第一章 乃村比佐史
食卓につくと、死んだはずの妻がコーヒーを運んできた。
どうやら俺はまだ、夢の中にいるらしい。
「やあ、流利子」
俺が声をかけると、
「おはよう。夕方から雨が降るらしいから、鞄に折りたたみ傘を入れていったほうがいいわよ」
などと言葉を返す。
流利子はテーブルについて、テレビのリモコンを手に取り、朝の情報番組にチャンネルを合わせた。生真面目な顔で星座占いを見ている。ただの一度も的中したためしのない、子供だましの星座占いだ。
亡き妻の横顔を眺めつつ、湯気の立つコーヒーカップに息を吹きかけていると、二階から階段を下りてくる足音が聞こえた。足音の主はスクールバッグを廊下に放り投げ、大あくびをしながらダイニングに入ってきた。
「おはよう、ひかる。見てみろ、お前のママがそこにいるぞ」と俺は言った。
「はあ? 意味わかんない」
寝起きの顔でひかるは答え、流利子の隣に座って携帯電話を弄くりだした。
「ママ、おととい洗濯かごに入れたピンクのブラジャー、まだ洗ってないの?」
けだるい声でひかるが言うと、
「今日の夕方には乾いてるわよ」
テレビから目を離さずに流利子が答える。
チン、というトースターの音が鳴った。すると流利子は席を立ち、三人分の朝食をテーブルの上に並べはじめる。トーストとベーコンエッグ、サラダ、コーンスープ。朝の定番のメニュー。
夢は一向に覚める気配がなかった。
そろそろ目覚めないと会社に遅刻するのではと、両手で頬をはたいてみる。しかし目の前の風景は何も変わらず、愛娘と死んだはずの妻は黙々と食事を進めている。
おもむろに俺は立ち上がり、流利子のそばに寄って肩に手を置いてみた。かすかな体温、華奢な肩甲骨、なつかしい流利子の肩。触れている、という確かな感覚。
「なによ?」と流利子。
俺は肩に置いた手を胸まで這わせ、むんずとつかんだ。
「な、なにやってんのよ朝っぱらから……寝ぼけてるの?」
流利子は俺の手を払いのけて困惑した表情を見せた。
携帯電話のキーを早打ちする親指の動きを止め、ひかるが上目遣いに俺を見ている。半開きの口からベーコンの切れ端が飛び出ていた。
夢じゃないのか、これは?
俺は狐につままれたような気分で朝食をたいらげ、死んだはずの妻に玄関口まで見送られて家を出た。
いつも通りに出社するも、心ここにあらずで仕事はさっぱり手につかず、何が何だかよくわからないまま昼休みを迎え、そして家に電話を入れてみる。
「はい、乃村です」
流利子の声を確認し、俺は無言で電話を切った。どうやら本当に死んだ妻が生き返ったらしい。
十三年前、流利子はひかるを産んですぐにこの世を去った。大学在学中に俺の子を身ごもった時、子宮に先天的な欠陥があると発覚したのだった。出産に伴い、母体がきわめて危険な状態におちいる。医者はそう言った。
しかし流利子は頑として堕胎を拒んだ。
「平気よ。比佐史と私の子を立派に育て上げるまでは、死んでなんかいられないわ。それにね――」
あくまで気丈に振る舞い、流利子は誇らしげに言った。
「私はまだ比佐史のこと、ぜんぜん愛し足りないの」
流利子は、医者の忠告や両親の説得をにべもなくはねつけ、危険をかえりみず出産に挑み、そして呆気なく死んだ。
今でこそ、当時を思い返しても平静を保っていられるが、流利子が死んでしばらくの間、俺は廃人同然だった。ひかるという忘れ形見がいなければ、俺もとうにこの世を去っていたに違いない。
俺は上の空で一日の仕事を終え、予報通りに降り出した雨の中、家路についた。
流利子はキッチンで夕飯の支度をしていた。ジャガイモの皮をむきながら俺のほうをちらりと振り返り、「おかえり」と素っ気ない声で言う。
俺はその場でしばらく流利子の後姿を眺めていた。
「どうしたのよ? ぼうっと突っ立って」
「なかなか、様になってるじゃないか」
「なにがよ?」
「……エプロン姿だよ」
「馬鹿じゃないの?」
俺は寝室へ行き、スーツを脱いでスウェットに着替えた。するとそこで見慣れないものを発見した。ナイトテーブルの上にアクリルのフォトフレームが飾られてある。
