デッドエンド・サマー・リピート
夏の始まりって、もっと鮮やかなものだと思ってた。
雲がいつもよりも近くに感じられて、蝉がジージーと耳障りなくらいにうるさくて、汗をかいてもその暑さを友達と笑える、そんな楽しげな青春の象徴みたいな感じ。
だけどその日はなんだか妙に空気が湿気っていて、終業式が終わって、昇降口で楽しげな靴音が響くたびに、心が何だかかざらついたみたいで……。
校門から出た帰り道、初夏の茹だるような暑さはじっとりと肌にまとわりついて、蝉の声がうるさく耳の奥にこびりついて離れなかった。
「鈴木さん」
終業式の帰り道、いつもと変わらない風景のはずだった。
十二時を回ったばかりの日差しはまっすぐに落ちていて、アスファルトの上では陽炎がゆらゆらと揺れて、湿った風が制服のスカートも一緒に揺らしいた。
そんな中、不意に鈴を鳴らすような綺麗な声が聞こえた。
「ねぇ、鈴木さんであってるよね?夏休み、一緒に遊ばない?」
その言葉が耳に届いた瞬間、私は本気で誰かと間違えてるんじゃないかって思った。
振り返って、後ろにに立っていたのは、来栖真夏だった。
白い半袖のワイシャツに学校指定の灰色のプリーツスカート、長くて艶めいた黒髪、目を細めた綺麗な笑顔が、逆光気味な日差しの向こうに輝いていた。
誰が見ても美人で、成績もよくて、男女問わず人気があって、いわゆるスクールカーストの最上層にいる人間だ。
そんな彼女が、平々凡々な私を、鈴木花をわざわざ名指しで誘ってきていた。
「……え、わっ、私?」
「うん、鈴木さん。暇かなって思って。夏休み、遊びたいなって」
来栖さんは、にこっと笑った。
その笑顔はどこか無邪気で、だけど、どこか計算されているような、とにかく今まで見たこと無いくらいに綺麗だった。
「べ、別に、暇ってわけじゃ……あ、いや、暇だけど……えっと……」
何言ってんだ私、と頭の中で自分にツッコみながら……でもその言葉は、来栖さんにとっては上々の返答だったらしい。
「じゃあ決まり。連絡先、交換しよ?」
こうして、私の夏休みは始まった。
今までとは違った特別で楽しくて、忘れられなくなる、私達の最後の夏休みが……。
─────
最初に遊びに行ったのは、近所のショッピングモールだった。
「花、プリクラ撮ろ!」
彼女が私の腕を掴んで、まるで子供みたいに無邪気に笑う。
花と名前を呼ばれるのに、最初は慣れなかった。けれどその声は、妙に耳に残って心地よく、私はすぐに違和感を覚えなくなっていった。
「うまく撮れたかな〜……って、わたしばっか笑ってない?」
「えっ、あ、ごめん、ちょっと緊張して……」
「じゃあもう一回撮ろ!今度はもっとくっついてっ」
至近距離。肩と肩が触れ合う。真夏の体温が伝わってくる。化粧品の香りが微かに香って、私は一瞬で顔が真っ赤になるのを感じた。
どうしよう。めちゃくちゃ顔が綺麗で緊張する。
お揃いのキーホルダーも買った。ちょっと安っぽいハート型で、ストーンがキラキラしているやつ。
「これ、花のスマホにつけてくれたら嬉しい」
「……え、うん。わかった」
「見て見て、ちゃんとつけたよ。こういうの、お揃いって感じでよくない?」
笑いながら、来栖さんがスマホにつけたキーホルダーを見せてきて。
それだけのことが、何でこんなに楽しいんだろ。
─────
次に出かけたのは、水族館だった。
夏休み、七月の平日、朝から照りつける太陽を避けるように、私たちは開館と同時に入場した。
「わーっ!見て花、クラゲ!めっちゃ綺麗!」
真夏は水槽に顔を近づけて、目を輝かせていた。青白い照明に浮かび上がるクラゲたちは、ゆっくりと水中を漂っていた。
「こんな風に、ふわふわして生きていけたらいいのにね」
「えっ……?」
「ほら、なんか、重力とか時間とか、全部関係なくてさ。漂ってるだけでいいって、ちょっと羨ましくない?」
私は笑ったけど、彼女の横顔はどこか遠くを見ているようだった。
そのあと、ペンギンのエリアに行った。
「ちょっと見て見て!この子、絶対モデル立ちしてる!」
真夏はスマホを構えて、何枚も連写していた。
「そんなに撮る?」
「撮るよ〜、だって可愛いじゃん」
─────
図書館に行った日は、うだるような夏日だった。
駅前で待ち合わせをしてから歩いた数分間で、二人とも汗だくになりながら、ようやく冷房の効いた静かな館内にたどり着いた。
「わー、涼しすぎて帰りたくなくなるね!」
「ほんと、それ。中に住みたいくらい……」
真夏が笑いながら腕を振ると、空気がゆるやかに揺れて、微かに彼女の香水の匂いが鼻をくすぐった。
木の匂いのする閲覧席に並んで座って、まずは夏休みの宿題を広げる。
「英語の読解、やばすぎる……動詞がどれかわかんない……」
