすぐに見つめていた。


「い、犬…? 何もいませんよ、ここに」

声が裏返る。頭が真っ白になり、動揺を隠せない。見えるはずがない。これは俺の罪悪感が生み出した幻覚で、俺にしか見えないはずの罰だ。それなのに、なぜ。


少女は、俺の狼狽ぶりにも特に表情を変えず、ただ静かに俺と、俺の隣の何もない空間を交互に見ている。その落ち着き払った態度が、俺をさらに混乱させた。これ以上、関わってはいけない。本能が警鐘を鳴らす。


「見間違いじゃないですか。じゃあ、急いでるんで」 俺は一方的にそう言い放つと、彼女に背を向けて早足で歩き出した。背中に突き刺さる視線を感じたが、もう二度と振り返ることはできなかった。アパートの自室のドアを開け、転がり込むように中に入って鍵をかけるまで、心臓は狂ったように鳴り響いていた。



<犬神憑き解説 二>


犬神憑きは、室町時代の1472年に「犬神使い」を処罰するよう命じた公文書が残っているほど古くから社会問題として認識されていました 。

民間では、四国地方で「犬神筋」と呼ばれる家系が結婚などを避けられ社会的に差別される一方 、大分県では巫女が犬の首から生じた蛆を「犬神」と偽って売る霊感商法のような事件も伝わっています 。

この信仰は海を越え、20世紀初頭のハワイ日系社会でも、犬神の力を持つ者が他人を呪うと信じられていました 。また、源頼政が退治した妖怪「鵺」などが起源とされる伝説も存在します 。

このように犬神憑きは、単なる怪異譚に留まらず、社会問題や事件として多様な文脈で語り継がれています 。



<変貌した旧友>


アラームが鳴るより早く、重い頭痛と共に目が覚めた。昨夜、あの女子高生に声をかけられてから、ほとんど眠れなかった。アパートのドアに鍵をかけた後も、心臓の動悸はしばらく収まらず、静かな部屋の中で自分の荒い息遣いだけが響いていた。


体を起こすと案の定、部屋の隅にあの黒い靄がうずくまっていた。いつもと同じ光景。だが、今日はその存在がひどく異質に見えた。今までは、俺の罪悪感が作り出した、俺だけの幻だと思っていた。俺だけに見える、俺だけの罰。そのはずだった。


「・・・なあ。昨日のあれは、何だったんだ?」

俺はベッドに座ったまま、靄の犬に向かってか細い声で話しかけた。

返事などあるはずもない。黒い靄は、ただ静かにそこに在るだけだ。


「あの子・・・見えてたのか?お前のことが」

疲れていただけだ。きっとそうだ。残業で、心も体も限界だった。だから、誰かが野良犬か何かを指して言ったのを、自分に言われたのだと勘違いしたんだ。そうに違いない。


だが頭の中で必死に自己弁護を繰り返しても、脳裏に焼き付いたあの光景は消えてくれない。俺の隣の、何もないはずの空間を真っ直ぐに見つめていた、あの静かな瞳。あれは勘違いや見間違いの目ではなかった。確信に満ちた、あまりにも落ち着き払った目だった 。


「だとしたら、お前は一体なんなんだよ・・・」

もし、これが俺の頭の中だけに存在するものではないとしたら?もし、本当に死んだコロが俺を恨んで、他の人間にも見えるほどの姿で憑いているのだとしたら? その考えに至った瞬間、背筋が凍るような悪寒が走った。


俺だけの罰だと思っていた。俺が一人で背負い、誰にも知られることなく、この空虚な人生を終えることで償うべき罪だと思っていた。だが、もしそれが外から見えるものだとしたら?


俺の罪は、俺が思っていたよりもずっと深く、そしておぞましいものなのかもしれない。

自問自答は、何の答えももたらさず、ただ混乱と恐怖を増幅させるだけだった。


やがて、無慈悲な電子音が鳴り響き、いつも通りの一日の始まりを告げる。だが、今日の朝は、いつもとは全く違って感じられた。



昨夜の出来事を引きずったまま、俺の心は鉛のように重かった。自分の罪が、自分だけの罰が、他人にも見える形で存在しているのかもしれないという恐怖。その答えの出ない自問自答は、ただただ俺の精神をすり減らしていった。


それでも、仕事は待ってくれない。俺はなんとか体を動かし、午前の作業を終わらせた。進捗を工場長に報告するため、工場内を見渡すが、いつもの場所にその姿はなかった。近くで機械の整備をしていた田中さんに声をかける。


「田中さん、工場長どこか知りませんか?」 「ああ、室瀬か。工場長なら事務所だ。なんでも、スーツ着た営業の客が来てるらしいぞ」


礼を言って、事務所へ向かう。ただでさえ気分が滅入っているのに、客人と話している最中というのはタイミングが悪い。ドアの前で一瞬ためらったが、報告しないわけにもいかない。意を決して、そっとドアを開けた。


「失礼しまー」 言いかけた言葉を飲み込む。案の定、小さな事務所の応接セットでは、工場長が真剣な顔つきで誰かと話している最中だった。こちらに背を向けた、上等なスーツを着た若い男。まずい時に来たと、音を立てずにドアを閉めようとした、その時だった。


「お、室瀬。ちょうどいいところに来た。こっちに来てくれ」

工場長が俺に気づき、手招きをした。その声に、スーツの男もゆっくりとこちらに振り向く。 その顔を見て、俺は息を呑んだ。整った顔立ち。高校時代よりも幾分か肉が落ちて精悍になった印象だが、見間違えるはずもない。


「・・・信也?」


「え・・・健吾?すごい偶然だね。ここで働いてたのか」


そこにいたのは、高校時代の友人、佐伯信也だった 。昔の陰気な雰囲気は消え失せ、自信に満ちた笑みを浮かべている 。


俺たちの様子を見て、工場長が合点がいったように頷いた。 「なんだ、知り合いか!そりゃ話が早い。いやな、この佐伯さんは有名な総合商社の方で 、うちの部品を海外の企業に輸出しないかっていう提案で来てくれててな 。正直、俺はこういう話はからきしで…。お前たち、友達なんだろ?悪いが、お前も同席して話を聞いてくれんか」


