第二章 乃村流利子
振り返ると、この世に存在しないはずの娘がそこにいた。
不意に誰かに呼ばれたような気がしたのだ。
――ママ、と。
そこにいたのは、市立F中学校の制服を着た見知らぬ少女だった。にもかかわらず私は、その少女がひかるだと瞬時に理解した。産むことのできなかった、わが娘、ひかる――。
「ねえママ、お弁当できてるかって訊いたんだけど?」
「……お弁当?」
手元を見ると、私は弁当箱を持っていた。簡単に調理された食材が質素に盛りつけられている。
私はいつからキッチンにいたのだろう?
「早くしてよ。今日は部活の朝練があるって言ったでしょ?」
そう言われると、何となく、昨夜そのことを知らされていたような気がした。
ひかるが私の横に来て手元を覗き込む。
「できてるじゃん」
私の手から弁当箱をひったくり、巾着に包んでスクールバッグに放り込む。それからキッチンを出ようとして振り返り、
「おととい洗濯かごに入れたピンクのブラジャー、今日中にぜったい洗っておいて」
そう言って慌ただしく玄関に向かい、ひかるは家を出て行った。
何が起きているのか、さっぱりわからなかった。私はまだ夢の中にいるのだろうか?
玄関先で呆然と立ち尽くしていると、寝室から目覚まし時計の鳴る音が聞こえた。寝室の戸が開き、大あくびをしながら比佐史が出てくる。
「おはよう流利子。……どうした? そんなところにぼうっと突っ立って」
「ひかるが居たのよ、ひかるが……」
「居たって、どこに?」
「今、そこによ!」
「……どういう意味だ? 流利子、コーヒー淹れてくれ」
呆けた顔でそう言うと、比佐史はそそくさとトイレに入った。
ヒステリーを起こしそうだった。私はトイレの前で待ち構え、比佐史が出てくるなり、もう一度言って聞かせた。
「ねえ比佐史、ひかるよ。私たちの……あの、ひかるが居たのよ」
「だから、それが何だって言うんだ? 自分の娘が自分の家に居て何が悪い」
寝癖の頭をぼりぼりとかいて、比佐史はダイニングに入った。
非現実的な何かが起きている。今の私に理解できるのはそれだけだった。
狐につままれたような気分で朝食をとりながら、私はテレビの星座占いを見た。射手座生まれ。思いがけない人物との再会。アンラッキーカラーは黄色。
私は機械的に手を動かして、コーンスープのカップを繰り返し口に運んでいたが、食欲はすっかり失せていた。
会社に出かける比佐史を玄関口まで見送る。
「ねえ比佐史、ひかるは今年でいくつだったかしら?」
「……十三だろう。流利子、大丈夫かお前? 何か変だぞ」
比佐史は不審げに私を上から下まで眺め、首をかしげながら家を出て行った。
私はそのまま玄関先に座り込み、内鍵を閉めるのも忘れてしばらく放心していた。
あり得ない。こんなこと、あり得ない。私は非日常の世界に入り込んでしまったのだろうか。いや、もしかすると、ひかるのほうが非日常の世界からやって来たのかもしれない。罪を犯した私に制裁を加えるために。命を奪い去った私に復讐するために――。
十三年前、大学在学中に私は比佐史の子を身ごもった。妊娠したことを知るより前に、比佐史と結婚することをおぼろげに思い描いていたので、私は迷わず産むことを決心した。生まれてくる子供の名前は、男の子でも女の子でも「ひかる」にしようと二人で決めた。比佐史の「ひ」、流利子の「る」を取って、ひかる。
ところが、新しい人生の出発点に立つ私たちを待っていたのは、医者の無慈悲な宣告だった。出産に伴い、母体がきわめて危険な状態におちいる。医者はそう言った。私の子宮に先天的な欠陥があると発覚したのだった。
私は悩みに悩んだ。おそらく、人生であれほど悩むことは二度と訪れないだろう。どうしても産みたい。女としての普遍的な幸せを謳歌したい。
けれども結局、私は堕胎した。どうしても、死の危険に立ち向かう決心がつかなかった。