「そこ、to不定詞じゃない?ほら、目的語になってるから……」
「……なるほど?流石は学年一の才女、やっぱ頭良いよね」
そんな会話を交わしながら、夏休みの宿題を片手間にこなして、たま冗談でも行ったりして、顔を見合わせては小さく笑った。
真夏は想像していたよりもお喋りで、しかも思っていたよりずっと、どんな話題にも興味を持ってくれる。
「ねぇねぇ、本棚行こ?小説コーナー見たい!」
「うん。じゃあ、一緒に……」
二人で立ち上がって、本棚の間をゆっくり歩いた。
静かなフロアに、控えめな足音だけが心地よく響いていた。
「花はどんな本読むの?」
「んー……ミステリーとか、青春ものとか……けっこう雑食かも」
「ふぅん。わたしはね、小学生のときに読んだ『モモ』って本が、すっごく好きだった。時間を食べる男たちが出てくるやつ」
「私も読んだことある!不思議な話だよね。あとちょっと切ない」
「そうそう。あれ読んでから、なんか時間って大事なんだな〜って思うようになった」
真夏はずっと楽しそうに、嬉しそうに話していた。
好きな本の話になると、いつもより早口になる彼女の姿は、どこか年相応の女の子らしくて、私はつい可愛いな、何て考えていて。
「あっ、これ知ってる!前に映画化されたやつだよね?」
「うん、でも映画はちょっと改変されてるんだよ。こっちの原作の方が好き」
「えー、気になる。借りてみようかな」
「じゃあ、私も真夏のおすすめ借りようかな」
「本当!?うーん、じゃあこれ!」
「へぇ、読んだことないやつだ。ありがと、楽しみ」
真夏が楽しそうな笑顔で差し出した本を受け取る。
それだけの時間が、なんだかとても嬉しかった。
図書館の帰り道、コンビニでアイスを買って、近くの公園でベンチに座って食べた。
「やっぱり抹茶最強説、あると思うんだよね」
「そうかな〜、でもこのラムレーズンも捨てがたいよ?」
「……一口もらってもいい?」
「え〜、しょうがないなぁ……あっ、そっちのも一口ね!」
笑い合いながらアイスを交換して、木陰の下で過ごした静かな午後。
特別なことは何もなかった。ただ本を選んで、話して、笑っただけ。
だけど、確かにそこには大切なものがあった気がする。
─────
そして、夏祭り。
浴衣姿の真夏は、信じられないくらい綺麗だった。
髪を複雑に結上げて、白地に青い朝顔があしらわれた浴衣。飾り気のないその姿に、私はほんの少しの間、見惚れていた。
「花、見て!金魚すくい!わたし、こういうの得意なんだよ?」
「ほんとに?負けた方がかき氷おごりで、どう?」
「えー、いいけど、後悔しても知らないよ?」
結果は惨敗だった。
私は金魚をすくうどころか、紙が一瞬で破れて何も出来ず、真夏は涼しい顔で三匹も金魚を取っていた。
「……強すぎない?」
「ふふ、見てた?コツがあるんだよ。内緒だけど」
「くっそ……じゃあ、はい、約束通りかき氷。何味がいい?」
「んー……花が一口ちょうだいって言ってきそうなやつにしようかな」
「じゃあ、一番シロップが甘いやつにしてよ」
そんな他愛のない会話が、やけに楽しかった。
夜が深まっていくにつれて、真夏のテンションは少しずつ落ち着いてきて、最後は神社の石段でふたり並んで座りながら、花火を見た。
「夏って、終わるの早いよね」
ふと、真夏が呟いた。
「そうだね。始まったばっかりな気がするのに、もう終わりって感じ」
「わたし、こういう時間が、ずっと続けばいいのになって思うんだ」
「……ずっと?」
「うん。なんか、ずっと、止まっててほしい。楽しいまま、変わらないまま、永遠に」
その横顔には、ほんの一瞬、寂しさが浮かんでいた。
この時の私はその顔の意味を、そんな顔も綺麗だなぁ、なんてどうでもいいことを考えて、深く考えようとしなかった。
「じゃあ、来年もまた来ようよ。今度はもっといろんな場所に、行けなかったとこにも行こうよ」
「……来年か。うん、そうだね」
真夏は笑っていた、何時も通り作り物みたいな綺麗な顔で。
夏休みの終わり、真夏が「泊まりに行っていい?」と言ってきたのは突然だった。
「最後に、ちょっとだけ花と一緒にいたいなって」
私はもちろん、断る理由なんてなかった。
─────
泊まりに来た真夏は何時もと同じ様に楽しそうだった、一緒にコンビニで買ったアイスを食べて、深夜に二人で映画を観て、歯を磨いて……。
「おやすみ」って言って、布団に入って。
何気ない夜のはずだった……。
夏休み最後の楽しい一日だった。
なのに、朝起きて、隣の布団の中には彼女の姿がなくって。
「……真夏?」
呼んでも返事は帰ってこなくって。
酷く心がざわついて、自分の部屋から出て廊下を見ても、トイレを見ても真夏はいなかった。
むしろ、いつもよりもずっと、静けさに満ちているように感じた。