断れるはずもなかった。俺は佐伯の向かいの席に、促されるまま腰を下ろす。まさかこんな形で再会するなんて。俺は、昨夜とはまた別の種類の混乱と緊張感に包まれながら、目の前の旧友を見つめることしかできなかった。



予期せぬ再会から始まった話し合いは、信也の理路整然とした説明で進んでいった。高校時代、自己主張が少なく、どこか陰気な印象さえあった彼が、今は自信に満ちた口調で、専門的な貿易の知識を交えながら流暢に話している 。その姿は、俺の知らない人間のようだった。


信也が務める総合商社が持つ海外の販路を使い、この町工場で作られる精密部品を輸出するというのが彼の提案の骨子だった 。俺は時折、工場長に専門的な部分の補足説明を求められながら、ただ黙って話を聞いていた。信也は終始、にこやかな営業スマイルを崩さない。


一通りの説明が終わり、工場長が腕を組んで唸った、ちょうどその時。けたたましいサイレンが鳴り響き、昼休憩の時間を告げた。


「おお、もうこんな時間か。佐伯さん、丁寧なご説明ありがとうございました。社長と共に前向きに検討させてもらいます。・・・室瀬、お前ももう昼にしていいぞ。付き合わせて悪かったな」


工場長のその言葉に、俺は無意識に信也の方を見た。ここで解散すれば、次にいつ会えるかもわからない。

昨夜からの混乱で滅入っていた心に、高校時代の唯一の友人と話せるかもしれないという、ほんの少しの浮遊感が生まれた 。


「信也、この後時間あるか?もし良かったら、昼飯でもどうだ。すぐ近所に定食屋があるんだ」


「本当かい?嬉しいよ。ぜひご一緒させてくれ」


信也は少し驚いたように目を丸くした後、快活に笑った。


工場の近所にある、油の匂いが染みついたような昔ながらの定食屋。作業着姿の同僚たちがテレビを見ながら無言で飯をかき込む中、場違いなほど上等なスーツを着た信也と俺は、テーブル席に向かい合って座っていた。


「いやあ、驚いたよ。まさか健吾がこの工場にいたなんて」


とんかつ定食を前に、信也が言う。


「俺の方こそ驚いた。大学に行って、すごい会社に入ったんだな 」


「はは、運が良かっただけだよ 。健吾こそ、高校出てからずっとここで?すごいじゃないか、手に職があって」


「すごくもなんともない。ただ、同じことの繰り返しだ」


互いの近況報告と言っても、その中身には天と地ほどの差があった。有名な大学に進学し、一流商社に就職した信也 。

片や、俺は高校を卒業してからずっと、この町工場で働き、実家を出て一人暮らしをしているだけ。


昔は、人付き合いが苦手な者同士、どこか似た空気を持っていたはずなのに 、今の俺たちを隔てる壁は、あまりにも厚く、高いように感じられた。


「最近、会社の業績も上々でね 。大きなプロジェクトも任せてもらえそうなんだ。本当に、僕は運が良い」


そう言って笑う信也の顔に、昔の面影はほとんどなかった。ただ、その目の奥に、ほんの一瞬だけ、俺の知らない暗い色がよぎったような気がした。



「じゃあ健吾、また連絡するよ」


「ああ、気をつけて」


定食屋の前で、信也はそう言って爽やかに片手を上げた。彼は颯爽と、いつの間にか呼んでいたタクシーに乗り込み、あっという間に雑多な工場の街並みから消えていく。その姿は、俺のくたびれた作業着とはあまりにも対照的だった。


昼休憩の終わりを告げるサイレンが鳴り、俺は再び油と金属の匂いが支配する工場へと戻った。午後の作業は、午前中に加工した部品の精密な寸法チェックだ。


マイクロメータを手に、一つ一つ図面と照らし合わせていく。単純だが、集中力のいる作業。そのおかげか、頭の中では昼間の出来事が繰り返し再生されていた。


それにしても、なぜ商社のエリートである信也の営業相手が、社長ではなく工場長だったのだろうか。

昼食の時、それとなく信也に聞いてみたところ、今回の輸出の件は、うちの社長が「新しい取引だからこそ、まず現場の意見をしっかり聞いてほしい」と、あえて工場長に話を振ったのだという。

なるほど、それで俺が同席することになったのか。妙なところで律儀な社長の考えが、この奇妙な再会を引き寄せたわけだ。


マイクロメータの目盛りを読みながら、信也の顔が浮かぶ。勉強ができたから、良い大学に行き、良い会社に入ったのは当然かもしれない 。

だが、あの自信に満ちた姿はどうだ。高校時代は自己主張が少なく、一部の連中からは微妙にいじめに近いからかいを受けていた彼が 、まるで別人のようだった。


「本当に、僕は運が良い」


そう言って笑っていた信也の言葉が、耳にこびりついて離れない。会社の業績も、大きなプロジェクトも、全ては「運」の一言で片づけられていた 。その言葉は謙遜のようでありながら、どこか、事実をただ述べているだけのような、奇妙な響きを持っていた。

そして、あの目の奥に一瞬よぎった、暗い色。あれは、俺の見間違いだったのだろうか?