あの時の選択は正しかったのだろうかと、今日まで何度も自分に問いかけてきた。出産に危険が伴うのは当然のことで、私はただ、死の影に怖気づいて逃げ出しただけじゃないのか。かけがえのない小さな命を摘み取った罪悪感。その十字架の重みが消え去ることは、今日まで一日としてなかった。
そして今朝、存在するはずのない娘の姿を見て、私が最初に抱いた感情は、恐怖だった。失われた小さな命との邂逅に、喜びを見出すことはできなかった。
当時のことを思い返し、私は寝室のベッドに腰かけて長い時間ぼんやりとしていた。そしてふと、部屋の中に見慣れないものがあることに気づいた。ナイトテーブルの上にアクリルのフォトフレームが飾られてある。
見覚えのない一枚の写真――。黄色いポンポン状の花を満開に咲かせたミモザの木。その木の下で、私と比佐史とひかるの三人が並んで立っている。写真を手に取り、隅から隅まで仔細に眺めてみるが、いつどこで撮ったものなのか全く思い出せない。
私はうす気味悪さを覚え、フォトフレームを元の場所に戻した。おそらく、これからも不可解なことが次々と起こるに違いない。その予感は、私をますます暗鬱な気分にさせた。
三人分の夕食を作り終え、ダイニングで見るともなしにテレビを眺めていると、当たり前のようにひかるが家に帰ってきた。ただいま、も言わずに階段を上がり、ひかるは二階の自室に入った。
自室? そんな部屋があっただろうか――。
つかみ所のない違和感に頭を抱えているうちに、比佐史が仕事を終えて帰宅した。
そして、食卓に三人がそろった。
ひかるはせわしなく携帯電話を操作しながら、もう一方の手で器用に箸を使っていた。箸の使い方が、ぞっとするほど私に似ている。
「おい、ひかる。飯の時くらい携帯を置いたらどうだ」
比佐史が注意すると、
「いいじゃん、べつに。うっさいよ」
恐ろしく横柄な態度で言い返す。
「……反抗期だな、まったく」
比佐史は叱りつけることもなく、あっさりと引き下がった。
盗み見るように、それとなくひかるの様子をうかがっていると、不意に私のほうに顔を向けた。
「なに? ママ」
「え? ううん、なんでもないのよ……」
ひかるの大きな瞳にじっと見詰められ、私はつい目をそらしてしまった。
「なんでもないなら、じろじろ見ないで」
家族三人がそろった初めての食卓は、ひどく居心地の悪いものだった。知らない家庭で起きている出来事を遠くから眺めているような、どこか不自然な隔たりを感じた。
翌日。二人が家を出てから、私はひかるの部屋の前にやって来た。私の記憶では物置として使われていたはずの部屋だった。気味が悪くて近づくのも腰が引けたが、私は覚悟を決めてドアを開けた。
ベッド、学習机、洋服だんす。シンプルなものがシンプルに配置されている。そこには確かな生活感があり、昨日今日に急ごしらえした形跡はどこにも見当たらなかった。女の子の部屋にしては少し殺風景だったが、実用性を第一に考える性格は私譲りなのかもしれない。少女らしさを感じさせるものと言えば、ベッドの隅に転がったカンガルーの縫いぐるみくらいだ。けれど、それもこの部屋にはかえって不釣り合いで、それだけが妙に浮いているような気がした。
私は窓を開け、外を眺めた。いつもと何も変わらない、平凡な景色がそこにある。穏やかな春の風がカーテンを揺らし、どことなくわびしさの漂う部屋の中に、かすかな新芽の匂いを運んだ。
そして日々は過ぎ、季節は移ろう。
私はどうしてもひかると打ち解けることができず、親子と呼ぶにはあまりにぎこちない関係が続いていた。
ある日、買い物を終えて家に帰ると、ひかると見知らぬ男の子が玄関にいた。男の子は同級生のようで、市立F中学校の制服を着ていた。
「ちょっと彼を送ってくるから」