何だか怖くなって、だから、ゆっくりと、リビングに繋がる扉を開けた。いつもの綺麗な笑顔でおはようって真夏が応えてくれるって信じて。
来栖真夏は、天井からぶら下がっていた。
天井の無駄におしゃれなデザイン照明の軸にしっかりと結んだロープの先に首を通して、視線の定まらない黒いガラス玉みたいな目をして、静かに、静かに、ゆらゆらと揺れていた。
「……はっ……?」
頭が真っ白になった。
声が出ない。
足が、動かない。
だけど、吐き気だけはすぐに襲ってきた。
部屋に撒き散らされた糞尿、色々な排泄物の異臭が鼻をつく、胃の中のものを全部吐いていた。
首を異常な方向に傾かせて、鬱血した赤黒い醜い顔が酷く怖くて、目を背けて、気づけば動かなかった足は駆け出していた。
心臓が早足に跳ねて跳ねて、足がもつれるのも気にせずに、逃げるように靴も履かずに玄関の扉を押し開けて外に出た。
何が起きたのか理解できなかった。いや、理解したくなかった。
だから、階段を駆け下りようとして、只々その場から逃げたくてたまらなくて走って走って、そして、足を滑らせた。
ガクンと視界が揺れて。
世界が裏返った。
耳の奥で骨が砕けるような気持ち悪い音が響いて、痛いとも思う間もなくて、私の全部が真っ白になって。
カチリと視界が切り替わった。
はじめに、小さな傷が目立つ古びた学習机が目に入って。
私はいつの間にか、騒がしく浮かれた声が響く教室で制服を着て、耳には蝉の声と一緒に学校の始業のチャイムが鳴る音が響いていた。
それは七月の終業式の朝。紛れもなく、あの日とまったく同じ、あの始まりの夏の朝だった。
─────Repeat−1
「鈴木さん、夏休み、一緒に遊ばない?」
それは確かに、同じ台詞だった。
七月の終業式の帰り道。制服のワイシャツに初夏の日差しが透けて、蝉の声が耳を埋めてくる。
そして、目の前にいたのは来栖真夏だった。
けれど私はそのとき一歩、後退るように距離をとった。
「……ご、めん。ちょっと、予定あって」
笑顔が張りついていた。引きつった不格好な顔の私だけじゃなくて、真夏の顔にも、あの綺麗で完璧な。
「そっか、残念だな」と言って、彼女はあっさりと笑って「じゃあね」って手を振って、去っていった。
これでいい。
今度は、彼女はきっと死なない。
あんなものを見なくて済む。吐かなくて、済む。骨が、砕ける音を聞かずに済む。
これで、何も起きない普通の夏が始まる。
─────
それから数日、私は徹底的に「普通」を演じた。
スマホの通知が鳴るたびに、無意識に来栖真夏の名前を探してしまう自分がいたけれど、そもそも連絡先を交換していないのだから通知が届く訳もなくて、画面をを見てはすぐに電源を落とした。
「……別に、遊ばないって言ったんだから。関係ないし」
呟いてみても、声にこもるのは自信じゃなくて、ただの確認だった。
現実味のない「死」の記憶と、それをなかったことにしようとする日常のせめぎ合い。
私は「普通」の中に逃げ込んだ。
─────
最初に遊んだのは、同じ文芸部の仲の良い友達の美咲たちだった。
場所は、駅前のカフェ。
「てか花、めっちゃ久しぶりじゃん。部活来なさすぎでしょ」
「ご、ごめん。ちょっと暑くてダウンしてたっていうか……」
「はー? お前さ、あたしと違って体力無いくせに身体も弱いんだから、ちゃんと水分取れよ」
「わたしは言い訳してサボってるだけに一票」
「ちょっ!?やめてよ、次からはちゃんと文集は参加するからさ!」
どうでもいい冗談を言い合って、注文したデザートを半分こして、誰が好きとか恋バナしたり、何のドラマが最高だったとか、くだらない話をして、笑った。
大丈夫、ちゃんと楽しかった。
全部、ちゃんと普通だった。
でも、私は心のどこかで何度もどこかに真夏がいないかと確認していた。
家に帰ると、リビングにはいつも通りの風景があった。
「おかえり、花。今日も暑かったでしょ、冷たい麦茶あるよ」
「……ありがと、お母さん」
母はエプロン姿でテレビの料理番組を流しながら、夕飯の支度をしていた。
父はまだ仕事で、弟は自分の部屋に籠もってゲームか動画か何か。
どこにでもある家族の、どこにでもある夏の日。
「今日の夕飯はねぇ、花の好きな餃子だよ」
「そっか……嬉しい」
なんでもないみたいに話題を打ち切って、コップから麦茶を飲んだ。
お茶の味が薄かったのは、私の舌が馬鹿になってたせいだと思う。
きっと、そう。
夜になって、自室で扇風機を中に設定して、寝転びながら天井を見つめる。セミの声が、網戸越しにじわじわと染み込むように部屋に入り込んでくる。
どこかで、同じように夜を過ごしている真夏を思う。
彼女は今、どこで何を考えてるんだろう?