ふと、視界の隅で黒い靄が揺らめく。俺の罰。俺の呪い。俺の人生がこうして停滞している一方で、信也は「運」を味方につけて高みへと昇っていく。昔は似た者同士だと思っていたのに、いつの間に、こんなにも差が開いてしまったのだろう。


終業を告げるサイレンが鳴り、俺は今日の作業を終えた。


汗と油にまみれた体を洗い流し、着替えて工場を出る。夕暮れの空は、鈍いオレンジ色に染まっていた。

昨日の少女のこと、そして今日再会した信也のこと。二つの大きな謎が、俺の心を重く支配してくる。ただ同じ毎日を機械的に繰り返すだけだったはずの俺の日常が、少しずつ、だが確実に軋み始めているのを感じていた。




夕暮れの工場を後にして、俺は帰路についた。頭の中は、今日再会した信也のことでいっぱいだった。彼の成功と、俺の停滞。そして、あの目の奥に潜んでいた、正体のわからない何か。考えれば考えるほど、気持ちは沈んでいく。


足は無意識に、いつものスーパーへと向かっていた。今日の晩飯も値引きされた弁当でいい。


自動ドアをくぐり、惣菜コーナーへ向かう。カゴに弁当を入れ、ふと顔を上げた、その時だった。


心臓が大きく跳ねた。


数メートル先の飲料コーナーで、見覚えのあるセーラー服姿の少女が、こちらを見ていた。昨夜、俺に声をかけてきたあの少女。


だが、彼女が見ていたのは俺じゃない。俺のすぐ隣、黒い靄の犬がいるはずの空間を、彼女は瞬きもせずにじっと見つめていた。


間違いない。彼女には、見えている。

昨夜の恐怖が蘇る。だが、それ以上に、この得体の知れない状況をどうにかしたいという焦燥感が勝った。俺は乾いた喉を無理やり潤し、震える足で彼女の方へと歩み寄った。


「あの」

俺が声をかけると、少女はゆっくりと視線を俺に移した。感情の読めない、静かな瞳だった。

その瞳が俺の顔を、次いで俺の隣に座り俺をじっと見ている犬に向けられた。


「昨日の・・・」


「やっぱり、あんたには見えてるのか?俺の隣にいる、こいつが」

俺は、自分でも何を言っているのかわからないまま、必死に言葉を紡いだ。


「・・・はい」


少女は、俺の質問に驚いた様子もなく、ただ小さく頷いた。

その短い肯定だけで、俺の中の疑念は確信に変わった。この少女は、俺と同じものを見ている。そしてその落ち着き払った態度は、この現象について何かを知っていることを雄弁に物語っていた。


「こいつは、一体何なんだ。あんた、何か知ってるんじゃないのか」

俺は、藁にもすがる思いで問い詰める。少女は少しだけ視線を伏せ、周りを気にするように辺りを見回した。物静かで、一歩引いたようなその態度は、彼女の性格なのだろう。


「・・・ここでお話しできることではありません」


やがて、彼女はそう言って口を開いた。


「もし本気で知りたいのでしたら、日を改めて、別の場所で」


「わかった。次の日曜日でどうだ」

その提案は、俺にとって渡りに船だった。


「日曜日なら空いてます。場所は・・・駅前通りの大型書店横の路地に入ったところにある喫茶店でよければ」


俺は了承し、会う約束を取り付けた。少女は軽く一礼すると、すぐに踵を返し、雑踏の中へと消えていった。俺は値引きされた弁当を持ったまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。


答えは、まだ何も得られていない。だが、暗闇の中に、初めて一本の細い糸が垂らされたような気がした。俺はその糸をたぐるようにして、会計を済ませ、重い足取りでスーパーを後にした。



<犬神憑き解説 三>


犬神とは、犬の霊などが人や家に取り憑く「憑き物」と呼ばれる存在です 。一方、犬神使いは、この犬神を意図的に使役して他人に害を与えたり願望を叶えたりする呪術師や霊能者を指します 。両者は「使う側」と「使われる側」という関係にあり、犬神使いの家系は「犬神筋」などと呼ばれ、犬神を意のままに操ると信じられてきました 。犬神使いは、犬神を他人に憑依させて病気や不幸をもたらす力を持つとされたため、地域社会では畏怖や差別の対象となっていました 。その存在は室町時代の文書にも記録が残っており、歴史的にも社会問題や差別の要因となっていたことがわかります 。



<喫茶店の邂逅>


約束の日曜日、俺は重たい足取りで駅へと向かっていた。数日前から、この日のことばかり考えていた。あの少女は何者なのか。そして、俺に憑いているこの黒い靄は、一体何なのか。

答えを知るのが怖いという気持ちと、このまま得体の知れないものに怯え続けるのはごめんだという気持ちが、腹の中でせめぎ合っていた。


少女に教えられた喫茶店は、駅前通りの大型書店のすぐ横にある、人一人がやっと通れるほどの薄暗い路地を入った奥にあった。蔦の絡まるレンガ造りの、時代から取り残されたような建物。ドアにかけられた「Open」の札だけが、ここが店であることを示していた。


重い木製のドアを押して中に入ると、カラン、と来客を告げるベルが鳴った。店内は薄暗くゆったりとしたBGMが流れていて、コーヒーの香ばしい匂いに満ちている。客はまばらで、皆ひそひそと話すか、黙って本を読んでいるかだった。


俺は店内を見渡し、すぐに入り口から一番遠い隅のテーブルに、見覚えのあるセーラー服の姿を見つけた。

少女は窓の外に視線を向け、静かに座っている。俺が近づく足音に気づくと、ゆっくりと顔をこちらに向ける。


「すまない、待たせたか?」


「いえ、私も今来たところです」


少女は表情を変えずにそう言った後、ふっと口元を緩めた。


「この店は通りから見えない奥まったところにありますから。迷われるかと思いました」


「ああ、路地の入り口自体はすぐに見つけられたから、なんとかなった」

俺は彼女の向かいの席に腰を下ろした。テーブルの上には、水滴のついたグラスが二つ置かれている。俺の分も頼んでくれていたらしい。黒い靄の犬は、俺の足元に静かにうずくまっていた。


「それでー」

いざ、本題を切り出そうと口を開きかけて、俺は気づいた。俺たちは、互いの素性を何も知らない。こんな重大な話をするのに、名前も知らないままではあまりに不自然だ。


「ああ・・・聞く前に、俺は室瀬健吾っていうんだ」

名乗るのが先だろう、と俺は慌てて付け加えた。 俺の言葉に、少女は少しだけ目を見開いた後、静かに頭を下げた。


「私は、犬塚千歳、です」



自分や犬塚千歳に憑いている犬のことについての説明



「犬塚・・・さん」

俺は、犬塚千歳と名乗った少女を前に、どう話を切り出すべきか迷っていた。目の前の少女は、あまりにも落ち着いている。まるで、これから始まるであろう突拍子もない会話を、全て予期していたかのように。