ひかるはそう言うと、男の子の腕をつかんで玄関から出て行った。
その日を境に、ひかるは頻繁に男友達を家に連れてくるようになった。午後の二、三時間を部屋で過ごして、比佐史が帰宅する前には送りに出ていた。
二度目に見かけたのは、最初に会った男の子ではなく、耳にいくつもピアスをした男の子だった。玄関でばったりと出くわした彼は、私に挨拶もせず帰って行った。
三度目に見かけたのは、ひかるよりも年上と思われる長髪の男の子だった。彼はうすら笑いを浮かべて、私の体を舐めまわすように見た。
家に出入りしているのは、毎回、違う男の子だった。以前に比べて、ひかるが学校から帰ってくる時間は随分と早くなり、それにつれて日替わりの男友達が家にいつく時間は長くなった。部活はどうしたのかとひかるに尋ねると、「そんなのとっくに辞めたよ」と吐き捨てるように言った。
そうして数日が経ったある日、ひかるの部屋から悲鳴が聞こえた。
私は仰天し、戦々恐々としながらも急いで階段を上った。そして、ひかるの部屋のドアノブをつかみかけた時、何が起きているかを悟った。
ひかるはセックスをしている。聞こえたのは悲鳴ではなく、ひかるのよがる声だった。
――早すぎないだろうか?
ほんの子供だと思っていた。今の子供がいくら早熟とはいえ、まだまだ心も体も不完全な危うい年ごろであることは否めない。おそらく、性の知識だって不十分なはず。
私はすっかり狼狽してしまったが、とにかくこの場を離れなくてはと思い、足音を忍ばせて階段を下りた。ひかるの部屋から漏れる幼い嬌声が、いつまでも耳鳴りのように響いていた。
それからも、ひかるの自堕落な生活は続いた。日を重ねるごとに節操がなくなり、私が家にいることなど気にもかけない様子で、相も変わらず日替わりの男友達を部屋に連れ込んでいた。
私はひかるの身持ちの悪さに黙っていられなくなり、意を決して話を切り出した。
「あなた、随分と男友達が多いのね」
「だから? べつにいいじゃん」
「そういうことに興味を持つ年ごろなのはわかるけど、ほどほどにしなさい」
「そういうことって、なに?」
ひかるの目には、むき出しの敵意が込められている。
「……見境なしにセックスするなんて、女の子として最低よ」
「はあ? 見境なしになんかやってないよ」
「そういう風に見えるわよ。毎回違う男の子を部屋に連れ込んで」
「ママには関係ないことじゃん。うざい」
ひかるに気圧されてしまい、私は言葉に詰まった。
「……ねえ、ひかる。ちゃんとコンドームは使ってるんでしょうね?」
ひかるが舌打ちをする。
「使ってないよ、そんなの」
「どうして使わないのよ……。駄目よ、避妊だけは絶対にしなさい」
「もう、いい加減にして。うるさいって。できたら堕ろせばいいだけじゃん」
気がつくと、私はひかるの頬を張っていた。思いのほか力が入っていたらしく、ひかるは叩かれた勢いで床に腰をついていた。
「……ごめん、大丈夫?」
ひかるはゆっくりと顔を上げ、大きく目を見開いた。
あたしを殺したくせに――。
ひかるの声。今、確かに、そう聞こえた。けれども、ひかるは口を開いていない。
あたしを殺したくせに――。
頭の中で声が響く。
よく言えるね――。あたしを堕ろしたくせに――。自分だけ助かろうとしたくせに――。あたしを殺したくせに――。
ひかるの猛禽類のような瞳に吸い込まれそうになり、立っていられないほどの強烈な目まいに襲われた。唐突に込み上げる嘔吐感。よろめき、壁に体を預けながら、私は洗面所に向かった。体中の毛穴からどっと汗が吹き出し、ひどい寒気がして全身が震えはじめる。
あたしを殺したくせに――。あたしを殺したくせに――。あたしを殺したくせに――。
私は頭を抱えてうずくまり、ひかるの声が聞こえなくなるまで必死に耐え続けた。
それ以来、ひかるとの会話は一切なくなった。