けど、もう関係ない。
関わらなければ、きっと彼女は死なない。
私は彼女を助けることなんて出来ない、だからただ関わらなければいい、それだけのこと。
……そう自分に言い聞かせるほど、なぜか胸の奥がずっとざわついていた。
─────
数日後、同じクラスの友達の陽向に誘われて、ショッピングモールに行った。
「花、今年は水着どうする?あたし新しいの買おうかなって思っててさ!」
「え、そっち系の予定あんの?」
「ないけどさぁ、買っとけばそのうちチャンスも来るかもだよ!願掛けだよ、願掛け!」
「あはは、前向きだねぇ陽向……」
「そういえばさ、来栖さんの噂聞いた?彼氏が出来たって噂!」
笑いながらそう言われて、一瞬、心臓が止まりそうになった。
「……え、そ、知らない……けど」
「そっかー、やっぱああいう美人って、同じ空間にいるだけで場が変わるっていうか。なんか、別の世界の人だよね!」
「……うん、別の世界、かもね」
「そんな来栖さんを射止めた男って気になったりしない!?」
「い、いや……あんま詮索するもんじゃないでしょ、そういうのはさ」
口元だけで笑って返したけれど、胸の中にずっと引っかかっているものが、ますます取れなくなっていた。
何をしてても、誰といても、真夏のことが頭を離れない。
あの日、あの夏の終わりの朝、リビングで見た光景は、夢みたいに現実感がなくて。
それでいて夢とは違って、鮮明に記憶の芯にこびりついている。
でも……それでも、私は普通に生きることができる。
来栖真夏とさえ、この夏に関わらなければ。
……そう信じていた。
─────
八月の終わりが近づいていた。
陽射しはまだ容赦なく照りつけているけれど、夕方の風には少しだけ秋の気配が混じり始めていた。
セミの声も、最初の頃に比べると数が減って、代わりに草むらから聞こえる虫の声がちらほらと混ざっていた。
そんなある日、私は家族と一緒に近所の夏祭りに出かけることになった。
「たまには家族で出かけようよ、ね?お父さんも行きたがってるんだから」
「俺は別に……いや、まあ、行ってもいいけど」
「お父さん、口下手なんだから。ほら、花も行こう?」
母に押し切られるような形で私は浴衣を着せられて、下駄を履かされて、祭りのために飾られた提灯の明かりがぽつぽつ灯りはじめた参道を家族と一緒に歩いていた。
それは間違いなく、誰もが平和だと、普通だと呼ぶ風景だった。
焼きそばの匂い、リンゴ飴の鮮やかな赤色、はしゃぐ子どもの声、型抜きを失敗して舌打ちする学生達。
昔から変わらない、夏祭りの雑多でにぎやかな空気。
「あっ!花!あっちに金魚すくいあったよ!行こう?」
「あ、うん……行く」
弟の言葉に応えて、何気なく歩き出した、その時だった。
視界の端、屋台の明かりの下で、人だかりの間を抜けて歩いていた一人の少女が目に入った。
浴衣姿。白地に涼しげな藍色の模様。髪を結い上げて、艶やかなうなじがすっと見えている。
来栖真夏だった。
驚きよりも先に、なぜか胸がずきっと痛んだ。
彼女は笑っていた。
知らない男の子と一緒にいて、その男の子と笑い合って、カラフルなわた菓子を手にして、軽口を交わして、笑って、笑って、笑っていた。
あの笑顔は、私に向けられたものじゃない。
私が知らない世界で、知らない誰かと、知らない夏を過ごしている彼女の笑顔だった。
それは、私が最初の夏で確かに触れた笑顔とまったく同じで。
同時に、どこまでもに遠く感じられた。
「……何やってんだろ、私」
ぽつりと呟いた声は、誰にも届かない。
私があの時、誘いに乗っていたら。
私がもっと、ちゃんと話していれば。
でも、私は自分を守ることしか考えていなかった。目の前に現れた真夏の姿をした恐怖から、目を背けて逃げ出しただけだった。
彼女は楽しそうだった。まるで、自殺前の人間なんかじゃないみたいに。
だけど、私は知っている。
来栖真夏は、この夏の終わりと一緒に、死ぬ。
家に帰ってからお風呂に入って、歯を磨いて、いつもと同じ時間にベットに入っても胸が苦しくて、息苦しくて眠れなかった。
体は疲れているはずなのに、目だけがギラギラと冴えていて、布団の中で汗をかきながら、ずっと天井を見ていた。
スマホを開いて、SNSを検索してみる。
来栖真夏という名前。
何も出てこない。けれど、それが返って不安を増幅させる。
気づけば明け方だった。
鳥の声が聞こえ始めて、窓の外がぼんやりと明るくなっていく。
私の中では、もう確信に近かった。
このまま、私は何も知らずに、何も出来ないまま、また夏の終わりを目にすることになるのだと。
そして、夏が終わった。
─────
始業式の日、体育館に集まった生徒は少しだけ浮ついた空気に包まれていた。
久しぶりの制服。汗ばむシャツ。久し振りの学校の空気。休みの間に焼けた肌を見せ合う女子。
それは、何もかもがいつも通りの学校の風景だった。
午前中はずっとホームルームと全校集会とで潰れて、皆がそれぞれに怠そうに壇上に上がった校長を見ていた。蝉の声は、相変わらずうるさくて、でも少しだけ音量が下がっていた気がした。
そして。
「三年二組の生徒、来栖真夏さんが、夏休み中にお亡くなりになりました。詳細については…………」
耳が、音を拒んだ。
それでも段々と頭の中で言葉が、音としてではなく意味として形を持っていく。
体育館の空気が一瞬で凍りつく。誰も声を出さない、呼吸すら忘れたように沈黙する。