「室瀬さん。あなたが知りたいのは、あなたの隣にいる『それ』が何なのか、ということですよね」


先に沈黙を破ったのは、彼女の方だった。俺は、こくりと頷くことしかできない。

彼女は一度目を伏せ、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。


「まず『犬神』というものを聞いたことはありますか?」


「いぬがみ・・・?」

聞き慣れない言葉に、俺は眉をひそめる。


「犬神というのは、憑き物の一種です 。主に西日本で伝わるもので、犬の霊が人や家系に取り憑くとされています 。呪術的な儀式によって意図的に作られ、一度憑くと、その家系に代々受け継がれていく・・・。そうやって犬神が憑いている家系を、『犬神筋』と呼びます 」


淡々と語られる内容は、まるで出来の悪いホラー小説のようだった。だが、彼女の真剣な眼差しは、それが冗談や作り話でないことを示していた。

彼女は、そこで一度言葉を切ると、真っ直ぐに俺の目を見て言った。


「私の家は、その犬神筋なんです。遠い先祖が犬神を作り出したと聞いています。今はもう、その力を使う者はいません。ですが一度作られた犬神は、消えずに残っています」


彼女はそう言うと、自身の右肩を指差した。


「室瀬さん、私の肩のあたりを、よく見ていただけますか?」


言われるがままに、俺は彼女の肩に視線を集中させる。すると、今まで気づかなかったが、彼女の制服の肩先にネズミほどの大きさの黒い靄が、陽炎のように揺らめいているのが見えた。俺の隣にいる靄と同じ、だが比較にならないほど小さい。


「見えましたか?これが、私の家に伝わる犬神です。だから私には、あなたの隣にいるものが見えるんです」


俺は息を呑んだ。目の前の少女が、自分と同じ、いや、それ以上にこの不可解な現象の当事者であることを、嫌でも理解させられた。


「じゃあ、俺に憑いてるこいつも・・・犬神・・・なのか?」

俺は、震える声で尋ねた。 俺の問いに、千歳は静かに首を横に振った。


「いいえ。私の見立てでは、あなたに憑いているそれは、犬神とは少し違うものに感じられます」


「違う・・・って、どういうことだ?」


「犬神は、呪いによって縛られた、いわば『道具』です。ですが、あなたの隣にいるそれは、もっと個人的な・・・強い想いのようなものを感じます。恨み、というよりも、もっと純粋な・・・」


彼女は、そこまで言って口を噤んだ。答えを求めて喫茶店に来たはずなのに、俺の頭の中はさらに大きな謎で埋め尽くされていく。



「・・・個人的な、想い」 彼女の言葉が、頭の中で何度も反響する。恨みではない、純粋な想い。それが、この黒い靄の正体だというのか。だとしたら、尚更わからない。純粋な想いが、こんなにも重く、冷たい呪いのような姿になるというのか。

結局、俺が一番知りたかった「これ」の正体は、何一つわからなかった。犬神ではない、という新たな事実が判明しただけで、謎はより一層深まってしまった。手掛かりを掴んだつもりが、足元の地面が崩れ落ちたような感覚だ。


「・・・今日は、ありがとう」

俺は、絞り出すように礼を言った。

これ以上、彼女に聞けることはないだろう。

俺は伝票を手に取り、先に席を立つ。

彼女の分もまとめて支払うと、彼女は何も言わず、ただ静かに一礼しただけだった。


喫茶店の重いドアを開け、日曜の午後の喧騒の中に戻る。人々が楽しそうに笑い、語り合う声が、まるで遠い世界の出来事のように聞こえた。


俺は誰とも視線を合わせず、うつむき加減で自宅への道を急いだ。足元には、当たり前のように黒い靄の犬が寄り添っている。その存在が、前にも増して不気味に感じられた。


部屋に帰り着いても、何もする気にはなれなかった。買ってきた弁当を食べる気にもなれず、ただ、ベッドに腰掛けて部屋の隅にうずくまる黒い靄を眺めていた。


犬塚千歳。彼女の家は犬神筋で、彼女自身も小さな犬神を連れていた。だから、俺の隣にいるこいつが見える。そこまでは理解できた。だが、問題はその先だ。


彼女は言った。こいつは犬神ではない、と。恨みでもない、と。


だとしたら、なんなんだ。俺はずっと、こいつを死んだコロの怨念だと思っていた。俺を恨み、罰を与えるために憑いているのだと。そう思うことで、どこか納得し、この理不尽な状況を受け入れていた。だが、それすらも否定されてしまった。


「なあ、結局お前は、何なんだ?」

俺は、部屋の隅の暗がりに向かって、吐き捨てるように言った。

問いかけに、黒い靄は揺らめきもしない。ただ静かに、俺を見つめ返しているかのように、そこに在り続けるだけだった。


返事など、あるはずもなかった。 黒い靄は、ただの影のように、音もなく、動きもなく、そこにうずくまっているだけだ。俺が何を問いかけようと、こいつが応えることはない。そんなことは、とうに分かりきっていたはずなのに。


「……ははっ」

乾いた笑いが、静かな部屋に虚しく響いた。俺は一体、何を期待していたのだろう。あの少女に会えば、何か劇的な解決策が見つかるとでも思っていたのか。


結局、謎が深まっただけで、何も変わらない。いや、変わらないどころか、今まで「罰」として受け入れていた前提すら崩され、余計に混乱が深まっただけだ。


考えるだけ無駄だ。徒労でしかない。

俺は、頭の中に湧き上がる全ての疑問を無理やり捻じ伏せるように、ベッドに倒れ込んだ。少女も、再会した信也も、そして足元にいるこの黒い犬も。何もかもが、俺の理解を超えている。ならば、もう考えるのをやめればいい。


明日になれば、また仕事が始まる。油と鉄の匂い、鳴り響く機械音。それに身を任せていれば、余計な思考は少しでも薄れるはずだ。そうやって、今までもやり過ごしてきたじゃないか。


俺は布団を頭まで深く引き被り、無理やり目を閉じた。部屋の隅で、あの黒い靄がじっと俺を見つめている気配を感じながら。その正体を探ることから、俺は再び逃げ出すように、諦めと共に意識を手放した。



