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第三章 乃村ひかる

 家に帰ると、殺したはずのパパがダイニングにいた。

 テーブルの上に広げた新聞を読みながら、湯気の立つコーヒーカップに息を吹きかけている。

 背筋が凍りついた。ありえない光景に愕然として思わず息を止める。スクールバッグがあたしの手から床に落ちて、その音に気づいたパパがこっちを見た。

「おお、おかえり、ひかる」

 ぼそりと言ってから、パパはまた新聞に視線を戻した。

 あたしはいったん目を閉じて、三つ数えてから目を開けてみたが、パパはやっぱりそこにいた。声ひとつ出せずに立ちつくしていると、玄関のドアが開いてママが入ってきた。

「ジャガイモだけ足りなくて、スーパーまでひとっ走りしてきちゃったわ。ひかるもいま帰ったの?」

 買いもの袋を片手にママがダイニングに入ろうとしたので、あたしは袖をつかんで引きとめた。

「ねえ、そこにパパがいるよ……」

「え? ああ、今日はいつもより早く仕事が終わったみたいね」

 ママはなに食わぬ顔でダイニングに入って行き、テーブルの上にあるテレビのリモコンを手に取った。

「ちょっとチャンネルかえていい?」

 ママがパパに話しかけている。

 パパは新聞から目を離さずに、「ああ」と低い声でこたえた。

 ママは芸能ニュースにチャンネルをあわせ、テレビの音量を上げてから流し台の前に行き、夕食の準備に取りかかった。

 なにが起きているのか、さっぱりわからなかった。あたしは夢の中にいるのだろうか? パパのほうを見ないようにしながら早足でママのとなりに行く。

「……ねえ、ママもパパの姿が見えるんだよね? なんで平気な顔してるの?」

「なによそれ。どういう意味?」

「だってパパは――」

 だってパパは、あたしが殺したはずなのに。

 視界のはしには相変わらずパパがいて、見ないようにと意識するほど気になってしまう。

「ひかる、お弁当箱出して。いま洗っちゃうから」

「ねえママ、あそこにいるパパは生きてるの?」

 ママはきょとんとした顔であたしを見ると、

「……ぷ。一応、生きてるんじゃない? 死人みたいな冴えない顔してるけどね」

 意地悪そうに笑ってそう言った。

 非現実的ななにかが起きている。今のあたしに理解できるのはそれだけだった。

 ママに言われるまま、あたしはバッグから弁当箱を出して流し台の上に置いた。

「ひかる、洗面所に乾いた洗濯ものがたたんであるから、部屋に持って上がってね。今朝言ってたピンクのブラジャー、もう乾いてるわよ」

 ママに生返事をして振り返ると、パパがこっちを見ていた。あたしは急いでダイニングを出て洗面所に行き、洗濯ものをかかえて二階に駆け上がった。



 おかしい。パパはあの日、間違いなく死んだはずなのに。何度もパパをナイフで刺して、黒こげになるまで燃やしたはずなのに。

 記憶――。あたしの記憶が、灰色のもやに包まれてぼんやりとしている。それはどうにもつかみどころがなくて、探ろうとすればするほどあたしから遠ざかっていき、どうしても、もやの中に入っていくことができない。あたしは考えすぎて頭が痛くなり、へなへなとベッドに倒れ込んだ。



 しばらく横になったまま、枕もとに転がったカンガルーの縫いぐるみをぼうっと眺めていると、階段の下からあたしを呼ぶママの声が聞こえた。夕食ができ上がったらしい。ダイニングに戻るのは気が滅入ったけれど、もう一度パパをこの目で確認しておきたいという思いもあった。あたしは一度深呼吸をしてからドアを開け、恐るおそる階段を下りた。

 パパは当たり前のようにそこにいて、当たり前のような顔で食事をしていた。味噌汁をすすりながらちらりとあたしを見たが、とくになにも言わなかった。

 あたしはママのとなりに座って食事をはじめた。そこにいるパパは、少なくともあたしが覚えているパパとなんら変わりはなかった。パパにそっくりの別人でいてくれたほうがよかったのに。