私は、ただ椅子の上で背筋をまっすぐに伸ばしたまま、両手を膝の上に置いて、うつむくことも、顔を上げることもできなかった。
脂汗が首筋を伝っていく。
誰かが「あの子、夏祭りで見かけた」と囁く。
誰かが「事故かな……」と呟く。
そのどれもが、遠くで鳴る雑音みたいにしか届かなかった。
なんで。
どうして、あんなに笑ってたのに。
なんで、死ぬんだよ。
理由は何なんだよ。
考えちゃダメだと思った。けど、もう止まらなかった。
私と一緒に過ごした夏じゃなくても。
私の知らない誰かと笑い合った夏でも。
彼女はやっぱり、最後には、死ぬ。
それが、どうしようもなく、許せなかった。
あの時、私は逃げた。
助けることも、知ろうとすることも、全部放り投げて。
それが、唯一の正解だと思い込んで。
けれど、結果は変わらなかった。
─────
その夜、私はひとりで家のマンションの屋上で空を見ていた。
吹き抜ける夜風は、夏の残り香と、秋の気配を一緒に運んできた。
鉄柵を越えて、空を見上げる。
星が、滲んで見える。
「……ねえ、真夏。あんた、一体何なんだよ……」
涙のせいか、怒りのせいか、呼吸が乱れて、胸の奥が締め付けられる。
「……わかんないよ……。なんで死ぬの。なんで、あんなに笑ってたのに、死んじゃうの……っ」
私には、もう普通の夏なんていらなかった。
来栖真夏が、笑ったまま、死んでいくその理由を。私が知らないままでいる、その結末を。
どうしても、許せなかった。
恐怖に震える両足に力を込める、また戻れるかなんてわからなかった。
でも、こんなクソみたいな思い出のまま、この夏を終わらせるのだけはいやだった。
だから、私は一歩、普通の縁から前へ踏み出した。
─────
教室に差し込む容赦のない日差しが、視界を焼いていた。
それは、また始まる特別な夏の朝だった。
─────Repeat-2
また、来栖真夏が笑っている。
教室の窓から差し込む強い陽射しに、白いワイシャツの袖が透けて見えた。終業式が終わり、生徒たちは夏休みの解放感に浮かれていたけれど、私は一人、その中心から少し離れた場所で、来栖真夏の笑顔を見つめていた。
……また、だ。
これで三度目。また、夏の始まり。
私は、返事の仕方をもう知っている。
「……いいよ、遊ぼう。どこに行きたいの?」
そう口にすると、真夏は目を細めて笑った。
綺麗な、完璧な笑顔だった。でも私は、その笑顔がほんの僅かにズレていることに気づいていた。喜びの反射ではなく、演じるような笑み。心からのそれじゃない。
この夏の終わりに、彼女は死ぬ。
何もしなければ。黙っていれば。
私は、もう知っている。
だから、私は見張るように彼女の隣にいた。真夏の心の奥底を、どうにか知ろうとしていた。
─────
最初は、映画館だった。
話題の青春映画。誰かが誰かを助けて、何かを守り抜く、王道のストーリー。私が抱えたポップコーンを取ろうとした真夏は、冒頭で私の膝の上に追いがけしたバターソースをこぼして「わっ、ごめん!」と小さく叫んだ。
「服ついちゃった?あー、だいじょうぶ?」
「大丈夫、大丈夫!洗えば取れるし」
そう笑って返したけど、その後の真夏はずっと静かだった。
エンドロールが流れても、感想を聞いても「楽しかったよ」としか言わない。その口調は、どこか遠くを見ているようで、うわの空だった。
「映画、微妙だった?」
「ううん!良かったよ。……でも、ああいう誰かが誰かのために頑張る話って、なんか、ちょっと」
「どうして?」
問いかけると、真夏は小さく首を傾けたまま、答えなかった。
理由は、話さない。
……あるいは、話せないのかもしれなかった。
─────
ある夜、私たちは公園にいた。
昼間の暑さが残るアスファルトの匂い。ベンチに並んで座って、コンビニで買ったアイスを食べながら、ぼんやりと夏の夜空を見ていた。
人の喧騒は遠く、代わりに虫の声が支配する闇の中。切れかけた電灯の光がチカチカと時折、明滅しながら真夏の横顔を照らして、その輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
「花はさ、将来の夢とかある?」
突然、真夏がそんなことを聞いてきた。
「……小説家、かな。一応。でもまあ、たぶん無理だと思うけど」
「へえ〜、いいじゃん。なんか似合う」
「……ありがと。真夏は?」
その問いに、真夏は一瞬、考えるように目を伏せてから、アイスの棒をゴミ袋に捨て、勢いよく立ち上がった。
「秘密っ」
「……ずる」
「秘密は女を素敵にするのさ、って言うじゃん。……ごめんね」
その「ごめん」は、何に対するものだったのか。私は聞き返せなかった。きっと、聞いても答えてはくれなかったと思う。
図書館では、真夏がふざけて本棚の陰から急に顔を出してきて、私は思わず声を上げそうになった。
「びっくりした?」
「おまっ……!ここ図書館だってば!」
「花、真面目~」
笑いながら「こっちに探してた本あったよ!」と言って小走りで前を行く彼女をゆっくりと追いかけながら、私はふと、思った。
この人は、こうして笑っているときでも、きっと内側ではまるで違うことを考えているんじゃないか、と。
手を伸ばしても届かない。そんな透明な壁を、会うたび、感じていた。
遊びに誘われるは場所は、前と同じ場所もあれば、違うところに行ったりもした。
でも、どれもがちゃんと前とは違っているように思えた。
儚くて、濃密で、痛かった。