<ガラス越しのネグレクト>


意識は、また過去へと沈んでいく。


そこは、高校時代の俺の部屋だった。壁には色褪せたポスターが貼られ、机の上には教科書や漫画が乱雑に積まれている。窓の外からは、夏の終わりの、気だるい蝉の声が聞こえてくる。俺は畳の上で寝転がりながら、携帯ゲーム機の画面を食い入るように見つめていた。


ふと、何気なく顔を上げて窓の外に目をやる。庭に置かれた犬小屋の前に、見慣れた茶色い背中があった。鎖に繋がれたコロだ。あいつは、犬小屋のすぐそばに停めてある俺の自転車のタイヤに鼻を押し付け、くんくんと寂しそうに匂いを嗅いでいる。


俺が学校に行く時に使う、俺の匂いが染みついた自転車。暇な時や、寂しい時、コロはよくそうしていた。


「・・・」

散歩にでも連れて行ってやれば、きっと喜ぶだろう。そう思った。リードを外してやれば、いつもの空き地で、全身を使って喜びを表現するはずだ。その姿が、容易に目に浮かんだ。


だが、俺の視線はすぐに手の中のゲーム機へと戻る。ちょうど、ボスの体力ゲージが残りわずかになっているところだった。セーブもできない。今やめたら、ここまでの苦労が水の泡だ。


「・・・あとでな」

誰に言うでもなくそう呟くと、俺は再びゲームの世界に没頭した。窓の外で、俺が構ってくれるのを待ち続ける孤独な背中に気づかないふりをして。


ゲームのBGMと、蝉の声だけが部屋に響いていた。



<犬神憑きの解説 四>


犬神を作る儀式は、共通して非常に残酷な内容が伝わっています。最も有名な方法は、犬を極限まで飢えさせて餓死寸前に首を切り落とし、その首を往来の多い辻に埋めて人々に踏ませることで怨念を強め、呪物として祀るものです 。また、犬を首だけ出して生き埋めにし、目の前の餌に飛びつこうとした瞬間に首を切り落とし、その首を焼いて骨を祀る方法も伝えられています 。他にも犬同士を戦わせる方法などがあり 、いずれも犬の極限状態における強い怨念や執着を呪物として取り込み、強力な霊的存在を生み出すことを目的としていました。これらは動物霊を利用した日本独特の強力な呪術であり、強い怨念を生み出す点が重視されています。



<歪んだ選民意識>


僕の朝は、完璧なルーティンで始まる。クリーニングから戻ってきたばかりのシャツに袖を通し、寸分の狂いもなく結んだネクタイを締める。


鏡に映る自分は、有名な総合商社に勤める、自信に満ちた若手のエースだ。高校時代の、あの陰気で無力だった自分はどこにもいない。


オフィスに入ると、いくつかの視線が突き刺さるのが分かった。賞賛ではない。嫉妬と、値踏みするような色を帯びた、不快な視線だ。


「やあ佐伯君、おはよう。また大きな契約をまとめたらしいじゃないか。本当に『運が』良いね」


同期の一人が、わざとらしく「運」という言葉を強調して通り過ぎていく。僕は、完璧な営業スマイルで応えた。


「ありがとう。本当に、自分でもびっくりするくらい運にめぐまれたよ」

心の中では、その言葉を嘲笑っていた。運?違う。これは僕の「力」だ。


高校時代、僕にからんできた連中と同じ目をしている。自分より優れた者を認められず、引きずり下ろそうとする、愚かで弱い人間特有の目だ。この程度のストレスが、また僕の「衝動」を呼び覚ます。


その日の午後、僕は取引先の1つである、古びた金属部品工場を訪れていた。先日訪れた健吾の工場とは違い、ここの社長は見るからに僕を見下していた。太い腕を組み、値踏みするように僕を上から下まで眺める。


「また商社から、若造が来たのか。お前みたいなヒヨッコに、うちの技術の何が分かるんだ?」


「とんでもございません。御社の素晴らしい技術を、ぜひ海外にも広めるお手伝いができればと…」

僕は表情一つ変えず、丁寧に頭を下げた。


「口だけは達者だな。どうせ、数字しか見てないんだろう。帰って、おままごとでもしてな、坊や」


侮蔑の言葉が、僕の心の奥底に突き刺さる。高校時代の記憶がフラッシュバックする。そうだ、世の中はこういう人間で満ちている。僕を無力だと決めつけ、尊厳を踏みにじる。


僕は、笑みを浮かべたまま、心の中で静かに念じた。 ――ああ、この人も、早く体調でも崩してくださればいいのに。もっと話のわかる、新しい担当の方とお話ししたいなあ。


その瞬間、僕の思いがあいつに伝わる。「あいつ」が、喜びに応えるように微かに揺らめいた気がした。社長の顔色が、ほんの少しだけ悪くなったように見える。それでいい。これこそ、僕の「力」だ。


健吾はどうしているだろうか。ふと、あの工場のことを思い出す。彼は昔のままだ。善良で、正直で、だからこそ、あの小さな世界から一歩も出られない。彼にはわからないだろう。この世界で「勝つ」ために、本当に必要なものが何かということが。



昼間の、あの尊大な社長に対する鬱憤は、僕の力で「処理」されるだろう。そう考えると、心は静かに満たされていた。これでまた一つ、僕の進む道から障害が消える。やはり僕は、僕のやり方は「正しい」のだ 。


終業時刻を告げるチャイムが、静かなオフィスに響き渡る。他の社員たちが解放感に満ちた表情で帰り支度を始めるのを横目に、僕も手早くデスクを片付け、鞄を手に取った。今日のストレスは、また「いつもの方法」で発散させなければならない 。その時だった。


「やあ、佐伯君。お疲れ様」

能天気としか言いようのない声と共に、僕の上司が姿を現した。社内政治の立ち回りの上手さだけで出世した、中身のない男。仕事の大半を部下に丸投げし、手柄だけを掠め取っていく。