 箸を動かしつつ、それとなくパパの様子をうかがっていると、突然パパがあたしのほうに顔を向けた。

「珍しいじゃないか、ひかる」

 ビクリとした弾みでポテトサラダがのどに詰まり、あたしはむせ返りそうになった。ウーロン茶をひと口飲んで、なるべく落ちついた口調でこたえる。

「珍しいって、なにが?」

「今日は携帯電話をいじくってないんだな」

 そう言って、パパはにやりと笑った。

 その顔を見てぞっとした。あの日のパパが頭をよぎって、全身に鳥肌が立った。

「ごちそうさま……」

 あたしは箸を置いて立ち上がった。

「ごちそうさまって、ほとんど食べてないじゃないの」

 驚いた顔でママが言う。

「もういらない。ちょっと気分悪いから」

 あたしは逃げるようにダイニングを出て二階に上がった。

 早く眠ってしまいたかった。寝て起きたらパパはいなくなってるかもしれない。明日になれば元どおりの日常に戻ってるかもしれない。あたしはベッドにもぐり込んできつく目を閉じた。

 パパの顔が頭から離れなかった。もやに包まれたあたしの記憶から、パパのいびつな笑い顔がくっきりと浮かび上がってくる。

 結局この日、あたしは明け方近くまでパパの残像に悩まされ、眠ったのかどうかもはっきりしないまま憂鬱な朝をむかえた。



 部屋を出て階段を下りて、洗面所に行く途中でダイニングをのぞく。パパはいない。ママが流し台の前で朝食を作っている。おっかなびっくり洗面所のドアを開けると、そこにもパパはいなかった。

 パパなんていない。ママに訊いてそれを確かめ、一刻も早く安心したかった。

「ママ――」

 ダイニングに入ってママに声をかけた時、トイレから水の流れる音が聞こえた。

 途端に重苦しい気分になった。あたしはがっくりと肩を落とし、朝食はいらないとママに告げて、準備もそこそこに早々と家を出た。

 いつもよりずいぶんと早く学校についたので、教室にはまだ三、四人の生徒しかいなかった。教室の慣れない静けさが妙に落ちつかない。あたしは自分の席につくと、机に突っ伏して目を閉じた。クラスメイトたちの声が少しずつ周囲を満たしていき、やがて教室はいつもの喧騒に包まれ、いつもと変わらない学校の一日がはじまる。

 教室にいてもどこにいてもパパのことしか考えられず、あたしは終始うわの空だった。さっきなんの授業を受けたのかさえ思い出せない。

 パパが生き返った。あたしはこれからどうなってしまうんだろう。またあの悪夢が繰り返されるんじゃないだろうか。

 あたしはよほど暗い顔をしていたのか、何人かの友達が心配そうに声をかけてきた。あたしはそのつど愛想笑いを浮かべて適当にはぐらかした。

 時間はあっという間に過ぎていった。まるでコマ落ちした映像でも見ているように、いつの間にか昼休みになり、帰りのホームルームになり、気がつくと放課後の教室にあたしひとりが取り残されていた。

 窓から差し込む西日に照らされ、教室がオレンジ色に染まっている。これから家に帰ることを思うと、どっと気分が落ち込んだ。

「乃村、具合でも悪いのか? 顔色がよくないぞ」

 はっとして顔を上げると、いつからそこにいたのか、あたしの真正面に担任の乙ヶ部が立っていた。

 存在感のまったくない教師。地味で冴えない、どこにでもいるような男。たぶん、学校の外で見かけても気がつきもしないだろう。乙ヶ部が個人的に話しかけてくることなんてほとんどなかったので、あたしは少し戸惑ってしまった。

「大丈夫です、なんでもありません」

 話したところでどうにもならないし、あまり乙ヶ部と関わりたくもなかった。あたしはさっさと帰り支度をして教室を後にした。



 学校を出たものの、すんなり家に帰る気にはなれなかった。駅前の商店街をぶらつき、公園のベンチに座って噴水を眺め、気がつくと時間は九時を回ろうとしていた。携帯電話を見ると、ママからの着信が二回入っている。あたしは公園を出てしぶしぶ家に向かった。

 家について玄関を上がると、バスタオルを腰に巻いただけのパパが洗面所から出てきた。あたしは悲鳴を上げそうになった。

「おお、ひかる。今日は遅かったな」

 パパの体はきれいなものだった。あたしがめった刺しにした跡もなければ、大火傷の跡もない。だけどそれは、間違いなくあたしの知っているパパの体だった。

 パパはそのまま寝室に入った。あたしはキッチンに行って、まるっきり手をつけていない弁当箱を流し台のすみに置くと、夕食はいらないとだけママに伝えて、さっさと二階に上がった。