私は、真夏の言葉、仕草、笑い声、黙るタイミング、視線の揺れ、息をつく癖まで、すべてを焼き付けるように、記憶に刻んだ。
これは遊びじゃない。
彼女が自殺に至る理由を突き止めなければ、何度繰り返しても、結果は変わらない。
でも、それでも、楽しかった。
悔しいくらいに。
ムカつくくらいに、特別な時間ばかりだった。
─────
ある日のことだった。
図書館からの帰り道、その坂道を歩きながら、私は何気なく聞いてみた。
「ねえ、真夏はさ」
「ん?」
「……終業式の日にさ、なんで、私を遊びに誘ったの?」
前の一緒に過ごした夏、同じ質問はできなかった。
あの時はただ、驚いて、戸惑って、流されていた。
でも今度は違う……私は聞かなきゃいけない。あの日、彼女が最初に私に声をかけた理由を。
真夏は、ほんの一瞬、足を止めて考えるような仕草を挟んでから、何時もと同じ様に綺麗に笑って言った。
「そうだね、花が一番、暇そうだったから」
「……それ、今も思ってる?」
問い返すと、真夏はきょとんとした顔をして、それから小さく笑った。
「どうだろうね?」
その笑顔は、ふわふわと軽くて甘くて。
だけど、どこにも触れられない雲のようで。
まるで綿菓子のみたいに、私の手の中で溶けていった……。
私の言葉は、また彼女の外側を撫でるだけだった。
─────
近づこうとすればするほど、拒まれる感覚があった。
私が家族の話を振れば、真夏は自然に思える様に上手く話題を逸らした。
将来の夢を尋ねれば「秘密」とだけ言って笑う。
私はいつも、そこに数秒の間を感じ取っていた。
そのわずかな沈黙が、確かに嘘をはらんでいた。
真夏は、自分のことを見せようとしない。
見せないまま、綺麗に笑って、楽しそうにして、それでも心のどこかはずっと堅く閉ざしたままで……。
私の差し伸べた言葉は、どれも芯をすり抜けていくような空虚さがあった。
この人は、本当に、自分のことを誰にも見せてないんだ。
最初は、それが怖かった。
今はもう、ただ、悔しい。
「だったら、なんで私に声をかけたの……?」
慣れ親しんだ蝉たちの声と、扇風機の羽が空を切る音を感じながら、夏の夜の湿気に満ちた自室で一人つぶやく。
なんで誘ったの?なんで私に近づいたの?最初から、関わらないでくれたらよかったのに。
心のなかでも、何度も何度も繰り返した疑問。
近づいてきたのは、彼女のほうだった。
それなのに、近付こうとすると避けられる、触れようとすると、いつも、逃げていく。
まるで野良猫みたいだ。
私は、知らなきゃいけないのに。
どうして真夏が死を選んでしまうのか、その理由を。
それでも、日々は過ぎていった。
繰り返しの中で、私の感情だけが積み重なって厚みを増していく。
─────
そして、八月の終わりが近づいたあの日。
真夏と夏祭りに行った。
いつもと同じ場所。
三度目の夏祭り。
参道を一緒に並んで歩く、隣を見れば真夏は前と変わらず白地に藍い朝顔が描かれた浴衣を着ていた。
髪は複雑に、しかし綺麗に結われていて、耳元の小さな飾りが揺れていた。
いつか見惚れたのと同じ、何一つ変わっていないように見える笑顔で、祭りを楽しんでいた。
私はなぜか、そんな何も変わっていない真夏に緊張していた。
心がざわざわして、さっきまで楽しかった気持ちが、どこかへ飛んでいった。
「……花火、綺麗だったね」
「うん……」
並んで歩く。
手には、焼きそばやたこ焼きのゴミが入ったビニール袋をもって。
終わりを迎えようとしている露店の光が、ふたりの影を押し出すように揺らしていた。
このまま夏が終われば、また真夏は……。
違う、今度は違うんだ、私が変えるんだ、絶対に。
じゃないと、戻ってきた意味なんかないのだから……。
何も変わらない真夏に、私の心の焦りだけが先走っていた。
─────
人混みを抜けて、駅へ続く広場の階段を上っている時だった。
前を歩いていた真夏が、バランスを崩した。
「あっ」
彼女の体がふらりと傾く。
私は反射的に手を伸ばして、真夏の腕を掴んだ。
「危ないっ!」
押し倒される様に体勢を崩した私は、真夏を抱き寄せるようにして、そのままふたり一緒に階段を転げ落ちた。
頭が回る。足がぶつかる。視界が揺れる。
打ち身の痛みが肌に走る。
でも、それだけだった。
骨も折れなかった。誰の命も、落ちなかった。
私の腕の中で、真夏が目を開けた。
そして、信じられないものを見るような顔で、ぽつりと呟いた。
「……なんで、助けたの?」
「……なんでって、勝手に、身体が動いただけだよ」
真夏は黙ったまま、目を伏せた。
その頬に、汗とも涙ともつかない光が滲んでいた。
ほんの少しだけ。ほんの、わずかに。彼女との距離が、近づいたような気がした。
予感を感じた、少しだけ真夏の芯に触れられた気がした、だから。
真夏の家に続く帰り道、その坂道をふたりでゆっくりと登りながら、私はずっと真夏に言っておきたかったことを声にした。
「ねぇ……首吊り死体ってさ、めちゃくちゃ汚いんだよ。知ってた?」
「……知ってるよ」
そう答えた真夏の顔は、あの夏の終わりの日に見た顔と重なって見えた。
知ってて、あれを選んだのか。
あぁ、この人は、心の底から、本気で、死にたいんだ。
これだけ一緒に遊んでも。
どれほど楽しそうに笑っても、話しても。
彼女の心の扉は閉じたままで、まだどこにも触れられてなんていなかった。
私は、また閉じた扉の表面だけをなぞっていた。
だったら、どうすればいい?
私はどうすれば、真夏を止められる?