ひかるは露骨に私を避けるようになり、当てつけのつもりなのか、以前にも増して好き放題やっていた。私は口出しをするどころか、極力ひかるのことは考えまいとしていた。恐ろしくて仕方なかったのだ。またあの声が聞こえてくるかもしれない。そう思うと、全身がわななくほど緊張した。
毎夜、夢にひかるが現れるようになった。ひかるは夢の中では何もしゃべらない。押し黙ったまま、ただ執拗に、あの大きな瞳で私を見ているのだ。際限のない、どこまでも深い闇を思わせるその眼差しは、じわりじわりと私の内側を侵蝕し、すべてを支配しようとするのだった。
「流利子、大丈夫かお前? ひどくやつれてるじゃないか」
深刻な顔で比佐史が言う。家庭のことに無関心を決め込む比佐史だったが、私の異変には気づいたようだった。
鏡を見ると、げっそりと頬のこけた知らない女がそこにいた。
いつからか幻覚を見るようになった。いや、幻なのかどうか、もはやそれさえわからない。
朝、目が覚めると、股のあたりを中心にシーツが鮮血に染まっている。
ふと気がつくと私はキッチンにいて、まな板の上で赤子を切り刻んでいる。
用を足したあとの便器には、粘膜と血に覆われた小さな胎児がへばりついている。
――おそらく私は、出口のない夢魔の迷宮をさまよっているのだ。
私は日に日に無気力になり、一日の大半をベッドで過ごすようになった。
一体どうすれば、この悪夢を終わらせることができるだろう?
霞がかった意識の中で、私はそのことだけを考えた。そして、思いのほかたやすく結論に達した。
寝室に飾られた記憶にない写真――ミモザの木の下に並ぶ三人の顔を眺めながら、私は死ぬことを決心した。
「職場の人間に紹介してもらったんだ。腕利きの医者らしい」
私を精神科医に診せると比佐史が言った。
まるでころ合いを見計らっていたかのように、その日に命を絶つつもりでいた私を引きとめる形になった。この愚鈍な夫も、廃人さながらの生活を送る自分の妻に、それなりの危機感を募らせていたらしい。医者に診せたところで気休めにもならないと思いながらも、私は比佐史の言うがままに従った。もしかすると、この悪夢から抜け出せる道がどこかにあるのかもしれない。そんなかすかな期待があったことも確かだった。
比佐史は平日に病院の予約を取り、私を連れて行くために仕事を休んだ。
午後の昼下がり、比佐史の運転する車に乗って二人で病院へと向かう。私は助手席でずっと顔を伏せていた。ガラス越しに流れる街並みの中に、ひかるの幻影を見つけてしまうことが恐ろしかった。
三十分ほど走ったところで、比佐史は路肩のパーキングスペースに車を止めた。比佐史に体を支えられながら横断歩道を渡る。道行く数人のビジネスマンが怪訝な目で私を見ていた。
真新しい雑居ビルに入り、エレベーターに乗った。私を安心させようとしてか、比佐史がしきりに何かを話しかけていたが、全く耳に入らなかった。私はただ、ひかるが現れないことを一心に祈っていた。
エレベーターのドアが開くと、正面にすりガラスのパーテーションがあり、
『乙ヶ部メディカルクリニック』
という案内板が出ていた。
小ぢんまりとした待合室には誰もいない。比佐史がカウンターの上に置かれたインターホンの受話器を取る。
「十四時に予約していた乃村ですが」
長椅子に座って五分ほど待つと、フロアの奥にあるドアの向こうから男の声がかかった。その声はなぜか、どことなく親しみのある響きを含んでいた。
ためらいがちにドアを開け、診察室に入る。白衣の男が椅子に座って待ち構えていた。
一見して、地味で冴えない風貌だった。どこにでもいる、あらゆる意味で凡庸な、何の特徴もない男。注意して見なければ、どんな姿形をしていたのか三秒後には忘れているかもしれない。
けれども私は、間違いなく、その男とどこかで会っていた。