「朝食もお弁当もいらない」

 翌朝の第一声。

 結局この日も明け方近くまで眠れなかった。意識はもうろうとして体は鉛のように重くて、昨日に輪をかけて最悪の気分。

「あなた、昨日からぜんぜん食べてないじゃないの。どうしたっていうのよ? 体の調子が悪いの?」

 さすがにママに問い詰められた。ちょっとダイエットしてるから、明日からちゃんと食べるから、と適当に出まかせを並べてその場をやり過ごし、パパが起きだす前にあたしは急いで家を出た。

 登校中、頭がふらふらして危うく車にひかれそうになった。学校についてからも、起きてるのか眠ってるのかわからないような状態で、いくつかの授業で先生にこっぴどくしかられた。限界を感じて午後からは保健室のベッドで過ごしたが、さっぱり眠ることはできなかった。パパがどうしても、あたしを眠らせようとしなかった。

 下校のチャイムが鳴ってからどれくらいたっただろう、保健室を出ると廊下は閑散としていた。あたしはおぼつかない足どりで下駄箱に向かい、オレンジ色に染まったグラウンドを横目に校門を後にした。



 家には帰りたくない。だけど、時間をつぶすために駅前をぶらつこうにも体がひどく疲れている。パパが生き返ってからこの二日間、あたしは水しか口にしていなかった。にもかかわらず、食欲はまったくわいてこない。このまま衰弱して死んでしまうんじゃないかと本気で心配になった。泊めてくれる友達はいないだろうかと何人かに電話をかけてみたが、どういうわけかひとりも連絡がつかなかった。もう、なにがなんだかわからない。

 あたしは昨日の公園に行って、昨日と同じベンチに座った。公園に人影はなかった。噴水のしぶきが淡い虹をつくり、おだやかな春の風が木の葉をそよがせている。いつもは噴水の周りにハトが群れているのに、今日は一羽も見当たらなかった。きっとみんな、あたしと関わりたくないのだろう。

 気がつくと辺りは真っ暗で、街灯の明かりがあたしの座るベンチをまるく囲んでいた。その明かりの中に、誰かの足が入ってくる。

「乃村じゃないか。こんな時間にこんなところでなにをしている?」

 その男が乙ヶ部だと気がつくまで少し時間がかかった。うす明かりの中にたたずむ乙ヶ部は、存在感がないというよりも、存在そのものが希薄だった。

 ベンチから腰を上げるなり、ひどい立ちくらみがして倒れそうになった。乙ヶ部があたしの体を支える。

「おい、大丈夫か乃村」

 あたしはなにかを言おうとしたけれど、うまく声が出せなかった。

 乙ヶ部はあたしの腕を自分の首に回すと、そのままけが人を引きずるようにして歩きはじめた。

「先生の家はこの近くなんだ。ちょっと休んでいきなさい」

 断る気力もなかったが、乙ヶ部の家に泊めてもらうのも悪くないと思った。パパのいる家に帰るよりも百倍はましだ。



 乙ヶ部は公園のすぐ裏手にある小ぢんまりとしたマンションに住んでいた。なにもかもが真新しくて、とても静かなマンションだった。

 玄関を上がり、居間っぽい殺風景な部屋に入る。カーペット敷きの部屋の真ん中に、ローテーブルがひとつだけぽつんと置かれていた。

「少し横になってるといい」

 そう言って乙ヶ部は、真っ白なクッションを枕にあたしを横たわらせた。

「なにも食べてないんだろう? 今、簡単なものを作ってやるから待ってなさい」

 あたしがこたえる間もなく、乙ヶ部はとなりのキッチンに行った。

 ガランとした部屋をひととおり眺めてから、あたしはクッションに顔をうずめて目を閉じた。クッションはひんやりしていて、額を当てていると気持ちよかった。少しずつ気分が落ちついていくのを感じる。

 しばらくすると乙ヶ部に声をかけられたので、あたしはゆっくりと体を起こした。乙ヶ部の運んできた料理が、テーブルの上でもうもうと湯気を上げている。できたての卵がゆ。

「食べるといい」

 湯気の向こう側にいる乙ヶ部が言う。

 相変わらず食欲はなかったけれど、無下に断るのも気が引けたので、形だけでもとスプーンを手に取る。ところが、ひと口食べると止まらなくなり、あっという間に全部たいらげてしまった。

