第四章 乙ヶ部
彼はこう考えていた。
すべての命あるものは、例外なく破滅に向かっている。
命を持つもの、つまり生物はその誕生から死までの間、自己を維持するために、外部からエネルギーを取り入れて体内で消費する。その生命活動の中で、生物の個体はそれぞれに生殖を行って新しい個体を生み出す。そして、いずれは機能停止を余儀なくされ死に至る。
死、すなわち破滅。
ヒトもまたしかり。人間の場合、社会的慣習やモラルといった複雑な概念に大きく影響を受けるが、本質的には何も変わらない。
人は様々な知恵を身につけ、膨大な知識を学習しながら成長を続ける。思春期を迎えると恋をして夢を抱き、理想と現実の狭間で試行錯誤を重ね、やがて成熟期を迎える。ある者はささやかな名誉を手にするために生涯を捧げ、ある者は富を築くために自分を偽り、ある者は権力と引き換えに悪魔に魂を売る。そうして自らの置かれた境遇に翻弄されながらも、人々は結婚をして子を作り、幸福というまやかしに浸って安堵する。そして子に望みを託すことで、老いていく我が身への失望と何とか折り合いをつける。
すべて、破滅する過程にすぎない。
当然、生み出された新しい命もその瞬間には滅びはじめているのだから、結局は破滅のサイクルが延々と繰り返されることになる。仮に、時を超えて永遠に存続する命があるのだとすれば、それはもう、その時点で破滅している。無限であるということは、同時に無でもあるからだ。そして破滅の先に別天地があるわけでもなく、朽ちた命が崇高なものへと昇華することもない。そこにあるのは、やはりただの無だ。
誰かが彼に言った。
自分がこの世に存在している理由を見出せ、と。
彼には全く理解できなかった。ただ滅んでいくだけの存在が、それ以上の理由を求めて何の意味があるのだろう? ありもしないものを捏ね上げ表面を取り繕ったところで、それはただの自己欺瞞ではないのか。無理に理屈をつける必要性など全くない。あまりにも滑稽で愚かしい。人々はなぜ、詭弁を道理として容認し、矛盾に満ちた世界を作り上げ、自らを正当化するために虚像を追い求めるのか。
彼は不思議で仕方なかった。
彼は今、打ち捨てられた植物園にいる。
なだらかな丘の上にロータスを止め、フロントガラス越しの景色を運転席で静かに眺めていた。周囲は様々な木々や草花が見渡すかぎりに広がり、混じりけのない新鮮な空気が充満している。
彼は週末になると必ずここを訪れ、無数の命に満ち溢れたこの場所で、様々な命が朽ちていく様をただ傍観していた。むろん、木々や草花が次々に枯れていくわけではない。一日中眺めていたところで、おそらく人の目には何の変化も捉えることはできない。それはとても長い時間をかけて、ゆっくりと着実に失われていく。しかしそれでも彼は、朽ちていく命をしっかりと実感していた。
彼が週末以外の日にどこで何をしているのかは誰も知らなかった。もしかすると、彼自身も知らないのかもしれない。あるいは彼は、永遠に続く週末の中にいるのかもしれない。確かだと言えるのは、彼がここいる時は必ず週末であって、そして彼以外には誰もやって来ないということだった。
ロータスの正面には、この一帯でひときわ目立つミモザの木が立っている。
黄色いポンポン状の花房を樹冠一杯に広げて、見るからに生命を発散させながら誇らしげにそびえている。だが、この鮮やかに咲き乱れるミモザの木も、いずれは色あせて枯れ果て、やがて土に還る。
彼はその様子をここでじっと見守っているのだった。
ふと、見知らぬ三人連れが彼の目にとまった。
いつからそこにいたのか、三人連れはロータスの十メートルほど先に立ってミモザの木を見上げていた。ひと組の夫婦とその娘、三人は家族のようだった。
ここに人が現れたことなんて今まであっただろうか? 彼は記憶を探ってみるが判然としない。数え切れないほどの人間がここを訪れた気もするし、今日まで未踏の地だった気もする。
三人はミモザに近づいて幹に触れ、手を伸ばして指先で花房を撫で、ミモザの周りをひと回りしてから元の場所に戻り、再び樹冠を見上げた。
来訪者の様子を注意深く眺めていた彼は、運転席のドアを開けてロータスを降りると、ゆっくりとした歩調で三人に近づいて行った。
――こんにちは。
彼が声をかけると、彼の存在に気づいた父親が挨拶を返し、母親も彼の姿を認めて会釈した。
父親が彼に話しかける。
――やあ、これは、じつに見事なミモザですね。これほど立派に花をつけているものは中々お目にかかれない。見惚れてしまいますよ。
彼が同意してうなずくと、父親は話を続けた。
――ここにはよく来られるんですか?