秋を告げる夜風が、夏の空を静かに引き裂いていた。
「……ねぇ」
「ん?」
「来週……真夏の家に、泊まりに行ってもいいかな。夏休み、もうすぐ終わっちゃうし」
私の声は震えていた。
自分でも気づいていた、これはただのお願いなんかじゃない、懇願だった、祈りだった。
これ以上、真夏の本当を知らずに終わらせたくなかった。
真夏は、少しだけ驚いた顔をして、それから笑った。
「……いいよ」
その笑顔は、いつもと同じようで。
ほんの少しだけ、違って見えた。
─────
夜が、やけに静かだった。
真夏の家に泊まるのは、これが初めてだった。
同級生としては十分に親しい距離。だけど、友達としては、どこか不自然な距離。
外はまだ蒸し暑く、それでも真夏の部屋はひんやりとしていて、妙に静かだった。空調の低い稼働音だけが、人工的にこの空間を満たしている。
来栖真夏の家は街で一番背の高いマンションの最上階。非現実的なほど静まり返ったその部屋の中で、私は言葉を失っていた。
リビングから続く廊下の先にある部屋、真夏の私室。
部屋は整っていた。というより、整理されすぎていた。
壁に貼られたポスターもなければ、趣味の小物もない。
何も置かれていないシンプルな勉強机と教科書類を仕舞っているであろう三段式の引き出し収納。
そして女子高生の服を納めるにしては小さなタンスだけ。ベッドはシーツすら綺麗にはられていて、生活感というものが失われたていた。
まるで今日にでも人がいなくなる準備を終えた病室のようだった。
今日は真夏の両親は留守らしかった。
ふたりしかいないその世界で私はただ、綺麗な部屋の中にぽつんと立ち尽くしていた。
感じる違和感の正体を、まだはっきりとは言葉にできないまま。
「花、お風呂、先に入ってきていいよ」
「……うん。ありがと」
返事をしながら、私はその笑顔に怯えていた。
完璧だった。整っていて、どこにも綻びがない。
それが、怖かった。
湯船に浸かりながら、私は真夏のことを考えていた。
三度目の夏。真夏は何も知らずにいつもの夏を過ごしている。でも、その笑顔の奥に何があるのか。彼女が何を隠しているのか。私はまだ知らない。どれだけ一緒にいても、近づいた気がしない。
それでも、今回は私から真夏の家に泊まりに来た。
自分の意志で。
逃げずに、踏み込むために。
─────
夜十一時過ぎ。
布団を敷いて、ベッドの横に並べた。互いに背を向けたまま、私たちは言葉もなく寝転がっていた。部屋の明かりは落とされ、壁の輪郭だけが月明かりに照らされて、うっすらと見える。
無機質な壁に目をやりながら、私はただ真夏の寝息を聞いていた。
静かだった。規則正しい呼吸音。それだけが、この部屋の中で確かに「生」を感じさせるものだった。
でも私は、その静けさに締めつけられていた。
あの寝息は、明後日にはもう、聞こえなくなる。真夏は、また死ぬ。何もしなければ、いや、何をしても、この夏の終わりには彼女の命が失われる。
逃げてもダメだった。関わらなくても変わらなかった。
今、私は隣にいて、ようやく少しだけ近づけた気がしている。けれどそれでも、彼女の心には届かない。
どうしたら、真夏を止められる?
私には、まだわからない。
だから私は、静かに名前を呼んだ。
「ねぇ、真夏」
声をかけた。眠っていると思っていたその背中が、ぴくりと動いた。
「まだ起きてるの?」
「……うん」
真夏は病人の様にゆっくりと身体を動かして仰向けになる。目だけが、じっとこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「……なんでもない。ただ……ちょっと、眠れなくて」
本当は、聞きたいことが山ほどあった。
どうして死のうとしたのか?いつから考えていたのか?
家族のこと、友達のこと、私をどう思っているのかってこと。
だけどそのすべてが、今ここで口にするには私と真夏の繋がりはあまりにも脆くて……。
それを壊してしまったら二度と戻らない気がして、私は何も言えなかった。
真夏はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、また背を向けた。
私はその背中を見ながら、まるで自分が何かから振り落とされていくような感覚に襲われていた。
─────
真夏が寝静まるのを確かめてから私はゆっくりと布団から抜け出した。
そして真夏の勉強机の一番下の引き出しを音を立てないように開けた。
この部屋には他に物を隠しておくような場所はないから、探していた物を見つけるのは簡単だった。
机の引き出しの奥にあった、未使用のロープ。
そして、まだ誰にも渡されていない、封もされていない折り畳まれただけの手紙、遺書だった。
それらを持って部屋を出た。
指も足も震えていた。
リビングのソファ端に腰を掛けて遺書を開いた。
それは少し乱暴な字で書かれていた。でも、しっかりと綺麗さがあって几帳面な、いつか見た彼女の字だった。
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『 綺麗って言われるのが、ずっと怖かった。
褒められるたび、認められるたび、笑顔を向けられるたび。
何かひとつずつ、私じゃない何かが形になっていった。
優しくて、賢くて、清潔で、整っていて、完璧で、傷ひとつない来栖真夏。
そういうふうに見られることに、嫌だって思ったことはない。
むしろ、嬉しかった。
誰かの期待に応えることができたなら、それでよかった。
それで、私の価値はあるんだって思えたから。
でも、誰も見ていなかった。
私が、どうして笑っているのか。
私が、なぜ平気なふりをしているのか。
本当は、ただ、自分が何者なのか知りたかっただけ。
誰かの理想をなぞるように生きて、そこに私はいるのか、それすら曖昧になって。
気がついたら、自分がいなかった。
誰かの隣にいるときも、誰かに名前を呼ばれるときも、それは綺麗な私であって、私じゃなかった。
もう疲れました。
綺麗に笑うのも、黙って傷を隠すのも、わかってるふりをするのも、全部。
本当の私は、ずっとここにいたのに、誰にも見つけてもらえなかった。
見つけてほしかった。
見つけてほしかったんです。
でも、もういいんです。
きっと、誰でもよかった。
きっと、誰でも駄目だった。
これは誰のせいでもないし、誰かに読んでほしいとも思わない。
ただここに、私がいたという証を残します。
綺麗な名前と、綺麗な顔と、綺麗な言葉に、押し潰されて死んだ、誰でもない私がいたという証を。
どうか、誰も気づかないでください。
さようなら』
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矛盾する言葉が、ところどころで重なり合っていて、もう何が本心なのか、本人ですら分からなくなっているように感じられた。
私はただ、その文字を何度もなぞるように読んだ。
そのたびに、心のどこかが軋んだ。
私には、真夏を救う力なんてなかった。
綴られた文字が、嫌と言うほどその現実を見せつけてくる。
「……ふざけんな」
同時に、心の底からイラついた。
だってこの手紙は誰に宛てられたものでもなかったから。
こんなにも「わたしを見つけて」って叫ぶみたいなこと書いておいて、真夏は誰のことも見てなかった。
真夏は私を見てなかったんだ。
私が死んだら、この夏はまた繰り返すのかもしれない。
いや、もしかしたらこれが最後のチャンスで、次なんて無いのかもしれない。
もし、次があったて、きっと何も変わらないままで、また一からやり直し。
そんなことは、もうどうでもよかった。
私はただ「私を見ろ」って伝えたかった。
あんたが友達とも思ってない私は、死んでも諦められないくらい、あんたを知りたいんだって、真夏が理解するまで喚き散らしてやりたかった。
でも、言葉だけじゃ、きっと伝わらない。
だから私は決めた。
─────
明け方、眠る彼女の布団の隣に、手紙をを置いた。
真夏の遺書の裏側を使って書いた、真夏宛の手紙。
ただ短く、そこに残した。
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『ありがとう!夏休み楽しかった、また誘ってね!