「……ごちそうさまでした」

 それまで黙りこくってあたしを見ていた乙ヶ部が口を開く。

「最近、様子がおかしいじゃないか。悩みごとがあるなら先生に話してみるといい」

 乙ヶ部の話し方は、昔テレビで見た占い師によく似ていた。静かなのに耳の奥までとどく声。

「先生に話しても、どうにもならないですよ」

「なにか人には言えない、とても信じがたいできごとが乃村の家で起こった。違うか?」

 ずばり言い当てる乙ヶ部に、あたしは少し面食らった。本当に占い師なのかもしれない。あたしは空になった卵がゆの器をしばらく眺めてから、ためしに乙ヶ部に訊いてみた。

「先生、あたしって母子家庭でしたよね?」

「なにを言ってる。乃村のご両親は健在じゃないか」

「先生は、あたしのパパに会ったことがありますか?」

「あるとも。乃村のお父さんとは三度も会った。それぞれ異なる場所で」

「……そうですか」

 おかしくなってしまったのは、やっぱりあたしの頭なのかもしれない。

「パパが怖いんです」

「全部、話してみろ。誰にも言わないと約束するよ」

 あたしは乙ヶ部の顔を見た。まともに目をあわせるのはこれが初めてのような気がする。

 なにも映さず、なにも見ていない、まるで闇のような瞳だった。目の前にいるあたしすら見ていないように思える。けれどもその瞳は、すべてを知っているとあたしに語りかけていた。

 話せば楽になれる、そう思った。だからあたしは、あたしの中にあるもうひとつの真実を全部話すことにした。



 あたしはパパの玩具だった。

 その悪夢は、わけのわからないうちにはじまり、永遠と思えるくらい長くつづいて、最後にはあたしがこの手で終わらせた。

 よく晴れた日曜日だった。ママはいつものように陶芸教室に出かけて、家にはあたしとパパしかいなかった。階段をゆっくりと上がってくるパパの足音がして、あたしの部屋のドアが開く。パパがその時、あたしになんと言ったのかは覚えていない。ただ、とても真剣な顔をしていたから、逆らっちゃいけないんだと思った。だからあたしは、言われたとおりに服を脱いで、言われたとおりのことをした。

 激痛。最初に感じたのは、体が真ん中から引き裂かれるような鋭く激しい痛みだった。その時はまだ、自分がなにをされているのかも理解できなくて、とにかく痛みに耐えるしかなかった。あたしは泣き叫んだけれど、パパは喜んでいた。

 そしてすべてが終わると、満足げな顔でパパは言った。

「これはパパとひかるのふたりだけの秘密だ。だから誰にも言っちゃいけない。ママにも絶対に話しちゃ駄目なんだ。ひかるは秘密を守れる子だな?」

 その時のパパの目は、人間のものじゃないように思えた。あたしはそれを見て、昆虫採集で捕まえた虫の眼球を思い出していた。

「ひかるは秘密を守れる子だな?」

 もう一度パパが言う。

 ぐったりとベッドに横たわったあたしは、涙でぼやけたパパの顔に向かって無言でうなずいた。パパが部屋を出て行くと、あたしはカンガルーの縫いぐるみを抱きよせて、体に残った痛みが治まるまでじっとしていた。

 それが悪夢のはじまりだった。

 日曜日になってママが陶芸教室に出かけると、パパは必ずあたしの部屋にやってきた。そして同じことが繰り返される。日曜日だけは、あたしが遊びに出かけることをパパは決して許さなかった。一度こっそり家を出ようとしてパパに見つかり、気を失うほどひどい目にあわされた。パパの言いつけは絶対に破れないのだと、理解しないわけにはいかなかった。

 そうしてパパとの秘密をつみ重ねていくうちに、いつしか痛みは感じなくなった。あたしはただ、ベッドに横たわって目を閉じていればよかった。

 パパとあたしがなにをしているのか、それを知ったのは一年も過ぎたころだった。つまり、本当の意味で、自分が悪夢の中にいることを実感したのはこの時だった。あたしは自分の置かれた立場に戦慄した。心の底からパパが憎いと思った。だけど、あたしはパパに逆らうことができなかったから、それからも同じようにパパと日曜日を過ごした。もうやめようとパパに言ったところで、たぶんあたしは殺されるだけだから。

 そしてある時期をこえると、感じなくなった痛みのかわりに、別の感覚があたしの中に生まれはじめる。それに気がついた時、あたしは身の毛がよだつほど恐ろしくなった。あたしという存在が、完全にパパの一部になってしまうような気がした。あたしがあたしでなくなってしまう。だとしたら、生きてる意味なんてあるのだろうか?