見覚えのない一枚の写真――。樹冠一杯に広がる黄色いポンポン状の花房。ミモザの木だ。俺と流利子とひかるの三人が、ミモザの木の下に並んで立っている。写真を手に取り、隅から隅まで仔細に眺めてみるが、いつどこで撮ったものなのか全く思い出せない。
俺はため息をついてフォトフレームを元の場所に置いた。今さら少々のことでは驚かない。おそらく、これからも不思議なことが次々と起こるに違いない。けれどもその予感は、決して俺に不安を抱かせるものではなかった。
家族三人で食事をした。ごくありふれた団らんの風景。一生、手にすることはないと思っていたささやかな幸せが、今ここにある。
食事をする流利子に目を取られて、なかなか箸が進まなかった。女とは思えないほど大胆に食べ散らかされた焼き魚の皿を見て、ああ間違いなく流利子だ、と心の内で納得した。
ひかるは食事を終えてさっさと二階の自室に戻り、俺と流利子の二人きりになった。流利子は頬杖をついてテレビを見ている。
「おい、流利子。一緒に入るか?」
「え? 入るってどういうこと?」
「……風呂だよ、風呂」
流利子はゴキブリの死骸でも発見したかのように顔をしかめた。
「気持ち悪いこと言わないで……」
あのころは毎日のように一緒に入ってたじゃないか、と言いそうになってやめた。どうやら俺にとっては新鮮な憩いの時も、流利子にとってはそうでないらしい。流利子の中には、今日まで家族と過ごしてきた十三年という歳月がきっちりと存在しているのだ。
俺は湯呑み茶碗を手に取り、歯がゆさを噛みしめながら一気に渋茶を飲み干した。
流利子が生き返ってから最初の休日がやってきた。流利子は陶芸教室に行くと言って、午前中のうちに家を出た。そう言えば、と俺は思い出す。学生のころに一度、陶芸をやってみたいと口にしていたことがあった。
おそらく、流利子は主婦としての退屈な毎日にマンネリを感じたのだろう。趣味に励むことで気分転換ができるなら、それは至って健全なことだ。せっかくの休日に流利子と過ごせないのは残念だったが、かと言って引きとめるのも心苦しい。
俺はとくに何をするでもなく、のんびりと家で休日を過ごした。
二ヶ月が経った。いまだに新婚生活のような毎日だったが、そう感じているのは俺だけだ。空白の十三年間が俺と流利子の間に決定的な温度差を生み、そのせいで時折、苛立つこともあった。些細なことで腹を立てては罰が当たる、と俺は自分を戒めた。流利子が存在しているという奇跡に、俺は無条件で感謝しなければならないのだ。
一年が経過すると、流利子はもはや居て当然の存在だった。死んだという過去は何かの間違いで、今ある日常こそが真実だと感じはじめていた。むろん、それが都合のいい願望に過ぎないという自覚もある。時が流れるにつれ、二人の温度差は徐々になくなりつつあり、そのことがどこか寂しく思えた。
そして二年が経過した時、ある事実が発覚した。それはあらかじめ仕掛けられていた罠のように、俺の心を深くえぐり、粉砕した。
暑くもなく寒くもない、よく晴れた日の昼下がり。新しい取り引き先の営業を済ませた俺は、昼食をとるために適当な店を探していた。目抜き通りの歩道をぶらついていると、『乙ヶ部陶芸教室』という置き看板が目にとまった。その看板を見て俺が連想したものは、もちろん流利子のことだ。流利子は相変わらず陶芸教室に通い続けていた。そう言えば、どこの陶芸教室に通っているのだろう? などと考えた矢先、まさにその看板の置かれた真新しい雑居ビルから流利子が出てきた。
流利子に声をかけようと片手を上げたところで、俺は動きを止めた。流利子と並んで歩いている男がいたからだ。
一見して、地味で冴えない風貌だった。どこにでもいる、あらゆる意味で凡庸な、何の特徴もない男。注意して見なければ、どんな姿形をしていたのか三秒後には忘れているかもしれない。
二人は親しげに話しながら、路肩に止められたシルバーのロータスに乗った。
どうやら流利子は、この陶芸教室に通っているらしい。が、しかし、今日は平日だ。流利子は日曜日にしか陶芸教室に行かなかったはずだ。
直感が行動を駆り立てた。俺は近くで客待ちをしているタクシーに乗り込み、シルバーのロータスを追うように指示した。
あの男は誰なんだ? あいつの車に乗ってどこに行こうとしている?