追伸
真夏の笑顔、綺麗すぎて実はずっと苦手でした』
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遺書とも言えないそれを置いて真夏の部屋を後にする。
それで良かった、だってこの手紙は遺書なんかじゃないから。
これが、私が思いついた真夏に私を見てもらうための唯一のやり方だから。
リビングの窓の外は、もう薄明るくなり始めていて。
朝を告げる鳥の声が、遠くから微かに聞こえていた。
椅子を引き、ロープの結び目を確認し、首に通す。
真新しい記憶の端に、まだ眠っている真夏の輪郭があった。
綺麗な寝顔だった。
そして、初めて見た真夏の死体の顔を思い出す、私を終わらない夏に閉じ込めたあの日を。
今度はあんたの番だ……。
そんなことを思いながら、私は深く息を吐いた。
最後にひとつ、静かな部屋に呟いた。
「首吊り死体ってめちゃくちゃ汚いから、覚悟しろよ」
椅子から脚を離した。
一瞬、宙に引っ張られる様な感覚がした後、首から鈍い嫌な音が聞こえて、次には全部の音が消えて。
暗闇が思っていたよりもゆっくりと、私を飲み込んだ。
─────Repeat-3
朝、蝉が鳴いていた。
途切れることなく続くその声は、まるで空気にひび割れを入れるように、部屋の窓を貫いていた。
目覚ましが鳴り、鈴木花は目を開ける。
カーテンの隙間から差し込む光は、曇りのない夏の青空を反射して、部屋の中に差し込んで、花の顔を焼いていた。
彼女はベッドの上でしばらく天井を見つめ、静かに息を吐いた。
まるで、そこにある空気を噛みしめるように……。
─────
夏使用の制服に袖を通し、髪を結い、鏡をのぞく。
そこに映る自分の顔が、昨日と同じであることに安心するでもなく、失望するでもなく、ただ、静かに見つめていた。
─────
通学路。
いつもの道。
いつもの信号。
いつもの交差点に、何処か見覚えのある通行人たち。
変わり映えしない風景の中に、花はぽつんと立っていた。
けれど花だけが、その風景をどこが懐かしむような目で見ていることに、誰も気づかない。
学校の門をくぐり、教室に入り、終業式前の浮ついた喧騒の中に混ざる。
話し声、笑い声、夏休みの予定をたてる楽しげな声。
全部が、どこか遠くの音のように聞こえている様だった。
けれど、花はちゃんと頷き、笑い、言葉を交わしていた。
それは別に演技という訳ではなく、ただ、今この世界にいる自分を確かめているようで……。
当たり前の日常を過ごしているようだった。
「ねぇねぇ!花!夏休みどこ行く?」
「あー、ごめん。ちょっと予定があって、今年は遊べないかも」
「えー!なんでぇ!」
─────
終業式のチャイムが鳴る。
体育館での集会が終わり、終業を告げるチャイムの音を背中に受けながら、花は昇降口へと向かう。
鞄を肩にかけ、いつものように校舎を出たその時。
「……は、花」
その声に、花は立ち止まって、慣れたようにゆっくり振り返った。
いつもと同じ様に、そこには真夏が立っていた。
来栖真夏が、見たことのない不安そうな顔で、そこに居た。
制服のスカートが風にゆれて、初夏の太陽の中で真夏の影が地面に揺らでいた。
「夏休み、遊べる?」
何度も聞いた言葉。
何度も繰り返された問いかけ。
けれど花は、まっすぐ真夏を見て、今までとは違う声で、はっきりと答えた。
「……遊べるよ。今度こそ、最後までね」
その言葉に、真夏は一瞬だけ目を見開き、そして、へにゃりと不格好に笑った。
まるで、初めて笑顔を作ったみたいに、慣れていない事をするかのように。
そしてまた、夏が始まった。
同じようでいて、どこかが確かに違う。
きっと本当の意味で二人が過ごす、その何も特別なんかじゃない、普通で当たり前の。
高校最後の夏休みが。
『よい夏休み』
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こちらはハーメルンにて分割投稿したものを一括にまとめたものです。