 なんとかしなくてはいけなかった。この境界をこえてしまったら、たぶん一生引き返せない。一度でもそこに踏み込んでしまったら、あたしはもう終わりだ。

 だからあたしは、この悪夢を終わらせるために最後の手段をとることにした。



 十二月の日曜日。

 外は厳しく冷え込んでいて、朝から降りだした雨が雪になりそうな気配だった。あたしは膝をかかえてストーブの前に座り込み、パパが部屋に来るのを待っていた。

 ママが陶芸教室に出かけてから十分ほどすると、階段を上がってくるパパの足音が聞こえた。そしていつものように、いつもの手順で、いつものことがはじまる。

 不思議と緊張はしていなかったように思う。これが最後になるという安堵感からか、あたしは終始リラックスしていて、すべてをやり遂げた時も、パパを殺している最中も、決して取り乱すことはなかった。

 あたしはパパの上に乗った。そして倒れ込むようにしてパパに覆いかぶさり、ベッドのすみにゆっくりと手を伸ばす。そこにはカンガルーの縫いぐるみがある。あたしはカンガルーのお腹のポケットに手を入れて果ものナイフをつかみ取る。そのまま体を起こして勢いをつけ、パパののどにそれを突き刺す。パパはかっと目を見開いて一度だけうめき声を上げる。ナイフを引き抜くと、のどから噴水のように血が吹き上がり、パパが手足をばたつかせる。

 今度はお腹を刺した。刺して、抜いて、刺して、抜いて。見る間にシーツは血で染まり、そのうちベッド全体が赤くなった。

 あたしはベッドから下りると、部屋のすみっこにあるストーブ用のポリ容器を取りに行き、真っ赤になったパパに灯油をかけた。それから机の引き出しを開けてオイルライターを取り出し、火をつけてベッドに放り投げる。シーツに引火すると、ベッドの上が静かに炎に包まれた。

 あたしはカンガルーの縫いぐるみを脇にかかえて、焼けていくパパを見守った。炎の中にいるパパがこっちを見たので、あたしは優しく微笑んで言ってあげた。

「サヨナラ」

 窓の外を見ると、ふわふわとした真っ白な雪が音もなく降っていた。その年初めて降った十二月の雪は、あたしが見たどんな雪よりも白くてきれいだった。

 これで悪夢は終わった。長い長い、途方もなく長い悪夢だった。あたしは平穏な日々を取り戻し、そして自分自身を取り戻す。きっとこれからは、あたしにもみんなと同じ日曜日がおとずれて、みんなと同じように笑うことができるはず。

 もう二度と、パパが階段を上がってくることはないのだから。



 それなのに。

「それなのに、パパが生き返ったんです」

 すべてを話し終えた時、体中から冷たい汗が吹き出ていた。今の今までその場にいたと錯覚してしまうくらい、記憶が生々しくよみがえっている。ナイフを突き刺す感触、血が溢れ出る音、パパの焼けるにおい。

「つまり、乃村にとってはそれが真実で、今ある日常は夢か幻だと思ってるのか?」

 ひどい寒気に襲われて、あたしはガチガチと歯を鳴らしていた。

「わからないです……わからないですけど、もうパパと一緒に暮らすことなんてできない」

 唐突に、ある風景が頭に浮かんだ。見渡すかぎりの植物があたしを取り囲んでいる。生い茂る木々の緑、みずみずしい草花、そこは生命に満ち溢れた場所だった。混じりけのない新鮮な空気が肺を満たし、あたしは満ち足りた気分になった。ここにずっといたい、そう思った。

 不意になまぬるい風が吹きぬける。次の瞬間、周りの木々や草花が見る見る枯れはじめ、世界が鮮やかな緑から土色に塗り替えられた。命が、音を立てて朽ちていく。

 あたしの体も土色に染まりはじめた。つま先から変色してあたしの体をはい上がり、土色になった足がぼろぼろと崩れだす。あたしは悲鳴を上げた。

「おい、乃村――」

 まるでけいれんでも起こしたみたいに全身が激しく震えていた。パパが恐ろしい。いや、そうじゃない。あたしは今、別のものにおびえている。でも、それがなんなのかわからなくて、わからないことが恐ろしい。