「本日もお疲れ様です、課長」

完璧な笑みを張り付けて応じると、上司は満足げに頷き、手にしていた分厚いファイルの束を僕のデスクに置いた。


「いやあ、すまないね、帰るところを。急ぎの案件でね、明日の朝までになんとかしてほしくて。君が一番仕事が早いから、ついつい頼ってしまうよ」


口では申し訳なさそうにしているが、その目に罪悪感など微塵もない。

「君には期待しているからな。頼んだよ」

その言葉を背に、上司はさっさとオフィスを出ていく。残されたのは、僕と、膨大な残業だけだ。


「・・・期待、か」

僕は、デスクに置かれたファイルに目を落とし、小さく呟いた。 高校時代、僕をからかっていた連中と同じだ。自分では何もせず、責任も取らず、ただ都合のいい言葉で人を支配しようとする。こういう人間が、僕のストレスを増幅させる。


ふと、視界の端で黒い靄が揺らめいたように感じた。あいつもいつか「邪魔」になるのだろうか。

僕は冷え切った感情のまま、誰一人いなくなったオフィスで、再びパソコンの電源を入れた。



深夜のオフィスに一人、課長から押し付けられた残業を終えた僕は、空虚な達成感と共に席を立った。溜まりに溜まったストレスと鬱憤が、体の内側で黒いマグマのように煮えたぎっている。これを発散させなければ、僕は僕でいられなくなる。


会社を出て、コンビニでドッグフードを一袋買うと僕は電車に乗り、街のはずれにある林道へと向かう。街灯もなく、手入れもされていない暗い獣道。人の気配などまるでないこの場所が、僕の聖域だ。


懐中電灯の頼りない光が、足元の覚束ない道を照らす。ざく、ざくと落ち葉を踏みしめる自分の足音だけが、不気味なほど静かな夜の林道に響いていた。ひんやりとした空気が肌を撫でるたびに、今日一日の不快な出来事が、鮮明に脳裏に蘇ってくる。


(・・・また大きな契約をまとめたらしいじゃないか。本当に『運が』良いね)

僕の成功を素直に認めず、嫉妬と侮蔑の目で見てくる同僚たち。彼らの顔を思い出すだけで、腹の底がむかむかしてくる。


(お前みたいなヒヨッコに、うちの技術の何が分かるんだ?)

年上だというだけで、僕という人間を、僕が積み上げてきた実績を、頭ごなしに否定してきた取引先の社長。あの見下したような目つきは、高校時代に僕をいじめていた連中と何も変わらない。


(君には期待しているからな。頼んだよ)

そして、能天気な顔で残業を押し付けてきた上司。その口先だけの言葉が、僕の神経を逆撫でする。


「・・・僕は何も間違ったことしてないのに、何でこんなにみじめな扱いを受けなきゃならないんだ!」

思わず、口から呪詛のような言葉が漏れた。そうだ。僕は悪くない。悪いのは、僕の価値を正当に評価しようとしない、あの愚かな連中の方だ。


僕は、強くなったはずだ。誰にも見えない、絶対的な「力」を手に入れたはずなのに。なぜ、未だにこんな不快な思いをしなくてはならない?


込み上げてくる怒りとストレスで、指先が微かに震える。早く、この感情を鎮めなければ。あの無様な姿を見て、僕の心を落ち着かせなければ。

僕は、森の奥にある僕だけの聖域へと、歩を速めた。



やがて開けた場所にたどり着くと、地面から力なく突き出た一つの頭が見えた。数日前に僕が埋めた犬だ。空腹と疲労でぐったりとし、その目には生気のかけらもない。


僕はその犬の前に立つと、コンビニの袋からドッグフードを掴み、あえて舌が届かない絶妙な距離にばら撒いた。途端に、死んだようだった犬が最後の力を振り絞り、必死に首を伸ばしてもがく。

土に汚れた鼻先が、数センチ先にある餌に届かず空を切る。その無様で哀れな姿を見ていると、僕の心は不思議と凪いでいった。


「みじめだねぇ、ぶざまだねぇ、みっともないねぇ」

目の前の光景から目を離さず、僕は静かに呟く。


「嫉妬深いだけの無能な同僚、年上なだけで僕を見下す取引先の社長、そして、部下を便利な道具としか思っていないあの上司・・・。僕は何も間違ったことなどしていないのに」


そうだ。僕はいつだって正しい。僕の足を引っ張る連中の方が、間違っているのだ。だから、彼らが不幸になるのは、当然の報いなんだ。


怨嗟の言葉を吐き続ける僕の背後で、夜の闇よりもさらに濃い黒い靄が集まり、ゆっくりと犬の形を成していく。僕が生み出した、僕だけの「力」。


僕の犬神。

それは何も言わず、ただじっと僕の背中を見つめていた。その存在が僕の行いを肯定してくれているようで、言いようのない満足感が込み上げてきた。



満足感に浸る僕の意識は、高校時代の、ある日の記憶へと飛んだ。


放課後のざわついた教室。張り出された中間テストの結果を、健吾と一緒に眺めていた時だった。僕の名前は学年でも上位の欄にある。


「すごいな信也。また順位上げたのか」


隣で健吾が、素直に感心したような声を上げた。その時だった。


「佐伯は勉強『だけ』だもんなー」

「そうそう、俺らは部活が忙しくて勉強『だけ』してるわけにはいかないからなぁ」


数人の男子クラスメイトが、ニヤニヤと笑いながら僕たちの横を通り過ぎていく。からかっているだけというのはわかっている。だが何を言い返せばいいのか分からず、口惜しさに唇を噛みしめてただ黙り込むことしかできなかった。

そんな僕の肩を、健吾がぽんと叩いた。


「友達の努力を笑うような奴らのことは気にするな。信也が俺たちの何倍も勉強してるって知ってるから、俺は信也がすごい奴だって思ってる」


まっすぐに健吾は僕の努力を認めてくれた。それが聞こえたのか、クラスメイトたちはつまらなそうに「へーへー」と口を尖らせ、どこかへ行ってしまった。


健吾の口から出た「友達」という言葉が、妙に胸に響いたのを覚えている。


その日学校から帰ってきた僕は、自宅近くの空き地にいた。日中の屈辱が、胃のあたりで黒い塊となって渦巻いている。僕は、隅に落ちていた石を手に取ると、地面で餌をついばんでいた雀の群れに、力任せにそれを投げつけた。