――ええ、週末はいつもここにいます。
――そうですか。それにしても、こんな所にこんな植物園があったなんて、今日まで気がつきもしませんでしたよ。いつも通りがかってるはずなんですがね。
――ここはあまり人に知られていない場所のようです。
――なるほど。どうりで、ほかに誰も見当たらないわけだ。
彼と父親はしばらく談話を続け、時折母親が相づちを打っていた。一方、娘はミモザには大して興味もない様子で、その辺りを退屈そうに歩き回っていた。
平穏な日々を過ごす平凡な家族。彼の目にはそう映った。世間一般で言うところの、幸せな暮らしを型通りに実践しているのかもしれない。しかし彼は、この三人がまるで疑いもなく安穏として日々を過ごしていることに、どうにも釈然としないものを感じた。
母親が彼の横に来て言った。
――本当に素敵な場所ですね、ここは。
――ええ、まったくです。
――いつもひとりでいらっしゃるんですか?
――いつもひとりです。
――今度、恋人を連れて来るといいですよ。きっと喜びます。
――残念ながら、そういう相手はいないんです。
――そうですか、それは寂しいですね……。
母親との会話が途切れると、彼はロータスの窓を覗き込んでいる娘のところに行った。
彼がそばに寄ると、娘は窓越しに車の中を指差した。
――あれ、可愛いね。
彼は腰をかがめて車内を覗き込み、娘が何に興味を示していたのかを確かめた。そして娘に向き直り、ひとしきりその顔を眺める。
――欲しいならあげるよ。いるかい?
――いいの?
彼はロータスのドアを開けて、後部座席に転がったそれを娘に手渡した。
――ありがとう。
娘はにっこりと微笑んで礼を言うと、受け取ったカンガルーの縫いぐるみを抱えて父親に駆け寄った。
――パパ、見てこれ、あの人にもらっちゃった。
彼はロータスのボンネットに腰かけて、しばらく三人の様子を観察した。
この三人を結束させているもの、それは極めて不確かな何かだ。ほんの僅かな力を加えるだけでいともたやすく分断されてしまう、ひどく脆いもの。それはきっと、人々が絆と称する何か。
彼は足元の地面に生えた若草を指先でつまみ取る。すると茎がぷつりと千切れる。これで根が地中から吸い上げる養分は行き場を失い、じきに若草は朽ち果てる。機能停止。二度と元には戻らない。
三人の結束は、この程度の微弱な力で崩壊する。
彼はそう考えた。
母親がにこやかな顔で彼に近づいてくる。
――娘に素敵なプレゼントをありがとうございます。娘はとても喜んでます。
――ええ、彼女によく似合ってると思います。
――お礼のついでで申し訳ないんですけど、写真を一枚お願いできますか?
母親は愛想よく笑いながら、小型のデジタルカメラを彼に差し出した。
――もちろん、構いませんよ。
彼は快く応じてカメラを受け取る。そして、彼の指先が母親の手に触れた時、母親の目に何かが揺らいだのを彼は見逃さなかった。
ミモザの木の下に三人が並び、彼はカメラを構える。
ファインダーから覗く小さな四角いフレームの中で、三人はそれぞれに満足げな表情をたたえている。
鷹揚な人となりに病的なエゴを潜ませる父親。
鬱積した欲望を抱えたまま満たされない日々を送る母親。
二人の血を引く無垢な娘は、この先際限なく世界に穢され、ヒトに穢されていくのだろう。
この家族が破滅していく様を見届けたいと彼は思った。
それは衝動とも言える本能的な欲求で、彼の中に初めて生じた飢えであり、渇きでもあった。
彼は自分を強く駆り立てるものに生まれて初めて遭遇し、不思議な充足感を覚えた。
そしてこの時、いつか彼自身が否定した誰かの言葉が頭をよぎる。
――自分がこの世に存在している理由を見出せ。
彼はシャッターを切り、そして予感した。
あるいはこの衝動的な何かが、自分がこの世に存在する理由になり得るのかもしれない。
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