「乃村、大丈夫か? 今、薬を出してやるから待ってなさい」

 乙ヶ部はふすまを開けてとなりの部屋に行き、小さなガラス瓶を手に戻ってきた。

「二錠、飲むんだ。すぐに気分が落ちつく」

 乙ヶ部はガラス瓶から黄色い錠剤をふたつ取り出して、あたしの手のひらにそれを乗せた。

 あたしは言われるままに錠剤を口の中に入れ、乙ヶ部から水の入ったグラスを震える手で受け取り、ひと息に飲み干した。

「ベッドで少し横になってるといい」

 乙ヶ部はあたしの肩をつかんで立ち上がらせ、そのままとなりの部屋に入った。

 パイプベッド、その脇に置かれたナイトテーブル、ほかにはなにもない部屋だった。乙ヶ部に支えられながらベッドに腰を下ろした時、ナイトテーブルの上に飾られたアクリルのフォトフレームに目がいった。

 あたしはなぜか、それが気になって仕方なかった。誘われるように手が伸びてフォトフレームをつかみ取る。

 その写真の中に、あたしがいた。あたしだけじゃない、ママとパパもいる。黄色いポンポンのような花を満開に咲かせた一本の木の下に、あたしとママとパパの三人が並んで立っている。すみからすみまで詳しく写真を眺めてみたが、いつどこで撮ったものなのかまったく思い出せなかった。

 どうして乙ヶ部が、あたしの家族の写真を持ってるんだろう?

「この写真はなんですか? どうして先生がこの……」

 言うがいなや、あたしは強烈な目まいに襲われた。視界がぐるぐると回りはじめる。乙ヶ部の顔がゆがんで引き伸ばされ、まるでグロテスクな万華鏡でも見ているように、部屋の景色と交じりあって渦を巻いている。意識がだんだん遠のいていく。

 乙ヶ部がなにかを言ったような気がしたけれど、それを聞き取ることはできなかった。

 しだいに白くかすんでいく視界が、突然スイッチを切られたみたいに真っ暗になり、なにも見えなくなる。

 あたしは闇の中へと落ちていった。





 ――闇。

 あたしは闇の中にいる。

 なにも見えず、なにも聞こえない。

 ゆらりゆらりと揺れながら、あたしは深海魚のように闇の中を浮遊している。

 なにも見えず、なにも聞こえない。だけど温度を感じる。

 ゆらり、ゆらり。あたしが揺れるリズムにあわせて、どこからか熱が込み上げてくる。

 なぜだろう、あたしはその熱に懐かしい心地よさを覚えた。

 ゆらり、ゆらり。一定のリズム。あたしのすぐそばに、なにかの気配を感じる。

 痛み。不意にかすかな痛みを感じたけれど、甘美な感覚がすぐにそれを打ち消した。

 あたしは恍惚として闇の中を漂う。

 気のせいだろうか、さっきからどこかでなにかの音が鳴っているように思える。

 あたしは耳に意識を集中させた。

 ……ギィ、ギィ。

 確かに音が聞こえる。音はあたしのすぐ近くで鳴っているような気がした。

 ギィ、ギィ、ギィ、ギィ。

 浮遊するあたしの上下運動にあわせるように、その音は一定のリズムで鳴りつづけていた。だけど、なんとなく悲しげな響き方をしている。

 ギィ、ギィ、ギィ、ギィ。

 音。熱。気配。

 体全体にじわりと広がっていくこの感覚はなんだろう? あたしはそれが知りたくてたまらない。

 ――光。

 淡い光がうっすらと闇を覆いはじめた。

 ギィ、ギィ、ギィ、ギィ。

 明るい場所を求めて、あたしは闇の中を急浮上していく。

 そして光の中に飛び込んで――

 あたしは目を開いた。

 ギィ、ギィ、ギィ、ギィ。

 あたしの上に乙ヶ部がいた。

 パイプベッドのきしむ音が、乙ヶ部の動きにあわせて部屋の中に響いていた。

 乙ヶ部が死人のような目であたしを見下ろしている。なんの感情も込められていない瞳。けれど、そこにはなんらかの意思が宿っている。あたしはそれが恐ろしくて仕方なかった。

 気がつくと、乙ヶ部の顔がパパの顔になっていた。

 パパがあたしの上で、ゆっくりと規則的にうごめいている。

 ひかる――。ひかる――。

 あのころと同じように、パパがおぞましい声であたしの名前を呼んでいる。

 この時になって、あたしはようやく悟った。あたしは一生、パパから逃れられない。

 ギィ、ギィ、ギィ、ギィ。

 悲しげに鳴りつづけるその音が、あたしを再び闇の底へと突き落とす。

 燃えてしまえばいい、そう思った。

 この世のなにもかも、燃えてなくなればいいのに。

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