鈍い音と共に、一羽の雀が地面を転がる。飛べなくなったそれにゆっくりと近づき、僕は何度も、何度も石を振り下ろした。


なぜ僕ばかりが。僕が、何か悪いことをしたというのか。 込み上げてくる理不尽な怒りと涙を、目の前の小さな命にぶつけることでしか、あの頃の僕は、心の平衡を保てなかった。 これが、僕の悪癖の始まりだった。



<軋む歯車>


犬塚千歳と会ってから数日が過ぎた。俺の日常は、何も変わらない。朝、黒い靄の犬の視線を感じながら起き、無味乾燥なシリアルを流し込み、油と鉄の匂いが支配する工場へ向かう。ただ俺の内側だけが、静かに変化していた。


「犬神ではない」「個人的な、強い想い」

犬塚千歳の言葉が、頭の中で何度もこだまする。

俺を罰する怨念だと思っていたこの存在が、もし違うものだとしたら?

その答えのない問いは、俺の心を以前よりも深く、暗い混乱の底へと引きずり込んでいく。罰だと諦めていた時にはあった奇妙な安定は消え、今はただ、得体の知れないものと共にいるという純粋な恐怖だけが胸に渦巻いていた。


そんなある日の昼下がり、工場内に見慣れない光沢を放つ革靴が入ってきた。先日と同じ、上等なスーツに身を包んだ佐伯信也だ。

信也は工場長と何やら言葉を交わした後、一人で事務所の方へ向かっていく。どうやら、先日提案した輸出の件で、追加の資料でも届けに来たらしい。


俺は持ち場からその背中をぼんやりと眺めていた。高校時代の友人との再会。だが今の俺には、その偶然を喜ぶ余裕などどこにもなかった。犬塚千歳の話、そして足元に纏わりつくこの靄。俺の世界は、俺だけの問題で手一杯だった。


数十分後、事務所から出てきた信也が、軽く会釈しながら工場の出口へと向かう。その時、ふと彼の横顔に疲労の色が濃く滲んでいるのに気がついた。先日会った時の、自信に満ち溢れた快活な雰囲気は影を潜め、どこか追い詰められたような、切羽詰まった表情に見える。

なぜか、その姿を放っておけなかった。俺は持っていた工具を置くと、無意識に彼の後を追っていた。


「信也」

信也が工場の扉を開けようしたところで声をかけると、信也は驚いたように振り返った。その顔は、やはり明らかに疲れていた。


「健吾か。どうしたんだ?」


「いや・・・なんだか、疲れてるみたいだったから。仕事、大変なのか?」

俺の言葉に、信也は一瞬虚を突かれたような顔をしたが、すぐにいつもの営業スマイルを貼り付けた。


「ああ、まあね。少し立て込んでるだけだよ。心配してくれてありがとう」


その無理した笑顔が、余計に彼の疲労を際立たせる。俺は、ほとんど衝動的に口を開いていた。


「今日の夜、時間あるか?もし良かったら、晩飯でも食いに行かないか。俺がおごるよ」


「え・・・?」


「たまには息抜きも必要だろ」

そう言うと、信也は少し逡巡するような素振りを見せた後、ふっと肩の力を抜いた。


「・・・ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えようかな。ただ外回りだから直帰はできるけど、終わりの時間はわからないんだよ。相手次第だから」


「そうか、なら仕事が終わったら連絡をくれ。・・・って、そういえば連絡先、交換してなかったな」

俺たちはそこで初めて互いの携帯を取り出し、ぎこちなく連絡先を交換した。デジタルな文字列が、俺たちの空白の時間を埋めるように画面に表示される。


信也は「じゃあ、また後で」と小さく手を振り、今度こそ帰っていった。俺はその背中を見送りながら、自分でもなぜ彼を誘ったのか、よく分からずにいた。


終業のサイレンが鳴り、今日の作業が終了した。周りにいる同僚の、1日の疲労と作業をやり切ったという充足感の空気の中、俺はいつもより少しだけ軽い足取りでタイムカードを押した。


ロッカーで着替えを済ませ、工場の門を出る。足元には、当たり前のように黒い靄の犬がついてきていたが、今日はその存在が少しだけ気にならなかった。


家に帰って連絡を待つより、駅前でぶらついていた方が早く合流できるだろうと、俺は普段の帰り道とは別の道を進んでいく。駅に近づくと、これから帰宅するだろう人波が増えてきた。


いつもはこの時間、スーパーの弁当を片手に人気の少ない住宅路を歩いている俺には、この賑わいは新鮮に感じられる。信也の気を晴らそうと考えて誘った晩飯だったが、俺の気分転換にもなっていた。


駅前で人の流れを眺めること数分、ポケットの中のスマホが振動と共に着信を知らせる。取り出した画面には今日入力したばかりの佐伯信也の名前が表示されていた。


メッセージには、今終わったことと現在地が書かれている。信也の外回りはこの街内だったらしく、駅からそれほど遠くない場所にいるらしい。俺は自分の現在と駅前のロータリーで落ち合おうとメッセージを送り、信也と合流するために歩き出す。


合流した俺たちは、互いの労をねぎらいつつ駅前の飲食店を物色し、チェーン店の居酒屋に決め、暖簾をくぐった。

2人用のテーブル席に案内され、飲み物と適当なつまみをいくつか注文する。


「それにしても、健吾から誘ってくれるなんて、びっくりしたよ」


注文を聞き終えた店員が去ってから信也がそう口にした。


「そうか?まあ、たまにはな」

俺たちは高校時代の思い出話に花を咲かせる。あの頃は、お互いに似た者同士だと思っていた。人付き合いが苦手で、クラスの中心にいるようなタイプではなかった。だが、今の信也は、明らかに違う世界の人間だった。