ロータスはいくつか信号を曲がり、繁華街を抜けた辺りで細い路地に入った。迷路のように入り組んだ狭い道。ほかに車の往来はない。俺はタクシーの運転手に少し車間を空けるように言った。尾行をはじめてからずっと嫌な予感がしていたが、ここまで来るとほぼ確信に変わっていた。
やがて二人を乗せた車は、中世の城を模倣した安っぽい建物の駐車場に入った。ラブホテルだった。
全身の力が、どっと抜けていく。緊張の糸が切れて、俺は激しい虚脱感に襲われた。粉々になり、空っぽになり、泥濘にずぶずぶと沈んでいく。息が詰まり胸がしめつけられる。目の当たりにした事実は、俺に決定的なダメージを与えた。
ホテル街の一角、行き場を失ったタクシーの中で、俺は長い時間、失意に打ちのめされていた。
翌日から俺は、それまでほとんど無干渉だった流利子のプライベートを徹底的に調べ上げた。
日曜日には流利子を尾行した。陶芸教室に通っていること自体は嘘ではなく、あのとき一緒にいたのは講師であり経営者でもある、乙ヶ部という男だった。三週に渡って尾行を繰り返したが、流利子はその三度とも、乙ヶ部とホテルに行った。
平日、勤務先から家に電話をかけても、出ないことがほとんどだった。あの男とやりまくっているに違いなかった。
思えば、流利子が生き返ってから最初に訪れた日曜日、あの時にはもう流利子は陶芸教室に通っていた。初めから、そう、初めから流利子は、乙ヶ部と関係を持っていたのだ。二年間、いや、俺にとって空白の十三年間を含めればもっと長い期間、乙ヶ部と密会を重ねていたのかもしれない。
この時、俺は生まれて初めて殺意というものを抱いた。
半年が過ぎた。流利子と乙ヶ部の関係は変わらず続いていた。飽きもせず、二人は会うたびにセックスをしていた。何度も、何度も、何度も、何度も。
それでも俺は辛抱強く待った。流利子を咎めることはせず、乙ヶ部との関係にいつか見切りをつけるだろうと信じて、ただ待ち続けた。
そうして、さらに半年が過ぎ、一年が過ぎる。そのころになると、俺は心身ともに疲弊しきっていた。悪夢は一向に終わる気配を見せなかった。
ある日、滅茶苦茶に壊れたコーヒーメーカーを見て、これはどうしたのかと流利子が俺に尋ねた。俺が叩き壊したものだったが、適当に誤魔化した。
ある日、ひかるが深刻な顔をして俺に言った。
「パパ、顔つきが変だよ。病気じゃない?」
「……大丈夫だ、すぐによくなる」
俺は力なくそう答えた。
――私はまだ比佐史のこと、ぜんぜん愛し足りないの。
あの時、ひかるを身ごもった流利子は俺にそう言った。十三年という歳月をかけて、流利子は俺を愛し尽くしたということなのか。そして今は、そのあり余る情愛をほかの男に注いでいるということなのか。
流利子、どうしてお前は、生き返ったりなんかしたんだ?
寝室に飾られた記憶にない写真――ミモザの木の下に並ぶ三人の顔を眺めながら、俺は流利子を殺す決心をした。
日曜日。流利子はいつも通り、午前中のうちに家を出た。直後に俺も家を出て、前日に予約しておいたレンタカーを取りに行き、その足で『乙ヶ部陶芸教室』に向かった。
目的の場所に到着すると、俺は陶芸教室の斜向かいにある路上パーキングに駐車して、流利子と乙ヶ部が現れるのを車の中で待った。例によって、雑居ビルの前には乙ヶ部のロータスが止めてある。
午後一時を過ぎたころ、流利子と乙ヶ部がビルから出てきた。二人がロータスに乗ったのを見届けて、俺はパーキングからゆっくりと車を出した。
走り出したロータスの後ろにぴたりとつける。五分ほど走ると、二人を乗せた車はいつもと同じホテル街への路地を曲がった。ラブホテルが立ち並ぶ陰気くさい通りを、まるで品定めでもするかのように徐行している。
やがてロータスは悪趣味な外観をしたホテルの駐車場に入り、俺もそのまま後に続いた。ロータスは入ってすぐの空きスペースに駐車しようとしている。俺は建物の通用口に最も近い場所を選び、急いでそこに車を止めた。
後部座席に置いてあったゴルフクラブを手に取り、素早く車を降りる。
体を寄せ合い談笑しながら、流利子と乙ヶ部が通用口のほうに歩いて来る。俺は息を殺して車体に身を隠し、すべてを終わらせるための凶器を固く握りしめて、二人が近くまで来るのを待った。
頭の片隅に疑問が浮かぶ。
俺はなぜ、最愛の女を二度も失わなければならないのだろう?
いや、それ以前に、これは本当に現実に起こっていることなのか?
わからない。俺にはさっぱりわからない。
俺にできるのはただ、己の身に降りかかった不条理な運命を呪うことだけだった。