高校時代の話が一段落する頃に注文した飲み物とつまみが来たので、特別な理由もないがお決まりで乾杯する。

乾いた喉に流し込む一杯目の冷たさが、一日の疲れをじんわりと溶かしていくようだ。


「それにしても、商社の仕事も大変なんだな」

俺がそう切り出すと、信也は待ってましたとばかりに口を開いた。


「大変なんてもんじゃないよ。ウチの会社、古い体質だからさ。年功序列が当たり前で、僕みたいな若手がいくら実績を上げても、正当に評価してくれないんだ」


先ほどまでの快活な口調とは打って変わって、その声には刺々しい響きが混じっていた。


「それに、取引先も厄介な連中が多くてね。先日も、こっちの提案を頭ごなしに否定してくる年配の社長がいてさ。人の話も聞かずに、ただ若造だってだけで見下してくる。本当に腹が立つよ」


次々と出てくるのは、上司や同僚、取引先への愚痴の数々。そのどれもが、妙に攻撃的で、他責的だった。俺は、目の前の信也に強烈な違和感を覚えていた。

俺の知っている信也は、こんな風に他人を攻撃するような人間ではなかったはずだ。もっとおとなしくて、自分の意見を言うのさえ、どこか躊躇いがちだったはずなのに・・・。


「まあ、でもさ」


一通り愚痴を吐き出した後、信也はグラスに残った飲み物をあおり、不敵な笑みを浮かべた。


「そんな連中も、どうせ長くは続かないよ。そのうち何とかしてくれるから」


「・・・何とかしてくれる?」

俺は、思わず聞き返した。その言葉は、あまりに奇妙に響いた。主語がない。誰が、何を、どうするのか。まるで、自分以外の「何か」の力に期待しているような、そんな不気味な響きがあった。


信也は、俺の問いには答えず、ただ「まあ、こっちの話だよ」と笑ってごまかすだけ。その目の奥に、いつか見たのと同じ、暗く冷たい色がよぎるのを俺は見逃さなかった。

結局、その話題はそれきりになり、俺たちは当たり障りのない話をしてその場を終えた。


会計を済ませて店の外に出る。少しひんやりとした夜風が火照った顔に心地よかった。


「今日はありがとう、健吾。ごちそうさま。なんだか、少しすっきりしたよ」


「そうか。なら良かった」

駅の改札で、俺たちは別れた。遠ざかっていく信也の背中を見送りながら、俺の心は再び重い霧に包まれていた。今日の信也は、明らかに「普通」ではなかった。あの攻撃性、そして、あの謎の言葉。


「そのうち何とかしてくれるから」


あれは一体、誰のことなのか。

俺は、重い足取りで自宅への道を歩き始めた。足元では、黒い靄の犬が、相変わらず静かに俺に寄り添っている。


こいつの正体も、信也の異変も、何もかもがわからない。ただ、確かなのは・・・

俺の日常が、もう二度と元には戻れない場所まで来てしまったということだけだった。



<犬神憑き解説 五>


犬神憑きは、身体と精神の両面に様々な症状を引き起こすとされています。身体的には、手足の関節や胸、腹部などに痛みが生じたり、犬神が体内を通った部分が腫れたりすると言われています 。精神的な症状としては、四つん這いで歩いたり犬のように吠えたりする異常行動や、知るはずのないことを口走る、異常な大食になるといった変化が見られます 。これらの症状が進行すると死に至る場合もあるとされ、原因不明の奇妙な病気はすべて犬神の仕業と考えられることもありました 。伝承の中で恐れられてきたこれらの症状は、現代医学的には精神疾患や心因性の身体症状などにあたると考えられています。



<聖域の生贄>


健吾と別れた翌日、僕はいつもと変わらない時間にオフィスに足を踏み入れた。昨夜、健吾の前で少しばかり本音を漏らしすぎたかもしれないという懸念はあったが、それも些細なことだ。どうせ彼には、僕の抱える世界の深淵など理解できはしない。


オフィスは、朝から妙にざわついていた。何人かの社員がひそひそと集まり、神妙な顔つきで何かを話している。僕が自分のデスクに向かうと、そのざわめきが波のように引いていくのを感じた。


「聞いたか?佐藤のやつ」 「ああ、昨日の夜、駅の階段から足を踏み外して、大怪我したらしい」 「全治二ヶ月だってさ。しばらくは仕事どころじゃないな」


佐藤。僕の同期で、何かとにつけて僕のやり方を「運が良いだけ」と揶揄してきた男だ。その名前を聞いた瞬間、僕の口元が微かに吊り上がったのを、誰が気づいただろうか。


僕はパソコンの電源を入れながら、聞こえてくる会話にさりげなく耳を傾ける。すると、タイミングを見計らったかのように、隣の席の女性社員が僕に話しかけてきた。


「佐伯さん、おはようございます。佐伯さんが担当されている山田金属の件ですが、先方から連絡がありましたよ。社長が急病で倒れられて、担当が息子さんに代わるそうです。連絡してきた息子さん、すごく物腰が柔らかくて話しやすい人でしたから、佐伯さんの話もきっと真剣に聞いてくれると思いますよ。」


「ありがとうございます。担当が変わられたんですね。社長さんは大事にならなければよいのですが・・・」

山田金属。先日、僕を「ヒヨッコ」呼ばわりし、頭ごなしに話を聞こうともしなかった、あの尊大な社長の会社だ。


僕は、心にもない同情の言葉を口にしながら、完璧な営業スマイルを顔に貼り付けた。胸の内では、黒い歓喜の渦が巻き起こる。


佐藤も、山田金属の社長も、僕の道を阻む障害だった。僕の正当な評価をせず、僕の尊厳を傷つけた。その彼らが、揃って不幸に見舞われた。

これは偶然などではない。僕の「力」がもたらした、必然の結果だ。


デスクに深く腰掛け、僕はそっと目を閉じた。視界の端で、ゆらりと黒い靄が揺らめく。僕だけの忠実なしもべ。僕の犬神。


ーやっぱり僕は正しいんだ。これは当然の結果なんだ。

お前たちが僕を認めないから、こうなる。僕の邪魔をするから、罰が当たるんだ。心の中でそう呟くと、黒い靄は満足したかのように、さらにその濃度を増した気がした。


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